ストックを出し終えているので、これからは不定期投稿になります。
これからも、よろしくお願いします。
編入初日、始業式後すぐの、緊張と期待が入り混じる調理実習の開始。
幸平創真にとって、これはただの授業ではなかった。
新たな挑戦の第一歩であり、過去の記憶と今が交差する、感情の幕開けでもある。
そんな授業で思いがけず与えられたペアの相手――それが田所恵だった。
「――おーい、田所? そろそろ離れてくれると嬉しいんだけど」
「うぅぅぅぅぅ! ぞうまぐーん!! あいだがったよー!!」
抱き着いたまま、涙混じりの声を漏らす彼女。
小さく震える背中を感じながら、創真は困惑しつつも口元に微かな笑みを浮かべた。
今回の料理実習は二人一組で行われる――その組み合わせは教授によって公平に決定されるものだ。
偶然のようでいて、どこか運命めいた再会だった。
ただ泣かれるとはソーマも思っていなかったため、出会った瞬間は大変だった
数刻前、ソーマが実習室に足を踏み入れた瞬間、周囲の生徒たちから次々と声を掛けられた。
賑やかに、そして確かに再会を喜ぶ声の洪水。
創真は一人一人に丁寧に応えつつ、再び料理勝負の約束を交わしていった。
その中で割り振られたキッチンへと向かうと、懐かしい姿が視界に飛び込んできた。
――田所恵。
以前、数々の修羅場を共に乗り越えてきた、大切な戦友。
気心知れた彼女との再会に、創真は瞬間的に喜びの感情が溢れた。
「久しぶりだな、元気してたか?」
明るく声をかけた創真だったが、返事はなかった。代わりに――恵は言葉の代わりに、涙とともに創真にしがみついてきたのだった。
人目も憚らず抱きついてくるその勢いに、創真の思考は一瞬にして真っ白に染まった。
人前でこれはマズい――そう頭の片隅で思い、引き離そうとしたのだが、耳元に微かに届いた、すすり泣く彼女の声に咄嗟にその手を止めた。
泣いて再会を歓迎されるなど、創真にとっても初めての経験だった。
どう応えていいのかわからず、周囲から刺さる視線に居心地の悪さを感じる。
それでも――創真は、彼女の心がこぼれるその瞬間に、そっと腕を回した。
ぎこちなく、けれど優しく、彼女の気持ちを受け止めるように。
――ありがとうと、再会を心から待ち望んでいてくれた彼女へ、感謝の言葉と共に。
ところが、その再会の温もりも束の間、事態は急転直下――ますます悪化の一途をたどることになる。
どうやら、押し寄せた感情の波に飲み込まれた田所恵は、とうとう子供のように泣き出してしまったのだ。
嗚咽混じりにしゃくり上げる彼女を前に、ソーマは完全に混乱していた。
何をどうすれば落ち着かせられるのか――そんな手立てなど浮かびもしない。
「え、ちょ、田所……!?」
その場に居合わせた女子生徒が機転を利かせてくれたのは、まさに救いだった。
優しい口調で恵に話しかけ、手を握って気持ちを落ち着かせていく彼女の所作に、ソーマは心底感謝した。
結果的に泣き止むまではいかなくても、恵の涙は「ぐずる」程度にまで収まり、なんとか授業の形にはなりそうだった。
だが――ソーマからはなかなか離れようとしない。
まるで拠り所を見つけた雛鳥のように、ぴったりとくっついている。
「っと、先生が来た。ほら、田所。もう本当に離れないと成績に響くぞ」
必死の説得に対して、恵は名残惜しげに唇を噛んだ。
「…………この後、また一緒に話そうね」
目を潤ませたまま、そっと囁く彼女の声に、創真は肩を跳ねさせる。
「お、おう! だからほら、離れろって……」
冗談めいた調子で促すソーマだが、内心では冷や汗が滲んでいた。
周囲の視線も感じつつ、やっとの思いで恵が離れてくれた時には、額の汗を袖でぬぐうほどだった。
入室してきたのは、この授業の担当講師――ローラン・シャペル。
その姿に場の空気が一変する。
肩をピンと張り、背筋を伸ばす生徒たち。
彼の名を知らない者はまずいない。
ソーマが中等部の頃からその存在は耳にしていた。
“A評価に相応しくない料理はすべてE評価”――その厳格な評価基準は、圧倒的な実力主義を物語っていた。
笑顔を見せることもなく、淡々と実力を測る様子に付いた渾名は『笑わない料理人』。
その眼差しは、まるで料理を通して人間そのものを審査しているようだった。
そんなシャペル講師が告げたメニューは『ブッフ・プルギニョン』。
肉の旨味と赤ワインの芳醇さを丁寧に煮込んで引き出す、フレンチの定番料理だ。
制限時間は二時間。それは、気を抜く暇のない時間でもある。
特に肉の火入れと煮込み工程に時間がかかるため、タイムマネジメントが命取りとなる。
シャペルが口を開いた。
「
仏語による調理開始の宣言が教室に響くや否や、生徒たちが一斉に動き出す。
手元のレシピを確認する者、材料を確認する者――厨房が一気に活気づく。
「細切れしたキュウリ入れる?」
隣からそんなふざけた声が聞こえる。
「空耳だよ、創真君……」
恵は呆れながらも、ふふっと短く笑った。
先ほどまで涙に濡れていた面影は少しずつ晴れていく。
彼女の中で、再会の感情が静かに落ち着きを取り戻し始めていた。
“この授業が終わったら、また創真君と話ができる”
その希望が、彼女の胸に温かく灯っていた。
気合充分、やる気満タンといった具合だ。
「そんじゃあ、始めっか!」
ソーマの明るい掛け声に、恵も元気よく頷いた。
「うん!」
二人の呼吸は、まるで昔に戻ったかのように自然だった。
◇
調理実習が終わり、夕暮れの柔らかな光が遠月学園の広い敷地を染めていた。
ソーマと恵は並んで歩きながら、互いの近況を語り合っていた。
「ハハッ、相変わらずだなふみ緒さんは。一色先輩も、無事十傑に成れたみたいでなによりだわ」
ソーマが懐かしそうに笑うと、恵も嬉しそうに頷いた。
「うん! 丼研の人達もね、ソーマ君が居なくなってからは『俺達だけでも頑張るんだー!』って、すごい勢いだったんだよ? 学外の料理コンテストにも出たりしてて、何回か準優勝作品に選ばれたこともあるって」
「そこは1位じゃねぇのかよ」
ソーマは肩をすくめながらも、どこか嬉しそうだった。
自分が居なくなった後も、仲間たちがそれぞれの道で料理を貫いている――その事実が、胸の奥に温かく響いた。
その感情が表情に滲み出ていたのか、恵はソーマの横顔をちらりと覗き込み、ふわりと微笑んだ。
「……そういや、にくみはどうよ? 丼研で元気にやってるか?」
ふと気になって、ソーマが尋ねる。
「――水戸、さんは…………うーん、そうだね…………」
恵は言い淀みながらも、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「水戸さんはね? 創真君が居なくなってから、長いこと学園に来てないんだ」
その言葉に、ソーマは思わず立ち止まった。
「……え、なんで?」
驚きと戸惑いが入り混じった声が漏れる。
「創真君が居なくなっちゃったから」
恵は静かに、でも確かにそう言った。
「…………え、なんで?」
同じ言葉を繰り返すソーマの声には、理解が追いつかない焦りが滲んでいた。
水戸郁魅――『ミートマスター』の異名を持ち、薙切えりなに見限られてもなお、遠月という戦場で己の料理を貫いてきた女。
そんな彼女が、自分が居なくなった程度で折れるはずがない。
それが、ソーマの率直な感覚だった。
だが、それはあくまで彼の視点に過ぎない。
水戸郁魅をよく知る者ならば、彼女がソーマに抱いていた感情の深さを理解していた。
えりなから距離を置き、水戸グループの跡取りとして重責を背負い続けてきた彼女の心を、初めて柔らかく溶かしたのは――他ならぬ幸平創真と、彼の皿だった。
その料理に込められた想いに触れ、彼女は恋をした。他ならぬ幸平創真に、恋をしたのだ。
それは、郁魅にとって初めての、そしてあまりにも大きな感情だった。
「だから、良かったら今度、水戸さんのところに顔出してあげてくれないかな? 私も一緒に行くから」
「え、いや、それはいいんだけどよ…………」
ソーマは頷きながらも、どこか釈然としない表情を浮かべていた。
結局、どうして郁魅が学校に来なくなってしまったのか――その理由を、ソーマはまだ理解できずにいた。
けれど、彼女の心に何かが起きたことだけは、確かに感じ取っていた。
そしてその『何か』に、自分が関わっていることも――。
◇
夕暮れの空が遠月学園の敷地を淡く染める頃、ソーマと恵は並んで歩いていた。
目指す先は、学園のメイン寮棟から遠く離れた場所にある、古びた木造建築――極星寮。
まるで時代に取り残されたかのような旅館風の外観は、他の生徒たちが暮らすホテルのような寮とは対照的で、どこか懐かしく、そして温かい。
ソーマにとって、ここは思い出の詰まった場所だった。
中等部の頃から暮らし、仲間たちと共に料理を磨き、数々の勝負を重ねた日々。
その記憶が、足を踏み入れるたびに鮮やかに蘇る。
玄関が見えてくると、ソーマの口元が自然と吊り上がった。
不敵な笑み――それは、懐かしさと闘志が入り混じった、彼だけの表情だった。
そんなソーマの横顔を見て、恵もまた静かに微笑む。
彼が変わらずにいてくれることが、何よりも嬉しかった。
「……やっぱここだけ古臭いよな」
「って、そこ!? 久しぶりに帰って来て言う台詞がそれ!?」
「久しぶりに帰って来て余計に目についちまってよ」
ソーマの軽口に、恵は思わずツッコミを入れる。
そのやり取りは、まるで昔に戻ったかのような心地よさがあった。
ソーマには、緊張という言葉が似合わない。
いや、実際には緊張していることもあるのだろうが、それを表に出すことは決してない。
いつだって堂々と、いつも通りの自分を貫く――そんな料理人だからこそ、恵は憧れたのだ。
だから、今こうして隣を歩いていることが、たまらなく嬉しかった。
極星寮の扉を開けると、そこには仁王立ちする一人の老齢の女性がいた。
その姿を見た瞬間、ソーマの瞳が鋭く光る。懐かしさと、勝負の予感が入り混じった視線。
「お久しぶりっす、ふみ緒さん!」
「全く、急にいなくなったと思ったら……今も昔も、アンタはとんだお騒がせ者だよ、幸平!」
快活に声を張る女性――極星寮の寮母、大御堂ふみ緒。
その存在感は、寮の柱よりも太く、寮の空気よりも濃い。
「もう分かってんだろうね? 極星名物――『入寮腕試し』」
ふみ緒の言葉に、ソーマは即座に反応する。
その目には、挑戦者としての光が宿っていた。
一つ、極星寮への入寮希望者は、一食分の料理を作り、その味を認められた者が入寮を許される。
一つ、審査は寮長に委ねられる。
一つ、食材の持ち込みは自由とする。
――これが、極星寮の入寮腕試しの絶対の規則。
「言っとくが、私は一切遠慮なんてしない。元極星寮生だろうと――落とす時は落とすからね!」
「上等! こちらこそ、本気で挑ませてもらいます!」
ソーマは手首に巻いていた白いハチマキを解き、勢いよく額に巻き付ける。
その動作は、まるで戦場に赴く武士のような気迫を帯びていた。
指先にまで静かな闘志が行き渡り、彼の全身が料理人としての覚悟に満ちていく。
「そんじゃ、行ってくるわ。田所」
「うん――創真君、おかえりなさい、って言わせてね」
「おう! バッチリふみ緒さんの舌唸らせて、入寮してくるわ」
力強く笑ってキッチンへと向かっていくソーマの背中。
その背中には、過去の経験と未来への期待が詰まっていた。
恵はその背中を、ずっとずっと見送った。
見えなくなるまで、目を離さずに。
その姿が、彼女の胸の奥に深く刻まれていく。
極星寮の空気が、少しだけ熱を帯びたような気がした。