俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します   作:パラレル・ゲーマー

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第106話 猿と剣鬼と月下の舞

 日本武道館の熱狂が、嘘のように静まり返っていた。

 決勝戦が終わり、数万人の観客がその余韻と共に家路についた後、この武道の聖地はヤタガラスによって完全に封鎖され、静かなる戦場へとその姿を変えていた。

 八角形の巨大な屋根の下、試合場の中心だけが煌々とライトに照らし出され、それ以外の観客席は深い闇に沈んでいる。

 

 その闇の中、二階席の一番奥。佐藤健司は、静かにその男と対峙していた。

 

 古びた和装に身を包んだ、髷を結った青年。

 その虚ろな瞳は、もはや生者のそれではない。

 数百年の時を超えて、この世に蘇った過去の亡霊。

 

 健司の背後にはニコラス・ケイジが拳銃を構え、周囲の闇にはSAT-Gの精鋭たちが息を殺して潜んでいる。完全な包囲網。だが、男に焦る様子は一切なかった。

 

「……面白い趣向だな」

 

 男は、眼下に広がる誰もいない試合場を見下ろし、心底楽しそうに呟いた。

 

「俺一人のためにこれだけの舞台を用意してくれたか。……礼を言うぞ現代の術師ども」

 

 その古風な言葉遣い。彼の周りだけが、まるで時間の流れから切り離されているかのようだった。

 

「投降しろ」

 

 健司の声は低く、そして冷徹だった。

 

「お前が何者かは知らんが、これ以上この時代の平穏を乱すことは許さん」

 

「平穏だと?」

 

 男は、鼻で笑った。

 

「闘争を忘れ、骨抜きになった惰弱な時代のまやかしの安寧か。……そのようなものに何の価値がある」

 

 彼はゆっくりと健司に向き直った。その瞳が初めて健司の姿をまっすぐに捉えた。

 そして、その目にわずかながら好奇の色が浮かんだ。

 

「……ほう。貴様、少しは骨がありそうだな。……その眼、その佇まい。……少しは俺を楽しませてくれるか?」

 

「ふざけるな!」

 

 ケイジが叫び、銃口を男へと向ける。だが、健司はそれを手で制した。

 

「ケイジさん、下がってください。こいつは……俺がやる」

 

 これはただの捕獲作戦ではない。健司は直感していた。これは、己の力を試すための、神が与えた試練なのだと。

 

 健司は、背負っていた古刀をゆっくりと抜き放った。

 シュンという清らかな音と共に、月光のような刃文が薄暗い観客席の中で妖しい光を放つ。

 

 彼は斎藤会長と共に編み出した新たなる型『無刃』の構えを取る。

 だが、その手には確かに鋼の刃が握られている。矛盾。

 しかし、それこそが彼の戦闘スタイルの真髄。素手でありながら常に刀の間合いで戦う。そして、刀を握った時その刃は、自らの手足の延長となる。

 

 その健司の異様な構えを見て、男の目の輝きがさらに増した。

 

「……良い。……実に良い眼だ。……名乗れ、若造」

 

「……ヤタガラスKだ」

 

「Kか」

 

 男は満足げに頷いた。

 

「……我は宮本武蔵(みやもとむさし)」

 

 そのあまりに衝撃的な名前。

 健司は息を飲んだ。ケイジも、背後で息を呑む音が聞こえた。

 

 宮本武蔵。

 日本史上最強と謳われる伝説の剣豪。

 そんな馬鹿な。

 

「……信じられんという顔だな」

 

 武蔵と名乗った男は、楽しそうに笑った。

 

「まあ無理もない。……我自身も、こうして再び現世に立ち、若い貴様と刃を交えることになろうとは夢にも思わなんだ」

 

 彼は虚空から一振りの刀を抜き放った。

 それは呪物として共に蘇ったのであろう、彼の生前の愛刀。その刀身からは、禍々しいほどの闘気が陽炎のように立ち上っていた。

 

「……能面の男が言っていた。……この時代には俺を楽しませてくれる『鬼』がいると。……それが貴様か?」

 

「さあな」

 

 健司は短く答えた。

 

「確かめてみるがいい」

 

 次の瞬間、二つの影が激突した。

 

 武蔵の動きは直線的で、そしてどこまでも鋭かった。一歩で間合いを詰め、放たれるのは必殺の斬撃。剣の理の全てを極め尽くした究極の一撃。

 

 だが、健司の【予測予知】は、その神速の斬撃の軌道を完璧に捉えていた。

 彼は最小限の動きでそれをいなし、カウンターの斬撃を叩き込む。

 

 ―――キィンッ! キンッ! カンッ!

 

 薄暗い観客席で凄まじい火花が散る。二つの刀が、常人には捉えきれない速度で幾度となく交錯する。

 

 現代の異能の剣技と、古の究極の剣技。

 その時空を超えた応酬は、あまりに美しく、そしてあまりに苛烈だった。

 

「……速い……! 全然見えねえ!」

 

 遠巻きに見ていたSAT-Gの隊員たちが呻く。

 健司と武蔵の周囲だけが、まるで時間の流れが違うかのような異次元の空間と化していた。

 

(……強い!)

 

 健司は戦慄していた。予知で動きを読んでいてもギリギリだ。

 武蔵の剣は、ただ速いだけではない。一撃一撃があまりに重く、そして洗練されている。僅かなかすり傷が致命傷になりかねない。

 

 一方、武蔵もまた驚愕していた。

 

(……こいつ……読んでいるのか? 我が剣の全てを……!)

 

 自らが放つ千変万化の斬撃。その全てが、まるで事前に知っていたかのように的確にいなされ、あるいは紙一重でかわされる。こんな経験は、生まれて初めてだった。

 

 数十合打ち合っただろうか。

 二人は同時に後方へと跳躍し、距離を取った。

 

 互いの肩が、わずかに上下している。

 健司の頬には、一筋の赤い線が走っていた。武蔵の神速の斬撃が掠めたのだ。

 一方、武蔵の和装の袖は、何か所か鋭利に切り裂かれていた。

 

「……面白い」

 

 武蔵は、心の底から楽しそうに笑った。

 

「貴様の剣は未来を視る剣か。……面白いが……それでは本当の『無』には至れんぞ」

 

「無……?」

 

「そうだ。……未来を読み、過去に囚われ、その頭でっかちな思考が貴様の剣を鈍らせている。……もっと空っぽになれ。……ただ斬る。……ただ生きる。その一瞬に全てを賭けろ」

 

 それは剣の道を極め尽くした者だけが語れる、至高の境地。

 斎藤会長が言っていた「ジャズ」にも通じる魂の在り方。

 

 健司ははっとした。

 

 そうだ。

 俺はまだ、予知に頼りすぎている。

 

 この男と本当の意味で対等に渡り合うには、それだけでは足りない。

 

 健司はゆっくりとその構えを解いた。

 そして彼は、古刀を鞘へと納めた。

 

「……何をする?」

 

 武蔵の目が鋭くなる。

 

「あんたの言う『無』ってやつを……試してみる」

 

 健司は笑った。

 その顔には、もはや緊張の色はなかった。

 ただ純粋な探求者の光があった。

 

 彼は全ての魔法のスイッチをオフにした。

 【予測予知】も【身体強化】も【霊眼】も。

 

 ただの佐藤健司に戻る。

 いや違う。

 あの夜能面の男を打ち破った、あの「空っぽ」の状態へ。

 

「―――いくぞ」

 

 健司は呟いた。

 そして彼は、床を蹴った。

 

 何の魔法の補助もない。

 ただMMAジムで鍛え上げた肉体のバネだけを使った、純粋な踏み込み。

 

 それは武蔵の神速に比べれば、あまりに遅かった。

 

「……愚か者め」

 

 武蔵の口から、失望の言葉が漏れた。

 彼は、その無防備に突進してくる健司の心臓めがけて、容赦のない突きを繰り出した。

 

 ―――終わりだ。

 

 誰もがそう思った、その瞬間。

 

 健司の身体が、消えた。

 

 いや違う。

 武蔵の突きが、健司の身体を、まるで陽炎を貫くかのように、すり抜けていった。

 

 幻影歩法。

 健司は自らの肉体の限界の動きと、そして相手の意識の死角を突くことで、神速の突きをかわしてみせたのだ。

 そして彼は、すでに武蔵の懐にいた。

 

「なっ……!?」

 

 武蔵の目の奥に、初めて純粋な驚愕の色が浮かんだ。

 

 健司の右の拳が放たれる。

 それはもはや、ただのストレートではない。

 

 斎藤会長と血と汗の果てに編み出した、彼だけの必殺の型。

 『無刃』の奥義。

 魂の重みを一点に収束させる、浸透勁。

 

「―――これが俺の『無』だ」

 

 ―――ゴッ。

 

 音は小さかった。

 だがその衝撃は、内側で爆発した。

 

 健司の拳は、武蔵の鍛え抜かれた腹筋に深々とめり込んでいた。

 武蔵の身体が、大きくくの字に折れ曲がる。

 

「……が……はっ……!」

 

 だが。

 武蔵は倒れなかった。

 

 彼はその凄まじい衝撃を、その常人ではない精神力だけで耐えきったのだ。

 そして彼は笑った。

 

 血を吐きながら。

 心の底から楽しそうに。

 

「……見事……!」

 

 その言葉と同時だった。

 

 武蔵の身体が、足元からゆっくりと光の粒子となって崩れ始めた。

 

「……時間切れか。……あの能面の術……長くは持たぬようだな」

 

 彼は、自らの消えゆく身体をどこか名残惜しそうに見下ろした。

 そして彼は最後に、健司を見据えた。

 

「……Kと言ったか。……良い剣だった。……だが……まだ青い。……その『無』の先にも……道はあるぞ……」

 

「……また会おうぞ。……次会う時は……地獄の釜の底か……あるいは……天上の高みか……」

 

 その言葉を最後に。

 宮本武蔵という伝説の剣鬼は、光の粒子となって完全に消え去った。

 

 後に残されたのは、彼が持っていた呪物の刀と、そして静寂だけだった。

 

 健司はその場にへたり込んだ。

 

 勝った。

 あの宮本武蔵に。

 

 そのあまりに大きな事実に、彼の心は震えていた。

 だが、それは勝利の喜びではなかった。

 

 自らの未熟さを、そしてこれから進むべき道の、果てしなさを、改めて思い知らされた、畏怖の念だった。

 

 彼の神へと至る道は、まだ始まったばかりなのだ。

 

 その確かな実感を胸に、健司はただ静かに、その重みを受け止めることしかできなかった。

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