俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します 作:パラレル・ゲーマー
東京の空気は張り詰めていた。
それは乾燥した秋晴れの空気がもたらす物理的なものではない。もっと根源的な、因果律そのものが軋みを上げるかのような不吉な予兆。
佐藤健司は、その見えない緊張感を肌で感じながら、ヤタガラス東京支部のオフィスへと続く長い廊下を歩いていた。
あの日、京都で「鬼の手」が奪われてから一週間。
健司の日常は一変した。
もはや「強制休暇」などという生ぬるい言葉は存在しない。
彼は自主的にヤタガラスの本部に毎日出勤し、来るべき「宴」に備えていた。
午前中はSAT-Gとの合同訓練で自らの牙を研ぎ澄ませ、午後は緊急対策室で五十嵐と共に膨大な量の監視データを分析し、敵の痕跡を探る。
その合間を縫って新人たちの指導も続ける。
休む暇などなかった。
だが、彼の心は不思議なほど静かだった。
目的がある。
守るべきものがある。
そして倒すべき敵がいる。
その事実が、彼の魂をかつてないほど燃え上がらせていた。
対策室の巨大なモニターには、首都圏の監視カメラ網から送られてくる何万というリアルタイムの映像が、モザイクのように映し出されている。
ヤタガラスの全情報網と健司の【予測予知】を組み合わせても、鬼の腕を持つ能面の男・桐生の足取りは依然として掴めていなかった。
まるで最初からこの世に存在しなかったかのように。
「……静かすぎる」
隣の席で五十嵐が、小さな声で呟いた。
彼女の眠たそうな瞳の下には、連日の徹夜作業による深い隈が刻まれている。
「奴らは一体どこで何を企んでいる……?」
その問いに答えられる者はいなかった。
ただ、嵐の前の不気味な静けさだけが、対策室の空気を重く支配していた。
そしてその静寂は、一本の内線電話によって唐突に破られた。
けたたましく鳴り響くアラート音。
対策室にいた全員の動きがぴたりと止まる。
モニターの一つに、警視庁からの緊急回線が開かれたことを示す赤いランプが灯った。
オペレーターの女性が、緊張した声で応答する。
「――こちらヤタガラス。どうした!?」
スピーカーから流れ出てきたのは、ノイズ混じりの、パニックに陥った警察官の絶叫だった。
『――応援を! 応援を要請する! 新宿区歌舞伎町一番街! ……化け物だ! 拳銃が効かない……! ぐわぁっ!』
通信が途絶えた。
後に残されたのは不吉なノイズと、対策室の息を呑むような沈黙だけだった。
「――すぐに映像を回せ!」
橘の鋼のような声が響く。
モニターが切り替わり、歌舞伎町の雑踏を映し出す監視カメラの映像が表示された。
白昼の繁華街。
人々が何かから逃げるように悲鳴を上げ、パニックに陥っている。
その混乱の中心。
そこに、一人の異様な男が立っていた。
男は、古びた、しかし上質な和装に身を包んでいた。
髪は時代錯誤な髷を結っている。
その貌はまだ若い。
だが、その瞳には現代人にはない、どこか虚ろで、そして全てを見下すかのような傲岸不遜な光が宿っていた。
彼の周囲には、数人の警察官が倒れていた。
そして彼は、駆けつけた新たな警官隊に向かって、まるで蝿でも払うかのようにゆっくりと手を振るった。
その瞬間、男の手から不可視の衝撃波が放たれ、パトカーの分厚いドアが紙細工のように吹き飛んだ。
「間違いなく能力者です!」
五十嵐が叫んだ。
「魔力パターンデータベースに該当なし! 未知の能力者です!」
健司は、その光景に戦慄していた。
あの男の動き。
無駄がなく洗練され、そして一切の躊躇がない。
ただ、目の前の敵を「排除」するためだけの純粋な暴力。
そして彼は呟いた。
その呟きを、集音マイクが拾っていた。
『……弱い。……弱すぎる。……この時代の「強者」とやらはこの程度か。……もっと歯応えのある者はおらんのか』
その古風な言葉遣い。
そして、現代兵器である拳銃を受けても無傷であるという、異常なまでの頑強さ。
男は興味を失ったかのように倒れた警官たちに背を向けると、まるで人混みが存在しないかのように雑踏の中を悠然と歩き出した。
そして一つの路地裏へと入ると、その姿は監視カメラの映像から、ふっと掻き消えるように消えてしまった。
ヤタガラス司令部は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
橘の執務室。
そこに健司、五十嵐、そしてオンラインでマジェスティックのケイジも参加し、緊急のブリーフィングが開かれていた。
「―――間違いなく能力者です! おそらく言動が『この時代の強者を連れてこい』と言っていたり、警察の拳銃を受けても無傷で、適当に倒したあと行方を眩ませるという行動パターンから……死体に呪物を入れて蘇生された過去の術師一名が野に解き放たれたと想定するのが妥当でしょう」
五十嵐の冷静な分析が、部屋の緊張感をさらに高める。
「ふー……。厄介なことをしてくれる……」
橘は深々と溜息をついた。
その顔には疲労と、そして深い憤りの色が浮かんでいた。
「過去の術師の受肉……か。過去にも例はあるが……白昼の街中で、これほど堂々と暴れる馬鹿だとはな。……これは我々に対する明確な挑戦状だ」
能面の男・桐生は、自らの手は汚さない。
代わりに、彼らが京都で奪った呪物の一つを使い、過去の亡霊をこの世に蘇らせ、東京という舞台に解き放ったのだ。
それは、ヤタガラスの力量を測るための最初の「駒」。
「即刻捕まえなければ、被害が拡大する」
橘は決断を下した。
彼はまっすぐに健司の目を見据えた。
「K君をこの事件の主任捜査官として任命する。……必ずあの亡霊を捕らえろ。そしてその背後にいる能面の男の情報を引き出すんだ」
「――了解しました!」
健司の力強い返事が、部屋に響いた。
彼の魂は再び燃え上がっていた。
待つだけの時間は終わった。
狩りの時間だ。
その日の午後。
健司はケイジと共に、事件現場である歌舞伎町の路地裏に立っていた。
周囲は警察によって完全に封鎖され、ヤタガラスの鑑識班が特殊なセンサーを使って、現場に残された微弱な魔力の痕跡を採取している。
健司は、その喧騒から少し離れた場所で、静かに目を閉じた。
(……視る)
【過去視】起動。
彼の脳内に、数時間前の光景が鮮明に蘇る。
あの和装の男がこの路地裏へと足を踏み入れ……そして壁に溶け込むように、その姿を消した瞬間。
(壁抜け……いや違う。空間そのものをすり抜けている。……位相転換系の能力か)
健司は、敵の能力の一端を看破した。
彼は次に、男が最後に立っていた地面にそっと手を触れた。
残留思念を読む。
―――ザアアアアアッ!
流れ込んできたのは、混沌だった。
怒り、悲しみ、喜び、そして何よりも強い闘争への渇望。
数百年の永い眠り。
その間に積み重なった無数の魂の記憶。
この男の生前の人格は、もはや摩耗し、残っているのはただ純粋な「力」への執着だけ。
(……これじゃ尋問しても情報は引き出せねえな。……捕縛して動きを止めた上で、五十嵐さんたちに脳内を直接スキャンしてもらうしかないか)
健司は、作戦の方針を固めた。
「K」
ケイジが低い声で彼に語りかけた。
彼は地面に残された、ごく微かな足跡を指し示した。
「こいつの歩幅、常に一定だ。どんな状況でも全く乱れていない。……常人じゃない。武術の達人だ。それも相当な手練れの」
刑事の眼と、預言者の眼。
二つの異なる視点からの情報が、一つの敵の姿を立体的に浮かび上がらせていく。
その男は、未知の位相転換能力と超人的な武術を併せ持つ。
そして、その精神はもはや人間ではない。
「どうするK? 足取りは完全に消えている。……ここから先は闇雲に探すしかないのか?」
「いえ」
健司は首を振った。
彼の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「奴は必ずまた現れます」
「なぜそう言える?」
「奴が求めているものは一つだけですから」
健司は言った。
「『強者』との戦いを」
健司の【予測予知】が火花を散らす。
彼の脳内で、無数の未来がシミュレートされていく。
あの男の渇望。
その魂のベクトルが向かう先。
それは一つしかあり得なかった。
「ケイジさん。……今夜、奴はここに来ます」
健司がスマートフォンに表示させた地図。
彼が指差した場所。
そこは、この国の武道の聖地。
―――日本武道館。
その夜、日本武道館では数万人の観客が見守る中、年に一度の剣道の全国大会、その決勝戦が行われようとしていた。
現代における最強の剣士たちが、その頂点を決める場所。
あの亡霊が、その匂いに引き寄せられないはずがなかった。
健司とケイジは、観客席の一番後ろの闇に息を潜めていた。
周囲には、ヤタガラスとSAT-Gの精鋭たちが、一般客を装って配置についている。
あとはただ、その時を待つだけだ。
決勝戦が始まった。
二人の剣士の竹刀が激しく火花を散らす。
体育館全体が、割れんばかりの歓声に包まれる。
その熱狂の頂点。
健司の【霊眼】が、それを捉えた。
二階席の一番奥の暗闇。
そこに、音もなくあの和装の男が姿を現していた。
壁から滲み出るように。
彼は腕を組み、眼下で繰り広げられる現代の剣の極致を……どこかつまらなそうに見下ろしている。
(―――見つけた)
健司はインカムに短く告げた。
「……ターゲット捕捉。……これより捕獲作戦に移行する」
その言葉を合図に、日本武道館は静かなる戦場へとその姿を変えた。
出口は全て封鎖された。
観客たちに気づかれぬよう、何重にも結界が張られていく。
健司も席を立った。
彼の腰には、あの古刀が静かにその時を待っている。
彼のヤタガラスとしての最初の本格的な「狩り」。
その火蓋が今、切って落とされようとしていた。
古の亡霊と現代の猿。
その出会いがどんな運命を紡ぎ出すのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいない。