溟渦龍の巨体が冥府の門に吸い込まれ、跡形もなく消滅してから、暫時。念仏峠を覆っていた瘴気も晴れ、夜気は清澄さを取り戻す。だが空気にはなお焦げた金属臭と、祓串の焼ける匂いが残っていた。
倒木や砕けた岩の上に、特葬班のメンバーが腰を下ろす。咎討は盾を地面に突き立て、深く息を吐いた。
「……全員、生き残ったね。良かった」
短い言葉。しかしその声には、仲間を守り抜いた安堵と疲労が入り混じっていた。斗稀弥は回転弾倉の空になった祭具を弄びながら、苦笑した。
「まさか龍を相手にするとはな。流石にありゃ俺たちだけじゃ無理だったろうよ」
彼の視線は自然とミワシ隊の二人へと向かう。童売は肩に人形を戻し、血のついた五寸釘を丹念に拭っている。
「残り形代紙二枚……やっぱりカナちゃんおらんと、うち寂しいわ」
智麗は矢筒を整理しながら儚を見た。視線が彼女のタクティカルハーネスの仕様をなぞる様に移動。
「……それ、やっぱり境対規格最新型の装備拡張システムですよね? 市販じゃまず手に入らないはず……」
儚は視線も向けず、淡々と返す。
「注文すれば届くわ。口座の名義を間違えなければ」
「口座……? まさか、普通に購入してるんですか!?」
智麗の目が丸くなる。儚は小さく頷き、まるで当たり前のことを説明するように続ける。
「九鬼分家の私のアカウントや口座名義は今も生きてる。問屋も企業も“買える客”には売る。それだけ」
祓魔陰陽寮経由で正規品が購入できると言う事だが、しかし、そのあまりにも素っ気なくかつ大胆すぎる説明に、直毘人が思わず口元を引きつらせた。
「……第十八隊長。まさか呪詛犯罪者の身で、正規ルートで装備を購入しているとは、その。図太いというか……無頓着というか……」
儚は一切悪びれることなく、肩をすくめた。
「使えるものは使う。それだけ」
その冷淡な声に、智麗はなぜか安心したように笑った。
「……なんだか、人間味があって少しホッとしました」
咎討が立ち上がり、全員を見渡す。
「お互い任務は果たした。残念だけど、ここでの共闘はここまでだね」
その声に応えるように、儚は剣を納め直し、淡々と告げた。
「ええ――私たちはここで撤収する」
直毘人は深く一礼し、特葬班へ向かって言葉を残す。
「君たちの力量は素晴らしかったですが、それ故にいずれ我々の妨げとなるかもしれません。その時が来れば、再び相見えることになるでしょう」
空気が凍り付くような言葉。しかし特葬班の誰一人、反論は口にしなかった。それはお互いの立場から言えば避けられない事だったからだ――もちろん、彼等と戦う事になるまでには、力量差は埋めるつもりだが。
儚は最後まで表情を変えず、背を向けた。天狗面の男が続きその姿が闇に消える。峠に残されたのは、深い静寂と、それぞれの胸に去来する複雑な余韻だけだった。
特葬班は翌朝、境界対策課の一室にて上級神祇官久部へと報告に赴いた。久部は窓際の椅子に腰掛け、外の庭園に視線を向けたまま、特葬班の説明を静かに聞いている。彼の仕草は優雅でしかし一本針のように鋭い。資料の行間を読むように、久部はゆっくりと口を開いた。
「芹沢大介……彼のやったことは私の趣味ではない。旧軍の呪詛理論を操るとはいえ、術式の粗雑さと呪詛の量的肥大性は不快だ。芸術にたとえるならば、汚れの塗り重ねが美だと勘違いしたような所業だ」
咎討が報告書を差し出す。斗稀弥と智麗、童売は肩越しに緊張の面持ちで並ぶ。久部は細長い指で書類に触れ、文字をなぞるように目を走らせた。
「芹沢を祓滅したのは評価する。しかし重要なのは、この事件をどう扱うかだ。情報の拡散は禁じる。国民の動揺を呼び―——それを利用して動く者もいる。ミワシの行動も今回は利があったが、公には出来ない。後方処理班を出しそのまま現場の整理、痕跡の抹消、および一部情報削除を実行する」
久部は冷徹で、しかし丁寧に指示を並べた。彼の言葉に裏の意図がないわけではない。ミワシ隊という存在は、久部にとっても厄介な変数でもあるが、芹沢の所行は彼の美意識にも反していた。
「それから一つ。芹沢の術理の一部は、確かに独創的だ。だが美的な均衡を欠くが故に結果はこうなった。彼のような者が増えるならば、国は、いや——―我々は形を失うだろう。これが私の最も忌むところだ」
特葬班は静かに頷いた。久部の宣告には暗黙の比喩と命令が含まれている。事件は表には流れず、しかし裏で綿密に管理される。彼らは疲労の惨事を抱えながらも、次に来る事務的な“掃除”へと手を進める事になるだろう。その去り際、久部は自らのコップに手を伸ばし、微笑を浮かべた。
「よくやった」
彼の眼差しは遠くを見ていた。だがその瞳にほんの一瞬だけ、深い哀惜が宿った。芹沢の行為は、久部の――そして多くの者の――掌中の秩序を傷つけるものだったのだ。
ミワシ隊の地下拠点へ戻ったのは夜半をまわった頃。湿った石の通路に蛍光灯の白光が冷たく落ちる。指令室はいつもより静かで、烏有は長い軍帽を手に立っていた。金蓮花苺は小さな台を引いて、熱いお茶を差し出している。日向直毘人はいつものように整然と立ち、儚は鴉神剣を鞘に収めたまま、無表情で立っていた。上機嫌な時の烏有の声はよく通る。
「経過を聞く。芹沢大介の界異、及び出現した溟渦龍の状況を報告せよ」
儚は短く、だが明確に告げた。
「……目標の滅殺を確認。永世結界の主機構は壊滅。残存する結界素子は断片的に回収成功。損害は最小限――ただし、芹沢の術理の一部は特異で、解明に時間が要」
烏有は儚をじっと見据えた。若い顔立ちの奥に、戦歴を切り詰めたような冷徹さが見える。瞬きひとつせず、言葉を選んで吐いた。
「ミワシとしての解析は急ぐ。永世結界が“醜の御楯”と如何に干渉しうる可能性があったのか、及び今後の安全対策を提示せよ。芹沢の術式は放置できない」
花苺が差し出した湯気の中で、直毘人が一歩前に出る。深々と一礼した。烏有の口元にわずかな影が落ちる。複雑なものを飲み込むようにして、彼女は言葉を継いだ。
「……だが今はまず、脅威を退けた事を喜ぼう。第十八隊長、第四隊長。よくやった」
その短い賞賛に儚は一瞥だけで応じた。喜びでも驚きでもないただ淡い確認。それを見た花苺は、にっこりと笑って前へ詰め寄る。
「第十八隊長、お疲れさま!せんせが心配してたよ。お風呂があるからまずはしっかり温まってね〜。ご飯ならたぁくさん作ってありますから、まずは手洗いうがいをしていらっしゃい」
花苺の声音はぬくもりに満ち、場の緊張を一瞬和らげたが、儚はいつもと同じように無表情のまま返答はなかった。代わりに日向が仮面の奥で少しだけ口角を上げ、しかし真面目に言葉をかける。
「第十八隊長。共に戦えたことを光栄に思います。私は貴方の事を誤解していたのかも知れません。いつも貴方はお断りになられるお食事ですが、今回の振り返りを兼ねる事で効率的な食事が取れると思うのですが」
――いつものように断られるだろうな。そういう空気が強く漂う中、儚は短く応じた。
「了承。ただし不要な干渉は受け入れない」
それは合意とも拒絶とも取れる返答だった。烏有はそれを見て、胸の奥にある何かを押し込むようにして薄く笑った。
「――長年、本当に長い間一緒に戦ってきたが、同じ釜の飯を食うのは初めてだな。第十八隊長」
儚はいつものように無表情のままだったが、拒絶だけはしなかった。