地の底のように静かな部屋だった。天井は低く、壁一面を覆うのは古い資料棚。崩れかけた瓦礫の上に無数の紙束が積まれ、電灯がひとつ、光っている。その光の下に、ひとりの少女がいた。
九鬼儚。
彼女は無言で机に向かい、筆を走らせていた。紙は古く、端が湿気で波打っている。だが筆致は驚くほど正確で、ほとんど祈りのような緻密さだった。石造りの壁と剥き出しの配管、裸電球の下で照らされる机の上には、境対から密かに流出させた資料の束と、幾百枚にも及ぶ写しが整然と積まれている。小さな祭壇の上に、中で粗く印刷された戦闘写真が御神体のように安置されている。映っているのは、望絶の車体を引き裂き姿を現す少女――九鬼鼎。
書き連ねられるのは、報告書。
宛名には――
『九鬼家本家 御中』
薄い唇がかすかに動く。
声にならぬ声で、筆を進めながら彼女は読む。
> 「第十八番隊残存戦力、当方のみ。特葬班と協力し、芹沢大介を祓滅す。
> 結界は閉鎖。人界への波及なし。犠牲者、最小限。
> ——鼎様、無事でいらっしゃることを祈る」
筆が止まり、儚はそっと息を吐いた。
微笑――それは、人としての温度をほとんど失った表情だった。
壁際の棚には、同じような報告書が無数に並んでいる。
背表紙には手書きで「第千百七報」「第二千百八報」……そして「第三千六百三十一報」。
いずれも、誰の手にも渡らぬまま、埃を被っていた。
紙の隙間には蜘蛛の巣が張り、時折どこからか水滴が落ちる。
だが儚はそれを気にもしない。まるで、それが“日常”であるかのように。
「……これで、報告完了。本家の皆々様も、これでご安心でしょう」
小さく呟く声は、優しく、そして空虚だった。
紅紫の瞳がわずかに光を帯びる。
彼女の指先には、微かに黒い紋様が浮かんでいる――界異化の証。
皮膚の奥でそれが脈打ち、時折、机の木目が波紋のように歪んで見える。
だが儚の意識は、そこに一切触れない。
自分が“異形”となった事実も、追放された記録も、彼女の記憶には存在しない。
九鬼家の印章が押された紙を取り出し、いつものように封を閉じる。
その三つ巴の印章は既に朽ち、封蝋は割れて久しい。
それでも儚は、変わらぬ手順で封を結ぶ。
「——これも、九鬼家の義務ですから」
封筒を机の端に丁寧に重ねる。
その瞬間、どこからともなく微かな風が吹いた。
崩れかけた壁の隙間から、夜の月光が細く差し込む。
それが儚の髪を照らし、黒の中に一筋の白が混じる。
儚はその光に気づかず、ただ穏やかに微笑んだ。
「鼎様、どうかこの報告が、あなたの御心に届きますように」
筆を置き、目を閉じる。
耳を澄ませば、遠くで誰かの声がするような気がした。
それは夢の中で一度だけ聞いた、あの声――。
けれど、記憶はそこまでで途切れる。
やがて、部屋の灯がゆっくりと揺らめいた。
炎ではない。瘴気が薄く漏れ、光を歪めている。
机の上の報告書が一枚、ふっと風に舞い上がり、床に落ちる。
その白紙には、誰の印も押されていない。
儚は静かに立ち上がり、もう一度、机に向かう。
また、筆を取る。
また、宛先のない報告を記す。
まるでそれが、彼女の祈りそのものであるかのように。
——九鬼儚は、報告を続ける。
誰にも届かぬまま、終わらぬ使命を果たし続ける。
> 「鼎様……今日も、世界は静かです」
灯が揺れ、夜が沈む。
彼女の声だけが、静かな地下室に残った。