俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します   作:パラレル・ゲーマー

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第20話 猿と奇跡と親不孝

 霞が関の巨大なビル群を後にし、地下鉄の無機質な車両に揺られている間、佐藤健司の意識は、ずっと夢の中を彷徨っているかのようだった。

 窓の外を流れていく景色は、昨日までと同じ見慣れた東京の日常。だが、健司にはその全てが、薄い膜を一枚隔てた別世界の出来事のように感じられた。

 彼は、もはやこちらの世界の住人ではない。

 あの重厚な扉の向こう側で一枚の契約書にサインをした瞬間から、彼は世界の裏側へと足を踏み入れてしまったのだ。

 

 ヤタガラス。

 内閣情報調査室特殊事象対策課。

 年俸三千万の国家公務員。

 

(……公務員か)

 

 健司は吊革を握りしめながら、自嘲気味に心の中で呟いた。

 数ヶ月前まで、時給千二百円のコンビニバイトで人生そのものを諦めていた男が。

 奨学金の返済のあてもなく、親からの電話に怯えていた情けない男が。

 今や、この国の最高機密を扱う組織の一員。

 人生とは、皮肉なものだ。

 

 新しい城であるデザイナーズマンションに帰り着く。

 オートロックの分厚い扉が、外界の喧騒を完全に遮断した。

 静寂。

 だが、その静寂はもはや、健司の心を蝕む孤独の色を帯びてはいなかった。

 それは、これから始まる新たな戦いに備えるための、戦士の束の間の休息の色をしていた。

 

「……ふー。俺も今日から、公務員か……」

 

 革張りのソファに深く身体を沈め、彼は誰に言うでもなくそう呟いた。

 その声は、不思議なほど落ち着いていた。

 橘真という食えない男と対峙し、人生を賭けた交渉をやり遂げたという事実が、彼に確かな自信を与えていた。

 

『猿の分際で、えらく偉そうな口をきくじゃねえか』

 脳内に直接、忌々しい恩人の声が響く。

『貴様は、まだスタートラインに立っただけだ。勘違いするな』

 

「分かってるよ。お前に言われなくてもな」

 

 健司は悪態をついた。

 この魔導書との不毛なやり取りも、もはや彼の日常の一部と化していた。

 彼はジャケットを脱ぎ捨て、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 冷たい水が、乾いた喉を潤していく。

 その何気ない日常の動作が、彼を少しずつ現実の世界へと引き戻していく。

 

 そして彼は、気づいてしまった。

 ローテーブルの上に無造作に放置していたスマートフォンの画面。

 そこには、不在着信とメッセージの通知が、びっしりと表示されていた。

 そのほとんどが、同じ名前からだった。

 

『母』

 

 その一文字を見た瞬間、健司の心臓がどくんと重い音を立てた。

 テレビ出演以来、鳴り止まない電話。

 彼は、その全てを無視し続けていた。

 いや、怖くて出られなかったというのが正しい。

 

「……ていうか、親から着信が来まくってるんだよなぁ……」

 

 健司は、うんざりしたようにそう呟いた。

 その独り言を聞き逃すほど、彼の相棒は甘くはなかった。

 

『……ほう?』

 魔導書の声に、あからさまな好奇の色が浮かぶ。

『なんだ、猿。親が苦手か?』

 

「……うるさい」

 健司は、吐き捨てるように言った。

 苦手という言葉では生ぬるい。

 それは、もはや恐怖に近い感情だった。

 フリーターとして世間の底辺を這いずり回っていた自分。

 その情けない姿を、一番見せたくなかった相手。

 それが、彼の両親だった。

 彼らの期待を裏切り、心配ばかりをかけ続けてきた。

 その罪悪感が、鉛のように彼の心を縛り付けていた。

 

「……当たり前だろ」

 健司は、自嘲気味に言った。

「数ヶ月前までしがないフリーターだった息子が、いきなりテレビに出て、預言者だのなんだの言われ始めてるんだぞ。……ビビるだろ、親なら。なんて説明しろって言うんだよ」

 

 それは、彼の本音だった。

 ヤタガラスの副局長を相手に大嘘をつき通すよりも、実の親に真実(に近い何か)を話すことの方が、彼にとってはよほど難易度の高いミッションだった。

 

 すると、魔導書は意外な言葉を返してきた。

 

『……ふーん。まあ、親は重要だからな。電話したらいいぞ?』

 

「……は?」

 健司は、思わず聞き返した。

 そのあまりにまともで、あまりに優しい言葉。

 それは、彼がこの魔導書から最も聞くとは思わなかった種類の言葉だった。

 

「……えっ? なに? お前がそんな優しいこと言うなよ。……怖いだろ」

 

『馬鹿め。俺様は、事実を述べたまでだ』

 魔導書は、呆れたように言った。

 だが、その声にはいつものような刺々しさはなかった。

 

『いいか、猿。よく聞け。お前が今必死に学ぼうとしているこの「魔法」という技術。……その根幹には、常に「親」という要素が深く関わっている』

 

「……親の要素?」

 健司は、意味が分からなかった。

 

『そうだ。お前は、自分がなぜここにいるか考えたことはあるか?』

 魔導書は、哲学者のように問いかけた。

 

「……そりゃあ、親が俺を産んだからだろ」

 

『そうだ。では、その親は? そのまた親は?』

『お前の存在は、気の遠くなるような時間の中で、無数の男女が出会い、結ばれ、子を成すという奇跡の連鎖の上に成り立っている。その連鎖のどこか一箇所でも途切れていたら、お前という存在はこの世に生まれてこなかった。分かるか?』

 

 健司は、黙って聞いていた。

 

『お前がここにいる。その事実そのものが、天文学的な確率を乗り越えて実現した、究極の「奇跡」なんだよ。そして、その奇跡の始まりの一点。お前にとっての最も身近な創造主。それが、「親」という存在だ』

『お前がいるのは、親という奇跡があったからだぞ? 奇跡の連続が起きて、お前はここにいる。その自らの根源たる奇跡を大事にしないで、どうする?』

 

 そのあまりに荘厳で、あまりに根源的な言葉。

 それは、健司の心の一番柔らかい部分を抉るように突き刺さった。

 彼は今まで、考えたこともなかった。

 自分の存在の意味など。

 だが、この魔導書はそれをいとも容易く言語化してみせた。

 魔法の本質とは、因果律の操作。

 そして、親とは自分という存在の全ての「原因」の始まり。

 

「…………」

 健司は、何も言えなかった。

 

『……親を大事にしないとはな。言語道断だ、猿』

 

 魔導書のその静かな叱責は、どんな罵倒よりも健司の胸に深く響いた。

 彼は、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……はい。正論です」

 彼の声は、震えていた。

「……親不孝者で、すみません……」

 

『……ふん。分かればいい』

 魔導書は、それ以上何も言わなかった。

 

 健司は、しばらくソファの上で蹲っていた。

 罪悪感と自己嫌悪が渦を巻く。

 だが、彼は顔を上げた。

 もう、逃げるのは終わりだ。

 彼は、自分の最も弱い部分と向き合う覚悟を決めた。

 

「……はあ。気乗りしないが……電話します」

 

 彼は、震える手でスマートフォンを手に取った。

 不在着信のリストの一番上。「母」という文字をタップする。

 耳元で、コール音が鳴り響く。

 ワンコール、ツーコール。

 健司の心臓が、破裂しそうに高鳴る。

 そして、スリーコール目でその電話は繋がった。

 

『……もしもし! 健司!? あんた、健司なの!?』

 

 スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、彼が最後に聞いてからもう一年以上経つ、懐かしい母親の声だった。

 心配と安堵、そして少しの怒りが入り混じったその声。

 

「……あー。母さん。……久しぶり?」

 

 健司の口から絞り出すような第一声。

 それは、あまりに情けなく、あまりにぎこちなかった。

 その一言で、母親の堪忍袋の緒が切れた。

 

『久しぶりじゃないわよ! あんた、今まで何してたの!? 電話しても出ない! メールしても返事がない! 生きてるのか死んでるのかも分からない! こっちがどれだけ心配したと思ってるのよ!』

 矢継ぎ早に浴びせられる言葉の弾丸。

 健司は、ただ黙ってそれを受け止めることしかできなかった。

 

「……ごめん」

 彼が、ようやく言えたのはその一言だけだった。

 

『ごめんじゃないわよ! ……それで、何なのよテレビ! いきなり息子がテレビに出て、預言者だなんて言われ始めて! 近所の人たちからも色々聞かれて! お母さん、なんて答えたらいいか分からなくて……!』

 母親の声が、少しずつ涙声に変わっていく。

 

『あんた、ちゃんと説明しなさい! しがないフリーターだったあんたが、どうして急にテレビ活動なんてし始めてるの! ……何か、悪いことにでも巻き込まれてるんじゃないでしょうね……?』

 

 その最後の言葉。

 そこには、息子を心から心配する母親の愛情が溢れていた。

 健司は、胸が締め付けられるような思いだった。

 そして同時に、彼は決意した。

 もう、嘘をつくのはやめよう。

 この人たちにだけは、本当のことを話そう。

 たとえ、信じてもらえなくても。

 

 彼は、一度大きく息を吸い込んだ。

 

「……ははは」

 彼の口から、乾いた笑いが漏れた。

 

「……それが母さん。長くなるんだけど……聞いてくれる?」

 

『……何よ、改まって』

 母親の声に、戸惑いの色が浮かぶ。

 

 健司は続けた。

 彼の人生を、そして世界の常識を覆す物語の始まりを。

 

「……まず、俺が魔法に目覚めた話からするね……」

 

 ――それから一時間。

 いや、二時間経っただろうか。

 健司は、全てを話した。

 神保町の古本屋で魔導書と出会ったこと(さすがに、「魔導書が喋る」という部分は濁したが)。

 予知の力に目覚めたこと。

 競馬で練習し、デイトレードで生計を立て始めたこと。

 テレビに出演し、ヤタガラスという組織と接触したこと。

 そして、これから自分がその組織の一員として働くことになること。

 

 そのあまりに荒唐無稽な物語を、母親はただ黙って聞いていた。

 時折、驚きの声を上げたり、呆れたような溜息をついたりしながらも、決して彼の話を遮ることはなかった。

 

 健司が全てを語り終えた時、電話の向こう側では長い沈黙が流れた。

 健司は、固唾を飲んで母親の言葉を待った。

「頭がおかしくなったのか」と言われることも覚悟していた。

 

 やがて聞こえてきたのは、母親の静かな声だった。

 

『……そう。……大変だったのね、あんた……』

 

 そのたった一言。

 そこには、驚きも疑いも非難もなかった。

 ただ、息子の苦労を労わる母親の優しさだけがあった。

 

「……信じてくれるの?」

 健司は、震える声でそう尋ねた。

 

『……信じる、信じないじゃないわよ』

 母親は、少し呆れたように言った。

『あんたがそこまで真剣に話してるんだから……本当のことなんでしょ』

『昔からそうだったじゃない。あんたは、嘘をつくのが下手なんだから』

 

 その言葉に、健司の目から涙が溢れ出た。

 それは、彼がもう何年も忘れていた、温かい涙だった。

 

『……でも、そう。……ヤタガラスねえ……』

 母親は、何かを思い出すように呟いた。

『……お父さんが、昔言ってたわね。……この国には、昔からそういう人たちを守る組織があるんだって』

 

「え……?」

 健司は、意外な言葉に聞き返した。

「……父さんが?」

 

『ええ。……あんたには言ってなかったけど……うちの家系、少しだけそういう力を持つ人が出ることがあるのよ。……お父さんのお祖父さん……健司の曾祖父さんね。その人が、少しだけ未来の天気が分かったり、失くしたものがどこにあるか分かったりしたらしいの』

 

 健司は、言葉を失った。

(自分の力は、突然湧いて出たものではなかったのか)

 

『だから、まあ……あんたにそういう力が出ても……驚かないと言えば嘘になるけど……でも、なんとなく……納得したわ』

 母親はそう言って、優しく笑った。

『……あんたは、あんたの道を行きなさい。……お父さんにも、私から上手く話しておくから』

 

「……母さん……」

 

『ただし!』

 母親の声が、急に厳しいものに変わった。

『……もう二度と、連絡もなしに心配させるようなことだけはしないで。……分かったわね?』

 

「……はい」

 健司は、子供のように素直に頷いた。

 

『それと……年俸三千万ですって?』

 母親の声に、急に下世話な響きが混じる。

『……仕送り、期待してるわよ』

 

「……ははは」

 健司は、思わず笑ってしまった。

 そうだ。

 これが、俺の母親だった。

 

 その夜。

 健司は、久しぶりに深く、そして穏やかに眠った。

 彼の心を縛り付けていた最後の枷は、外れた。

 彼は、もはや孤独な預言者ではない。

 彼の背後には、彼を信じ、支えてくれる両親がいる。

 その事実が、彼の心を何よりも強くしていた。

 

 翌朝。

 健司が目覚めると、魔導書が珍しく静かだった。

 彼は不思議に思いながらLINEを開いた。

 そこには、一言だけメッセージが届いていた。

 

『……良かったな、猿』

 

 そのあまりに素っ気ない、しかしどこまでも優しい言葉。

 健司は、思わず吹き出してしまった。

 こいつも、なんだかんだでお人好し(?)なのだ。

 

 彼はベッドから起き上がった。

 そして、窓を開け放つ。

 秋の澄んだ空気が、部屋に流れ込んでくる。

 空は、どこまでも高く青かった。

 彼の新しい人生が、今、本当に始まったのだ。

 その確かな予感を胸に、健司は大きく一つ伸びをした。

 やるべきことは山積みだ。

 だが、今の彼にはその全てを乗り越えていける自信があった。

 彼の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。

 




第一部完!!!
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