220年 4月
中華を翔けた数多の群雄は消え去り、残るは三極。
華北と献帝を手中に収め漢の朝廷に成り代わろうとする曹操。
揚州と荊州および交州を含む長江一帯を統治下においた孫権。
そして益州および異民族がいる南中に勢力圏を伸ばした劉備。
此処が三国時代の起点となる。
魏王・曹操は世を去った。
中原において誰よりも戦場を駆け巡った乱世の奸雄の最後は病死。そして其の死により漢朝400年、その歴史に終焉の時が来る。
曹操の長子・曹丕は後漢の献帝に譲位を迫った。すでに献帝の宮中には、側に仕える者すら居なくなり抗うことすら出来ず、禅譲を決断するしかなかった。これにより曹丕は帝位に登り、国号を魏とした。
漢朝は滅び、新時代の幕が上がった。
漢が滅びた時おれは成都に戻っていた。臣下より献帝が廃され帝位が簒奪された一報を受け、諸葛亮たちの声により漢朝の火を継ぐ為、自ら漢の帝位へ登ったのだ。そして世に言う蜀、すなわち蜀漢を建国した。
また孫権は、国力を蓄えるため魏に臣下の礼を取り、魏帝・曹丕より呉王に封じられ実利と権威を得ていた。
故に、おれは蜀漢の帝として初めの勅に、呉王・孫権の誅滅として荊州奪還の兵を挙げる。
221年 冬
「お待ちください、陛下。孫権打倒は大義にあらず、我らの真の敵は魏でございます。私怨を含んだ仇討ちをしてはなりません!」
うるさいぞ、趙雲。
この乱世、騙し騙されは覚悟していた。だが孫権は形だけであったとしても、有ろう事か魏に降ったのだぞ。孫権誅滅は漢再興の大義と何が違う!?荊州で散った者たちと、今も残され過ごしている民を迎えに行って何が問題だ。
この2年、軍備を整え雌伏の時を過ごした。これ以上の時間を掛ければ、荊州の地盤と影響力そのものが塗り潰され奪還が難しくなる事がなぜ分からないのだ!
おれは趙雲の諫言を無視して城門の外に出た。眼前には関羽・張飛といった残り少ない重臣達とこれから共に戦う数万の兵がいる。
そこに今度は益州で仲間になった臣下の1人、秦宓がやってきて占いの吉凶を理由に出兵を取り止める様に進言してきた。
おい翼徳!こいつを牢屋にブチ込んでこい!!
秦宓は牢屋に投げ込まれた。
これで3人目。趙雲以外はみんな豚箱行きだ。
と、ここまで怒りに任せて呉へ侵攻する体裁を取っているが、仇討ち戦と魏が見てくれれば呉には援軍を送らないだろう、という打算的な考えもあったので戦に踏み切ったのだ。
実際のところ、荊州派閥の臣下達が故郷奪還に積極的であり、逆に益州派閥が反対というのが蜀漢の内情ではあるのだけれど、、、
ただ、徐庶たちの仇討ちである事はおれも兄弟達も否定はしない。呂蒙と甘寧は既にこの世にいないが、やられたらやり返す。やられてなくてもやり返す。孫権でも陸遜でも誰でもいい。だれかれ構わず、八つ当たりだ!
既に馬良を荊南に向かわせ、豪族や異民族に侵攻と同時に反乱を起こさせるように下準備している。もう止まることは出来ないのだ。
諸葛亮はおれを止める事は最後までしなかった。だから感謝している、苦労を掛けてしまい本当にすまない。
おれは孔明の困ってしまっている顔を、悩んでいる顔を忘れる事は出来ないだろうな。おれ達の情を止めないでくれて、ありがとう。
おれ達は永安より出陣、東進を開始する。
総大将・劉備
配下将・関羽、張飛、黄権、陳到、関平、張苞、関興、廖化、周倉
荊南武陵蜂起・馬良、沙摩柯
先鋒は張飛、水軍は周倉に任せ、補給線は陸路と長江を利用し水路の活用をする。
後方の補給拠点を白帝城に置き陳到を守将にした。江陵へ侵攻中、孫呉の防衛に阻まれたが怒涛の勢いで踏み潰していく。巫、秭帰と続けて制圧、夷陵を目前に冬将軍の到来によって一時進軍を停止する事になる。