空気が変わった。重さが違う――まるでこの峠ごと、水圧の下に沈んだかのようだ。呼吸は重く、声はくぐもり、視界の端で細かな泡のような瘴気が揺れている。黒い潮が地表を這い、ひび割れた地面から音もなく滲み出ては消えた。
「……磯臭いな」
斗稀弥が唸るように呟く。その声は乾いた山の夜気に似つかわしくない――だが確かに、潮の匂いがした。咎討はその匂いを嗅ぎ分けるように息を吸い、声を上げる。
「全員、前衛陣形維持!後衛は斜面上段、霧の流れに注意して――来る!」
言葉と同時に、霧が“破裂”した。赤黒い水飛沫が夜空を裂き、潮骸鮫が浮上する。
その姿は、怪物ではなく“深海”そのものだった。半透明の体に骨と瘴気が絡み、尾の触手が鎖のように音を立てて地を叩く。錆びた銛や網が体表から突き出し、まるで過去の死者たちを引きずって泳いでいるかのようだ。咎討の盾の護符が震える。音もなく、結界の表面を潮がなぞったのだ。
「霧、じゃねぇ……水圧だ!」
斗稀弥が指示通り退避した斜面から叫び、即座に射撃を開始。リボルバー型祭具から放たれた大型祓串が、潮骸鮫の側面に連続で着弾する。だが、弾痕の周囲から逆に瘴気が滲み出し、空間そのものが波打つように歪んだ。
「効果薄い……瘴気層が厚いな!」
「智麗君!」
咎討が呼ぶ。
「了解!」
智麗の銀弓が淡く光り、矢が瘴気を貫く。結界の隙間を狙った一点射――だが、矢は命中する直前に屈折した。矢の軌道が“水中”のようにねじれ、外側へ逸れる。
「瘴気の密度で屈折してる……!」
智麗が息を呑む間にも、潮骸鮫が口を開く。
「全員、防御――!」
咎討の叫びが届くと同時に、轟音が世界を覆った。血潮の咆哮。紅い霧が奔流となり、前線を薙ぎ払う。咎討のタワーシールドが火花を散らし、結界の紋様が狂ったように点滅する。
「耐圧三層目が削られおす!」
童売が悲鳴に似た声を上げ、同時に八本の腕で札を叩きつけた。光の陣が広がり、二重結界が形成される。それを横目に――潮骸鮫の尾が悠然と振り抜かれた。鎖のような触手が地面を抉り、地盤を液状化させて滑るように進む。
「地を掘って泳いでやがる……!?」
斗稀弥の声が割れた瞬間、儚の瞳が細く光る。
「第四隊長、右後方に“下層流”。移動軌跡を取る」
「了解」
直毘人の返答は即答だった。十拳剣の刀身が橙に燻り、刃から滴る火が泥を焼く。彼の動きは静かで、だが一切の迷いがなかった。
「……第十八隊長、私の焔で動きを止めます。貴女は――」
「穿つ」
儚の鴉神剣が唸る。刃の根元に埋め込まれた魔導書の原本たる、エメラルドタブレットが光を宿し、空気が震える。穢れが圧縮され音もなく形を変える。儚は一歩踏み込み、黒い泥の上を滑るように動いた。
翠の閃光が走る。鴉神剣の先端から延びた光条が一直線に伸び、潮骸鮫の頬を貫く。光はまるで刃が延びたかのように瘴気を裂き、衝撃波が霧を弾き飛ばした。続けざまに、直毘人が焔を放つ。
「――そこだ!」
橙の火刃が縦に走り、光条と交差して潮骸鮫の体を二重に切り裂く。爆ぜる音。空気が焦げ、潮の匂いが一瞬で鉄錆に変わった。瘴気の膜が裂け、体の一部が地面に叩きつけられる。
「……効いてる!」
智麗が叫んだ瞬間、咎討の目が細められる。
「違う――まだ、“沈んでない”!」
言葉と同時に、地面の下で異音が鳴る。潮骸鮫の下半身が、逆流する潮と共に地下へ沈んでいた。液状化した地盤が再び膨張し、周囲の地面を飲み込むように波打つ。
「地下移動!再浮上コースに入りやがるぞ!」
斗稀弥が叫び、特殊弾丸を装填、リボルバーを地面に向けて撃つ。呪榴弾改が土を抉り、潜行ルートを照らす。だが、それより速く――地表が膨れ上がり、中央部から黒い潮柱が噴き上がった。潮骸鮫が、再び姿を現す。その顎の内側で螺旋状の牙が回転を始めた。
「全員、距離を取れ!――来るぞ!」
螺旋咬断。放たれた一撃は空気を削り、結界を削ぎ盾を裂かんと唸る。咎討の足元で火花が散りタワーシールドが弾かれる。その瞬間、儚が咎討の前へ出た。
「――通さない」
彼女の鴉神剣が縦に振り抜かれた。翠の光が螺旋の牙と衝突し、弾けるような光の衝撃波が走る。瘴気が裂け、牙が粉砕されて潮骸鮫の動きが一瞬だけ止まる。そのわずかな停滞。直毘人の剣が、そこに叩き込まれた。橙の炎が儚の光と混じり、夜空に巨大な火輪を描く。火輪は潮骸鮫の頭部を包み、燃え上がった。瘴気が焼かれ、血のような霧が爆ぜる。
「今だ、押せッ!」
咎討の声が全員に届く。斗稀弥の弾丸、智麗の矢、童売の札が同時に発射される。結界を貫き、潮骸鮫の巨体を光の網が包み込む。儚は呼吸を整え、短く呟いた。
「……良い隊ね」
直毘人が隣で息を吐く。
「深海の怪物を、陸で迎え撃つとは……」
儚は淡々と答える。
「海でも陸でも、“界”を侵せば同じこと」
炎の光の中、潮骸鮫の巨体が再び蠢いた。焦げた鱗の奥から、赤い瘴気が滲む。その瞳が再び光る。戦場の空気が、再び沈み始める。海が、もう一度、山を呑み込もうとしていた。
潮骸鮫が吠えた。それはもはや音ではなかった。大気そのものが振動し、山の稜線が軋む。空が、海鳴りを始める。赤黒い瘴気が膨張し、まるでこの峠全体を呑み込もうとしていた。血潮の霧が再び形を持ち、鰭が無数の触手となって空を裂く。咎討の盾が軋み、智麗の結界が波打つ。
「――儚君、下がれ!日向君、任せるよ!」
咎討の号令に、儚は頷いた。その紅紫の瞳が微かに震える。
「……承りました」
その言葉に、直毘人は静かに呼吸を整えた。十拳剣を両手で握り、刃を地に向けて立つ。焔が息をするように刀身の内側を走り、火の粉が零れた。
風が止む。山が息を潜め、音が消える。次の瞬間、十拳剣の内部で光が爆ぜた。刃の中で燃えていた橙の火が、血のように赤く変わる。それは忌火――穢れを燃やす炎。
「――“天より墜ちて、穢れを焼け”」
炎が膨張した。刃先から吹き上がる火柱が、火炎放射のように噴き出し、地面を焼き、瘴気を裂き、空を焦がす。日向直毘人の周囲に赤い輪が浮かび、それが幾重にも重なって天へ伸びていく
潮骸鮫が雄叫びを上げる。牙が回転し尾が地を裂くが遅い。空中に幾重にも展開した火輪が降雨のように落ちる。それは火の雨。燃えながら降り注ぐ輪が、潮骸鮫の周囲を封じ込め、その巨体を捕らえた――本来、彼の日炎祓術は自分以外を燃やす事は得意ではない。しかし“燃え滾る剣”を通して放射する炎にはその制限はない。
「――さらばです!」
咆哮と共に、十拳剣が振り下ろされる。炎輪が連鎖的に爆ぜた。光と音が同時に弾け、世界が赤一色に染まる。潮骸鮫の身体を覆っていた瘴気が蒸発し、骨と魂が燃え上がる。深海の底から聞こえるような、沈む海の断末魔が響く。巨大な影が崩れ落ち、光に溶けて音もなく霧散していく。
やがて夜風が戻った。山の闇が再び形を取り地に焼けた匂いと、微かな塩の残り香が漂う。十拳剣の火は静かに鎮まり、彼の手から淡い煙が上がる。
「……終わった、のか」
斗稀弥の呟きが風に溶ける。咎討が盾を下ろし、重い息を吐いた。直毘人は炎の消えかけた十拳剣を見下ろし、静かに鞘へ戻した。儚はその独白のような呟きに律儀に答える。
「芹沢を滅ぼすまで、終わってはいない」