遠月学園中等部3年生――幸平創真。   作:花のお皿

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一色慧の『二品目』

 

 極星寮の深夜。

 

 静寂に包まれた厨房に、包丁の音が響く。

 

 トントン……トン……と。

 そのリズムは、まるで音楽のように整っていた。

 

 一色慧の手元は、まるで舞を踊るように滑らかで、無駄がない。

 

 彼の料理は、いつも静かに始まり、静かに終わる。

 

 だが、その皿には確かな熱が宿る。

 

 今回の食戟のメイン食材は「鮭」。

 脂の乗った春鮭が、まな板の上に鎮座していた。

 その身は厚く、色鮮やかで、見る者の食欲を刺激する。

 

 一色は、まず鮭の皮に包丁を入れた。

 

 皮目に細かく切れ込みを入れることで、焼いたときの反り返りを防ぎ、香ばしさを最大限に引き出す。

 その動作は、まるで彫刻を施す職人のように丁寧だった。

 

「鮭は、脂が強い。だからこそ、香りの立つ山椒と合わせることで、輪郭を引き締める」

 

 独り言のように呟きながら、一色は山椒の実をすり鉢に移す。

 

 粒山椒ではなく、若摘みの青山椒。

 

 その爽やかな香りが、空気を一変させる。

 

 すり鉢で山椒を潰しながら、そこに白味噌とみりん、少量の酒を加える。

 甘みと塩味、そして山椒の痺れが混ざり合い、複雑な香りが立ち上る。

 

「この味噌山椒ダレを、鮭に塗って焼く。だが、それだけでは足りない」

 

 一色は、鮭の切り身を網に乗せ、炭火を起こす。

 

 炭は備長炭。火力が安定し、香りも良い。

 火加減を見極めながら、鮭に味噌山椒ダレを塗り、じっくりと焼き上げていく。

 

 ジュウ……と、脂が炭に落ち、香ばしい煙が立ち上る。

 

 その煙が、鮭の身に纏わりつき、香りを一層引き立てる。

 

 焼きの工程に入ると、一色は次の工程へと移る。

 

――ピューレの準備だ。

 

 根菜を刻みながら、一色の手元は止まらない。

 

 蓮根のシャキッとした感触、牛蒡の土の香り、人参の甘み――それぞれの個性を見極めながら、包丁が滑るように動いていく。

 だが、その手元とは裏腹に、一色の視線はふとソーマへと向けられた。

 

「……それって」

「鰆の山椒焼きピューレ添え」

 

 何かを言おうとしたソーマを遮り、一色が答えた。

 その声には、どこか懐かしさが滲んでいた。

 

「覚えているかい? 初めて極星寮に君が訪れたあの日の夜を」

「……もちろん。俺と一色先輩で、今日みたいな料理勝負をした事でしょ」

 

 ソーマは一瞬、手を止めて目を閉じた。

 あの日の空気、あの日の匂い、あの日の緊張感――すべてが鮮明に蘇る。

 

 そして、目を開ける。

 

「あん時は手加減されて、正直もったいねぇ事した、って凹んだもんっすよ」

「……創真君の事だからね。僕の本気が見れなくて、もったいない、って事なのかな」

「うっす! 一色先輩の本気の料理、あん時に食ってたらビビってたっすよ俺」

 

 一色は呆れたように笑う。

 

 その笑みには、後輩の成長を見守る優しさと、今こうして再び向き合える喜びが混じっていた。

 ソーマもまた、今戦えることに嬉しそうに笑っていた。

 

「――今は、どうなんだい」

「え?」

「今、僕の料理を食べたら、君はどうなるのかな?」

 

 悪戯な笑みを浮かべ、一色は問うた。

 

 その問いは、挑発ではなく、純粋な興味だった。

 ソーマがどう感じるか――それを知りたいという、料理人としての欲求。

 

 ソーマは腕を組み、じっくりと悩んだ。

 

 そして、口を開く。

 

「そりゃあ、やっぱスゲェ! って思うんじゃないですかね」

「……ふふっ、そうかい。やっぱり、君は何も変わらないね」

 

 眩しそうにソーマを見つめて、一色は目を閉じた。

 

 その瞼の裏には、いつかの日のソーマの姿が浮かんでいた。

 

「君は、本当に変わらない。あの時、極星寮に来たばかりの時と、同じだ」

 

 中等部1年生――正真正銘、新入生だった頃のソーマ。

 無鉄砲で、無邪気で、でも料理に対してだけは誰よりも真剣だった少年。

 

 その姿が、今も変わらず目の前にいる。

 

「……あー、やっぱ幼馴染だからっすかね」

「――? 何がだい?」

「いや、前に紀ノ国先輩も似たような事言ってたっすから」

 

 一色は、ふと紀ノ国寧々の顔を思い出す。

 厳格で、真面目で、でもどこか不器用な幼馴染。

 

 彼女がソーマに向けていた視線を思い出し、笑みを浮かべる。

 

「そうか。やっぱり、紀ノ国君も創真君を目にかけてたんだね」

「いや一色先輩に向けてっス」

 

 ソーマの呆れたようなツッコミに、一色は思わず目を逸らした。

 その仕草に、ソーマは少しだけ得意げに笑う。

 

 そして、ソーマは研いだばかりの包丁を手に取る。

 中等部から、いや料理人になった頃から使い込んだ相棒とも言える包丁。

 

 その刃先に、今の自分のすべてを乗せる。

 

「俺は、前とは違うっすよ」

「ああ、知っているとも」

 

 一色は不敵に笑う。

 

 その笑みに、ソーマも答えるように笑った。

 

「君が、3か月前と同じはずがない」

「3年前とは、料理食材も違うっすからね」

 

 同時に口を開いた二人。

 微妙な空気が両者の間に漂う。

 

 だが、それもまた心地よい緊張感だった。

 

 先に口を開いたのは、一色だった。

 

「――食材が、違う?」

「はい。前は鰆でしたけど、今回は鮭じゃないっすか」

 

 前回は鰆。だが今回は、鮭。

 確かに、食材が違う。

 

 それだけで、料理の構成も、味の設計も、すべてが変わる。

 

「もちろん、3か月前とも違うっスけどね」

「……もう一度言おうか。知っているとも」

 

 その言葉には、深い信頼と期待が込められていた。

 

 一色は、ソーマが変わったことを知っている。

 だからこそ、今この勝負に意味がある。

 

 そして、再び一色は手元に集中する。

 ピューレの準備は佳境へ。

 

 ピューレにはさらなる工夫を加える。

 

 まずは、根菜。

 蓮根、牛蒡、人参。

 

 それらを細かく刻み、オリーブオイルでじっくりと炒める。

 

 焦がさないように、弱火でじっくりと。

 甘みが引き出されるまで、時間をかける。

 

 そこに、昆布出汁を加え、煮込む。

 

 煮込んだ根菜をミキサーにかけ、滑らかなピューレに仕上げる。

 

 だが、それだけではない。

 

「ここに、隠し味として柚子胡椒を加える。山椒の痺れと、柚子の爽やかさが、鮭の脂を切るんだ」

「へぇー」

 

 ピューレに柚子胡椒を加え、さらに少量の豆乳で伸ばす。

 

 滑らかさとコクが加わり、味に深みが生まれる。

 

 一色は、焼き上がった鮭を取り出す。

 

 皮はパリッと、身はふっくらと。

 味噌山椒ダレが焼けて、香ばしい焦げ目が食欲をそそる。

 

 皿にピューレを敷き、鮭を乗せる。

 

 その上に、細切りにした紫蘇と茗荷をあしらい、香りの層を重ねる。

 

 最後に、山椒の葉を一枚。

 それを鮭の上にそっと置くことで、視覚的にも香り的にも、料理の完成度を高める。

 

 一色は、皿を見つめる。

 

 その目は、静かに燃えていた。

 

「創真君、鮭の山椒焼きと五味の交響――完成だ」

 

 その声は、静かでありながら、確かな自信に満ちていた。

 

 料理人としての誇り。

 料理に込めた想い。

 そして、ソーマへの敬意。

 

 すべてが、この一皿に込められていた。

 

 

 ◇

 

 

 皿の上に置かれた鮭は、まるで舞台の主役のように堂々としていた。

 

 皮目は炭火でパリッと焼かれ、味噌山椒ダレが焦げ目を作りながらも艶やかに輝いている。

 その下には、滑らかな根菜ピューレが敷かれ、まるで絹のような質感で鮭を支えていた。

 

 ソーマは、まず香りを嗅いだ。

 

 山椒の爽やかな痺れが鼻腔をくすぐり、味噌の甘みと炭火の香ばしさが重なる。

 その瞬間、彼の眉がピクリと動いた。

 

「香りから、深みが違う。山椒だけでここまで……」

 

 箸を手に取り、鮭の身にそっと触れる。

 

 皮は軽く抵抗を見せるが、箸先が入ると、ふっくらとした身がほろりと崩れる。

 その断面は、まるで湯気を纏った絹のように柔らかく、脂がじんわりと滲んでいた。

 

 一口、口に運ぶ。

 

――瞬間、山椒が弾けた。

 

 痺れではなく、香りの爆発。

 

 青山椒の若々しい香りが、鮭の脂を切り裂くように広がり、味噌の甘みがその後を追う。

 炭火の香ばしさが鼻へと抜け、口の中が一気に『和』の世界へと引き込まれる。

 

「……っ、うめぇ……」

 

 思わず漏れた声は、料理人としての本能だった。

 

 理屈ではない。

 この一口に、技術と感性が詰まっている。

 

 次に、根菜ピューレ。

 

 レンゲで掬い、鮭と共に口へ運ぶ。

 

 蓮根のほのかな苦み、牛蒡の土の香り、人参の甘み。

 それらが一体となり、柚子胡椒の爽やかな刺激が後味に残る。

 豆乳のコクが全体を包み込み、まるで味覚の交響曲のように、五味が順番に現れては消えていく。

 

「……ピューレ、前にも増して味の深みが半端じゃねぇ。これが、一色先輩の本気――」

 

 ソーマは、紫蘇と茗荷を添えてもう一口。

 

 香りの層がさらに増し、山椒の葉が最後にふわりと香る。

 一皿の中に、香り・食感・味の変化が幾重にも仕掛けられている。

 

 だが、それは決して複雑すぎず、食べる者の舌に自然と馴染む。

 

「……これ、食ってる間ずっと味が変わってくる。なのに、全部『鮭』だ。鮭の旨味が最大限に発揮されてる」

 

 一色の料理は、鮭という食材の輪郭を一度解体し、再構築している。

 

 その結果、鮭の香り・脂・身・皮――すべてが別々の角度から攻めてくるのに、最終的には一つの物語として口の中で完結する。

 ソーマは、最後の一口をゆっくりと噛み締めた。

 

 その目は、料理人としての敬意に満ちていた。

 

「……一色先輩。やっぱりアンタ、スッゲェ人だ」

「ああ、ありがとう。創真君」

 

 その言葉は、最大級の賛辞だった。

 料理人としての誇りを持って、真正面から受け止めた一皿。

 

「では次は、君のスッゲェ皿を見せてもらおうか」

 

 そして、次に自分が出す料理への闘志が、静かに燃え始めていた。

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