幸平創真のいない遠月学園。
そんな遠月を、田所恵は一度たりとも想像したことがなかった。
彼女が遠月に足を踏み入れた日から――いや、あの入学初日からずっと、創真は隣にいた。同級生として、何より“料理人としての憧れ”として。
彼のアイディアは突飛なのに、筋が通っている。無茶なのに、どこか料理人としての責任を背負っていて、戦うたびに誰かの心を動かしていた。
恵が最初に彼の料理を食べた時の衝撃は、今でも舌に残っている。
あれは、料理というより“鼓舞”だった。
自分もこうなれるかもしれないと思わせてくれる一皿。
それは、当時の恵にとってほとんど“救い”だった。
「創真、君…………」
呟いた瞬間、自分の声が震えていることに気づく。
図書館の一角。教室の片隅。食堂の静けさ。
どこで思い出しても、彼の存在は空気の中にいたはずなのに、今は不在が響いていた。
彼がいなければ、自分はもっと成績が悪かった。
退学寸前の評価を何度も受けていた。
それでも、創真は諦めなかった。いつも、“できる料理人”として彼女を扱ってくれた。
それが、どれほどの救いだったか。
彼が信じてくれたから、恵も自分を信じることができた。
どんな授業でも、試験でも、創真が隣にいるだけで、料理の味が一段深まる気がした。
……なのに、今は居ない。
薙切えりなとの食戟。
幸平創真が、あの薙切家の女王と真正面から争っていたのは知っている。
けれど、その戦いに自分を巻き込もうとはしなかった。
創真は、誰よりも勝ちにこだわる負けず嫌いだ。
それなのに、薙切えりなとの勝負では――何か違う“もの”を目指していた気がする。
あれは勝利を超えていた。
言葉ではなく、皿を通して語る何か。
恵は、それを信じたい。
創真が負けるはずはなかったと。
だけど、彼のあの時の背中が、どこか“納得していた”ように見えたのも、確かだった。
それが悔しくて、寂しくて、でもどこか誇らしかった。
創真は料理人として、戦うだけでなく“届けよう”としていたのだから。
そして、どうしても忘れられない光景がある。
あの日、薙切えりなが勝利を収めた直後。
創真の皿を食べた瞬間に、彼女の瞳からこぼれ落ちた涙。
えりなは口を開かず、感想を述べず――ただ、静かに涙を流した。
その姿が、恵の胸を今でも締め付ける。
(創真君……あの時、何を届けようとしたの? どんな思いで、あの皿を作ったの?)
答えはない。でも、料理という“言語”は確かに通じていた。
だからこそ、えりなは泣いたのだ。
それは敗北の証ではなく、創真の料理人としての“勝ち方”だったのかもしれない。
恵はそっと制服のポケットに手を入れ、昔創真から渡された小さなレシピメモを握った。
そこには、彼がふざけながらも真剣に考えた“出汁の黄金比”が、殴り書きで並んでいた。
その紙に触れた瞬間、恵はふと微笑んだ。
遠月に彼が戻ってくるかはわからない。でも――彼が残した“熱”は、きっと誰かの中に生き続ける。
自分もその一人なのだと、信じたいと思った。
◇
黒木場リョウは辟易していた。
「もう! まさかえりなに負けるだなんて、幸平君も焼きが回ったわね!」
「お嬢、それ何回目っすかぁ」
この幸平創真への愚痴を、黒木場リョウの主人である少女――薙切アリスが今日まで延々と口にしていたからだ。
聞かされる側としては溜まったものではない。
「コラ! ちゃんと聞きなさい! 人の話は話している人に顔を向けて聞くものよ?」
「正面から叩かれるのは御免なんで」
「叩かないわよ!」
よく叩いてるだろ、とは黒木場リョウは返さなかった。言ったら不機嫌になるからだ。
ただでさえ幸平創真が自分以外の相手に食戟に負けた事で、当の黒木場リョウですら
「幸平の奴、勝負の最中に別の事考えてやがった……」
「あら、リョウ君も分かってたのね」
この口ぶりからするに、アリスも分かっていたのだろう。
アリスだけに限らず、幸平創真を知る者ならば、あの食戟時の幸平創真の状態が通常時とは違っている事が遠目からでも良く分かったはずだ。料理の腕やキレに変化は無く、むしろあの時はいつも以上に冴え渡っていたように見えたが、その幸平創真が作り上げた皿は、どうみても食戟に勝つ為の皿ではなかった。
黒木場リョウには分からない。だが、薙切アリスには、幸平創真が何を目指してあの皿を創り上げたのかが、理解できた。
なぜならそれは、アリス自身がかねてより願い、そして叶えんとしてきたものだからだ。
「まぁ、幸平君もえりなの事が大好きってことね!」
「なんすかそれ」
「リョウ君は知らなくていいの!」
黒木場リョウは結局叩かれた。
◇
汐見ゼミ。
それは、薙切えりなに並ぶ才能を有すると評される葉山アキラが所属するゼミであり、彼の師である汐見潤が担当しているスパイスを専門に研究しているゼミである。
そんな汐見ゼミの一室で、葉山アキラはぼんやりと白い天井を仰いでいた。そんな葉山アキラの様子を、横で汐見潤があたふたと何故か慌てて心配していた。
「どうした、潤? 何かあったか?」
「何かあったのは葉山君の方だよ! どうしたの? どこか痛いの? 薬持ってきた方がいい?」
「いらねぇよ。俺は至って健康だ」
とは言っても、これで汐見潤が落ち着く事など無いのだろうな、と葉山アキラは苦笑する。
早く調子を取り戻さなくては、と葉山アキラ自身も思うのだが、どうしても全身に力が入らなかった。それは、あの幸平創真が遠月学園を去った時からずっと続いている。
「もう、3か月か……」
「3か月? 幸平君のこと?」
ピン、と人差し指を上げて、汐見潤は葉山アキラの脳の片隅を占拠する男の名を呼んだ。
「残念だったねぇ、幸平君。判決はほぼ五分五分だったし……」
「ああ。あの野郎がちゃんとやってたら、勝ってただろうな」
それも、葉山アキラが普段の調子の取り戻せない理由の一つだ。
葉山アキラは、幸平創真に再戦を約束していた。そして、幸平創真もまたそれを受け止めてくれていた。
葉山アキラにとって幸平創真は、この遠月学園で唯一といえる戦友だった。あの男と同級生である事を、密かに誇りに思っていた。幸平創真とは、この先も幾度となくぶつかり合い、切磋琢磨していくのだと、確かな根拠も無いのに、漠然とそう思っていた。
なのに、幸平創真は学園を去った。
「……幸平」
何故だ。何故負けた。
お前を負かすのはこの葉山アキラだと、そう言ったはずなのに。あの時、「上等だ!」と不敵に笑ったお前の姿は嘘だったのか?
気づかず、葉山アキラは拳を握り締めていた。脱力感は既に無く、そこには確かな失望感と――それを覆って余りある喪失感が、葉山アキラの全身を蝕んでいた。
「葉山君…………」
「悪いな、潤。もう少し……もう少しだけ、待っててくれるか?」
懇願するように、葉山アキラは汐見潤を流し見る。汐見潤は、普段からは考えられない葉山アキラの弱気な姿に母性をくすぐられつつも、彼への心配が勝って素直に喜べなかった。
「うん、ゆっくりでいいからね」
慰めるように言い残して、汐見潤は部屋を出た。
もう一度、葉山アキラは座っているソファに全身を委ねて、背もたれに寄りかかった。
「幸平――お前が居ないなら、俺は誰を倒せばいい?」
この喪失感は拭えない。
葉山アキラは、不幸にもそれを確信してしまっていた。
◇
アルディーニ兄弟。
幸平創真と薙切えりな。この二人の勢力で二分されているこの学年において、中立を保ち続けた第三者。尤も、幸平創真とは何度も食戟を繰り広げたことから、薙切えりな派閥からは何度も勧誘を受けていたらしいが、特に兄であるタクミ・アルディーニはそんな政争に興味は無いと、勧誘は突っ撥ねられていた。
「クソッ、幸平……! 何故いなくなった!! 君を倒すのはこの俺だと、何度も言っていただろう!」
「兄ちゃん、それ何回目?」
「毎日言ってるから分からん!」
ダンッ、と強く机をたたき、タクミは歯を食いしばる。
決着を付けられなかった悔しさと、自身の最高の
こんな結末は認められない。認めてたまるかと、タクミは声を荒げる。
以前、幸平創真が敗北した正に翌日という時から、タクミは何度も薙切えりなに食戟の申し出をした。
全ては、幸平創真の退学を取り消す為に。
だが、そんな勝負を薙切えりなが受ける義務は無い。タクミの申し出は、彼女に全く相手にされなかった。
結局、タクミと幸平創真は何の決着も付けることなく、彼等の因縁はタクミの不戦勝という形で幕を閉じようとしていた。
「ふざけるな! そんなもの認められるか!」
「兄ちゃん…………」
タクミにとって幸平創真は、自分の同類であり、明確な好敵手であり、得難い戦友だった。
イタリアのフィレンツェにある大衆食堂であり、アルディーニ兄弟の実家である『トラットリア・アルディーニ』
日本の大衆食堂、食事処『ゆきひら』の跡取り息子として育った幸平創真は、タクミと似た環境で生まれ育ち、そしてタクミに勝るとも劣らない料理への情熱を持って、この遠月学園にやってきた。
正直、親近感が湧かないと言えば嘘になるだろう。タクミが幸平創真に執着している理由も、それが1つあるのかもしれない。
だが、それ以上に。
『遠月の
アイツの料理人としての在り方に、タクミ自身が途方もない憧れと敬意を抱いているからこそ、タクミは幸平創真を超えようと足掻くのだ。
そんなこと、タクミが認める事は無いだろうが。けれど、イサミには分かるのだ。自身の兄が幸平創真に執着する理由。そして、彼が居なくなったことで兄が消沈することにも、当然だろうという認識があった。
ただ、それにしたって長引いているなとは感じていた。もしかすると、これから一生こんな調子が続くのではないかと、思わず錯覚してしまうかのような――。
「兄ちゃん、大丈夫だよね?」
「……イサミ? どうしたんだ?」
良くない想像をしてしまい、イサミ・アルディーニは顔を青くした。
青白い顔をした弟を、タクミは酷く心配した。けれど、イサミは静かに立ち上がって、ふらつくように調理室を出ていった。
残されたタクミはイサミに付き添おうかとも思ったが、どうにも近寄りがたい雰囲気が今のイサミにはあり、結局調理室に残ったまま研鑽に励むことにした。
脳裏に浮かべるは、この遠月で幸平創真が最後に作った品。薙切えりな相手に見せた、あの料理。
――敵わない。
一度目にして、タクミはそう思ってしまった。直後に胸の中に浮かんだ自身への怒りと、グツグツとマグマのように沸き上がった幸平創真への対抗心は忘れられない。
あの皿ならば、薙切えりなにも勝てるのではないかと思った。けれど、結果は幸平創真の敗北。あの判決は、タクミの中では未だに納得がいっていない。
あの皿に匹敵する料理を、今のタクミは作れない。あの時確かに、タクミ・アルディーニは幸平創真に決定的な敗北を喫したのだ。
だが、敗北は終わりではない。負けてもやり直せばいいのだと、タクミは随分前に尊敬すべき好敵手から教わっている。
故に、タクミはずっと信じているのだ。
「早く帰ってこい、幸平。君との決着は、高等部でつける!」
情熱が胸に宿り、タクミは未だ幸平創真の幻影を相手に戦い続けていた。
◇
――学園に平穏が戻った。
――遠月は、また自分の庭となった。
――だから、自分のやった事は間違いではない。
ずっとずっと、薙切えりなは自分に言い聞かせている。そうしないと、後悔しそうになったからだ。
『いつか必ず、お前にはっきりと「美味い」って言わせてやるよ!』
3か月前、えりなが引導を渡した相手――幸平創真が勝手に誓った約束。
それは、彼女にとって聴くにしない戯言だ。その筈なのに、いつからか薙切えりなは幸平創真に期待をするようになってしまっていた。
学年で唯一薙切えりなに対抗できる勢力を創り上げ、見事に彼女の喉元にまで辿り着いた。薙切アリス、葉山アキラ、黒木場リョウ、そして水戸郁魅。数々の強者が彼一人の下に集い、共に薙切えりなに立ち向かってきた。
…………悪くは、なかった。
薙切えりなは生まれてから、他者と料理の出来を比べ合うという事をした事は無い。『神の舌』を持ち、食の魔王の血筋である彼女は、生来から他者よりも圧倒的な才能を持っていたからだ。
同年代に彼女に並ぼうとする者は居らず、薙切えりなもまた同い年で自分に敵う者など居る筈が無いと驕っていたし、実際それは真実だった。
薙切えりなは、生まれた時から頂点に立っていた。誰も隣に居ない、孤高の頂点に。
――幸平創真が現れるまでは。
無礼にも、この薙切えりなに追い着かんとする存在。媚び諂おうとすることもなく、むしろあからさまに対抗心を露にしてくる、今まで自身が見たことも無いような料理をする料理人。
気に入らなかった。自分の知らないものを出されて、この薙切えりなに色々と苦言を呈してくるその態度が、酷く気に入らなかった。
『えっ、お前友達少なくね?』
特にこの発言だけは許せない。共に居たアリスがお腹を抱えて大笑いしていたのも腹が立つ。あの時ばかりは、あの間抜け顔に、一発拳を入れてやりたいと思ったものだ。
「幸平、君…………」
どうしてだろう。嫌いで嫌いで溜まらなかった相手が消えたというのに、歓喜ではなく落胆を抱いているのは。
もっと、彼の料理を見てみたかったと、残念に思ってしまうのは。
「嘘つき……」
まだ、美味いだなんて言っていないのに。
「嘘つき」
遠月の頂点を取るって、宣言した癖に。
「嘘つき!」
あんな料理を作っておいて、自分の前から居なくなるだなんて。
――大っ嫌い…………!