遠月学園中等部3年生――幸平創真。   作:花のお皿

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懐かしき遠月。懐かしき御仁。

 

 3か月ぶりに訪れた遠月学園は、やはりデカかった。

 

 その威容が視界に飛び込んできた瞬間、思わず息を呑む。

 

 校門から望む建築群の輪郭、洗練された構造美、それでいてどこか“料理人を選別する装置”めいた冷たさがある。

 この規模感だけは、ソーマには慣れる気がしなかった。けれど、それは嫌悪でも畏怖でもない。

 

ただ、純粋な“圧”――己を試す場にふさわしい、舞台装置のようだった。

 

「さて、行くか!」

 

 小さく呟いたその声は、自らを鼓舞するリズム。

 

 足取りに迷いはない。胸の奥で鼓動がひと際強く打つ。気圧される事なんてない。かつては通っていた学園だから――それも確かにあるが、一番の理由はそこじゃない。

 

 場所がどこだろうと、ソーマがやるべきことは変わらない。それが彼の“芯”だった。

 

 時間、空間、状況。どんな制約も、皿の上には関係ない。

 

 その時、その場にいる自分が、全力で創り出す料理――それが料理人の矜持。

 だからこそソーマは、迷いなく包丁を握れる。技術でも経験でもない、“覚悟”こそが料理を生むのだ。

 

 道中、妙なボンボンに絡まれ、一悶着あった。どこか血統や肩書を誇示したがる相手で、ソーマは特に興味もなく軽くいなしたが、そのやり取りすら“前菜”のように感じた。

 

 こうした“癖者”すらも集まるのが遠月であり、それがソーマの好奇心をかき立てる。

 

 そんな場面も過ぎ、ソーマは試験会場へと辿り着いた。

 扉を開けた瞬間、そこに広がる空気の密度に思わず眉を上げる。

 

 会場はすでに受験者たちで満たされていた。

 

 自信満々といった表情の者達が多く、その目には“俺こそが”という意志が宿っている。

 その圧力に押されるような気配はない。むしろソーマは、そうした競走の熱気に呼応するように心が昂るのを感じていた。

 

 久々に吸い込んだ遠月の空気。そこに混じる緊張、期待、そして“野心”。

 

 ソーマの闘気が自然と刺激される。

 

 この圧倒的な競争を煽る空間の中で、彼は幾度となく強者達とぶつかり合った。

 時には共闘し、時には命のやり取りにも似た食戟を繰り広げ、自らの料理の腕を磨き上げてきた。

 

 その記憶が、指先に宿っている。あの厨房で刻んだリズム、あの一皿に込めた意志。

 

 遠月は、料理人としての自分を育ててくれた場所――だが今日は、それを証明する場でもある。

 

――上等!

 

 拳を握る。握るというより“確かめる”ような、感覚の呼び戻しだった。

 

 緊張はない。だが、身体の奥で何かが静かに燃えている。

 それは他者との比較ではない、“自分自身への挑戦”に近い。

 

 いつも通りに包丁を握れる予感がある。それこそが、ソーマという料理人の本質。

 

 この試験で、幸平創真という人間が遠月を去ってからの3か月を、いかに無駄にしなかったかを証明してみせる。

 

 皿が語るのだ。この3か月を。

 

 そうして試験開始の時刻が迫る。

 場にざわつきが走った。会場奥の扉が静かに開き、試験官と思われる人物が足を踏み入れてきた。

 

 瞬間、空気が塗り替えられる。

 

 その人物が放つ風格が、周囲の緊張を一気に引き締める。

 言葉も要らない。ただ立っているだけで、場を支配する存在感。

 

 高齢と思われる外見からは考えられないほど逞しい体躯。

 その背筋の伸び方、足の運び、まるで料理人の動線を計算しているかのように無駄がない。

 

 その者の名を、ソーマが見間違える筈もない。

 

――薙切仙左衛門。

 

 『食の魔王』の異名を持ち、何よりあの薙切えりなの祖父。ソーマにとっても、印象深い人物であった。

 

 気づけば、会場からはソーマ以外の全員が逃げ去っていた。

 彼等は、遠月学園入学という栄光よりも、『食の魔王』薙切仙左衛門からの不興を買うというリスクを選ばなかったのだ。

 

 それは極めて合理的な判断であり、恐れとは切り離せない。

 

 薙切仙左衛門――遠月学園を創り、支配する存在。その威圧感は、料理人としての矜持をすら押し潰すほどの圧だった。

 

 だが、唯一その場に残った男――幸平創真は、そんな空気を意に介さないように、厨房の前に佇む『食の魔王』の御前に、勝負を挑む勇者のように立っていた。

 

 その若き獅子の顔に浮かぶ不敵の笑みを見た瞬間、薙切仙左衛門の口元に獰猛な笑みが浮かぶ。

 

「お久しぶりっす、学園長殿! いやー、まさか学園長がわざわざ試験官やってくれるとは思わなかったっすわ!」

「うむ、健在のようだな幸平創真」

 

 物怖じしないその胆力。そうして、『食の魔王』を前にして恐怖するのではなく、むしろ自らの腕を試すにうってつけの相手だとさらに奮い立つこの精神の形が、何より薙切仙左衛門の琴線に触れる。

 

 それは単なる反骨精神ではなかった。

 根拠なき自信でもない。

 

 料理人としての魂が、試練を前にして研ぎ澄まされているのだ。

 

 それが、こうして向かい合っているだけで分かる。

 

「腕は衰えておらぬようだな」

「それどころか、もっと高めたつもりっすよ。俺の料理人としての腕は、もう薙切にまで届いてる。今度はもう負けねぇっす!」

 

 仙左衛門は、深く目を閉じた。

 

 まるで、ソーマの言葉の真意を味わうかのように。

 

 次に目を開いたとき、その瞳には研ぎ澄まされた鋼のような光が宿っていた。

 それは審査官の目ではない。戦場に立つ料理人の、それだ。

 

「ならば……見せてみよ、幸平創真。お前の“皿”が、この三ヶ月を語るに足るものかどうか」

 

 静かに告げられたその言葉に、会場全体が――空気すらが――震えた。誰もいないはずの観客席ですら、一瞬の緊張を孕んだ錯覚を起こすほどの重圧。

 

 ソーマは、それを真正面から受け止めていた。

 

 目には怯えも迷いもない。ただ純粋に、料理人として挑む姿勢がある。

 

「テーマ食材は卵! 美味なる皿を創り出して見せよ!」

「合点!」

 

 キッチン台に向かいながら、ソーマはエプロンを手早く結ぶ。

 

 指先は無駄なく動き、道具の配置、火加減の調整、すべてが一つのリズムを奏でていく。

 

――食材は卵。テーマは自由。

 

 この限られた枠の中で、どれだけ“魂”を込められるか。それが勝負だ。

 

 ソーマは真剣な眼差しで手元の卵を見つめた。

 

 この一皿には、彼の“今”のすべてを詰め込む。誰よりも遠月学園の土を踏みしめてきた者として――そして、薙切仙左衛門という“絶対”と対峙する者として。

 

 作る品は、卵というテーマ食材を聞いた時から既にソーマの頭に浮かんでいた。

 ソーマが作る料理は――親子丼だ。

 

 まずは下層にくる親子丼のベース。

 

 鶏もも肉は皮目をパリッと焼き上げ、脂の旨味を引き出す。甘辛い割下を張った鍋に投入し、火加減を微調整しながらじんわりと煮込む。

 そこに、溶き卵を一部だけ流し込む。卵に火が入りすぎないよう、タイミングは一瞬の勝負だ。

 そして、具材をふんわりとご飯に乗せる。

 

 ここまでは一般的な親子丼――いや、極限まで完成度を引き上げた“王道”の親子丼だ。

 

 だが、真価はその上に重なる“第二層”にこそある。

 

 卵黄のみを使った濃厚なムース状ソース。隠し味に白味噌と昆布出汁を合わせ、まろやかさと深みを両立させる。

 そして、表面にはごく薄く削った柚子の皮と、炙った鶏皮のチップスを散らす。見た目は極めてシンプル――だが香りと食感で、箸を持つ者の五感を揺さぶる仕掛けが施されていた。

 

「名付けて、二層仕立ての親子丼! さぁ、お上がりよ!」

 

 ソーマが差し出した丼を、仙左衛門は無言で手元に引き寄せる。

 

 一口目。まずは下層の親子丼を味わう。

 

――瞬間、彼の目が細まる。

 

 鶏の火入れ、卵のとろみ、ご飯との一体感。すべてが緻密に設計された美味が、言葉すら奪う。

 

 次に、上層の卵黄ムースと鶏皮チップスを合わせて口へ運ぶ。

 

 濃厚さと香ばしさが火花を散らし、舌の上で融合していく。親子丼という“家庭の味”が、“料理人の意志”によって昇華された瞬間だった。

 

「見事」

 

 感嘆に満ちた声。たった一言だったが、それだけで十分だった。

 

 なぜなら、彼の表情と身体がそのまま、料理への感動を雄弁に語っていたからだ。

 

――おはだけ。

 

 薙切家に連なる者のみが会得すると言われる秘技。

 精神力が極限に達した時、着衣を打ち払う衝動として顕現する“味覚の共鳴”。その技が発動されるのは、彼らが心の底から“美味”と断じた時のみ。

 

 そして今、薙切仙左衛門の身にそれが起こった。

 

 空気が軋むような緊張の中、ソーマは黙ってその光景を見ていた。

 

 まるで、それすらも“料理の余波”として受け止めているように。

 

 仙左衛門の顔に浮かぶ静かな笑み。

 その背後には、料理人としての“喜び”と“畏敬”が混じっている。

 

 それは技術への感心以上に、魂のこもった一皿に触れた者の感情だった。

 

「幸平創真。この皿に、何を込めた」

 

 低く、深く、問いかける声。

 その響きは、審査員のそれではない。

 

 まるで“料理人同士”が、火口越しに交わす視線だった。

 

「へっ、料理人が皿に込める想いなんて、決まってるでしょ」

 

 ソーマは肩の力を抜きながら、笑った。

 目は曇りなく、自信に満ちている。

 

 それは天才の傲慢さではない。数多の敗北を舐めた上で得た、確信だった。

 

「食ってもらう奴に美味いって言わせること! それだけっす」

 

 その言葉に、仙左衛門は思わず噴き出した。

 

「ハハハハハ! 愚問であったな」

 

 拳を叩くほどの笑い。それは試験官の仮面を捨てた、“料理人の笑み”だった。

 

 そうだった。この少年は、いつでも誰よりも“食べる人間”を見ていた。

 

 食戟で勝つための執念は並外れている。だがその根底にあるのは、もっと素朴で強い信念――目の前の誰かを笑顔にしたいという、料理人としての“やさしい狂気”。

 

「……つくづく、料理人だな」

 

 仙左衛門は、皿の縁を指でなぞる。

 

 そこに残る余韻までも、料理の“表現”として味わっているようだった。

 

「俺は食事処『ゆきひら』の料理人で……まぁ、元ですけど遠月の学生っすからね! 当然っちゃ当然じゃないっすか?」

 

 ソーマの言葉は飾り気がない。

 しかしそこには、自分の“出自”を誇るような温度がある。

 

 『ゆきひら』――彼の原点。

 遠月――彼の戦場。

 

 その両方が、今の彼を構築している。

 

 仙左衛門は、そのまま笑みを崩さず、大声で笑った。

 乾いた笑いではない。心底から湧き上がる愉快な喜び。

 

 今、目の前に“玉”が居る。

 

 薙切の名に連なる者として、最も特異な一皿を見せてくれた少年。

 薙切えりなを料理で()()()とした者。

 

 その少年が、さらに研ぎ澄まされて戻ってきた――この事実が、仙左衛門の胸を震わせる。

 

「幸平創真――合格とする!」

 

 堂々たる宣言。

 

 それは、試験における評価以上のものだった。

 

 料理人としての“継承”の肯定。

 

 自らが築いた遠月という舞台に、またひとつ新たな旗が立つ――そんな予感さえある。

 

 言葉を向けられたソーマは、静かに白いハチマキを額から解いた。

 それは、ひとつの戦が終わったことを告げる所作。

 

 そして、にやりと笑って言った。

 

「お粗末!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 試験会場に残されたのは、一つの空になった丼と、薙切仙左衛門ただ一人だった。

 

 静寂だけが辺りを支配し、先ほどまで燃え上がっていた熱気も、今は跡形もなく冷えきっている。

 仙左衛門は椅子に腰掛けたまま、手元の丼をじっと見つめていた。

 

 その視線は、料理人としての鑑定ではない。祖父として、そして学園長としての感情が入り混じった、複雑な眼差しだった。

 

「やはり、ここにはえりなが来るべきであった……」

 

 ひとつ、落とすような呟きが、広い会場のどこにも響かずに沈んでいく。

 

 遠月学園編入試験――本来であれば、その審査官の座には愛しき孫娘、薙切えりなが座るはずだった。

 

 仙左衛門は目を閉じ、えりなの姿を思い浮かべる。

 

 高いプライドに裏打ちされた孤高の料理人。だが、幸平創真と対峙していたあの頃だけは違っていた。

 

 あの時のえりなは、確かに()()()()いた。

 

 感情を隠す仮面の奥から、時折覗く笑み。厨房で交差する視線の熱。

 料理への情熱など持ち得ないと信じていたあの子が――彼と並び立つときだけは、火を灯していた。

 

 勝利してしまった、あの食戟の日から。えりなは、まるで魂が抜け落ちたように、料理に触れる時間が極端に減った。

 

 遠月の誰もが気づいてはいる。けれど、誰もが踏み込めない。彼女がその感情に名をつけない限り――。

 

 だが、仙左衛門には分かっていた。

 

 えりなにとって、幸平創真は初めて“対等な相手”だったのだ。

 勝ち負けを超え、互いを高め合う関係。孤高の“神の舌”であるえりなを揺り動かす、唯一の存在。

 その絆を失った痛みは、えりな自身が気づかぬまま心を蝕んでいる。

 

「……だが、それも、もうすぐ晴れる」

 

 仙左衛門は立ち上がり、丼の中に残るわずかな香りを鼻先で感じる。

 香ばしい鶏皮の余韻と、柚子の清らかな香り――それはまるで、春の風のようだった。

 

 会場の窓の外では、桜が舞っていた。

 その光景を眺めながら、仙左衛門はそっと口角を緩める。

 

「春が来たか……」

 

 目を閉じる。まぶたの裏に、えりなが創真と再び厨房に立つ姿が浮かぶ。

 まだ言葉にはしない。まだ、誰にも語れない。

 

 だがこの丼が語っている――創真は、戻ってきたのだ。

 

 そして、彼が戻ってきたということは。

 あの娘も――きっと。

 

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