ソーマの料理を完食した後、一色は静かに箸を置いた。
その指先には、わずかに余韻が残っているようだった。
目を閉じ、深く息を吐く。
その呼吸は、まるで一皿の物語を心に刻み込むような、静かな祈りにも似ていた。
そして、暫くの間を置いてから――
一色はゆっくりと目を開けた。
その瞳には、濁りのない清々しさが宿っていた。
口元には、清らかな笑み。
「――創真君、僕の負けだ」
その言葉は、潔く、そして誇らしげだった。
料理人としての誇りを持って、敗北を認める。
それは、勝者への最大の敬意でもあった。
「約束通り、君に遠月十傑第七席の座を――」
「一色先輩も、凄い品っすよ」
続けられた一色の言葉に被せるように、ソーマが口を開いた。
その声には、真っ直ぐな感情が込められていた。
「丁寧に下処理がしてある。火入れも最適だ。何よりこの香り……こんな料理、俺には作れねぇ」
「何を言ってるんだ、創真君。君なら」
「だから」
だから、と喋ろうとした一色を黙らせるように、ソーマは強く言った。
その言葉には、確かな意志があった。
「だから、この食戟――引き分けって事にしませんか」
笑みを浮かべてそう告げるソーマに――
幸平創真という、勝ち負けにこだわり続けた正真正銘の負けず嫌いの発言に、一色は耳を疑った。
「……創真君」
「一色先輩。俺を助けようとしてくれた事、ありがたいっす。でも、この程度で折れる程、俺は柔じゃないっすよ」
強気に、歯を見せて笑うソーマに、一色は目を伏せた。
その笑顔は、無謀で、無鉄砲で、だが確かに眩しかった。
だからこそ、諭すように一色は語った。
「……これから、君がやる食戟は君だけの勝敗では収まらない。君が負ければ、他の生徒達が責任を負う可能性がある。その重圧に、君は耐えきれるのかい?」
「耐えきれるとは言えないかもしれないっすね。俺だけじゃ、手が回らない事もあるかもしれない」
ソーマは自分の掌を見つめた。
料理人として、少しは誇れるようになった自分の手。
だが、この手では全てを守ることなどできない。
それこそ、一色の言っていた他の生徒達を全員守り切るなんてことは、不可能だろう。
「でも、俺は独りじゃない」
断固として言い切ったソーマに、一色は目を見開いた。
その言葉は、確かに届いた。
「皆が居る。俺の料理を、美味いって言ってくれる奴らが居る」
胸を張る。料理人としての誇りを胸に、胸を張る。
「俺が背負ってるのは、責任なんかじゃない。他の奴の『退学』でもない」
違和感があった。
『ゆきひら』に居た頃には無い違和感が、背中にあった。
ソーマに着いてきた皆の手が、ソーマの背中を支えていた。
それが、違和感の正体だった。
「俺は、皆の期待を背負ってる。皆が皆、俺の料理に期待してくれてる」
グッと手を握る。
「――上等ッ! ってなもんじゃないっすか! 嬉しいどころか、尚更腕が鳴るってもんですよ!」
その握り拳を掲げて、ソーマは太陽のように笑った。
その笑顔は、周囲の空気を一瞬で変える力を持っていた。
一色は目を焼かれたように瞑目し、心の奥で葛藤を抱えながら忠告を続けた。
「……期待は時に、とてつもない重圧に変わる。そうなったら」
「――そうなったら」
一色の言葉を遮る声。それは、ソーマの声ではなかった。
「俺達の出番、なんだろ? 幸平」
「……伊武崎!?」
続いた言葉に、今度こそソーマは振り向いた。
調理室の入り口。そこには、目元が前髪で隠されている少年――伊武崎が立っていた。
いや、彼だけではない――極星寮の全員が、そこには控えるように集まっていた。
「なんで、皆まで……」
「そりゃあんだけ騒いでたら起きるよ。幸平、声おっきいもん」
驚いたように目を見開くソーマに呆れるように、吉野が答える。
「何の相談もしないで勝手に責任背負ってるつもりになってたら、ぶん殴ってたけどな!」
「自分の責任は自分で取るっつの! んで、お前の責任もついでに一緒に背負ってやるよ! 漢だからな!」
青木と佐藤が力こぶを作って、力強く吼えた。
「漢だからじゃないでしょ。それじゃ、私達が一緒に背負えないじゃない」
榊は、腰に手を添えて胸を張る。
「その通りさ。理由は、漢だからじゃない。だって僕達は――」
丸井は眼鏡をクイッと指で強調し、
「創真君と同じ、極星寮なんだから!」
「先に言われたっ!?」
割り込んだ恵に、決め台詞を奪われた。
仰天する丸井に、締まらねぇなとソーマは笑う。
心底、安堵したように、笑う。
「……お前等、本当に馬鹿なんだな」
「「「幸平/創真君に言われたくない!!」」」
心外だと言わんばかりに揃って声を上げられて、ソーマは首を傾げつつ、笑った。
すると、背後からすすり泣くような声が聞こえて、振り向く。
「……う、うぅ」
「一色先輩?」
顔色を伺うようにソーマが声をかけると、一色は伏せていた顔を急に上げた。
その目尻には、大きな雫が溜まっている。
「うわぁああああああああああ!!」
「――!?」
そして、一色は決壊した。
「美しいっ! 美しいよ皆ぁあああああ!! 皆の友情の美しさに、僕は今感動しているぅうううううううう!!」
豪快に泣き喚く一色は、憚ることなく感情を爆発させていた。
「ちょちょ、一色先輩!?」
「何で泣くのよ……さっきまで真面目モードだったのに」
「長く持たないんじゃないか、あのモード」
吉野がギョッと目を見開き、呆れるように榊がため息を吐く。
ジト目で泣き続ける一色を眺めるのは伊武崎だった。
「……皆、冷たくないかい?」
涙を拭いながら顔を上げた一色の声は、どこか子供のように寂しげだった。
だがその言葉に、極星寮の面々は一斉に視線を向ける。
その視線は、優しさよりも呆れと不満が混じったものだった。
実に不満気な視線だった。
「一色先輩が勝手に幸平を守ろうと全部背負おうとするからです」
「一色先輩も幸平も、一人で戦おうとするなよ。俺達は足手纏いか?」
青木と佐藤が腕を組み、眉を吊り上げて言い放つ。
その言葉には、仲間としての誇りと、料理人としての意地が込められていた。
ソーマはその言葉に、ニヤリと口端を上げる。
その笑みは、どこか照れくさそうで、でも心底嬉しそうだった。
「ンな訳ねぇだろ。最初っから手伝ってもらうつもりだったよ」
「こっちも、最初っから手伝うつもりだったぜ」
伊武崎の言葉は、静かでありながら力強かった。
その声には、極星寮の“芯”のような重みがあった。
「……伊武崎、そんな男前だったっけ?」
「ちょっと幸平君、忘れたの? 伊武崎君は、クールに見えて熱い男の子なのよ」
「そうだった。悪いな、伊武崎」
「……変な事を吹き込むな、榊」
ソーマがニヤニヤと笑いながら榊に同調すると、伊武崎は視線を逸らして小さく舌打ちする。
その照れ隠しのような仕草に、周囲はさらに笑みを深める。
極星寮らしい、温かくて騒がしい空気がそこにあった。
そして一段落してから、改めてその場の全員がソーマに向き直る。
その空気は、先ほどまでの騒ぎとは違い、静かで、真剣だった。
全員を代表するように、恵が一歩前に出る。
その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「極星寮は、創真君の派閥に全面協力するよ!」
「……ありがとな、田所。皆」
ソーマの声は、少しだけ震えていた。
胸に灯る熱い想いに突き動かされて、自然と感謝の言葉がこぼれた。
そして、唯一黙ったままの先輩の下へ、目を向ける。
その姿は、どこか寂しげで、でも誇り高かった。
「――創真君」
「一色先輩」
互いの名を呼び合って、視線を交わす。
その瞬間、空気が静かに変わった。
一色は、ゆっくりと頭を下げた。
ソーマに向けて、誠意を見せるかのように。
「済まなかった。君の覚悟を、見誤った。そしてどうか、僕にも君の助けとなることを、許してほしい」
その言葉には、料理人としての誠実さと、先輩としての悔いが込められていた。
どこまでも健気に後輩を助けようとしてくれる一色の姿に、ソーマの目頭が熱くなる。
考えるまでもなく、ソーマは口を開いていた。
「許すどころか、こっちから頼み込むつもりでしたよ、一色先輩」
己の手を差し出して、ソーマは笑う。
その笑顔は、まるで春の陽射しのように眩しかった。
一色もまた、差し出された手を見つめて、小さく微笑んだ。
その瞳には、感謝と決意が宿っている。
「これからも、よろしくお願いするっす!」
「……ああ、よろしく頼むよ。創真君っ!」
グッと、強く握られた両者の掌は熱かった。
情熱に満ちた龍虎が、再び手を取り合った。
その瞬間、極星寮の空気が一つになった。
騒がしくて、温かくて、どこまでも真っ直ぐな料理人たちの絆が、確かにそこにあった。
そして、これから始まる新たな戦いに向けて――彼らは、共に歩き出す。