訓練場に木靴の音と掛け声が響いていた。
今日は対人格闘。好きに二人組を作っていい、との教官の声に、皆が一斉に相手を探し始める。
俺はといえば、輪の外に出て、壁際に腰を下ろしていた。
「相手がいないから仕方なく休んでる」――そんな顔をして。
実際にはただ、体を動かす気分じゃなかった。
(……どうせ殴り合いごっこだ。街で喧嘩してた連中の方がまだマシだな)
内心で悪態をつきながら視線を横へずらすと、すでに誰かがそこにいた。
背を壁に預け、組んだ腕を崩さず目を閉じている。
「……お前もサボりか」
思わず声が漏れる。
アニ・レオンハート。無表情に近い横顔は、俺が声をかけたところで特に驚きもしなかった。
「サボりって言うより……やる気が出ないだけ」
淡々とした返事。
俺は小さく笑った。
「同じようなもんだろ」
彼女は小さく肩をすくめるだけで、会話を終わらせるように目を閉じ直す。
だが不思議と、この沈黙は居心地が悪くなかった。
しばらくして、俺はなんとなく口を開いた。
「……そういえば、お前が戦ってるとこ、見たことねぇな」
アニはうっすらと片目を開けて俺を見た。
「見たいの?」
「軽く、な。暇つぶしだ」
わざと気楽に返すと、彼女は短くため息をつき、壁から背を離した。
「……いいけど、怪我しても知らないよ」
◇
互いに距離を取って構える。
周りは他の組の訓練に夢中で、俺たちに気づいている者はいない。
一歩、アニが踏み込む。
低い姿勢から繰り出された蹴りを、俺は腕で受け流した。
予想以上に重い。小柄な体格のどこにこれだけの力が潜んでいるのか。
「へぇ……」
俺は思わず声を漏らす。
次の瞬間、アニは体をひねり、俺の足を払ってきた。
だが俺も地下街で身につけた癖がある。
咄嗟に重心を後ろへ流し、地面に手をついて転倒を回避した。
「なるほど、噂通りだな」
「……何の噂?」
「強いって話だよ」
俺の言葉に、アニは薄く笑ったように見えた。
次いで、容赦なく回し蹴りが飛んでくる。
俺は身をひねって紙一重で避け、その足首を掴もうとした――が、逆に体を軸にしてもう一方の足が迫り、反撃を強いられた。
俺は腕を振り上げて迫る足を逸らし、そのまま彼女の重心を崩そうと狙った。
だがアニは掴まれる寸前に身体を縮め、回転を利用して再び蹴りを繰り出す。鋭い踵が俺のこめかみをかすめ、風圧で髪が揺れた。
「……チッ」
思わず舌打ちする。下手に力で押さえ込めば逆に体勢を崩される。
すかさずアニが間合いを詰め、低い姿勢からの足払いを狙ってくる。
俺は後方に飛び退き、膝を沈めて反撃の構えを取った。
(やっぱり蹴りが中心か……だが、踏み込みは読める)
次の瞬間、アニが地を蹴って再び突っ込んでくる。
俺も真正面から踏み込み、互いの腕が絡んだ。短い間、拮抗した力がぶつかり合い、土の上で足音が響く。
力任せに押し切るか、それとも技で崩すか――ほんの数秒の均衡。
俺はわざと力を抜き、アニを引き込もうとしたが、逆に彼女が俺の腕を取り、肩口に重心を乗せて投げを仕掛けてきた。
「……!」
土煙が上がりかける寸前、俺は体をひねって受け身を取り、そのままアニと距離を取る。
互いに一撃を決めきれず、睨み合う。
すぐに次の手を出せる状態だったが、無言のままどちらも動かなかった。
俺は浅く息を吐き、肩の力を抜く。アニも同じようにわずかに構えを解いた。
「……まだやるか?」
俺が問いかけると、アニは無表情のまま小さく首を横に振った。
「無駄だね。決着はつかない」
その一言で、互いに一歩ずつ下がる。
土の上に刻まれた無数の足跡と、擦れた靴の跡だけが、短い攻防を物語っていた。
俺もアニも、致命的な隙を晒してはいない。もし続けても、延々と膠着が続くだけだろう。
「……引き分け、か」
口に出すと、アニはほんの僅かだけ口元を歪めた。笑ったのか、ただの気のせいかは分からない。
だがその瞬間、俺の中でひとつ決めたことがあった。
「なあ、アニ。お前の格闘……盗ませてもらえないか?」
唐突に切り出すと、彼女は目を細め、探るようにこちらを見てきた。
「理由は?」
「俺の戦い方は荒っぽいだけだ。あんたの技を知れば、地下街仕込みの喧嘩も少しは形になる」
「……地下街?」
アニの視線が揺れる。俺の出自に気づいたのか、興味を持ったのか――判別はつかなかった。
「なら条件をつける」
淡々と告げるアニの声に、俺は口角をわずかに上げた。
「条件?」
「……あんたの知ってる地下街のこと。憲兵団を目指す私には、上に行くための材料になる。情報と引き換えに、技を教える」
互いに視線を外さず、わずかな沈黙が落ちる。
そして俺はゆっくりと頷いた。
「悪くない取引だな」
互いに頷いた後、アニは立ち上がり、軽く髪をかき上げた。
「……じゃあ、まずは受け身から。倒され方を知らないと、格闘は身につかない」
そう言うと、無造作に俺の腕を掴み、体勢を崩して地面へ引き倒した。
だが痛みは思ったより少ない。背中から落ちても衝撃が逃げるように導かれていた。
「ほらな。力任せに受け止めるから潰れるんだ」
アニは淡々とした声で続ける。
俺はそのまま立ち上がり、もう一度構えた。
「……なるほど。じゃあ、今度は俺がやってみる」
何度か組み合ううちに、彼女の体捌きの癖や流れるような足さばきが、少しずつ俺の体に馴染んでいく。蹴りを受け流し、足を払われても即座に起き上がる。地下街で培った荒っぽい喧嘩に、ほんの少し“理”が加わっていく感覚があった。
ひと通り動きを確かめた後、アニは手を払うようにして言った。
「今日はここまで。……情報の続きは、また後で聞かせてもらう」
そう言い残し、何事もなかったように背を向けて去っていった。
アニが去ったあと、俺は軽く拳を握りしめ、まだ体に残る余韻を確かめていた。
蹴りの軌跡、体捌きの間合い、あの女の無駄のない動き――頭の中で反芻しながら。
(……思った以上に吸収できたな。だがまだ、完全には自分のものになっちゃいねぇ)
独りで構えを作り直し、何度か体を回して動きをなぞっていた、その時だった。
「……すごいね」
背後から声がした。
振り返ると、木陰にクリスタが立っていた。腕を前で組み、俺を見つめている。
「見てたのか」俺は眉をひそめる。
「……いつからだ?」
「最初から……じゃないけど、途中から」
クリスタは少し困ったように笑った。
「ルカが、誰かとこんな風に真剣に体を動かしてるの、初めて見た気がして」
「……盗み見とは趣味が悪いな」
わざとそっけなく返したが、彼女の視線が妙に真っ直ぐで、居心地が悪い。
クリスタは俺の手の甲や傷跡に目をやり、ふっと柔らかく微笑んだ。
「でも……やっぱり、強いんだね」
クリスタがそう言った瞬間、胸の奥が少しざわついた。
俺は視線を逸らし、拳を開いて握り直す。
「……強い、か。そんな格好いいもんじゃねぇよ」
クリスタがきょとんとした顔でこちらを見る。
「強くなきゃ生き残れない。ただそれだけだ」
思わず吐き出すように言葉が出た。
「そっか……」
クリスタは目を瞬かせたあと、ふっと柔らかく笑った。
それは俺が馬小屋で見た、あの自然な笑みと同じだった。
(……今日は、隠してないのか)
思わず口に出ていた。
「……今日は作ってないんだな」
クリスタは少し驚いたように目を丸くし、それから恥ずかしそうに俯いた。
一瞬、驚いたように目を丸くしたクリスタ。
けれどすぐに、その頬がほんのりと赤く染まる。
「……うん。なんか、そう言われると……嬉しい」
少し間を置いて、彼女は視線を落としながら続けた。
「だって……ルカの前では作らなくていいって、言ってくれたから」
クリスタはまっすぐに俺を見て、子供みたいに無邪気な笑顔を浮かべた。
一瞬、息が詰まる。
――やっぱり、この笑顔は嘘じゃない。
「……なら、ずっとそうしとけ」
俺がそう告げると、クリスタは一瞬だけ目を丸くした。
だがすぐに柔らかな笑みを浮かべて、静かに頷いた。
「……うん。そうするね」
その言葉を最後に、会話は途切れる。
夜の空気が静かに流れ、互いの沈黙だけが残った。
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ヒロインは誰がいい?
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クリスタ(ヒストリア)
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アニ
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ペトラ