遠月学園中等部3年生――幸平創真。   作:花のお皿

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遠月に関する世間話

 

 料理勝負の前の、下準備。

 

 包丁の音が静かに響く極星寮のキッチンで、ソーマと一色は黙々と食材に向き合っていた。

 その空気は張り詰めているようでいて、どこか穏やかでもあった。

 

 だがその均衡は、一色の一言で静かに崩れ始める。

 

「創真君。君は、今の遠月学園の現状を詳しく知っているかい?」

 

 まるで何気ない会話のように始まった問い。

 だがその声には、どこか探るような重みがあった。

 

「いや、薙切に聞いてみたんすけど、まぁ特に何も起きなかったとしか」

「そうか。えりな君は、君に勝利した後授業を休みがちだったからね。まだ把握してないんだろう」

 

 一色の言葉は淡々としていたが、そこには冷静な観察と、少しの憂いが混じっていた。

 

 彼の手元では、食材の手入れが流れるように進んでいく。

 繊細で流麗な手捌きに、ソーマは思わず見惚れながらも、耳はしっかりと話に向けていた。

 

「君の派閥の生徒が、約30人ほど退学になっている」

「――は?」

 

 その言葉は、まるで冷水を浴びせられたようだった。

 

 ソーマの目が見開かれ、手が止まる。

 だが一色は構わず、静かに続ける。

 

「原因は、君の退学に乗じて流れに乗ったまま、勢力争いを制しようとした薙切えりな派閥の独断行動。丁度、えりな君が引きこもり気味になった時期と同じくらいの時だよ」

「待てよ。俺が負けたんだから、派閥争いは薙切の勝ちで決まった事だろ! どうしてそんな事になるんだよ!?」

「派閥争いとは、そういうものだよ」

 

 その言葉に、ソーマは背筋が凍る思いだった。

 

 一色の声には感情が籠っていない。

 それが逆に、事態の深刻さを際立たせていた。

 

 自派閥の生徒が退学になったという事実だけでも、顔面蒼白ものだ。

 だが今の一色には、見たこともないような氷のような冷たさがあった。

 

「例えトップが居なくなったとしても、そのトップの意志を引き継いだ誰かが立ち上がり、戦い続ける。それは美しい想いの連鎖だが、その結果に夥しい犠牲を強いる結果となる」

 

 皮を剥き終えた野菜が、キッチンに静かに積み上げられていく。

 その皮は、何の躊躇もなくゴミ箱へと捨てられた。

 

 そのゴミ箱の中へ、目を向ける料理人は居ない。

 まるで、犠牲を見ないふりをするかのように。

 

「君の派閥は薙切アリス君によって、今も引き継がれている。だが、決して彼女がえりな君へ攻撃を仕掛けた訳じゃない。この争いはあくまで、派閥の生徒同士の諍いだ」

「派閥幹部が率いた訳でも無く、ただの生徒同士の諍い? そんな食戟で退学者が出るわけ――」

「食戟を仕掛けたのはえりな君の派閥だ。そして、食戟には合意が必要」

「……そうだ。だから、もし互いの退学を賭けた食戟を申し込まれたって、そんなのは受けなけりゃ問題じゃない」

 

 ソーマの言葉は正論だった。

 

 だが、何度も自らの退学を賭けてきた彼が言っても、説得力は薄い。

 

 それでも、彼の言葉には真っ直ぐな信念があった。

 だが、その信念は、現実の前ではあまりにも脆い。

 

「薙切えりな派閥の生徒達は、誰も自身の退学なんて賭けちゃいないよ。もし負けたとしても、精々が所属している研究会を追放されるくらいだろうね」

「なんでそんな不利な条件――ッ!」

 

 怒りが込み上げ、ソーマは噛みつこうとする。

 だが一色は、静かに手を上げて制した。

 

 その口元に添えられた人差し指が、怒号を喉の奥に押し戻す。

 

 時間帯は深夜。

 熟睡している極星寮生たちを起こすのは、忍びない。

 

「……創真君の派閥の生徒達が出した条件は、たった一つだったよ」

 

 その声は、呟くように弱かった。

 だが、そこに込められた想いは、誰よりも強かった。

 

 

「『幸平創真の退学の取り消し』――それだけが、君を慕う生徒たちの願いだった」

 

 

 その言葉に、ソーマは言葉を失った。

 

 幸平創真は、自らの退学など恐れない。

 どんなリスクを背負おうとも、料理への矜持にかけて、挑み続ける男だ。

 

 だがもし、自分の肩に誰かの退学がかかっているのだとしたら――

 

 その時、ソーマの腕が綻びない保証はない。

 

「――君に、そんな覚悟は背負わせない」

「……一色先輩」

 

 一色の表情は冷たかった。

 真顔で、氷のような表情。

 

 だが、その眼だけが爛々と輝いていた。

 

「創真君、これは料理勝負じゃない――食戟だ」

 

 いよいよ、両者ともに料理前の下準備を終えていた。

 

 包丁の刃先が静かに光を反射し、空気が張り詰めていく。

 

 一色は静かな声で、闘志に震える言葉を口にした。

 

「賭けるものは、幸平創真派閥のトップの座だ。僕が君の代わりに、彼等を率いて戦っていく」

「……もしも、俺が勝ったら?」

「――遠月十傑第七席の座を、君に譲ろう」

 

 その言葉は、重く、そして誇り高かった。

 

 一色慧は、表舞台に立とうとする人物ではない。

 自らの功績よりも、他人を立て、誰かの成功を喜ぶような人間だ。

 

 そんな彼が、政争の最前線に立とうとしている。

 

 全ては、生徒たちの健全な学校生活を守るために。

 そして――幸平創真という料理人の腕が、曇らないようにするために。

 

「創真君。僕は、君には自由で居てほしいんだ。自らの料理とひたむきに向き合い、突き進んでいく。それこそが、君の魅力であり、引いては君という料理人を形作る生き様だと思っている。そんな君に、こんな政争は似合わない」

「――――」

 

 それは、一色の心からの誠実な思いだった。

 

 幸平創真に権力争いなど似合わない。

 どんな相手にも、不敵な笑みで立ち向かっていく――それが彼の生き様であり、料理人としての本質だ。

 

 そんな彼が極星寮生として輝きを放っている事を、一色は誇りを持っている。

 

 だからこそ、彼には小賢しい立ち回りなど覚えなくて欲しくない。

 妙な腹の読み合いなどしなくていい。

 

 その全てを自分が背負えるのなら、一色はそれでいいと、何の迷いもなく決心していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、

 

「見くびってもらっちゃ困りますよ、一色先輩」

 

 その言葉は、静かに、しかし確かに空気を震わせた。

 

 ソーマの瞳は、まっすぐに一色を射抜いていた。

 

 その目に宿るのは、怒りでも焦りでもない。

 ただ、揺るぎない決意――諦めないという、料理人としての本能だった。

 

 幸平創真は、諦めない。

 

「店の従業員を守るのは、店長の仕事でしょ。なら、俺についてきた奴は全員、この俺が守り切る」

 

 その言葉に、一色の眉がわずかに動いた。

 

 ソーマの言葉は、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも無謀だった。

 だが、それが彼の魅力であり、彼の強さでもある。

 

 それを、一色は誰よりも知っている。

 

「……創真君、君が思っているほど状況は芳しくない。場合によっては、君はこの学園で二度と自分の為に料理が出来なくなるかもしれないんだよ?」

 

 一色の声は静かだった。

 だが、その言葉の重さは、ソーマの胸に深く突き刺さる。

 

 料理人にとって、自分のために料理ができないというのは、呼吸を奪われるに等しい。

 

 それでも――ソーマは怯まなかった。

 

 権力に興味など無い。

 肩書きも、席次も、名声も。

 

 ただ、自分の料理を貫き、研ぎ澄ませることができるなら、それでいい。

 それが、ソーマの生き方だった。

 

 だが、それでは駄目だという奴等が居る。

 

 幸平創真には、もっと上へ行ってほしいと、もっと先を歩いてほしいと、そう叫ぶ者達が居る。

 それこそ、自らの退学(クビ)を賭けてまで。

 

 ならば――

 

「俺の料理は、誰かに『美味い』と言わせる為にある。どんな場所でも、その本質は変わらねぇ。だから、どんな場所でだって、俺は俺の料理を貫いて見せる」

 

 その言葉は、ソーマの根幹だった。

 

 料理人としての信念。

 誰かに「美味い」と言わせるために、皿を作る。

 

 そのためなら、どんな場所でも、どんな状況でも、彼は立ち向かう。

 

 負ける事など、最初っから大嫌いだ。

 自分の料理を否定されたままでは居られない。

 

 だからソーマは、恥知らずにも遠月学園へとんぼ返りしてきた。

 

 勝って、勝って、勝ち抜けて――薙切えりなに『ゆきひら』の料理を美味いと言わせるまで、ソーマは止まる気など無い。

 

 そして、『ゆきひら』の料理を美味いと言ってくれた人達が去っていく様子を、指を咥えて見ているつもりも無い。

 

 彼らの想いを、彼らの信頼を、絶対に無駄にはしない。

 

「十傑第七席、遠慮なく取りに行かせてもらいます!」

 

 その宣言は、挑戦状であり、誓いでもあった。

 

 ソーマの声には、迷いがなかった。

 その背中には、仲間たちの想いが乗っていた。

 

「――知っていたとも」

 

 少しだけ淋しそうに眉端を下げて、一色は言った。

 

「創真君。君を納得させるには、料理しかないだろう、ってね」

 

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