遠月学園中等部3年生――幸平創真。
それが、この遠月学園で唯一、薙切えりなと渡り合い、対立してきた男子生徒の名である。
彼は、恐るべきことに『神の舌』という圧倒的才能を持つ薙切えりなと料理の腕だけで張り合い、遠月学園十傑評議会の史上最年少という肩書を奪い合った。薙切えりなは、遠月学園理事長の孫であり、彼女自身が食の上流階級のお嬢様として生きてきた事もあって、学園内での彼女の勢力は当時幸平創真と比べて圧倒的だった。その差は、食戟という互いにリスクを背負う筈の勝負において、どうしても幸平創真と薙切えりなは対等な勝負が出来ない程に、生まれの差が既にあったのだ。
だが、幸平創真という男がこうして語られる理由は、彼がその差を覆した事にある。
なんと、薙切えりなの従妹である薙切アリスが幸平創真に与したのだ。それも、彼女の従者である黒木場リョウを伴って。
当然、そこに至るには色々と揉め事はあったらしいが、全て幸平創真が食戟で押し通した。
幸平創真に薙切アリスが与した事で、状況は一変した。薙切えりな派閥がこの世代を牛耳っていたはずが、その対抗派閥として幸平創真派閥が出来上がってしまったのだ。
そして、状況はそれだけに留まらなかった。幸平創真は、あの葉山アキラさえも味方に組み込んで見せたのだ。
彼自身は、ただ葉山アキラの腕前を見て勝負をしたかっただけだと語るが、決してそうではない事が結果を見れば理解できるだろう。
薙切えりなと同じく、葉山アキラの異常な嗅覚と、それを最大限に生かす料理センスに、幸平創真は無謀にも挑みかかった。
この学園の誰もが知っている、幸平創真に、あの両名のような圧倒的な才能がない事に。では、何故彼は勝負を挑むのか? 何故、その先にある己の勝利を信じることが出来るのか?
彼は、語った。
『逆に、何で諦めんの? やってみなきゃ分かんねぇじゃん』
あっけらかんとした返答に、当時遠月新聞部記者としてインタビューをした生徒は唖然としてしまったという。
『それに、まぁ確かに勝負である以上勝ちたいもんは勝ちたいんだけどさぁ……それよりも、俺は俺の料理がどこまで通じるのか、それを測るためにこの学園に来たんだぜ? 俺の貫きたいって思う料理がどんくらいすげぇのか、色んな奴に思い知らせてやりたい、って思うんだよ』
ただ、そうして続けられた言葉には強い共感を得た。
それは、料理人として、料理人が自らの料理を誇りに思うという、至極当然な道理だ。けれど、それを本当の意味で貫ける人間は少ない。どんな人だって、自分以上の才能の持ち主に出会ってしまえば、その相手が自分が決して超えられない相手だと分かってしまえば、どうしたって折れてしまう。挫折してしまう。
それは責められるような事ではないし、非難されるような事でもない。
だが、そんな人間は遠月には求められていない。
どんな才、どんな強大な壁が前に居ようと、迷わず挑み、超えようとする者。そんな人物こそが、この遠月学園で生き残ることのできる人材なのかもしれない。
それが、目の前に居る男なのではないかと、その生徒は思った。
そうして、幸平創真は食戟にて、葉山アキラを下した。葉山アキラもまた、幸平創真派閥に加わり、どんどん薙切えりなと幸平創真の対立の溝が深まっていく。
決定打となったのは、彼が本来薙切えりな派閥であったはずの水戸郁魅を自らの派閥に引き込んだ事だ。
事の発端は、薙切えりながいつものように自らの意志を通す為、適当な研究会に目を付け、因縁をふっかけようとしていた時だった。
彼女は気に入らない研究会、つまりは碌な成果を出せない団体をその遠月十傑の権力を用いて予算カットと部室縮小を会議に提出に、可決させる事で因縁をふっかけ、強制的に食戟の場へと相手を引きずり込んだ。そして、そうして食戟に応える際にはさらに不利な条件を提示し、結果的に自分の思い通りに事を進める。これは、いつもの薙切えりなの手法だった。
問題は、幸平創真がその団体と懇意にしていた事だ。というより、彼と仲のいい先輩が入っている研究会、と言った方が正しい。
丼物研究会の高等部1年生、小西寛一がその
だが、それを潰そうとしたのが他ならぬ薙切えりなだった。
彼女は幸平創真派閥が急激に勢力を拡大させている状況に焦りを抱き、とうとう本格的に幸平創真を学園から追い出すべく動き出した。その手始めとして、幸平創真派閥の中核である丼物研究会に目を付けたのだ。
本来であれば、丼物研究会の一員であり、その会長が食戟相手として出てくるのが筋である。だが、その会長は相手が薙切えりなであると分かると、すぐに逃げ出してしまったのだ。
そんなわけで、次期部長候補である小西がその食戟に臨むと、部内の多数決で決まったようで(小西本人は泣いて嫌がっていた)、その小西が幸平創真に助けを求めた事で、急遽幸平創真と薙切えりな派閥の対決が決定したのだ。
その電撃ニュースに、遠月学園は浮ついた。皆が当然、この食戟には薙切えりなが出てくるのだろうと予想した。
しかし、薙切えりなは丁度その食戟の予定日に別の食戟が入ってしまっていた。なので、彼女の秘書である新戸緋沙子か、件の水戸郁魅がこの食戟に立候補したのだ。薙切えりなもこの判断には迷ったが、新戸緋沙子には常に自身の傍に居てほしかったので、水戸郁魅にこの食戟を任せる事にしたのだ。
結果は、幸平創真の勝利。
正直、薙切えりなはこの結果は目に見えていたと考えていた。仮にも、この薙切えりなと敵対する人物なのだ、彼の首を飛ばすのは自分の役目だと確信していたし、そんな彼が水戸郁魅に負ける筈が無いと……信頼していたというのは嫌だが、まぁ信じていた。
けれど、まさか送り出した水戸郁魅がそのまま幸平創真派閥に持っていかれるとは思わなかった。
当然、薙切えりなは憤怒を隠せなかったが――それ以上に新戸緋沙子の方が激怒した。
派閥同士の争いが激化し、幸平創真と薙切えりなが何も行動しなくとも、互いの派閥の生徒同士が食戟を次々に起こすようになり、当時の遠月学園中等部にはまさに戦乱の嵐が巻き起こっていた。
そのこともあってか、学園内は非常にピリピリと空気が張り詰めており、その空気に新戸緋沙子も引っ張られたのだと思う。新戸緋沙子は早急に幸平創真との決着をつけるべきだと薙切えりなに進言し、薙切えりな本人もその通りだと思った。
水戸郁魅の事はともかく、これ以上幸平創真に楯突かれるのは我慢ならない。薙切えりなの高いプライドはとっくにズタボロで、ここ最近彼女は調子を崩していた。それで実生活に支障が出るような無様は晒さないが、とにかく幸平創真への敵対心や対抗心は、充分以上に彼女の中で育ち切り、膨れ上がってしまっていた。
そうして、驚くべきことに常に王者として君臨していた筈の薙切えりなから幸平創真へ食戟を申し込み、それを彼は待ってましたとばかりに快諾して、その遠月の未来さえも左右するであろう食戟は始まった。
――そうして、幸平創真は遠月学園を去ることになったのだ。
◇
幸平創真は、顔を顰めていた。
「おいおい、まさか同年代の奴に食戟に負けて帰ってくるなんてよぉ! 俺は情けねぇぞ、創真ぁ!」
「うるせぇよ親父! あとわしゃってすんな!」
現在、幸平創真――ソーマの帰還を祝して、食事処『ゆきひら』では祝
ソーマはこの会の名前を聞いた時、あからさまに機嫌を悪くしたが、それはそれとして地元の皆から帰還を祝われるのは、経緯を考えると複雑ながらも悪い気分ではなかったらしく、ソーマは結局は喜んでその飲み会をどんちゃん騒ぎで楽しんだ。
途中、父である城一郎に「お前がどれだけ成長したのか見せてみろ」と挑発され、嬉々として料理対決もした。結果は敗北だったが、なんとそこでは地元の皆から「なんか、美味くなった?」「わかる!」と称賛され、城一郎も「ほぅ……遊んでた訳じゃねぇみてぇだな」と笑みを浮かべられた。その後に髪をわしゃっとされたのは許さないが。
――まぁ、負けたんだけどな。
ソーマは内心でため息を吐く。
確かに、料理の腕が上がったという自覚はある。ずっと『ゆきひら』に閉じこもってたら知れなかったことも、遠月には沢山あった。遠月に進学した事に後悔は微塵もない。行って良かったとすら、思う。
在学中、ソーマの意志関係なく面倒なしがらみが妙に増えた事だけは、今も尚不可解なのだが。
ただひたすらに食戟を申し込んで回っていただけなのに、不思議な事もあるものだ。
そうそう、不思議と言えばソーマにとって最も理解不能だったのは、薙切えりなについてだった。
彼女が食に向ける視点は、どのジャンル、観点に至ってもソーマとはまるで真逆とも言っていい程だった。料理人である以上、気が合わない、という訳でも無いのだろうが、ソーマは少し薙切えりなが苦手だった。
ただ、彼女にだけは食戟で負けたくはなかったと、ソーマは未だにあの敗北を受け入れられていなかった。
これは、ソーマにしては珍しい事だ。普段、ソーマは遠月学園に進学する前から父親である城一郎に料理勝負を挑み、何百という敗北を積み重ねてきた。それは、遠月学園に行ってからも同じ。無敗の薙切えりなとは違って、幸平創真は何度も何度も黒星を背負ってきた。そして、その度に成長してきたのだ。
失敗という経験を、呑み込み、糧とする事でソーマは料理人として進化してきた。けれど、薙切えりなとの対決で得た敗北という経験を、ソーマは“失敗”と認識できずにいる。
それが何故かは、ソーマにも分からなかった。
「おい、創真。ちょっと来い」
「ん? なんだよ」
考え込むソーマに、店から出てきた城一郎が声をかける。
「なんだぁ? まだ引き摺ってんのか、創真」
「…………まぁ、ちょっとな」
いつになく弱気に見えるソーマの様子に、城一郎は人知れず目を見開いた。
城一郎が知る限り、ソーマが敗北に打ちのめされる事は
幸平創真には蓋が無い。成長に限界は無いと信じ、己の可能性を疑うなんてことはせずに、ただひたすらに料理を極める事だけを見つめ続ける。それが、幸平創真の“強さ”であり、才波城一郎には無かった“強さ”だった。
その幸平創真が、敗北を引き摺っている。これは重症だと、城一郎は眉を寄せた。
「どうした? お前がそんなに落ち込んでんのなんて、初めて見たぜ」
「んー、なんで落ち込んでんのかも分かんねぇんだよなぁ……」
はっきりとしない受け答えに、ますます城一郎は不安になる。
もしも、もしもソーマが先の敗北をきっかけに挫折でもしてしまったというのなら、城一郎は城一郎なりに向き合うつもりだ。父親として、そして先達の料理人としても。
ただ、ソーマという人間が打ちのめされる程の敗北を振り払えるかが、城一郎は不安だったのだ。
だが、その杞憂も次のソーマの一言で霧と消えた。
「なんつぅか、絶対に負けちゃいけない勝負で、負けちまったみたいな…………取り返しのつかない事をやっちまったんじゃねぇかな、って」
思わず、城一郎は苦笑した。すると、ソーマが不満げにジトッとした眼で睨んでくる。
「なんだよ、人が真剣に話してるってのに」
「悪い悪い。なんつぅか、俺もそういう時期があったなって思ってよぉ」
城一郎が半笑いで述べる言葉に、ソーマが首を傾げる。
「迷走、ってやつだよ」
城一郎がソーマの頭に手を乗せる。頭皮越しでも分かる、ゴツゴツとした、包丁を触り慣れている現場を知っている“手”。ソーマがよく知る、父親の手だ。
「取り返しのつかねぇ事をしちまったなら、さっさと取り返してこい。テメエのケツはテメエで拭くもんだろ、ソーマ」
「けど、ンな事言ったって」
もう、遠月には戻れない。薙切えりなとの食戟に負けてしまったのだから、仕方がないのだ。
せっかく、自分の勝利を信じれてくれる仲間に囲まれ、共に必殺料理を考えた末での、自分の全てを込めた集大成だったというのに、負けた。この敗北を覆す気は、ソーマには無い。
そう言うと、城一郎は面倒くさそうに息を吐いた。
「おい、その反応はねぇだろ」
「男の癖に女々しい事言うな。負けを負けのままにしていい訳ねぇだろ」
それは、そうだ。負けは負けのままにしてはおけない。ソーマだって一端の料理人だ。自分の料理が明確な黒星を背負ったままで我慢できるほど、腐ってはいない。
それどころか、究極の負けず嫌いである事こそが、ソーマの成長の原点だ。
「でもよ、親父。俺、食戟負けちまったし、遠月追い出されてんだけど。再戦挑むにしても、何年後になるか……」
「おいおい、ソーマ。お前もまだまだ未熟だな」
やれやれ、と城一郎は首を横に振り、懐から一枚の紙を取り出した。
――おい、くしゃくしゃになってんじゃねぇか。
遠目からでは読めないので、近づいて紙に書かれている文字を読む。
「なんだこれ。遠月の、編入案内?」
「とっとと、とんぼ返りしてこい。そんで、もう一度テメェの器を測ってこい」
とん、と城一郎の拳がソーマの心臓部に当てられる。燃えるような熱が、その拳が当たったところを起点に、ソーマの全身に広がっていく。
「遠月に通ってる時に、編入生が来た事なんて無かったぜ」
「おう。遠月への編入難易度は、指折りだぜ? まさか“できない”なんて言わねぇよな、ソーマ?」
不敵な笑みが、ソーマの口元に浮かぶ。それは、彼が食戟のたびに浮かべる
「当たり前だろ!」
幸平創真、編入試験に挑む!