200年 春 両雄激突
河北の袁紹と中原の曹操、華北の覇権を争う両雄は兗州・濮陽にて開戦。袁紹は曹操の総兵力に対し、実に10倍の兵力を投入した。
汝南より曹操軍が撤退し、臣民一体で籠城戦でボコボコになった都市を復興する景色を横目に、おれは数ヶ月ぶりに一息つけた。
辺りでは皆忙しない中、手傷を負った張飛の手当を甲斐甲斐しく世話している夏侯氏の姿が映る。いったいあの虎髭大男のどこを気に入ったのか、蜂蜜好きのクマさんと勘違いしてるんじゃないか。
ーーーまさかこれが中国4000年の源氏物語ってコト!?
兎にも角にも袁紹南進、その一報に助けられたのだ。正直なところ曹操と雌雄を決するのであれば、まだ時期尚早だとは思うが今は袁紹にただただ感謝である。やはり反董卓連合の盟主は、おれが欲しいモノを与えてくれる、今回は時をくれた。
袁紹が曹操との戦を決めたのは、本人の意思ではないだろう。袁紹は妾の子だ。この度も河北のまだ動きたくない臣下と、黄河以南の早期開戦を望む汝南袁氏本家筋の臣下に挟まれたに違いない。
この時代、名士・豪族はみんな儒教だ。儒教は親を最重視する、利がない事を分かっていながら戦いに踏み切った可能性がある。それによって滅亡するのだが、まぁ要するに本家筋を焦らせた諸悪の根源は袁術。コイツいくつやらかすんだ?おれがトドメを刺したが勅命だからなーマッチポンプおつ。
袁紹軍の物量という武器に対する曹操の戦略は、運動戦である。
騎馬を使い、ゲリラを使い、移動し続け敵が分散したところを遊撃する。そうして敵の空白地帯に侵入し補給を削り、分散した時々の戦場のどこかで彼我の戦力差が拮抗する。その拮抗時、または一つの戦域として優位に立った時に勝たなければならない。
攻められている側の曹操軍の防衛戦術は攻め続ける事、その小さい局所戦の勝利の積み重ねが袁紹軍の焦りを生ませる、それが曹操の命綱であった。
初戦・白馬の戦い
袁紹と曹操の初戦は濮陽の交通の要衝・白馬が主戦場となった。
圧倒的な物量で白馬を包囲する袁紹。曹操は白馬の西より名将于禁・楽進の少数精鋭を渡河させ袁紹軍の背後を脅かす、その陽動に戦力を割った袁紹軍の先鋒・顔良を徐晃・張遼率いる騎馬隊が撃退、白馬の包囲を解かせることに成功する。
二戦目・延津の戦い
袁紹は顔良が敗れた事で、もう一人の二枚看板の将・文醜に黄河を渡らせ攻めさせる。しかし、文醜は延津にて曹操の張った罠である補給部隊に飛びついてしまう失態を犯し、略奪に夢中になったところをフルボッコにされてしまった!
おれは両雄の戦いの途中経過をまとめた報告書を持ったまま天を仰いだ。やっぱり戦力の逐次投入はダメってはっきりわかんだね。なんで関羽がいない曹操軍というアドバンテージを無に帰してしまうのか!このままでは袁紹が歴史の敗北者になってしまう。
という事で、皇叔こと劉備おいたん。早急に軍備を整え、がら空きになっているであろう都・許昌の献帝を救いに出陣したいところである、が余りにも兵がいなさすぎる問題に直面している。
しかし、このような時にこそ我が智謀(知力75)があるのだ。さっそく偽帝討伐の時に友だち追加していた、江東の孫策くんにライン(簡雍)を送った。おっおー、お返事まだカナ汗?頼む、官渡までに返事をくれ!
此処に中原進出を狙っていた孫策・周瑜の思惑に合致する形となり、劉備・孫策共同で曹操攻めが決定した。
この後の曹操たちの戦が気になりすぎて寝台でゴロゴロ、ゴロゴロしていると田豫たちが尋ねてきた。
「何が始まるんです?」
第三次大戦だ。
200年 10月
三戦目・官渡の戦い
劉備と孫策が示し合わせている頃、袁紹と曹操の戦いは天王山を迎えていた。
曹操は局所的な勝利を重ね、緒戦から流れを掴むも袁紹軍主力は健在であり、その物量でもって兗州の南、都がある豫州の目前である官渡まで後退を余儀なくされた、将兵の奮戦があれど勝ちに恵まれない。その物量戦は攻撃する袁紹軍よりも、防衛する少数の曹操軍の兵糧が先に枯渇するほどだった。
戦の勝敗は袁紹に傾いていたが、勝ちが見えた袁紹陣営で仲違いが起きていく。臣下達は勝ったも同然であると驕り、戦後の権力争いを勝敗の着く前に始めてしまったのだ。
袁紹陣営の権力争いに敗れた者が曹操に囁く、鳥巣の兵糧庫を攻めろと。
斯くして、曹操は決断した。自ら鳥巣に兵を率い急襲した。しかし、袁紹も鳥巣が襲われた時に迷わず切り捨て、決戦を仕掛ければ勝てたのではないか。臣下達の対立する意見など無視すれば良かったのだ。だが決断できなかった。それが袁紹の人が良過ぎるが故の、優柔不断故の、敗因だった。
決定的ッ!曹操が勝ちを拾った。
報告書より両雄の天下の明暗が分かれた事を知ったおれ達は急ぎ出陣する。孫家との遣り取りに時間が掛かったが、この好機逃す手はない。
孫家は淮南の南・廬江より寿春へ進軍予定。おれ達はここ汝南より都・許昌を攻める。