……眠りの奥、
水底に似た静寂の中で、紙をめくる音がしている。
暗く、深い。世界のすべてが青黒い揺らぎとなって漂っている。
足元に、石造りの床。
どこまでも低い天井と、崩れた書棚。
光源はひとつだけ、裸電球のように垂れ下がり、かすかな灯を落としている。
その光の下に、ひとりの影がいた。
黒い羽織をまとい、長い髪を垂らし、机に向かって筆を走らせる少女――。
その顔は霞んで見えない。だが、紅紫の瞳だけがはっきりと、深海の底のように光っていた。少女は筆を止めない。微かに、唇が動いた。
「——どうか、この報告が、あなたに届きますように」
鼎は胸の奥に、知らないはずの懐かしさを感じた。
言葉ではなく、熱のようなものが伝わってくる。
その場にいるはずのない存在が、目の前に「いる」という確信。
彼は手を伸ばした。
指先が光の糸に触れる。
その瞬間、世界が震え、机に積まれた無数の報告書が風のように舞い上がった。
少女が振り向く。
顔は見えない。だが、瞳だけが、まるで泣いているように光っている。
「……鼎様」
その声は遠い鈴の音のようだった。
鼎はその疲れ果てた人をただ、その存在を労わりたいと、強く思った。
「――よく頑張ったわね」
伸ばされた鼎の手が、その異形の耳が伸びる頭を撫でる。
光が溶ける。
筆が床に落ち、紙がひとりでに封を閉じた。
その声が、目の前の少女の胸の奥にまでしみ込んだ瞬間――
世界は再び静寂に沈んだ。
目を覚ますと、鼎の掌には何も残っていなかった。
ただ、自らの手にはやわらかな温もりが残っている。
誰のものともわからない声が、夢の底にまだ響いているような気がした。
彼はしばらく寝台の上で、拳を閉じたまま動けずにいた。
その夢を、ずっと忘れられないだろうと、胸のどこかで確信していた。
湿り気を帯びた地下の密室。
石造りの壁と剥き出しの配管、裸電球の下で照らされる机の上には、境対から密かに流出させた報告書の束と、幾百枚にも及ぶ写しが整然と積まれている。
九鬼儚はその中央に腰を下ろし、両手で報告書を捧げ持つ。
黒い獣耳がぴんと立ち、内側の白毛がわずかに震える。
「……鼎様の……新たなる御活躍……」
彼女の声は囁きのように低く、けれど熱に震えていた。
『大阪環状線事変、国際展示場襲撃事件、横浜駅覚醒事件――九鬼鼎、境界異常発現下において特葬班の一員として参加し、人命を多数救出。指揮・胆力・戦果いずれも顕著』
読み上げるごとに、その目は光を増し、頬が朱に染まる。
やがて儚は報告書を胸に抱き、堪えきれぬ嗚咽のような笑みを零した。
先程の“奇跡”を反芻する。
「……ああ……!鼎様……!この儚は……何と幸せな報せを頂いたことでしょう……!」
背後の闇がざわめく、黒い穢れが机を叩き、喜悦の太鼓のように鳴り響く。
儚の歓喜に呼応するかのように。
粗く印刷された戦闘写真。
望絶の車体を引き裂き姿を現す少女――九鬼鼎。
嵐の様な攻撃、鴉の蹴爪を使った形代紙を枯らす斬撃で容赦なく歴戦の呪詛犯罪者を八つ裂きにする鼎。
そして、無限に増殖し続けるⅤ号級界異“横浜駅”を前にして、臆せず対話に挑んだ鼎。
儚はそれらを両手で掲げ、まるで御神体でも拝むかのように額に押し当てた。
「鼎様……御身はやはり……太陽そのものにございます……御身こそ真の八咫鴉……」
涙がとめどなく流れ、写真を濡らす。
儚はそれを唇に触れさせ、息を詰めて囁いた。
「どうか……どうかこの儚に、これからも……御歩みを拝し続ける許しを……」