俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します   作:パラレル・ゲーマー

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第107話 猿と狩人たちと嵐の前の日常

 日本武道館での死闘から数週間が過ぎた。

 伝説の剣豪宮本武蔵の亡霊を辛くも退けた佐藤健司の日常は、再び過酷な、しかしどこか満ち足りた修行の日々へと戻っていた。

 

 あの戦いは、彼に多くのものを残した。

 予知に頼らず、純粋な技術と魂の読み合いで「格上」に勝利したという、揺るぎない自信。

 そして武蔵が最後に遺した『無の先にも道はあるぞ』という、あまりに深く、そして果てしない問い。

 

 健司はその問いの答えを探すように、これまで以上にMMAジムでのトレーニングと、自室での精神統一に没頭していた。

 

「――そこだ!」

 

 斎藤会長の鋭い声が飛ぶ。

 健司は反射的に身体を沈め、鈴木が放った神速のハイキックを紙一重でかわす。

 そしてその流れるような動きのまま、カウンターの掌底を鈴木のがら空きになった胴体に叩き込んだ。

 

 寸止め。

 だがその掌底から放たれる見えない圧力だけで、鈴木は数歩後ずさり、苦悶の表情を浮かべた。

 

「……今の見えましたか会長?」

 

 鈴木が信じられないという顔で、リングサイドの斎藤に問いかける。

 

「Kさんの掌が……光ったような……」

 

「……気のせいだ」

 

 斎藤は短く答えた。

 だが、その腕組みをした腕には力が入っていた。

 彼の目には、はっきりと見えていた。

 

 健司の掌底が鈴木に触れる寸前、ごく微量の魔力が衝撃波となって放たれたのを。

 

(……あの若造……。もう打撃に魔法を乗せる領域にまで足を踏み入れてやがる……)

 

 斎藤は、自らの教え子が己の理解を遥かに超える速度で成長していく様を、畏怖と、そして何よりも誇らしい気持ちで見つめていた。

 

 その日の午後。

 健司は、ヤタガラス東京支部の一室にいた。

 そこは、彼が担当する「金の卵」たちのための専用の訓練室。

 彼は教官として、二十七人の若き能力者たちの成長を見守っていた。

 

「田中さん! 影の槍、穂先をもっと鋭く! 貫通力を意識して!」

 

「佐藤さん! 共感しすぎるな! 他人の感情は情報として客観的に処理しろ!」

 

「鈴木さん! 素晴らしい! その植物との対話能力……いずれ組織の情報網の重要な一部になる!」

 

 健司の的確な指示が飛ぶ。

 彼はもはや、ただ自分の力を磨くだけではない。

 それぞれの才能の個性を見抜き、その最も効率的な伸ばし方を指導する「師」としての眼を養っていた。

 

 教えることは学ぶこと。

 斎藤会長の言葉の本当の意味を、彼は今実感していた。

 

 そんな、比較的平穏な日常。

 だが健司は知っていた。

 この嵐の前の静けさが、永遠には続かないことを。

 

 能面の男・桐生は、未だ東京の闇に潜んでいる。

 鬼の手と、無数の呪物を手にして。

 

 その日の夜。

 健司が自室で古刀の手入れをしていた、その時だった。

 彼のヤタガラス支給の端末が、静かに震えた。

 

 画面に表示されたのは「非通知」の二文字。

 だがその番号は、彼の記憶に焼き付いていた。

 

「……もしもし」

 

 健司は静かに応答した。

 

『―――よう猿。……久しぶりだな』

 

 スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、漆黒の便利屋「ノックス」の、くぐもった、しかしどこか妖艶な響きを持つ声だった。

 

「……ノックスさん。……何の用ですか」

 

 健司の声に、緊張が走る。

 この女が連絡してくる時、それは必ず何かが起ころうとしている予兆だ。

 

『……ふふ。そう警戒するな。……ただの世間話だよ』

 

 ノックスは楽しそうに笑った。

 

『……最近君、随分と腕を上げたらしいじゃないか。……剣豪の幽霊まで祓ったんだって? ……ヤタガラスもマジェスティックも大騒ぎだぞ。……君の脅威レベルをどう再設定すべきかってね』

 

 その言葉は、彼女がいかに深く世界の裏側の情報網に精通しているかを物語っていた。

 

「……それで……その話が何か?」

 

『ああ』

 

 ノックスの声のトーンが変わった。

 

『君のその急激な成長は……ある男の計算を……少し狂わせ始めている』

 

「ある男……?」

 

『―――我らが共通の友人。……能面の桐生だよ』

 

 健司は息を飲んだ。

 

『彼は今準備をしている。……君やヤタガラス……そしてこの東京という街そのものを飲み込むための……最後の「宴」の準備をな』

 

「……奴は今どこにいるんです?」

 

『さあな』

 

 ノックスは、肩をすくめるような気配を声に滲ませた。

 

『私にも分からんよ。……彼は実に用心深い。……だが……そろそろ動く』

 

「その『宴』とやらが始まった時。……君はどうする? ……今度は助けてはくれんのか?」

 

 その健司の皮肉めいた問い。

 それにノックスは、しばらく沈黙した。

そして彼女は静かに、しかしはっきりと告げた。

 

『……悪いが……今度の戦い……私は敵に回るかもしれん』

 

「―――なにぃ!?」

 

 健司は絶叫していた。

 

『……私の依頼主。……『女王陛下』は……どうやら君よりも……桐生が起こそうとしている「混沌」の方に……興味を持たれたらしい』

 

『あの御方は……退屈が何よりも嫌いだからな。……君というおもちゃにも少し飽きてきたのやもしれん』

 

 そのあまりに理不尽で、あまりに絶望的な通告。

 健司は言葉を失っていた。

 

『まあ安心しろ』

 

 ノックスは付け加えた。

 

『私個人は……君の味方だ。……君がもし桐生に喰われそうになったら……まあ……契約違反にならない程度には……手を貸してやるさ』

 

『だから……せいぜい足掻いてみせろよ……K』

 

『―――そして……生き延びろ』

 

 その言葉を最後に、通話は一方的に切れた。

 

 健司は、沈黙したスマートフォンを握りしめたまま動けなかった。

 

 最悪の事態。

 味方だと思っていた最強のカードが、敵に寝返る。

 

 いや違う。

 あの女は最初から味方ではなかったのだ。

 ただ神の気まぐれな駒。

 その駒が、今盤上の反対側に置かれようとしている。

 

 その時だった。

 健司のヤタガラス端末が、再び鳴り響いた。

 

 画面に表示されたのは「橘 真」の三文字。

 健司は震える指で、その通話ボタンを押した。

 

『―――K君か。……ついに奴らの尻尾を掴んだぞ』

 

 橘の声は硬かった。

 

『我々の情報網と……マジェスティックのケイジ君の捜査が……一つの結論に達した』

 

『桐生のアジトが……判明した』

 

『そして……彼が盗み出した全ての呪物を使って……何をしようとしているのかも』

 

 橘は言った。

 その声は、世界の終わりを告げるかのような、響きを持っていた。

 

『奴の目的は……東京の霊脈をハッキングし……この都市そのものを……一つの巨大な呪いの祭壇へと変えることだ』

 

『そしてその祭壇の上で……鬼の手の力を完全解放し……彼の亡き師匠である……伝説の呪術師の魂を……この世に呼び戻す……禁断の口寄せの儀式を行おうとしている』

 

「―――っ!!!!」

 

 健司は戦慄した。

 

 奴の目的は、ただの破壊ではなかった。

 死者の蘇生。

 それも伝説の呪術師の。

 その、あまりに狂気に満ちた野望。

 

『儀式は……三日後。……満月の夜だ』

 

 橘は告げた。

 

『ヤタガラスは総力を挙げて……その儀式を阻止する。……K君。……君にも出動を要請する』

 

『これはもはやただの任務ではない。……この国の……いやこの世界の……運命を賭けた……最終決戦だ』

 

 健司は何も答えなかった。

 彼はただ、窓の外を見つめた。

 

 夜の闇のその向こう側。

 そこには、静かに、しかし確実に、最悪の嵐が近づいてきていた。

 

 彼の休息の時は終わった。

 狩人たちの最後の、そして最大の、饗宴が、今始まろうとしていた。

 

 彼の魂が奏でるジャズは、果たしてこの世界の運命を救うことができるのか。

 その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。

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