俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します 作:パラレル・ゲーマー
その日の夜、健司は夢を見ていた。
それは、彼がこの数ヶ月繰り返し見る悪夢。
廃教会の割れたステンドグラスから差し込む、冷たい月光。
銀色の獣と化したガブリエルの、飢えた瞳。
そして、自らの身体を駆け巡るランク4の【身体強化】の、身を焦がすような熱と、骨の髄まで焼き尽くすかのような凄まじい反動の痛み。
「―――がはっ!」
健司は短い悲鳴と共にベッドから飛び起きた。
全身はびっしょりと冷や汗で濡れ、心臓が警鐘のように激しく鳴り響いている。
窓の外は、まだ夜の闇に包まれていた。
「……はぁ……はぁ……」
荒い息を整えながら、彼は自らの両手を見つめた。震えている。
あの戦いから一ヶ月以上が過ぎた。肉体の傷はとうの昔に癒えている。だが、魂に刻み込まれた恐怖の記憶は、まだ生々しい熱を帯びたまま、彼の内で燻っていた。
(……怖いのか、俺は)
健司は自嘲するように呟いた。
ランク4の反動。
あれはただの痛みではない。自らの魔法回路が焼き切れ、魂そのものが削り取られていくかのような根源的な恐怖。
一度その地獄を味わってしまってから、彼は無意識のうちに自らの力に「リミッター」をかけてしまっていた。
SAT-Gとの模擬戦でも、彼はランク3までしか使わなかった。いや、使えなかった。
その見えない「壁」。
それが、彼の成長を停滞させている元凶であることに、彼は薄々気づいていた。
『……猿』
脳内に静かな声が響く。
魔導書だった。その声には、いつものような嘲笑の色はなく、ただ氷のような冷たさがあった。
『……貴様、あの獣との戦いで何かを失ったな』
「……うるさい」
健司は吐き捨てるように言った。
『恐怖か』
魔導書は続けた。
『……死線を超えた者は二つに分かれる。それを乗り越えさらなる高みへと至る者。そして、その恐怖に魂を縛られ、永遠にその場に立ち尽くす者。……今の貴様は後者だ』
その、あまりに的確な指摘。
健司は何も言い返せなかった。
彼はただ、シーツを強く握りしめることしかできなかった。
『……まあいい。……貴様がそこで停滞するというのなら、それもまた貴様の選択だ。……俺様は見込みのない猿にこれ以上時間を割くつもりはない。……さっさと次なる弟子を探すだけだ』
その突き放すような冷たい言葉。
それが健司の心の、最後の砦を打ち砕いた。
「―――ふざけるなッ!!!!」
健司は絶叫した。
彼はベッドから立ち上がると、虚空に向かって叫んだ。
「俺は停滞なんかしてない! 俺はまだ強くなれるんだ!」
『……ほう?』
魔導書の声に、わずかな興味の色が浮かぶ。
『ならば証明してみせろ。……その震える手で何ができる?』
健司は歯を食いしばった。
そして、彼は覚悟を決めた。
この魂の呪縛を断ち切るために。
彼はリビングへと向かうと、クローゼットの奥から一つの桐箱を取り出した。
ヤタガラスから与えられた古刀。
その刀を抜き放つと、彼はその冷たい切っ先を、自らの左腕に当てた。
『……何をする気だ、猿』
「……死線を超えるんだよ」
健司の声は震えていた。
だが、その瞳には狂気にも似た決意の光が宿っていた。
「あんたが言ったんだろ。……あの獣との戦いで失ったものがあるって。……ならもう一度、同じ状況を作り出して……今度はそれを乗り越えてやればいいだけの話だ」
「これは荒療治だ」
健司はそう言うと、迷いなくその刃を自らの腕に深々と突き立てた。
「ぐ……あああああああああああああああっ!!!!」
凄まじい激痛。
だが、彼はそこで止めなかった。
彼はその刃をさらに深く――自らの骨を断ち切るまで押し込んでいった。
ばきり、と嫌な音が響き、彼の左腕がありえない角度に折れ曲がる。
『……馬鹿め……!』
魔導書の声が響く。
だが健司は聞かなかった。
彼は折れた腕の激痛に耐えながら、心の中でスイッチを入れた。
(―――我が魂の命ずるままに肉体の枷を解き放て。――ランク4 30second!)
その瞬間、彼の身体が爆発した。
青白い魔力のオーラが全身から噴き上がる。
だが、その力は以前とは比較にならないほど不安定で、荒々しかった。
痛み、そして恐怖。
その負の感情が増幅剤となり、彼の力を暴走させていた。
「……はぁ……はぁ……!」
健司は荒い息を吐きながら、折れた左腕を見下ろした。
痛い。死ぬほど痛い。
だが同時に、彼は感じていた。
この痛みの、その先にある圧倒的な力の奔流を。
これを制御するのだ。
この狂気の奔流を乗りこなすのだ。
彼は右手を、その折れた左腕にかざした。
【再生魔法】。
だが、暴走した魔力は彼の意志に従わない。
傷口で細胞が異常な速度で増殖と死滅を繰り返す。
肉が盛り上がり、そして崩れていく。
治癒と破壊の矛盾した現象。
「……ぐ……。……くそっ……!」
その時だった。
健司の脳裏に、弥彦のあの静かな声が響いた。
『―――呪術の本質とはな。……『貸し』と『借り』の概念だ』
そうだ。
代償。
この暴走した力には、それに見合う代償が必要だ。
痛み、恐怖、その負の因果。
それをただ受け入れるだけではダメだ。
それを「糧」として、「燃料」として――自らの力へと変換するのだ。
そして健司は、もう一つの禁断の術を思い出した。
(―――因果応報(カルマ・リトリビューション))
だが、転移させる相手がいない。
ならば――その呪いの矛先をどこに向ける?
答えは一つしかなかった。
健司は自らの心の奥底、
その恐怖の根源へと意識を向けた。
(……お前だ)
彼の脳裏に浮かび上がる銀色の獣、ガブリエル。
あの死闘の記憶。
その恐怖そのものに、彼は呪いの牙を突き立てた。
(この痛みも恐怖も……全てくれてやる!)
(そして俺はその代償として……お前の力を喰らう!)
それは、弥彦が教えた術とは全く違う、我流の、そしてあまりに危険な応用だった。
因果を転移させるのではない。
自らの負の因果を「代償」として捧げ、その見返りとして世界の理から力を強制的に「簒奪」する。
それは、もはや呪術ですらなかった。
悪魔との契約に近い。
その瞬間、健司の身体を包んでいた青白いオーラが――黒く染まった。
「―――あああああああああああああああああああああ―――っ!!!!」
彼の絶叫。
それは、もはや人間の声ではなかった。
彼の魂の奥底で、何かが目覚めた。
それは、彼がこれまで必死に理性で押さえつけてきた、純粋な破壊と闘争への渇望。
「獣」。
彼の折れた左腕が、異常な速度で再生していく。
骨が繋がり、肉が盛り上がる。
だが、その腕はもはや以前の腕ではなかった。
皮膚の下で、黒い紋様のようなものが蠢いている。
『……猿……! 貴様……正気か……!?』
魔導書の声が、悲鳴に近い響きを帯びる。
『それは……禁忌だ! 自らの魂を代償にするなど……! ……戻れなくなるぞ!』
だが健司の耳には、もうその声は届いていなかった。
彼の瞳が赤く染まる。
理性の光が消え、ただ飢えた獣の本能だけがそこにあった。
彼はゆっくりと立ち上がった。
そして、その黒い紋様が蠢く左腕を、じっと見つめた。
力がみなぎる。
ランク4を遥かに超える、未知の力の奔流が、彼の全身を駆け巡っていた。
彼は笑った。
その笑みは、もはや人間のそれではなかった。
「……これが……俺の力か」
その呟きを最後に、彼は意識を失った。
―――次に健司が目を覚ました時、彼は自室のベッドの上に寝かされていた。
窓の外からは朝の光が差し込んでいる。
身体は鉛のように重い。
だが、あのランク4の反動のような激痛はない。
「……夢……か?」
彼はゆっくりと身体を起こした。
そして彼は見た。自らの左腕を。
そこに、あの黒い紋様はなかった。
傷一つない、いつもの自分の腕。
――だが、その皮膚の下で、何かが確かに眠りについたのを、彼は感じていた。
あの夜の獣が。
「……あれは……夢じゃない……」
その時だった。
彼の脳内に、あの忌々しい声が響いた。
だがその声は、いつもとは全く違っていた。
そこには嘲笑も侮蔑もなかった。
ただ、深い深い疲労と、そしてほんの少しの安堵の響きがあった。
『……おかえり、猿』
その、あまりに素直な言葉。
健司は何も言えなかった。
彼はただ、自らの胸に顔を埋めた。
生きている。俺はまだここにいる。
その確かな実感だけが、彼の心を震わせていた。
「……俺はどうなってたんだ?」
『……暴走していた』
魔導書は静かに語り始めた。
『貴様のその無謀な荒療治が、貴様の魂に眠っていた何かの「扉」をこじ開けた。……あのままいけば、貴様はその力に完全に飲み込まれ、ただの破壊の獣に成り果てていただろう』
「……じゃあ、なんで俺は……」
『……俺様が止めた』
魔導書は吐き捨てるように言った。
『……貴様と繋がっているこの魂の繋がり(パス)を通じて、俺様の魔力の一部を流し込み、無理やりその暴走を鎮めた。……おかげでこちらは数百年ぶりに魔力を消耗したわ。……最悪だ』
そのぶっきらぼうな言葉。
だが健司には分かった。
こいつは俺を救ってくれたのだ。命がけで。
「……ありがとよ」
健司の口から、素直な感謝の言葉が漏れた。
『……ふん』
魔導書は鼻を鳴らした。
『勘違いするな。……貴様という最高のおもちゃを、そう易々と壊されては困る。……ただそれだけだ』
『……それに』
魔導書は続けた。
『あれも使い方次第だ。……暴走さえしなければな。……切り札がもう一つ増えたと思え。』
『……まあ当分は封印だがな。……次にあれを使えば、今度こそ俺様でも止められんかもしれん』
その静かな警告。
健司は深々と頷いた。
彼は自らの左腕を見つめた。
その内側に眠る黒い獣。
その牙を、いつか自らの意志で剥き出しにする日が来るのだろうか。
その確かな予感を胸に、健司はただ静かに、その重みを受け止めることしかできなかった。
彼の、神へと至る道は、もはや光の中だけを歩むものではなくなっていた。
その足元には、常に深淵が口を開けて待っているのだから。