念仏峠の奥、苔むした石段を上りきった先に、廃墟と化した寺院があった。瓦は崩れ、柱は黒焦げに立ち腐り、境内には不気味な霧が立ち込めている。その中心に――彼は立っていた。
芹沢大介。
かつて旧陸軍に所属し、第一次大戦終結直後に極秘裏に葬られた呪詛師。
彼の姿は、時代遅れの軍服を纏ったままだった。肩章は煤け、外套はぼろ布と化しているが、形だけは当時の威容を留めている。皮膚は半ば透け、血管の代わりに黒い呪文が走り、両の目は深い空洞から血のような光を放っていた。その手には、古代祭具を継ぎ合わせたような巨大な杖――金属と骨と勾玉が埋め込まれた異形の武具。そこから滴るのは血ではなく、瘴気の凝縮体であった。
芹沢は静かに顔を上げ、特葬班とミワシ隊を一瞥した。口が動くと同時に空気が震え、耳の奥で声が響く。
「……懐かしい顔もあるな――不覚。変質した山姥を調伏する時間が無かった以上、此処までか。だが……百年経とうと、人は変わっていなかった。ならば、我が“永世結界”こそが新たな秩序となろう」
その声は確かに人のものだったが、同時に亡霊の呻きでもあった。語るたびに空気が軋み、周囲の石仏が崩れ落ちる。咎討が刀を抜き、前に出た。
「降伏勧告はしないよ、芹沢大介。君には死神の迎えが来ている」
直毘人も続く。
「芹沢大介――先生閣下に背いた裏切り者。ここで終わらせます」
芹沢は嗤った。
「裏切り……?いや、私こそ真の忠義ものだよ。そう、“完成”させたのだ。永遠に閉じ続ける結界を!」
突如、芹沢の体から光と瘴気が同時に溢れた。
勾玉が緑に輝き、鏡が青白く閃き、折れた剣が赤黒く光を放つ。祭具が肉体へと融合し、軍服は裂けて異形の装甲と化していく。
「――来る」
儚が声を放った瞬間、廃寺全体が揺れた。芹沢の背から触手のような呪紋が噴出。地脈に突き刺さり大地が呻き声をあげる。地割れが走り、瘴気の霧が濃度を増す。その霧は水のように重く、触れるだけで肺を焼く。智麗が展開した結界の外に出た瞬間、肌に赤い痣が浮かび上がるほどだった。
儚は一歩踏み出す。紅紫の瞳が、燃え立つように光った。
「……芹沢。貴方がここまで落ちたのは、あの日、仲間を救えなかったせい?」
「救えなかったのではない――救う方法を、ようやく見つけたのだよ」
大地が裂け闇が噴き上がる。その中から現れたのは、軍人の骸を芯にした“界異の巨躯”。全身を覆うのは黒鉄の装甲と祈祷具の欠片。片腕は槍、もう片腕は鎖に変じ、背からは影の翼が広がっていた。翼の間で、無数の眼が光り、空を睨んで瞬く。
「これぞ――永世の躯」
その言葉と共に芹沢は地面を踏み砕いた。境内が爆ぜ、衝撃波が走る。咎討と童売が同時に跳躍して回避、智麗と稀弥が射線を確保し十字射撃の体勢に入る。
――それが、開戦の合図だった。
廃寺の鐘楼が倒れ夜空に火が散る。儚の黒髪が風を裂き、引き抜かれた直毘人の十拳剣が炎の軌跡を描く。峠を覆う霧が赤黒く燃え上がり、“黄泉から帰還した男”の咆哮が、空を裂いた。赤黒い裂溝が夜の天蓋を走り、そこから漏れ出す光は、もはや光とは呼べぬ穢れの奔流だった。結界の空間そのものが“裏返り”この地が現世から隔絶された事を告げていた。儚は鴉神剣を構え、紅紫の瞳を細めた。
「……発動した“永世結界”の心臓域。ここから先は、誰も逃げられない」
芹沢の巨躯が崩れかけた本堂の上で蠢いた。黒鉄の装甲が鳴動し、埋め込まれた鏡と勾玉が脈動する。背に展開した翼のような瘴気は地を這いながら触手と化し、周囲の地面を喰い荒らした。
「人はいつも繰り返す……滅びを恐れ、滅びを作る。ならば、私がこの手で永遠を与えよう!」
轟音。芹沢の掌から放たれた呪波が地を焼き、特葬班の陣形を一気に飲み込もうとする。咎討が即座に前へ出て、大盾を叩きつけた。
「防御陣、展開――全員、後退五歩!」
タワーシールドの護符が光を放ち、衝撃を受け流す。衝突の余波だけで地面が波打ち、周囲の木々が爆ぜる。盾の背後では、斗稀弥がリボルバー祭具を回転させ、祓串弾を次々に発射した。
「距離維持!中央線、崩すなよ!」
銀色の祓串が芹沢の肩をかすめ、数珠のように連なる呪符を砕く。だがすぐに黒い血霧が溢れ、壊れた装甲を再生していく。その再生の速度――ほとんど瞬きの間だった。
「再生速度、異常に高い……毒雨虎の再生特性を取り込んでいる」
儚が小声で分析を告げ、鴉神剣を横薙ぎに構える。黒い刀身がシアン光を帯び、虚空へと細い閃光を走らせた。
「……照準一致――射出」
閃光が直線を描き芹沢の胸部を撃ち抜く。爆ぜた瞬間、内部に埋め込まれた祓具が破裂し、異形の装甲がひしゃげた。しかし、芹沢は笑っていた。
「……相変わらず美しい技の冴えだ。祓いも呪いも根は同じ。君もまた“門の向こう側”を見ているのだろう?」
次の瞬間、周囲の地面が泡立つ。棘海鬱刺と羽鰓鬼――芹沢が調伏した界異達を召喚したのだ。地面の下から棘に覆われた球体が浮上し、瘴気を吐きながら前線を覆う。その間を、紫の霧を吐く毒雨虎が滑走し、全方位を汚染する。咎討が咆哮した。
「智麗君、障壁結界で拡散を抑えて!童売ちゃん、林帯に陣形を張り直すんだ」
智麗は即座にクロスボウを構え、銀矢に風の符を重ねて放つ。放たれた光の矢が注連鋼の輝きを背に軌道を描き、毒霧を切り裂く――設置とペグ打ちを同時にこなす事で、瞬時に結界を展開する妙技。童売は八本の腕を広げ、無数の祓札を投げ放つ。札は地面に突き刺さり青白い結界の波を生んだ。
その時音が響いた。上空を旋回するのは――羽鰓鬼の群れ。空気ごと泳ぐように滑り、青白い光を尾に残しながら急降下してくる。斗稀弥が叫んだ。
「上も来るぞ!」
「問題ないよ――儚君、対処を頼む」
儚は黒羽織を翻して夜闇を飛んだ。彼女の身体が霞のように分裂し、残光だけが空を走る。無数の残像が羽鰓鬼の群れの中を駆け抜け、鋭い斬撃と光線が交錯する。空を泳ぐ怨霊たちは次々と切り裂かれ、残った断片は瘴気の中に消えた――空中戦こそ熊野鴉神流の骨頂なれば、対空攻撃はお手の物だった。
「――熊野鴉神流羽蝶舞」
囁く声も美しく破魔の鴉が残影だけを残し群れを壊滅させる。一方、地上では直毘人が炎をまとった十拳剣を構えていた。
「では、突貫させて頂きます」
炎の刃が地を走り毒雨虎の群れを包む。高温の火炎が瘴気を焼き紫の霧が橙に変わって弾けた。振り返らずに更に疾走、敵左翼を貫通し芹沢に迫る。その彼を止めようと突出してきた棘海鬱刺を、咎討が盾で弾き返し、更に同時に智麗と斗稀弥が横から撃ち抜く事で祓滅。
「左側、抜けた!」
援護を受けた直毘人は敵左翼を貫通、その勢いのまま芹沢を両断。立ち止まることなく駆け抜けた。十拳剣の刃先が橙の軌跡を描き、風を焼く。足元の石畳が爆ぜ、灰が宙に舞う。その疾走の刹那――彼は見た。
芹沢大介の身体が、崩れながら“膨張”していくのを。
「まずは見事。と言っておこう……この身体を賭けるに値する」
「……っ、瘴気濃度が跳ね上がってる!」
智麗の警告が霧の奥から響く。着地し隊列に加わった儚紅紫の瞳が、廃寺の中心に生まれつつある“渦”を見据える。
地面が陥没する。
土が液体のように沈み、瓦礫が飲み込まれていく。
次の瞬間、黒い海が噴き上がった。
否――それは海ではない。
瘴気と怨念が螺旋を描いて昇り、廃寺を軸にして回転している。
渦の中心から、巨大な輪郭が現れた。
「……まさか――」
咎討の声が掠れる。崩れ落ちた本堂の瓦礫を押し上げて青黒い鱗が空を裂いた。長大な胴が渦を巻く。その全長は二十メートルを超え、鱗の一枚一枚が呪符のように脈動している。頭部からは幾本もの角が伸び、その間に無数の眼が瞬いた。血のように赤い瞳が十を超えて空を睨み、口の奥で瘴気が泡立つ。硬直する人間組を横目に童売が界異計測器でその正体をスキャンする。
「正気濃度計測、穢装等級同位計算完了終わったどすえ――ヒット。ええと、界異分類は
深夜の山肌を這うように、瘴気の風が唸りを上げていた。湿った霧が音を持ち、空気そのものが“海鳴り”のようにうねる。地脈は断たれ、山は悲鳴を上げている――その中心に、それがいた。
溟渦龍。
芹沢大介の全てを代償として、現世に縫い付けられた災厄の龍。青黒い鱗は瘴気を孕み、光を拒むように鈍く輝く。一本の尾が地を薙ぐたび、大地が液体のように崩れ、岩盤ごと吸い込まれていく。その軌跡はまるで山そのものが“沈んでいく”ようだった。
「――来るっ!」
咎討の低い怒号が、轟音の中を貫く。特葬班が即座に陣形を整える。咎討はタワーシールドを正面に突き立て、護符を重ねるように展開。盾の縁が赤熱し、護符の術式が立ち上る。智麗は盾の影で膝をつき、クロスボウを引き絞った。銀矢の先に光の符を貼りタイミングを合わせ迎撃を行う為に狙いを定める。斗稀弥は反対側で大口径リボルバーを構え、弾倉を手の中で回転させる。その銃口からは、霊香が立ち昇っていた。
童売は両腕の先で糸のような光を紡ぎ、人形を操る。釘の雨を束ね、空間に封陣の布陣を描き上げた――その一連の動きは、まるで舞踏のように滑らかで、呪的な美しさすらあった。
しかし。
それでも――“防ぎ切れなかった”
溟渦龍が、息を吸った。
その瞬間、空気が反転する。
瘴気が螺旋を描き、山の風景ごと巻き上げていく。
空の星が歪み、重力の方向がねじれる。
「構えろッ!!!」
咎討の叫びと同時に、龍が咆哮した。
――溟渦の咆哮。
爆発音ではない。
“轟き”という言葉が足りない。
それは、世界そのものが軋む音だった。
吐き出された渦潮は、青黒く光りながら空気を裂いた。津波のような衝撃波がタワーシールドを直撃し、霊的な干渉が肉体を貫通する。
「防ぎ切れんッ……!!」
咎討の歯を食いしばる声が、軋む金属の音にかき消される。盾の護符が一枚、二枚と剥がれ落ちていく。それは紙ではなく、“命”を削り取られていくような感覚だった。結界の光が悲鳴を上げ、斗稀弥の外套が風で裂ける。
智麗のクロスボウが弦を鳴らす――発射どころではない為、鳴弦による穢れ散らしを試みたのだ。
視界は歪んだ。
天地の区別が消える。
瘴気が波となって押し寄せ、音も、風も、時間も呑み込んでいく。
「隊長、持たない――ッ!」
智麗が叫ぶ。
「下がるな、結界の縁を保てッ!」
咎討の腕に青筋が浮かび、盾が悲鳴を上げる。その背後で、童売の人形が次々と砕け散る。結界を維持するための霊糸が切れ、瘴気の波が押し寄せる。釘が風に舞い、燃える札が暗闇の中で散った。命の身代わりとなって、何枚もの形代紙が燃え尽きていく
「霊圧、限界値を超過ッ!」
智麗が結界の符を握りしめる。直毘人が一歩前へ出た。十拳剣の刃が橙に燃え上がり、炎が風に噛みつく。その仮面の奥には、静かな覚悟があった。
「……退く気はありませんよ、咎討殿」
「――頼めるかい?誰も仲間を失いたくない」
敵対者である呪詛犯罪集団のものにかけるには、余りにも率直な言葉に、燃え滾る剣の温度が僅かに上昇する。
「此処までよくやってくれました。直ぐに片付けます故、しばし耐えてください」
勢いよく飛び出していった火の剣と瘴気が噛み合い、夜が裂けた。その瞬間儚の声が響いた。
「全員、左へ回避――!」
鴉神剣が閃き光の線が闇を貫く。儚が跳躍し崩壊した廃寺の縁を駆けながら空へ跳躍。爆風が遅れて追いつき空間を砕いた。
山が崩れた。
地が割れた。
渦が、空へ伸びていく。
――念仏峠そのものが、崩壊していく。
側面に疾走した。この龍にこれ以上戦闘行為をさせてはならない。
「第十八隊長!隙を作ります、続いてください!」
直毘人の両脚が地を叩く――狼のように、両脚同時に踏み出す古の走法。
狼脚走法。
瞬間、彼の身体は残像を残すほどの速度で疾走した。龍の多眼が彼を追い、瘴気の奔流が襲いかかる。 彼の身体が燃え上がり、日炎祓術が陣を描く。燃え上がった火線が敵の眼を焼き、龍の鱗に一瞬の歪みを生じさせ自分に全ての視線を集中させる。
「……!」
儚の紅紫の瞳が揺らめくが、返答せず与えられた隙を利用。鴉神剣の機関部を解放し、その真の力を顕現させる。儚は鴉神剣をゆっくりとその刃を胸の前に掲げた。
「常世国に神留り坐す――大親鴉大神、八咫鴉の神力以て……」
祝詞の言葉が夜気を震わせる。声は冷たく、それでいて神殿の鈴音のように澄んでいた。次の瞬間――儚の背後に“門”が現れた。
黒と金の装飾を施された巨大な門。その表面には無数の勾玉の文様が蠢き、門の隙間からは、星のように煌く蒼の光が流れ出す。しかしその光は、温かいものではなかった。
――冥府の光。
常世の国から、死せるものたちを呼び戻す光。
「熊野鴉神流
門が開いた。黒い羽が嵐のように吹き荒れ、夜空に乱舞する。風の音が“羽ばたき”へと変わり、峠の全域に深く落ちる影が広がった。
「――常世迎えの剣」
鴉神剣が閃光を帯びた。刃が黒と金の光を交錯させ、空間そのものを斬り裂く。門の奥から、蠢く影が流れ込んできた。それは死ではなく――“帰還”だった。
八つ首の蛇に似た巨大な影。
それぞれの首が異なる神を象徴し、
鱗は失われた神々の祈祷符で覆われている。
目は閉じられていたが、
その一瞬の呼吸だけで大気が沈む。
「来たれ、死せる神々よ!」
儚の声が落ちた瞬間、影が目を開く。
――それは
かつて天と地の狭間で斃れた古代の神々の残滓。
八つ首の蛇の姿を借りて、今、冥府の門より帰還する。
「■■■■■■――――!」
声にならぬ咆哮が響いた。空気が震え瘴気が退く。
溟渦龍が反射的に後退する。
だが遅い。
雄呂血の八つの眼が同時に輝いた。
八本の首が絡み合い、天を貫くように伸び上がる。
鱗がめくれ、その下から蒼光が溢れ出す。
それは人が為せる祓いでも破壊でもなく――神格の裁きだった。
「滅びよ」
儚の呟きと共に、回避不能の神速をもって雄呂血が咬みついた。
八つの顎が同時に溟渦龍の胴を噛み砕く。鱗が悲鳴を上げ、瘴気が逆流する。龍の尾が暴れ、大地を抉るが、雄呂血は揺るぎもしない。その巨体が溟渦龍を完全に包み込み、空と地の境界を歪ませながら締め上げていく。
「我が魂を還す――常世の途へ」
儚の声が門の奥で反響した。
黒い門が再び開き、
その向こうに広がるのは光でも闇でもない“無”。
雄呂血が溟渦龍に致命傷を与えたことで、龍の断末魔が山を揺らすが、この古ぶるしき
「――閉門」
儚が鴉神剣を静かに鞘へ納める。門が音もなく閉じて消える。その瞬間、山が“息を吹き返した”夜風が戻り、遠くで虫の声がした。破壊し尽くされた峠に、わずかな生命の気配が蘇る。
咎討は盾を下ろし、息を吐いた。
「……終わった、のか」
死闘の残滓の中で、儚が静かに振り返る。その頬にかすかに血が流れ、瞳に淡い光が宿っていた。
「ええ」
儚の背に再び風が吹く。この夜、有史以来唯一呪詛犯組織に加わっている熊野の鴉、常世の門番その一羽――何故熊野鴉神流が没落してなお祓魔陰陽寮の主家、従肆位の位を保っているのか、その理由をまざまざと祓魔師達は思い知る結果となった。
不死殺しの祓魔術、冥府の見張り八咫烏