棺の帰還者(イモータルリターナー)   作:P-PEN

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惨劇の幕開け

 京都府舞鶴市――夜明け前の海は、死の色に沈んでいた。

 

 波止場に横たわる漁船は内側から爆ぜたかのように裂け、甲板から舷側にかけて人影のような赤黒い痕跡がべったりと張り付いている。塩の匂いに血の鉄臭さが混じり、冷たい潮風が吹くたびに腐敗を先取りするような悪臭が漂った。静寂は異様に濃かった。海鳥すら近寄らない。ただ、波間に浮かぶ一つの“異物”だけが、漁港の惨状を凝縮したかのように異彩を放っていた。

 

 ――木棺。

 

 だがその棺は、まるで中身を孕んだことなど一度もないとでもいうように、蓋は外れ、空洞をさらけ出していた。白木の板は水に濡れていながら腐敗の兆しを見せず、側面には読めぬ呪文の刻印が螺旋を描いている。そこから絶えず黒い霧が噴き出し、海面を這う。

 

 「……これが“空の棺”か」

 

 最初に声を漏らしたのは、境界対策課――通称「境対」の先遣小隊の一人だった。防弾ベストの上に呪符を縫い付け、銃器を抱えた彼らは、夜陰に紛れて到着した十数名の部隊である。

 

 彼らの手に握られているのは、《カラビナORZ-90》。ドイツの銃器メーカーが開発した鉄杭射出装置を国内向けにライセンス生産したもの。炸薬ではなく、ローレンツ力――電磁誘導によって祓串を打ち出す構造は、国民感情を汲んだ「銃らしくない銃」という皮肉な代物であった。呪符を巻き付けた杭を連射できるこの武器は、境対の“対界異用制式兵装”として支給されている。だが、この夜の漁港では、その存在はあまりに心許なかった。

 

 「散開。棺を中心に防御陣形を取れ」

 

 小隊長が鋭く命じる。隊員たちは慣れた動作で配置につき、結界展開用の装置を地面に打ち込む。杭から伸びる青白い結界膜が波止場を覆い、海からの侵入を防ぐ壁を築く。同時に、数人が祓詞を唱え始める。呪文が重なり合い、波止場の空気はわずかに清浄を取り戻したように見えた。

 

 「本部、こちら境対舞鶴先遣。対象物確認……“空の棺”と一致。内部は空。瘴気強度、第三等級……いや、上昇している。念のため祓串による破壊を試みる」

 

 通信は正常だった。小隊長は合図を送り、二名がORZ-90を構える。

 

 「祓串、装填」

 

 「ターゲットロック、距離二十」

 

 銃口から伸びるレーザーサイトが棺の縁を照らした。そして、金属音を残して鉄杭が放たれる。

 

 ――バシュン。

 

 電磁駆動特有の乾いた音が響き、呪符を巻かれた杭が木棺へと突き刺さった。火花が散り、呪文が起動。一瞬、棺を覆う霧が後退した。

 

 「効いてる……!」

 

 誰かが叫んだ。だが、その声は早すぎる楽観だった。杭に触れた刻印が、赤黒く脈動を始めたのだ。まるで呪力を吸い込み反転させるかのように。

 

 「――っ、下がれ!」

 

 小隊長の警告より早く、杭は爆ぜた。杭に刻まれた祓詞は逆流し、隊員たちの護符へと跳ね返る。防御膜が一瞬でひび割れ、衝撃波と共に青白い稲妻が走った。

 

 「ぐあっ!」

 

 「結界が……抜かれた!?」

 

 悲鳴が交錯する。杭を撃った二人は血を吐き、後方へと吹き飛ばされた。護符が灼け、肉体に直接呪詛が刻み込まれたのだ。

 

 棺から立ち上る霧は、もはやただの瘴気ではなかった。

 ――幻影。

 

 黒い霧は人の形を成し、漁港にうごめく無数の“兵士”の影へと変じた。旧軍服を纏い、銃剣を構えた亡霊たち。その眼窩は空洞で、口からは海水のような液が垂れ続けている。

 

 「前衛っ、迎撃! 杭を撃ち込め!」

 

 怒号と共に再び杭が飛ぶ。だが、影は裂けて霧散するばかりで倒れはしない。すぐに元の形に戻り、冷たい銃剣を突き立ててくる。

 

 「こいつら……倒せない!?」

 

 「呪符が効かない、なんでだ――」

 

 応戦は無意味だった。杭は全て吸い込まれ、祓詞は反射され、亡霊の列は隊員を容易く切り裂いていく。その時、漁港全体に響いた。

 

 《――永き眠りを妨げるか。》

 

 声。

 低く、濁り、しかし明瞭な日本語。

 老いてなお鉄の芯を持つ軍人の響き。

 

 《百年を越え、なお国体は腐り果てたか。醜の御楯も、呪詛師どもの犠牲も、すべて無に帰した。ならば――我が“永世”が正しかったのだ》

 

 隊員たちは一斉に動きを止めた。その声は耳からではなく、頭蓋の内側に直接叩き込まれていた。

 

 「……せ、芹沢大介……!?」

 

 小隊長が呟く。

 

 禁忌の名だった。

 第一次大戦直後、旧陸軍が秘匿した呪詛師。歴史の闇に葬られたはずの亡霊。

 

 《我が屍を棺に縛りつけた愚か者どもよ。見よ、結界は健在なり。永世は不滅。》

 

 棺から噴き出す霧が渦巻き、波止場そのものが変貌を始めた。アスファルトは波打ち、地面に古代の祭祀文様が浮かび上がる。海は黒く沸き立ち、波間に無数の手が蠢く。

 

 「異常空間……!? ここまで短時間で――」

 

 結界装置が警告音を立て、瘴気濃度が臨界点を突破する。

 

 「退け! 全員退け!」

 

 小隊長の叫びは、もはや命令ではなく悲鳴だった。隊員たちは走る。だが、出口は既に閉ざされていた。

 

 亡霊兵たちが並び立ち、銃剣を揃える。その背後には、影の巨兵が姿を現した。軍帽を戴き、勲章だらけの軍服を纏った男の影――顔はない。ただ、口だけが裂け、無数の歯を見せて笑っている。

 

 《永世の檻に入った獲物よ。死してなお、兵として奉ぜよ》

 

 霧が押し寄せ、結界を呑み込み、祓詞をかき消す。銃声と悲鳴が交錯し、鉄杭が宙を舞う。境対の部隊は、一人、また一人と倒れていった。最後の一人が、無線機に縋る。

 

 「本部……!敵は……!!」

 

 言葉は途切れ、ノイズだけが残った。

 

 

 

 

 

 未明、漁港に数台の黒塗りの車両が滑り込む。

 重厚な扉が開き、狩衣を模した戦闘装束に身を包んだ男たちが姿を現した。黒漆の籠手、呪符を織り込んだ布、背に負った黒不浄刀。彼らは祓魔師――現代において国家機関に所属する、対界異専門の実働部隊である。

 

 現場を統括する久部上級神祇官は、鼻をシルクのハンカチで覆いながら甲板に上がった。

 

 「……ひどいな」

 

 血と潮と腐敗が混ざり合った臭気に、若い隊員が顔をしかめる。

 

 「遺体はすべて同じだな。体内からの破裂……界異の干渉と見て間違いない」

 

 久部は船首に置かれた異物に目を止めた。木棺――だが、その中は空虚だった。古びた木材に施されたのは、旧字体の呪符と封印の痕跡。大正時代から昭和初期にかけて用いられた結界符の類である。久部は指先でその痕をなぞり、背筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。

 

 「まさか……こんなものが、今になって……」

 

 棺が収めていたのは、人間ではない。

 いや、人間でありながら、人であってはならぬ存在。

 

 その名を芹沢大介。

 

 第一次大戦終結直後、旧陸軍に所属していた呪詛師にして、“永世結界”と呼ばれる禁忌の術式を完成させた男。軍部は彼を利用しようとしたが、制御不能と判断し秘匿の末に封印――棺に収め、歴史の闇に葬ったはずだった。それが今、解き放たれた。

 

 漁港の防波堤に立ち、久部は夜明けの気配を帯びた空を見上げた。東雲の光は、海面を朱に染め上げる。だがその美しさは、死臭と瘴気に侵された港の現実を覆い隠すことはできなかった。

 

 「特葬班を呼べ」

 

 久部は低く告げた。“陰険神祇官”の言葉は短く、断定的である。いつもの策謀家の顔ではなく、歴戦の祓魔司令官としての一面が覗いていた――それほどの事態だと言う事だ。

 

 「この事態は、通常の境対部隊では対処できん」

 

 やがて、闇の奥からカラスの羽音が響く。それは不吉な報せのように、漁港全体に木霊した。

 

 

 

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