棺の帰還者(イモータルリターナー)   作:P-PEN

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鮫嵐

 

 

 山腹を削るように続く土道は、雨上がりの泥でぬかるみ、足裏が沈むたびに粘性の音を立てた。濃密な瘴気が芝生のように地面に生え、光を吸い取って視界を曇らせている。遠近の境界が曖昧になり、敵影も味方の輪郭も一歩先で滲む。

 

 九鬼儚は、峠の斜面に埋もれた石祠の陰からそっと痩躯を外した。瞳がわずかに紅を帯びる。視線は靄の向こう、霧を縫って現れた“潮の気配”を捕捉した。

 

 「……来る。高度二十。小型の潮型、十数体。群れで浮遊」

 

 その報告に咎討がすぐ反応する。盾を構えながら短く命を放つ。

 

 「全員、二列展開!前衛は膝を落とせ、稀弥さん、智麗君、射角を広く取るんだ」

 

 その瞬間――霧が裂けた。黒い閃光が突き抜け、木々の間から空飛ぶ鮫が現れる。それはただの魚ではなく、泳ぐ亡霊そのものだった。瘴気の流れを鰭のように滑り、宙を泳ぐ。半透明の体の中で骨が光り、赤い瞳孔が暗闇を切り裂く。開かれた口から、海水のような血の霧を噴き出して突撃してきた。

 

 「咎討、左前方四十度、二体接近」

 

 「了解!」

 

 盾が地を叩く。咎討が前に出るや否や、鮫の顎が彼に襲いかかる。しかし、その巨口が閉じる前に――盾のエッジが閃いた。

 

 「ふんッ!」

 

 鈍い音と共に飛び掛かってきた個体全てを吹き飛ばし、その内一体の頭蓋が裂け、黒い水が霧の中に飛び散る。斗稀弥の射撃がそれを追い打つ。

 

 「寝てろ!」

 

 リボルバー祭具が轟き、呪弾が鮫の核を貫いた。光と瘴気が爆ぜ、残骸が空中で弾けて消える。更に智麗の銀弓が輝きを放ち、矢が接近していた個体を正確に貫通。護符が炸裂して海霧が裂け、空を泳いでいた二体が墜落する。

 

 しかし――残りはまだ十を超えていた。瘴気の層を泳ぐ鮫たちが、まるで意志を持った群体のように旋回する。尾の触手で地を穿ち、地下から襲い上がる個体もいた。童売が低く笑い、札を八本の腕で散布する。

 

 「はいはい、そんなとこから出てきたら痛いでぇ?」

 

 地面が光り、祓札が連動。渦状の結界が広がり、飛び出した鮫を捕縛した。鰭がもがき、肉体が震える。そこへ――咎討の突進。彼の盾が結界の内側を叩き割り、内側の鮫をまとめて押し潰す。猛然と振り下ろされた大型黒不浄の刃が重なり、斗稀弥の射撃が一拍遅れて胸を撃ち抜いた。

 

 「左翼、まだ二体抜ける!」

 

 斗稀弥の銃声が次弾への予備を告げるリズムを刻む一方で、空を泳ぐ鮫の群れは黒い鱗を震わせ、瘴気の膜を切り裂くように滑走してくる。

 

 直毘人はその声を聞くや否や、足の裏で地形を読む。泥に沈む感触、石の角、ぬかるみの粘り——すべてが彼の踏み場選びに情報を与える。十拳剣を軽く握り直し、刃先を地面に向ける角度を測る。彼の周囲では智麗の矢が空を断ち、童売の祓札が霧を凝縮して小さな渦を作り始める。直毘人は僅かに視線を左に振り、儚の位置を確かめる。彼女は前列の少し右、歩を止めることなく剣を携えていた。

 

 「第十八隊長、側面を任せます。私が中心を引きつける」

 

 直毘人の声は小さく、合図を送る。儚は返事をしないが、肩越しに一度だけ視線を返した。既にそれだけで二人には足りていた。

 

 直毘人が前に踏み出すと同時に、潮のような瘴気が地を割って二体の鮫が跳び出してきた。顎が空を引き裂く。彼は庇護の円を作るために剣を振る。刃が地表を走ると、刃先から小さな火花が飛び、瞬間的に瘴気の膜を焼き裂いた。そこへ狙い定めたように、儚がひと声も上げずに動いた。

 

 鴉神剣の根元でエメラルドのタブレットが仄暗く脈動する。儚の動作は機械的に精密だが、機械ではない。歩幅をわずかに調整し、体重を乗せた片足でバランスを取りながら、刃先を敵の方向へ向ける。刀身の輪郭が滲み、常夜ビームもとい――ヘルメスの鳥が出る前の霊気が辺りを包む。

 

 「……貫け」

 

 刀身が微かに震い、黒緑の奔流が刃先から一気に伸びる。伸びた光条は弾丸のように直線を描き、最初の鮫の腹部を射抜いた。瘴気の膜が噴き上がり、肉体が裂けると同時に血潮のような霧が周囲に広がる。鮫は空中で身をくの字に折り、尾触手が空気を叩いて小さく瓦解した。

 

 直毘人はその隙に一歩踏み込み、十拳剣を振るう。彼の動作は儚の射線を意識したものだ。彼は自らが作った切り返しの間合いへと相手を誘導し、儚のビームが通過した後の空間へ刃が入る。刃が瘴気を切り裂くたび、風圧が生まれ、泥が跳ねる。彼の剣先は残心の余韻を残しながらも次の標的を捉え、炎の紋様が刀身を走って別の個体に焼印を押す。

 

 儚は足を止めず、リズムを維持したままに次の照準を定め、鴉神剣に組み込まれたエメラルドタブレットが再び微光する。閃光は鱗を目掛けて伸び、次の鮫の胸を割った。光が散るたびに瘴気の層が薄く剥がれ、智麗の矢や稀弥の呪弾が入りやすくなる。彼女の射撃は一撃必殺ではなく、戦線における情報の書き換えだ——相手の運動と装甲を強制的に変え、味方の次の動きを生み出す。

 

 直毘人は儚の動きに合わせ、呼吸を整えた。彼の動きは豪奢ではないが、ひとつひとつが無駄なく敵の選択肢を削ぐ。儚が常世ビームを撃ち、鮫が暴れれば、彼は即座にその反動を受け止め、別の鮫が潜行して奇襲しようとする角度を切り返す。二人の連携は言葉を介さない協奏で、視線と刃先の合わせだけで成立している。

 

 ――空気が裂ける音。エメラルドの光と鉄の熱が混じり合った匂い。泥が跳ね、瘴気の泡が弾ける。群れのうち二体が同時に墜ちると、残る個体たちは一瞬の逡巡を見せた。その“間”を直毘人は見逃さない。彼は剣を水平に振り炎を走らせると、地面を叩く鮫の進路を限定した。儚が放った閃光は濁った空気を切って走り、残る二体のうち一体を綺麗に吹き飛ばす――それは直毘人がもう片方を切断し終えるのと同じタイミングだった。

 

 「認めねばなりますまい。ただ一人の第十八隊の名は虚名ではありませんね」

 

 「狼脚走法を使った突破力は衰えたとはいえ、鮮やかなものね」

 

 その間にも、彼らは歩みを止めない。行軍という基盤の上で、攻撃と移動を同時並行で行う高度な戦技だ。儚の射撃角度、直毘人の膝の曲げ方、足裏の沈み具合――細部の調和が、群れの切り崩しを可能にしている。

 

 やがて最後の一匹が虚空に消滅した。空中に漂っていた瘴気の層が裂け、夜の空が一瞬、クリアになる。二人は視線を交わすことなく、自然に次の歩幅を合わせた。直毘人は短く息を吐き、儚は無言のまま鴉神剣に手をかける。機関部のエメラルドタブレットが放熱を行い蒸気が排出される。

 

 

 霧が晴れ、辺りに静寂が戻る。 戦場は一瞬だけ呼吸を取り戻した。

 

 「……終わった、か?」

 

 斗稀弥が息を吐く。だが儚は剣を収めなかった。その瞳はまだ、靄の向こうを見ている。

 

 「……違う。今のは先触れ」

 

 咎討が眉をひそめる。

 

 「先触れ……?」

 

 儚の黒い獣耳が微かに震えた。

 

 「海の瘴気――上層じゃない……もっと深いところから来る」

 

― 深海、山中に来たる ―

 

 最初に感じたのは、音だった。山の奥――どこか遠くで、低く軋むような“うねり”が地を伝ってきた。地震のようでいて、震動は細かく、波打つように脈打っている。その律動が、まるで海流のようだった。

 

 峠の稜線をなぞるように、風が止む。冷えた霧の中に、異質な湿気が混ざった。塩の匂い。魚の血のような生臭さ――海など、ここにはないはずなのに。

 

 「……潮の匂いだ。」

 

 咎討が低く呟いた。儚は、少し前方の石祠の影から身を乗り出した。再び急激に靄が濃く、視界は五メートル先が限界。それでも、彼女の紅紫の瞳は“何か”を見ていた。気配――大気の密度の変化、見えぬ波が這い寄ってくる感触。

 

 「……何か、沈むような……」

 

 智麗が弓を握りしめる。童売の八本の腕が、祓札を構えたまま微かに震えていた。

 

 「全員、足元に注意するんだ」

 

 咎討が言い終えるより早く――地面が鳴った。ぬかるみの泥が音もなく泡立つ。水などないはずの土が、ゆっくりと沸騰する。その泡から、淡い青の光が漏れる。やがて泡は破裂し、飛び散った泥が“塩”を含んでいた。

 

 「海水……?」

 

 斗稀弥が訝し気に呟く。ぬるりとした粘度。冷たいのに、ぬめる。

 鼻を突く、潮と腐敗の混ざった匂い。

 

 「……違う。これは水じゃない。瘴気」

 

 儚の声は何時も通りの冷たさで響く、その瞬間、音が消えた。

 

 世界が、水底になった。

 

 ――ズゥゥン、と低い音が鳴る。

 

 山が沈む。

 霧が圧縮される。

 空気が押し潰されるような重みが全員の胸を圧迫した。

 耳鳴りがし、視界が暗くなる。

 風が止まり、音が歪んだ。

 

 「……来る。」

 

 儚の言葉が震える。

 

 足元の地面が膨れた。次の瞬間、泥と岩を巻き上げ、黒い潮柱が爆発した。それは、そこに現れた。全長十メートルを超える巨体。姿は鮫に似ている。だが、それは生物ではなかった。

 

 体は半透明――光を透かすが、内部には骨が浮かび上がっている。白骨と瘴気が混ざり合い、ねじれ、流動しながら形を保つ。皮膚の代わりに黒い霧がまとわりつき、その表面には錆びた銛や破れた網、浮き玉、船板の破片が埋め込まれていた。それぞれが淡く光り、まるで“死者の遺品”のように震えている。

 

 口が開く。円環状の顎の内側に、無数の牙が螺旋を描く。

 牙がひとつ回転するたび、鉄が擦れる音が夜に響く。

 ぎり、ぎり、と。

 それは生物の鳴き声ではなく、船が沈む音だった。

 

 「Ⅲ号級界異――潮骸鮫」

 

 儚が呟く。

 言葉は冷静だが、声の奥に微かな震えがあった。

 

 「起源は絶滅した深海の巨大鮫達と、漁村の死者の怨念融合体……出現周期、四十年……」

 

 「資料でしか見たことねぇ……実在してたのかよ」

 

 斗稀弥の声が乾いている。銃を構えたまま、指が汗で滑るのを感じた。咎討が一歩前に出た。盾を地に突き立て、結界の術式を走らせる。

 

 「全員、陣形維持。あれは比較的動きが読みやすい相手だ――でも、地形が味方するとは限らないよ。常に足元を見るんだ」

 

 空が歪んだ。潮骸鮫の体がゆるやかに浮き上がり、その巨体が、まるで海を泳ぐように空を泳ぎ始めた。瘴気の流れを鰭が掴む。尾の触手が鎖のように揺れ、地面を叩くたびに砂が波のように揺らめく。その動きは、地を這うというよりも、“空気そのものを海に変える”行為だった。

 

 「……こいつ、空間ごと侵食してる」

 

 智麗の声が震えた。

 

 「瘴気浮遊、完全適応……水圧を再現してるんだ」

 

 儚は短く頷く。

 

 「深海の“圧”をこの空気に転写してる……直径二メートル以内、対抗措置なく入れば動くだけで潰される」

 

 その時、潮骸鮫の口の奥で赤い光が灯った。

 

 轟音。

 

 血のような瘴気が奔流となって吐き出され、前方一帯が紅い霧で染まった。霧に触れた木々が、一瞬で黒く腐食して崩れ落ちる。祓魔師たちの結界が一斉に展開し、触れた霧とせめぎ合い火花が散った。咎討が声を張る。

 

 「耐圧三層結界維持。童売ちゃん重ねて!智麗君、視界を確保するんだ!」

 

 その中で、儚の目が鋭く光る。血潮の奔流の向こう、わずかに揺らめく“渦”が見えた。

 

 「……動く。沈むわけじゃない――潜る」

 

 「潜る?」

 

 直毘人が眉をひそめる。情報を小出しにするのは止めろという時間も惜しい。

 

 「地面を“海底”に変えている。……次、下から来るわ」

 

 その瞬間――地面が沈んだ。地中から轟音。ぬかるんだ土が、泡を吹くように隆起する。そして、地面を破って飛び出す影。潮骸鮫の尾だった。鎖のような触手が地盤を切り裂き、岩を砕く。泥の柱が吹き上がり、視界を奪う。

 

 「右下から再浮上」

 

 儚の声が響いた瞬間、咎討の盾が光る。タワーシールドの前面に結界陣が展開し、加護と瘴気が衝突した。火花。衝撃。圧力。それらが一瞬にして重なり、戦場の空気を砕いた。

 

 「――これが、“深海”か」

 

 直毘人が静かに呟く。彼の手の中で十拳剣が燻り始める。その火は、まだ穏やかだ。

 だが、刃の内側で確かに“呼吸”をしていた。儚はその光を横目に見て、静かに呟いた。

 

 「……潮は焼ける」

 

 「なら――焔で切り拓こう。」

 

 咎討が短く息を吐く。

 

 「全員、初撃配置!この波を押し返せ――!」

 

 タクティカル祓魔師たちが動いた。火と光と祓の陣が一斉に展開し、深海の化け物を、陸上で迎え撃つ。

 

 

 

潮風が吹くはずのない峠で、

海鳴りが響いた。

 

 

 

――Ⅲ号級界異潮骸鮫(しおがいざめ)、浮上開始。

 

 

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