俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します 作:パラレル・ゲーマー
ヤタガラス東京支部の地下深く。そこに存在する広大な第四訓練場は、普段の静謐なオフィスとは全く違う、期待と不安が入り混じった熱気に満ちていた。コンクリートと特殊な衝撃吸収素材で覆われた壁。その中央の広大なマットスペースに、年齢も性別も、そして背負ってきた人生もバラバラな二十七人の男女が、固い表情で整列している。彼らが佐藤健司――その【過去視】の能力を酷使して探し出した「能力者自販機」による覚醒者たち、橘が言うところの「金の卵」だった。その顔には、自らの人生が変わり果てたことへの戸惑い、未知なる力への恐怖、そしてほんの少しの希望が浮かんでいた。
その二十七対の視線を一身に浴びながら、健司は訓練場の中心に立っていた。テレビで見せる「預言者K」としての非の打ち所のないジャケット姿ではない。動きやすいシンプルな黒のトレーニングウェア。その佇まいは、MMAジムで培われた無駄のない、洗練された立ち姿。だが、その瞳に宿る穏やかで、どこか親しみやすい光は、新人たちの緊張をわずかに和らげていた。
(……プレッシャー、やばいな……)
健司は内心で、深々と溜息をついていた。二十七対一。斎藤アスカや相田未来をマンツーマンで指導した時とは訳が違う。これから自分が発する一言一句が、この二十七人の人生を左右するかもしれない。その責任の重さが、ずしりと彼の両肩にのしかかっていた。そして、そのプレッシャーをさらに増幅させる存在が、訓練場を見下ろす観察室の防弾ガラスの向こう側にいた。腕を組み、静かにこちらを見つめる橘真。そしてその隣で、どこか憂いを帯びた、しかし全てを見透かすかのような鋭い瞳でこの光景を観察している男――マジェスティックからの連絡員、ニコラス・ケイジ。
(見られてるか)
健司は、自らを鼓舞するように心の中で呟いた。これはただの新人研修ではない。ヤタガラスとマジェスティック、その二つの巨大な組織の思惑が交差する、腹の探り合いの最前線。下手は打てない。
「どうも皆さん、こんにちは。ヤタガラス戦術顧問のKです」
健司の静かな挨拶に、新人たちの間にどよめきが走る。(本物のKさんだ……)(テレビで見たまんま……いや、なんかオーラが違う……)
健司は、その視線を一身に浴びながら、自らが作り上げた「預言者K」の仮面ではなく、一人の先輩としての素顔で語りかけた。「俺も数ヶ月前まで皆さんと同じでした。フリーターで、金もなくて、未来も見えなくて。……毎日『どうせ俺なんか』って本気で思ってた。……でも、この力で変われた。だから、皆さんも絶対に変われる」
その、あまりに素直で飾らない言葉。それはどんなカリスマ的な演説よりも、新人たちの固く閉ざされた心を、静かにしかし確かにこじ開けていった。
「今日、皆さんに集まってもらったのは他でもありません」
健司は、目の前の雛鳥たちの顔を、一人一人見渡した。
「皆さんに、全ての魔法の基本となる、最も重要で、最もシンプルな力を覚えてもらうためです」
彼はそこで一度言葉を切り、力強く宣言した。
「今日、皆さんは【身体能力強化】を使えるようになります」
その言葉に、新人たちの間に再びどよめきが走った。(身体能力強化って……あのSAT-Gの人たちが使う……)(私、触った植物をちょっと元気にするだけなのに、そんなことできるの?)(嘘だろ……)――不安と疑念の声。
健司は、その反応を予測していた。彼は静かに微笑んだ。
「まあ、口で説明するより見てもらった方が早いかな。……まず、お手本ね」
健司はそう言うと、ふっと息を吐いた。心の中でスイッチを入れる。無詠唱【身体能力強化】。彼の身体の内側で眠っていた獣が目を覚ます。血液が加速し、筋肉繊維の一本一本に魔力が満ちていく。彼はその場で軽く屈伸した。そして次の瞬間、ドンッ!という軽い破裂音と共に、彼の身体は床から垂直に撃ち出された。
「うわっ!?」
新人たちの驚愕の声。健司の身体は放物線を描くことなく、まるで重力という概念が存在しないかのように一直線に上昇し……体育館の高い天井に、その足の裏をトンと静かに着けた。逆さまの状態で天井に立つ。その、あまりに非現実的な光景に、新人たちは完全に言葉を失っていた。
「まあ、こんな感じかな」
天井から、健司の落ち着いた声が降ってくる。彼は天井を数歩歩くと、今度は床に向かってふわりと飛び降りた。凄まじい高さからの落下。だが、彼の着地には一切の音がなかった。まるで羽が舞い落ちるように静かに、そして完璧に衝撃を殺して、マットの上に立つ。
彼は次に、訓練場の隅に置かれていたバーベルへと向かった。プレートが何枚も重ねられ、その総重量は二百キログラムを超えている。屈強なSAT-Gの隊員が、数人がかりでようやく持ち上げる代物。健司は、そのバーベルの真ん中を、こともなげに右手一本で掴んだ。そして、ひょいと。まるでプラスチックのおもちゃでも持ち上げるかのように、軽々と頭上まで差し上げてみせた。新人たちの誰かから、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
健司はバーベルを静かに床に戻すと、新人たちの前に戻ってきた。「これが【身体能力強化】。自分の身体のリミッターを外して、本来持っている力を限界まで引き出す魔法だよ。……さあ、やってみて」
その言葉に、新人たちははっと我に返った。そして顔を見合わせる。――本当にできるのか? あんな神業が? 半信半疑。だが、目の前で見せつけられた圧倒的な現実と、「預言者K」への絶対的な信頼が、彼らの背中を押した。
「身体能力強化ッ!!!!」
二十七人の、決意を込めた叫び声が訓練場に木霊した。だが――。
シーン……。
静寂。何も起こらなかった。何人かがその場で恐る恐るジャンプしてみるが、その跳躍力は昨日までと何も変わらない。サンドバッグを叩いてみるが、その拳は虚しく乾いた音を立てるだけ。
「……あれ?」「……何も変わらない……」「やっぱり無理だよ……」
落胆の声が、あちこちから漏れ始める。
健司は、その光景を静かに見つめていた。――分かっていた。こうなることは。
「うんうん。まあ、最初はそんなもんだよ」
健司は少しも動じることなく言った。そして彼は、自らの最初の師である、あの忌々しい魔導書が自分に叩き込んだ魔法の真理を、彼らにも分かる言葉で語り始めた。
「みんな、今、何を考えてた?」
健司の問いに、新人たちはきょとんとした顔をした。
「何をって……Kさんのすごい動きを……」
一人がそう答える。
「違うんだ」
健司は首を振った。
「イメージが大事だよ。さっき見せた僕の動きを、ただ『すごいな』って眺めるんじゃない。……あれを『自分もやるんだ』って、頭にイメージするんだ!」
彼は自らのこめかみを、とんとんと指で叩いた。
「いいかい。魔法っていうのは、ただ叫ぶだけじゃダメなんだよ。自分の脳みそを騙してあげるんだ。『自分はもう、すでにその力を持っているんだ』って心の底から思い込む。……さっきの俺のジャンプを思い出して。あの天井に足がつく感覚を。……あの二百キロのバーベルを持ち上げた時の、腕の筋肉の感覚を。……そのイメージを自分の身体に上書きするんだ!」
健司の声に熱がこもる。
「そして、その上で叫ぶんだ! 『身体能力強化!』って! その言葉はただの音じゃない。お前たちの、その固い思い込みを、現実世界に叩きつけるための引き金(トリガー)なんだ!」
その、あまりに熱のこもった言葉。新人たちはごくりと喉を鳴らし、その言葉の一言一句を、自らの魂に刻み込むように聞いていた。だが、それでも彼らの心に深く根付いた「自分にはできない」という常識の壁は厚かった。誰一人として成功する者は現れない。訓練場の空気が、重く沈んでいく。
健司はその光景を冷静に観察していた。そして彼は気づいた。――ただ号令をかけるだけではダメなのだ。人は一人一人違う。魂の形が。力の色が。
彼は動いた。まず、リストラされたという元サラリーマン・田中誠の元へ。彼は「どうせ俺なんかが」と、最初から諦めモードで俯いていた。
「田中さん」
健司の声は静かだった。
「俺も同じでしたよ。……でも、変わることから逃げちゃダメだ。……顔を上げてください」
その厳しいが心のこもった言葉。田中の肩が、わずかに震えた。
次に、植物の成長をわずかに早めることができるという女子高生・鈴木恵美の元へ。彼女は真面目に取り組んでいるが、力が弱すぎて身体に何の変化も起こらなかった。
「鈴木さん。君の力は戦うための力じゃない。……育む力だ。……その優しい気持ちを、今度は自分の身体に向けてごらん。……自分の可能性の芽を育てるんだ。……君は誰よりも、その才能に長けているはずだ」
そして健司は、今回の訓練の「鍵」となる人物の元へと歩み寄った。主婦の佐藤優子。彼女の能力は【精神感応】。彼女は周りの新人たちの焦りや不安に「共感」しすぎてしまい、パニック寸前になっていた。
「佐藤さん。……辛いね」
健司は彼女の隣に静かに腰を下ろした。
「……はい……。みんなの気持ちが……流れ込んできて……苦しくて……」
「……その力、シャットアウトするんじゃなくて、逆に使ってみないか?」
健司は提案した。彼は最も苦しんでいる田中誠を指差す。
「あの人の心の中に入ってみて。……彼の『できない』という絶望じゃなくて、その奥にあるはずの『できるようになりたい』っていう、ほんの少しの希望の火種を。……君の力で感じ取って……そして、彼に伝えてあげてくれないか?」
「君は繋げることができる。……人の心を」
その思いがけない言葉。佐藤優子は戸惑った。だが、目の前の頼もしき教官の真っ直ぐな瞳。彼女は覚悟を決めた。
彼女はおそるおそる田中誠に意識を集中させる。彼女の【精神感応】の力が、彼の心の深層へと潜っていく。冷たい灰色の霧。自己否定と無力感の澱んだ沼。だが、その沼の底に――確かにあった。ちろちろと燃える、小さな小さな希望の炎。
佐藤優子が、その魂の奥底に触れたその瞬間。彼女の脳内に、意図しないヴィジョンが流れ込んできた。それは田中の「過去」の記憶。あの公園で、ヤケクソでジュースを買い、それを飲んだあの日の光景。そして彼女は視てしまった。ジュースが彼の喉を通り過ぎた瞬間、彼の魂の表面に、冷たく幾何学的な、見たこともない**『紋様』**が、まるで焼き印のように一瞬だけ浮かび上がるのを。それは呪いのような禍々しいものではなかった。むしろどこまでも無機質で、完璧で……そして、一切の害意を感じさせない、ただの印。害がないからこそ、彼の魂はそれを異物として認識せず、完全に受け入れてしまっている。
「きゃっ!?」
佐藤優子は短い悲鳴を上げて、田中から意識を引き離した。彼女は青ざめた顔で健司に駆け寄った。
「Kさん……! 今、視えました! 田中さんの心の中に……あの公園の自販機の記憶が……! そしてその時、彼の魂に……! 何かの『印』が刻まれました……!」
その衝撃的な報告。訓練場が静まり返った。健司の背筋に、冷たいものが走る。観察室でそのやり取りを見ていた橘とケイジの顔色も変わっていた。ケイジの口から、低い声が漏れた。
「印(スタンプ)……。なるほど。マーキングか」
健司は確信した。橘が立てた第三の仮説――それが真実だったのだ。この「金の卵」たちは、ただ能力に目覚めただけではない。知らず知らずのうちに、謎の組織の見えざる「ネットワーク」に組み込まれていたのだ。
その緊迫した空気の中、健司は動いた。彼は呆然と立ち尽くす田中誠の元へと歩み寄った。そして、その肩を力強く掴んだ。
「田中さん。……聞こえたか? ……お前の魂には印が刻まれている。……お前はもう、ただの人間じゃない。……選ばれたんだ」
「え……?」
「その印が何を意味するのかは、まだ分からない。だがな、一つだけ確かなことがある」
健司の瞳が、燃えるような光を宿した。
「お前はもう『どうせ俺なんか』なんて言ってる場合じゃなくなったんだよ!」「立て! そして戦え! お前の運命とだ!」「まずはその目の前の壁をぶち壊すことからだ! やれッ!」
その、魂を揺さぶるような檄。それが田中誠の心の最後の壁を打ち砕いた。彼の目から一筋、涙がこぼれ落ちた。そして彼は立ち上がった。彼はサンドバッグの前に立つと、これまでで一番大きな声で叫んだ。その叫びは、もはやただの呪文ではなかった。自らの過去との決別を告げる、雄叫びだった。
「身体能力強化ァァァァァァッ!!!!!」
その言霊が響き渡った瞬間――田中誠の拳がサンドバッグを打ったのではない。彼の足元、その影が生き物のように蠢き、濃さを増した。そして、その闇の中から一本の黒い槍のような、鋭利な影が、凄まじい速度で伸び、サンドバッグの中心を音もなく貫いた。
――ブスッ。
破裂音ではない。布が内側から食い破られる、鈍く湿った音。影の槍はサンドバッグを貫通し、その背後の壁にまで突き刺さると、霧散するように消えた。後に残されたのは、中央にぽっかりと大穴が空き、そこから無残に砂をこぼし続けるサンドバッグと、そして呆然と立ち尽くす二十七人の新人たちだけだった。
「…………」
静まり返った訓練場。全員の視線が、呆然と立ち尽くす田中に集まる。彼は信じられないというように、自らの足元の、今はもう普通の影と、そして破壊されたサンドバッグを見比べていた。――そして、ゆっくりと健司の方を振り返った。その顔には涙と、そして生まれて初めて浮かべたであろう誇らしげな笑みが、浮かんでいた。
その光景を見て、健司は心の底から笑った。そうだ。これだ。これが見たかったんだ。
訓練を終え、疲れ果てて帰宅した健司。彼はソファに倒れ込み、魔導書に問いかける。
「なあ、魂に刻まれた害のない紋様って、消せるのか?」
『……不可能ではない』
魔導書はしばらく沈黙した後、重々しく答えた。
『だが、それは呪いを祓うのとは訳が違う。無害で、完璧にバランスの取れた契約を一方的に破棄するには……術者本人を叩き伏せ、その魂の繋がりを根元から断ち切るしかあるまい』
健司の目に、新たな闘志の炎が宿る。謎の組織との戦いは避けられない。その覚悟が、彼の魂をまた一つ、強くさせた。