俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します 作:パラレル・ゲーマー
成田国際空港の国際線到着ロビーは、再会の喜びと長旅の疲労が入り混じった、独特の喧騒に満ちていた。カートを押す家族連れ、抱き合う恋人たち、プラカードを掲げる出迎えの人々。その、どこにでもある平穏な光景の中心で、佐藤健司は一人、自らがいる世界の異質さを改めて感じていた。
黒い上質なスーツに身を包んだ彼の周囲には、同じく目立たない服装をしたヤタガラスの職員が数名、一般客を装って完璧な陣形を敷いている。彼らは、ただ旧知の友人の到着を待つビジネスマンのように振る舞っているが、その研ぎ澄まされた視線は、常に到着ゲートから吐き出される人波の一人一人を冷静にスキャンしていた。
「ふー……」
健司の隣で、同じくスーツ姿の橘真が、誰にも聞こえないほどの小さな溜息をついた。その表情には、連日の激務による疲労が色濃く浮かんでいる。
「対象はニコラス・ケイジ。元FBI刑事。最近マジェスティックに雇用されたばかりで、この世界の経験はゼロです。なぜこのような人材を派遣してきたかは謎ですが…」
橘は、手元のスマートフォンに表示された機密資料に目を落としながら、健司にだけ聞こえる声で囁いた。
「まあ、我々を油断させるための陽動か、あるいはただの連絡員程度に考えているのでしょう。下手に我々の内情を知るエリートを送り込むより、何も知らない素人を使った方が安全だと判断したのかもしれませんね」
「なるほど」
健司は頷いた。マジェスティックの徹底した合理主義が垣間見える人選だった。
「まあ普通に接して上げましょう。下手に警戒している素振りを見せても相手の思う壺だ」
「日本語話せるらしいですし、まあ普通にして接して上げましょう」
健司も同意した。彼の脳裏には、数日前に橘から渡された、その男の驚くべきプロフィールが焼き付いている。
「今日の予定としては、まず挨拶を済ませ、ホテルまで送迎。その後、日本国内の状況を簡単に説明して、今日は終わりですか?」
「いや、かるくヤタガラスの施設説明ぐらいはしてあげてもいいですね」
橘は、少しだけ悪戯っぽく口元を緩めた。
「能力者に関しては完全に素人らしいですし、歓迎の意を示す意味でも、能力者の模擬戦でも見てもらいましょうか。我々の『力』の一端を見せておくのも悪くない。マジェスティックからは『彼は我々がようやく裏社会の存在を教えたぐらいの全くの新人だからよろしく頼む』と、ご丁寧なメッセージ付きでした。……おそらくこちらの内情を探りたいんでしょうね。まあ、それぐらいのサービスは構いませんが」
その言葉には、千二百年の歴史を持つ組織の、絶対的な自信が滲んでいた。健司は、到着ゲートの上に設置された電子掲示板を見上げた。ワシントンD.C.からの便を示すフライトナンバーの横に、「到着済」の緑色のランプが灯っている。
「おっ、来ましたね」
橘の声に、健司はゲートへと視線を戻した。自動ドアが開き、長旅を終えた乗客たちがぞろぞろと姿を現す。ビジネスマン、観光客、留学生。その雑多な人波の中から、一人だけ明らかに異質なオーラを放つ男が現れた。
年の頃は四十代後半だろうか。着古した、少し皺の寄ったトレンチコート。その下には、センスのいいとは言えない柄物のシャツ。その貌には、長旅の疲労と、見知らぬ国への戸惑いが浮かんでいる。だが、何よりも健司の目を引いたのは、その顔つきだった。少し憂いを帯びた大きな瞳、特徴的な高い鼻梁、そしてどこか寂しげな犬のような表情。
(……本当にニコラス・ケイジそっくりだなぁ……)
健司は思わず心の中で呟いた。ハリウッドスターがなぜこんな場所に――そんな、ありえない錯覚に陥るほどの、完璧なまでの酷似。
男はキョロキョロと周囲を見回し、やがて橘が掲げる小さなプラカードに気づいた。そこには、ただ「Mr. Cage」とだけ書かれている。男は少しだけ安堵したような表情を浮かべると、カートを押しながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「どうも。ニコラスです」
男は、少しだけぎこちない日本語でそう名乗った。その声は、映画で聞いたあの俳優の声よりも、少しだけ低く、そして疲れていた。
「橘です。八咫烏(ヤタガラス)の橘真と申します。ようこそ日本へ」
橘は、完璧なビジネススマイルで手を差し出した。ケイジと呼ばれた男は、その手を握り返す。
「こちらは、今回の共同捜査における日本側の責任者Kです」
「どうも。Kです」
健司もまた一歩前に出て、ケイジと握手を交わした。その手に、魔力や気配は感じられない。ただの人間の手だ。
「じゃあ、行きましょうか」
橘が促す。
「はい。行きましょう」
ケイジは頷いた。健司は、彼の背後でヤタガラスの職員がごく自然に彼の荷物を引き取り、周囲を固めていくのを冷静に観察していた。これから始まる奇妙な共同戦線。その最初の駒が、今、盤上に置かれたのだ。
ヤタガラスが手配した黒塗りのセダンが、高速道路を滑るように進んでいく。車内は静寂に包まれていた。ケイジは、窓の外を流れる見慣れぬ日本の風景を、興味深そうに、しかしどこか警戒するように見つめている。
「……これが東京……」
ぽつりと彼が呟いた。
「ええ」
橘が助手席から答えた。
「我々の本部も、この街の中心にあります。まずはそちらにご案内します。長旅でお疲れでしょうが、ご容赦を」
「いや、構わない。……早く見てみたい。……君たちの世界を」
ケイジの言葉には、抑えきれない好奇心が滲んでいた。健司は、後部座席で彼の隣に座りながら、その横顔を自らの【霊眼】で静かに観測していた。彼の魂から放たれるオーラは、ごく普通の一般人のそれだ。魔力の流れも、特殊な因果の結びつきも、一切感じられない。
(……プロフィールは本物みたいだな。……本当に何も知らない素人って感じだ)
『ふん。あるいはそれすらも演技かもしれんぞ猿。マジェスティックの科学の粋を集めれば、能力者のオーラを完全に遮断する装置の一つや二つ、持っていたとしてもおかしくはない。……油断するな』
脳内に、魔導書のいつもの声が響く。
(分かってるよ)
健司は内心で頷いた。そうだ。この男が、ただの「俳優そっくりの刑事」であるはずがない。マジェスティックが、何の意図もなく、こんな駒を送り込んでくるはずがないのだ。
車はやがて、霞が関の巨大な官庁街の一角にある、何の変哲もないオフィスビルへと滑り込んだ。だが、その地下駐車場へと続くゲートをくぐった瞬間、車内の空気がわずかに変わったのを、健司は感じ取った。認識阻害の結界。ここから先は、ヤタガラスの聖域だ。
彼らが案内されたのは、ヤタガラス東京支部の地下深く。一般職員の目に触れることのない、特別な来客用のフロアだった。壁も床も白で統一された無機質な廊下。その、あまりにSF的な光景に、ケイジは息を飲んでいた。
「……凄いな。……映画のセットみたいだ」
「どうぞ、こちらへ」
橘は、その感嘆を意に介する様子もなく、一つの部屋へと彼を導いた。そこは、壁一面が巨大なモニターになっている、ブリーフィング・ルームだった。橘が手元の端末を操作すると、モニターにヤタガラスの組織の概要を示す、例の「ヤタッピ」が登場する、あの気の抜けた映像が流れ始めた。
「……なんだ、この鳥は……?」
ケイジは心底不思議そうな顔で、そのゆるキャラを見つめている。健司はその反応を見て、少しだけ彼に親近感を覚えた。
(だよな。俺も最初はそう思った)
映像が終わる頃には、ケイジの顔には、驚愕と混乱と、そしてそれを上回る興奮の色が浮かんでいた。千二百年の歴史、ティアー・システム、神々の存在。彼が長年追い求めてきた世界の真実。その、あまりに巨大な全体像が、今、彼の目の前に提示されたのだ。
「……信じられない……。……全て本当だったのか……」
彼は呆然と呟いた。
「さて。座学はこの辺にしておきましょう」
橘は言った。
「百聞は一見に如かずです。……お見せしましょう。……我々の『力』を」
彼が案内したのは、さらに地下深くにある広大な訓練場だった。その中央のマットスペースでは、二人の若いエージェントが、まさに模擬戦を開始しようとしていた。
「はじめ!」
教官の鋭い号令が響く。その瞬間、一人の青年がその姿を掻き消した。――いや、違う。彼の身体が半透明になり、陽炎のように揺らめいている。光学迷彩。もう一人の少女が、咄嗟に身構える。だが、その背後。音もなく現れた青年が、その手刀を少女の首筋に叩き込もうとする。少女は振り返ることなく、その身体から円形の空気の壁を展開した。青年の手刀が、その見えない壁に阻まれ、甲高い音を立てて弾かれる。
「……なんだこれは……!?」
ケイジは、目の前で繰り広げられる超常の戦いに、完全に言葉を失っていた。透明人間とバリア能力者。彼がかつて捜査報告書に書き、そして一笑に付された「ありえない」光景。それが今、現実のものとして彼の目の前にあった。
模擬戦は数分で終わった。結果は少女の判定勝ち。彼女は最後まで青年の姿を捉えることはできなかったが、全方位に展開した空気の壁で、その全ての攻撃を完璧に防ぎきったのだ。
「……どうですかな、ケイジさん」
橘が静かに問いかけた。
「これが、我々の日常です」
ケイジは何も答えられなかった。彼はただ子供のように目を輝かせ、その光景に見入っていた。その、あまりに純粋な驚きの表情。それを見て、健司は確信した。
(……この反応は演技じゃない。……プロフィールは本物みたいだな。……本当に何も知らない素人って感じだ)
(……だが、だからこそ……厄介なのかもしれないな)
純粋な好奇心。それは、時としてどんな計算された敵意よりも深く、そして鋭く、こちらの懐に潜り込んでくる。健司は、自らの隣に立つ、この奇妙な俳優そっくりの刑事に、言い知れぬ興味と、そして警戒心を抱かずにはいられなかった。
ヤタガラスとマジェスティック。鴉と鷲。その二つの巨大な組織の思惑が交差する、この日本という舞台で。この、あまりに異質な「駒」は、一体どんな役割を果たしていくのだろうか。健司の【予測予知】ですら、まだその答えを見通すことはできなかった。ただ、彼の新たなる物語の重要な登場人物が、今、確かに盤上に現れた――その確かな予感だけが、彼の心を静かに、そして力強く震わせていた。