新学期が始まり、中等部から高等部へと進学する生徒は全員、始業式の場に集っていた。
遠月学園の広大な式場を埋め尽くす制服の群れ。その頭上では、満開の桜が春風に舞い、まるで料理人たちの新たな幕開けを祝福するように散っていた。
だが、この華やかさに包まれながらも、生徒たちの心には期待よりも緊張が走っている。
高等部から始まる遠月の本格的な“ふるい落とし”。
それは単なる学校生活ではない。
地獄の合宿、スタジエール、予告なしの試練――常に「退学」の二文字が背後に忍び寄る。遠月が誇る少数精鋭教育は、容赦なく料理人としての価値を試す場なのだ。
この試練を越えた先に、成長がある――そう信じたい者たちの心に、壇上からの声が突き刺さる。
「諸君の99%は、1%の『玉』を磨く為の、捨て駒である!!」
重厚な声が、式場全体を支配する。
壇上に立つ薙切仙左衛門。“食の魔王”と呼ばれる彼が放つ言葉は、決して比喩ではなく現実そのものだ。
「昨年の新一年生812名の内、2年生に進級できたのは76名」
数字が突きつけられるたびに、空気がさらに冷え込む。
目を伏せる生徒、表情を硬くする者、それでも顔を上げる者――誰もが自らの将来と向き合わされる。
「無能と凡夫は容赦なく切り捨てられ、千人の一年生が、進級する頃には100人になり、卒業まで辿り着くものを数えるには、片手を使えば足りるだろう」
自分がその“切り捨てられる側”になるかもしれないという現実が、胸を突く。誰一人、例外などいない。
それでも――
「その一握りの料理人に、君は――君が成るのだ!!」
突き上げるような言葉に、心が震える。
恐怖ではない。魂が、料理人としての炎を再び宿す。
不安と葛藤の渦中で、確かに一部の者たちは立ち上がった。焚きつけられた勇気は、彼等を挑戦者へと変えていく。
「――研鑽せよ」
その一言を最後に、仙左衛門の檄は静かに幕を閉じた。
だが、その静寂が意味するのは希望か絶望か――それは、ここからの“実力”が語るものだ。
壇上脇の控え席――薙切えりなは腕を組み、静かにその演説を聞き終えていた。
整えられたブロンドの髪が風に揺れる。その横顔は絵画のように端正で、女王然とした堂々たる振る舞いに見る者が居れば見惚れていただろう。
笑みは余裕に満ちている。しかし、その奥にある瞳は、鋭く世界を睥睨しながらも、どこか遠くを見つめていた。
遠月の頂点――それは薙切えりなにとって“当然”の位置だった。
『神の舌』という他を圧倒する天賦の才。その存在だけで、料理界は彼女を頂へと導くだろう。
だが、それが“孤独”であることを、彼女自身もわかっていた。
えりなに匹敵する者は
そう思っていた。
――かつては。
『いつかお前にはっきりと、「美味い」って言わせてやるよ!』
その声が脳裏に蘇る。
まっすぐに自分の真価へ挑み続けたあの男。
彼は、薙切えりなにとって“否定”されるべき存在でありながら、“揺るがせる”者でもあった。
だが結局、幸平創真は遠月を去った。
失意を表に出すことはなかったが、えりなの中にはぽっかりと空いた空洞ができていた。
それを隠しているのは、誇りなのか意地なのか、それとも――未練なのか。
幸平創真を慕っていた生徒達は今尚、沈黙の中にいた。
薙切えりなの覇権が再び戻ってきたかのような学年の空気。それでもかつてのように、薙切えりなには敵わない、という空気は消えていた。
彼らは幸平創真の背中に“希望”を見たからだ。
不可能だと笑われても、彼は前に進んだ。その姿に魅せられた者たちは、簡単には心を折らない。だからこそ、今の空気は張り詰め、薙切えりなへ挑む気概ある者達が溢れている。
(居なくなってもまだ、君は私に楯突くのね)
息が漏れる。
それは深いため息ではなく、吐き捨てるような微かな呼気。
しかしその表情は、誰の目にも“美”と“威厳”を兼ね備えたものに見えていた。
1年生代表として表彰台に立った瞬間、えりなの内面にかすかな疑念が生まれた。
もしも幸平創真がここにいたなら――彼こそが立っていたのではなかったか。
そんな考えが脳裏をよぎる自分を、頭を左右に振って追い出す。
(何を弱気になってるのよ……私は薙切えりな。遠月の頂点、日本の料理界に君臨する料理人なのよ)
心を整え直す。
だがその内側では、まだ彼の影が燻っている。
えりなの目には、これから始まる遠月高等部が映っている。
彼女なら駆け抜けるのは容易だ。
しかし、創真の残した“意志”が、今も誰かの料理に宿っているのなら――容赦なく蹴り落とすのみだ。
それが薙切えりなとしての、矜持であり責務。
それはせめてもの、幸平創真への“弔い”――いや、
(って、何で私があの男に誠意を見せるような真似をしなければいけないのよ!)
自嘲のような怒気混じりの思考が、えりなの胸をざらつかせる。
「最後に、本日より編入する生徒を一名紹介します」
始業式の司会を任された女子生徒――川島麗の言葉に、えりなの顔がぴくりと動いた。
閉ざしていたまぶたを、ゆっくりと持ち上げる。
編入生――そうだ、あの時自分が試験官を任されたはずだった。
しかし断った。料理に向き合う気力が、その頃の自分には残っていなかった。
何故なのか。
どうして、あれほど熱中していた料理への情熱が、急に冷めてしまったのか。
それをえりなは、自覚していなかった。いや――認めたくなかった。
元々、熱など持っていなかったはずなのに、何故あの瞬間、自分は料理に魅せられたのか。
それが自分の中で形になることを、恐れている。
――幸平創真こそが、自らに熱を与えた存在なのだと。
一介の庶民の料理人が、遠月の名家に生まれ、『神の舌』を持つ選ばれし存在である薙切えりなに――料理への情熱という火種をくべた。
それを彼女が認めるわけにはいかない。認めた瞬間、自らの絶対性が揺らぎかねないから。
否定したい。忘れたい。なのに、あの時の食戟、言葉、眼差しが、今もなお、えりなの料理に残響としてこびりついている。
まるで、味の記憶のように。
そして――
「お久しぶりっす。どーも、幸平創真です」
場の空気が、明らかに変わった。
軽やかで、しかしどこか確信に満ちたその声が、壇上の式場に響き渡る。
その瞬間、薙切えりなの身体が反射的に動いた。
椅子の脚が音を立て、彼女は勢いよく立ち上がる。
意志ではなく、本能――いや、衝動だった。
表情は一瞬で引き締まり、目は真っ直ぐに音のした方向へ向けられる。
瞳の奥に揺れていた感情が、見る見るうちに形を成していく。
驚き、怒り、戸惑い――そして、喜び。
それらが混ざり合った複雑な感情が、薙切えりなという“女王”の仮面を軋ませる。
壇上の視線が一点に集まる中、えりなは口を開くことなく、その場に立ち尽くしていた。
身体は動いたのに、言葉が出ない。
まるで再会の一皿を前に、味覚を震わせて沈黙する食通のように。
(……本当に、何で、今……ここに貴方が…………!)
胸の奥から、再び熱がこみ上げてくる。
それは懐かしく、悔しく、眩しくて――苦しい。
◇
その場にいる全生徒の視線が、壇上に立つ一人の男に注がれる。
ざわめきが止まり、空気が一瞬で“静かなる熱”に変わった。
誰もがその姿を忘れていなかった。忘れられるはずもない。
かつて遠月学園中等部の中心で旋風を巻き起こし、無数の食戟を通じて常識を壊し続けた男――幸平創真。
「いやー、まさかまた戻ってくるとは思わなかったんすけど、まぁ色々ありまして」
壇上で頭をぽりぽりと掻きながら、照れ笑いを浮かべる創真。
飾らない口調と仕草は、まるで“地元に帰ってきた少年”のようだった。
その様子に何人かの生徒が、小さく笑みをこぼす。
変わっていない。あの頃の創真のままだ。
軽やかで飄々としていながら、その奥に確かに見えるもの――静かに熱された闘志。
それは、我らが幸平創真派閥の最前線に立ち続けた料理人の“炎”。
だが、次の瞬間。
創真の目つきが、ほんの少しだけ鋭くなる。
声のトーンもわずかに低く、硬く――強い意志を含んだものへと変わった。
「とりあえず、こうしてまた戻ったからには」
言葉の先に、誰もが息を止める。
創真のまぶたの奥に宿る熱が、壇上から全体へと広がっていく。
「今度こそ――『
創真は、天を指差すように人差し指を掲げて宣言した。
その姿に、何人もの心が震えた。
誇り高き料理人の姿だった。強がりでも虚勢でもない、覚悟の形。
この3か月。
彼は悔しさを背負い、技を磨き直し、自らの料理人としての価値を問い続けた。
だからこそ、この一言には、『今までの幸平創真』とは違う重みがある。
「また三年間、お願いしやす!」
壇上から放たれた笑顔と共に、締めくくられる再出発の挨拶。
その言葉に、静かだった会場が爆発した。
歓声。歓喜。どよめき。そして、涙すら含むような興奮が広がる。
遠月が湧いた。
消えたはずの星が再びその空に現れたのだ。
彼に憧れていた者、挑まれた者、悔しさを感じた者――すべての者にとって、その再臨は“風向きの変化”を意味していた。
そして、壇上の控え席――薙切えりなの視線が、鋭く創真を捉えていた。
その瞳に宿る光は、喜びか怒りか、あるいは――高揚。
そして、壇上から薙切えりなの視線に気づいた時――幸平創真は、かすかに笑った。
あの食戟の時と同じ、静かな熱を宿した笑顔で。
◇
「よっ、薙切。久しぶりだな」
遠くからでもはっきりとわかる声。
その軽さと自然さに、えりなの眉がぴくりと跳ねる。
「久しぶりだな、じゃないわよ!」
立ち上がると同時に噛みつくような語気で、えりなは叫ぶ。
当然のように手を上げ、笑みを浮かべる創真。
その変わらぬ飄々とした態度が、妙にえりなを苛立たせる。
(……何事もなかったような顔して。散々、こっちを混乱させておいて)
あの食戟の直後から、自分の思考は乱れたままだった。
料理に向かう感覚も、味への集中も、すべてが曖昧になっていった。
それなのに、目の前の男は、平然と戻ってきたのだ。
「なぜ、君がここに――」
問いは意地にも似た声色で紡がれた。
そんな言葉に、創真は小さく肩をすくめる。
「編入してきたんだよ。正直、負けた場所にまた戻ってくるってのは自分の中でも迷ったんだけどよ」
視線を逸らす。その一瞬、表情に滲む鬱屈。
その影に、えりなは自分と同じ“痛み”を見た気がする。
だが、次の瞬間にはもう、創真の顔には迷いはなかった。
「不味い、って言われたままじゃ、帰るに帰れなくてよ。ま、成り行きでとんぼ返りしてきた」
それは、ふざけた言い回しのように聞こえる。
けれど、その裏にある“料理人としての誇り”は、えりなにも痛いほど理解できた。
自分への執着ではない。
ソーマは自分自身の料理と、料理人としての生き方に責任を取りに来たのだ。
その覚悟が伝わってきて、えりなは言葉を飲み込む。
「で、どうよ最近の遠月は? 何か変わった事とかあったか?」
何気ない口調。
だが、その問いはえりなの奥底に沈めていた不満を揺り動かす。
「つまらないわ」
「え?」
「つまらないと言ったのよ。誰もかれも、くだらない料理しか作らない。あぁ、貴方が仲良くしていたお友達も、随分大人しくなってしまったわね」
薙切えりなの言葉は冷たい。だが、それは残念な真実だった。
創真が去った日から、遠月には活気が失われていた。
創真派閥と呼ばれた者たちは、方向性を見失い、熱も戦意も削がれてしまった。
(あの男がいたからこそ、あの子達は輝けていたのよ)
自分がその光を奪った。それは事実。
けれど、そんな事実すらも、今となっては空虚に響いた。
「今更戻って来ても、貴方が再び私と並ぶ地位に帰ってこれるのは一体何時頃になるのかしらね」
愉悦の笑み。だが、揺さぶるつもりで言ったその挑発は――予想外の返答で簡単に躱された。
「いやー、ああいうのはもういいわ」
創真は肩の力を抜いたように言う。
「はい?」
「派閥争いとか、俺の柄じゃないしな。高等部はもっと違う形で、お前と戦いてぇ」
その言葉に、えりなの胸が僅かに熱を帯びた。
――料理勝負。それこそが本質。
秋の選抜、学園祭、その他の公式試合。
ソーマは急がない。勝つためではなく、向き合うために再びここに立った。
(それまでに、どうにかして俺が作れる――俺だけの料理を極めねぇとな)
えりなはその視線の先を見た。
あの背中が、以前よりずっと強く見えた。
派閥争いではなく、個として戦う意思が、創真をさらに深くしている。
「……ふん。まぁいいわ。何度やったって、君が私に勝利するなんてあり得ないのだから」
口を尖らせながらも、えりなの声はどこか楽しげで、懐かしさを滲ませていた。
「お前相変わらずだな。だから友達少ないんじゃねぇの?」
「そ、それは関係ないでしょう! 私への侮辱は許しません!」
「ハハッ、悪い悪い」
笑う創真。
その無邪気さに、えりなは頬を膨らませながらも、なぜか言葉を飲み込めずにいる。
この再会が、自分にとってどれほどの意味を持っているか――気づいてしまいそうだったから。
すれ違いざま、創真が足を止め、振り返った。
「ま、待ってろよ薙切。今度こそお前に――はっきりと『美味い』って言わせてやるからさ」
その背中から放たれた宣誓。
えりなは目を瞬いたのち、口元に不敵な笑みを浮かべる。
「えぇ、楽しみにしておくわ。君の無謀な挑戦をね」
そして、創真が歩き去っていく。
その背を、えりなはまっすぐに見つめながら――そっと両手を胸の前で重ねた。
「――おかえりなさい、幸平君」
風に乗ったその言葉は、誰の耳にも届かず、春空へと溶けていった。