戦闘が終わった後の峠は、奇妙なほどに静まり返っていた。霧蟹将軍の巨体が、霧のように崩れ落ちていく。甲羅に刻まれていた軍旗の残滓が光の粒となり風に溶けた。
瘴気の濃度がやや下がると竹の葉が音を取り戻す。湿った夜気が肺を満たし、鉄と血と油の匂いがゆるやかに散っていった。特葬班は再び峠の奥へと進軍を開始する。その背後――少し距離を取って歩く二人の影があった。
九鬼儚と、日向直毘人。闇に沈む峠道を進みながら、彼らは足音を殺して並んでいた。やがて直毘人が口を開いた。低く周囲に聞こえぬように。
「……噂以上ですね。あの特葬班。正直、ここまでとは思いませんでした」
儚は前を見据えたまま答える。声は淡々として感情の波を欠いていた。
「当然。特葬班は、今の境対の全戦力でも上位10%には入っている」
直毘人はゆっくりと頷いた。
「……確かに。私達と言う異物を入れてさえ盾、火力、支援、補助、全てが呼吸一つ乱れがありませんでした。あの盾役――咎討という男。まるで、弾丸の飛ぶ軌道すら予測して動いているように見受けられました」
儚の横顔が、微かに月光を受けた。黒髪が夜の風に揺れ、紅紫の瞳が静かに光る。
「彼が優秀な指揮官なのはそうね。でも、それだけではあの連携は成立しない……、個々が尖り過ぎていていて兵として使いにくい。あの構成だと、普通は統率が崩壊するはず。でも――特葬班の真の特異性は“界異”を潤滑油にするという点にある」
言葉を切って、儚は少しだけ前を歩く童売の背に視線を向けた。直毘人が眉をわずかに上げる。
「潤滑油、ですか」
「……そう。人形の界異を元にした縁起。人を良く理解してるから、呼吸を合わせるのが上手く、情報処理能力や穢れに関する知覚の高さ、更に思考の偏りがない。それが隊全体の呼吸を整えている」
「そうして常に強みだけを押し付け続けるわけですか……なるほど。噂の“タクティカル祓魔師”の所以、というわけですね。道理で、楽が出来るはずです」
儚は小さく息を吐いた。それはため息のようでもあり、感嘆のようでもあった。
「けれど、それでいい」
直毘人は短く頷いた。
二人の会話はそこで途切れた。夜風が吹き、遠くで竹が擦れる音がする。僅かに晴れた瘴気の霧の中に敵の気配は遠く、今しばらくは芹沢の追撃にに専念できそうだった。
夜は深く峠の霧がわずかに晴れ始めていた。山道を進む列の足音が一定のリズムで響く。火照った装備が冷えて軋み、金具が擦れるたびに乾いた音が重なる。広域を支配する大型の界異を撃破した直後なためか、未だ敵性勢力と接触は無かった。
「……あの、それって、《Murasame Industries》の最新型防呪ストラップですよね?」
列の中ほど、智麗が歩きながら声を上げる。その指が示した先、儚の脚元。月明かりに照らされた黒光りするストラップが、風を切ってわずかに鳴った。
「そうよ……何か?」
何時も通り儚の返答は短く、愛想の欠片も見いだせない。
「“何か”って……普通、そんなの手に入りませんよ!?特に呪詛犯罪組織の補給網じゃ――ああ!そのサイドホルダー、《Type-89 Mod祓弾ケース》と同規格ですよね? 境対でもまだ試験運用段階なのに!どうして……」
儚は足を止めず軽く腰に手を添えた。金属の小さな鳴りが夜風に溶ける。“どうして”の部分をはき違えた答えを返す。
「携帯性が良く互換性が高いから。境界対策課の標準ペグも装填可能で、迅速な弾薬交換が可能……偵察任務では必須」
儚は一切表情を変えず、事務的に答える。
「……それ、胸元の赤青のデバイスは?」
「《式神呼応型バッテリーユニット》。並列接続で呪力供給を安定化。冷却フィンの配置を改造済み。例えばあなた達特葬班も経験したような、固有結界内に引きずり込まれた際でも身体性能低下が12%以下に抑えられる。結界安定用の副結線も追加してある、個人的な結界防御として使い勝手が良いから気に入っているわ」
周囲を鋭く警戒していた斗稀弥から呆れた様な声が漏れる。
「……お前、どこの装備商会の回し者だよ……」
「必要だから揃えているだけ」
儚は短く言う。冷ややかだが拒絶ではない。そこにあるのは純粋な“任務の延長”としての会話だったが、智麗は瞳を輝かせて前のめりになった。
「すごい……!境対より揃ってるじゃないですか!私も境対に来る前、装備で苦労しましたから……こういうの、ほんと羨ましいです!」
斗稀弥が前を見たまま苦笑する。
「行軍中に装備談義とか、もう戦場オタクの行軍じゃねぇか……」
童売が後列でくすりと笑う。
「ふふ、ええやん。真面目な女の子と無表情な子が仲良うしてるんや。歩きながらでも微笑ましいわ」
風が木々を渡り、狩衣や祭具がわずかに鳴った。その音の中、儚は冷静に智麗の問いへ答え続ける。歩調は乱れず呼吸も一定。その戦場そのものに適応した精密機械の様にも見えるが――そのやり取りを後方から見つめる者がいた。直毘人だ。
彼は黙って足を進めながら、仮面の奥で眉を寄せる。霧の切れ間に映る儚の横顔。あの女が、あれほど自然に他人と会話している――それ自体が異常だった。
ミワシ隊では、儚は孤立していた。彼女は命令以外の言葉を交わさず、報告も必要最低限で終える。何を思い何を信じているのか誰も知らない。その儚が今、特葬班の祓魔師たちと並んで歩き、軽口を交わしている。
(……変わったのか、それとも――引き出されたのか?)
直毘人の思考が動く。さらに彼の中で、もうひとつの違和感が膨らんだ。儚の装備――最新の防呪機材、祓弾ケース、式神対応の防護ユニット。どれもミワシ隊の補給記録には存在しない。第十隊《補給隊》のルートを通さず、儚は独自に装備を更新している。ありえない。界異である彼女が、正規の供給線を離れたままこれほどの品質を維持できるはずがない。
(どこで、誰が――)
その思考を遮るように、智麗の笑い声が響いた。
「儚さんは合理的な祓魔師なんですね。でも呪詛犯罪組織に指定されているのに、通販まで普通に使ってるのは何というか……」
儚は短く息を吐き、紅紫の瞳を前へ向けた。
「九鬼分家としての私が作成したアカウントは凍結されてない。合理でなくては、生き残れない……祓魔師は特に」
直毘人はその背を見つめながら、知らずに息を飲む。彼女の言葉が、夜風に混じって耳の奥に残った。
列は続く。峠の道は狭く、風が強い。足元の小石が転がるたびに音が立ち、月光が霧の間から差し込む。だがその中で――確かに、何かが変わっていた。儚の歩幅が、特葬班の歩調とぴたりと合っている。それは無意識の調和、あるいは……信頼の兆し。
直毘人はそのわずかな変化を見逃さなかった。そして、心の奥でひとつだけ、名もない感情が芽吹いた。
(九鬼儚……貴方は、何を目指しているのです?或いは先生閣下が信を寄せる秘密はそこにあるのだろうか)
夜風が答えをさらい、列は再び闇の峠を進んでいった。火も止まり、笑い声も遠ざかる。だがその足音の奥底に、まだ微かな温度が残っていた――戦場という行軍の中で、ほんの束の間だけ生まれた、静かな人の灯火だった。