ダイワスカーレットがトレーナー室のドアを開けると、涼しい風が通り抜けていく。
他のトレーナー室と何らかわりない広さの部屋。
部屋の壁は両側共に一面が本棚になっていて、そこに無数のトレーニング教本や資料、研究論文集なんかが所狭しと並んでいる。
応接用のソファーとテーブルの脇を抜け、作業机の向かいに置かれた─おそらく自分の為に用意されたであろう椅子に腰を下ろす。
本革のアンティーク。値が張るものなのか座面全体で体重を逃がし、腰に負担がかからない作りになっている。
対して、作業机の正面に置かれた椅子は、オフィスに良くあるような安物の事務椅子だ。
普通に考えれば逆な気もするけれど、机の上の物の置き方的に
ダイワスカーレットは人気のない部屋を見回す。
...観葉植物や写真立て、スタンドライト等といった余計な調度品がほとんどない、飾り気のない部屋。
風景画が一点飾られているぐらいだ。
見回す目が一周してきたところで、作業机の片隅で止まる。
「...ルビー?」
飾り気のない部屋に釣り合わず、ルビーの原石が幾つか並べられている。
ところどころまだジオードの外郭が残っていて、加工途中であることを窺わせている。
その一つに手を伸ばす。
「お、見る目があるね。」
いきなり聞こえてきた声に顔を上げると、作業机の向こう、窓の前にトレーナーが立っていた。
急いで来たのか、息が上がって汗もかいている。
「...アンタ、いつの間にそこにいたのよ。」
「たった今だけど。」
そんなはずはない。ドアの開く音は聞こえてこなかった。
「そんな顔されてもな。今来たのは本当だし。
あ、その手に持ってるの、今そこにある中で一番良いやつね。原石の時点で色もいいし、インクルージョンもルーペでやっと。加工の技術にもよるけどそれなりの値段は下回らないとみて良いかな。」
ドアを通らず入ってくるような手段はない。
かと言ってこの部屋の中に隠れられるような場所もない。作業机の下...に隠れるような人でもないか。
..........私がドアの音を聞き逃しただけなのだろう。
「...ルビー好きなの?」
「んー、まあそうだね。
最初は皮肉だったんだけど、意外と加工してると楽しくてさ。」
トレーナーはそういって小さく笑う。
ルビーの宝石言葉は、確か純愛とかだった筈だ。
時代錯誤な政略結婚やらでもなければとても皮肉になるとは思えない。
「ルビーって意外とすごい宝石でさ。
君は『宝石の中で一番固い宝石』って聞いて何を思い浮かべる?」
よくあるクイズね。
「...ダイヤモンドよ。」
「正解。でもそれは傷つきにくさ、所謂モース硬度ってやつの話。じゃあ、砕けにくさは?」
普通に考えればダイヤモンドの筈。でも、この話の流れなら...
「ルビー、かしら?」
「正解。同じ石だから正確にはサファイアなんかも─」
本当に好きなのだろう、高らかに語りだしたところで
──キーンコーンカーンコーン
鐘の音に中断される。
「...っと、そろそろ時間か。契約に移ろうか。」
トレーナーは引き出しから契約書類を取り出し、左手にペンをもつ。
薬指にルビーの指輪が填まっている。
金属部分は黒鉄色で、とてもではないが結婚指輪のそれには見えない。
ああ、なるほど。
政略結婚への皮肉か、はたまた不倫の宣言か。
...専属契約のために一週間余りも学生につきまとうような人間に愛人はおろか、恋人や婚約者がいるとは─いや、できるとは思えない。
つまるところ、恐らくは前者なのだろう。
「契約要件は基本的に学園の発表している標準契約要件の2006年改定版を採用、練習日や重賞賞金配分等に一部改変をしてるから一応一通り目を通してくれ。」
契約書一式とボールペンを差し出される。
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「とりあえず大体は理解したわ。
ただ二点、聞いてもいいかしら?」
「一週間の対面練習日の比率が少ないって話ならわざとだよ。
君はオフの日でも自主練するタイプだろう?
それに、選抜レース直後の過剰練習で足のダメージが内容を元にした僕の想像より大きく出ていた。
となると、強度は平均に限りなく近いが...少なくとも平均は下回ってる。
しばらくは、君の足の強度の見極めとそれに合わせた調整だ。
...質問どうぞ?」
話が早くて助かる。
「...お陰で一つ省けたわ。
それで賞金の配分なんだけど、あんたが3割でアタシが7割って書いてあるのだけれど。
これじゃ学園の規定ギリギリじゃない。
アンタの方はそれでいいの?」
「生活なら学園からの基本給で成り立つから問題ない。
あとついでに言うなら、僕の三割のうちの1/3、全体の1割は君の援助に回す。だから君の実質的な取り分は8割だ。」
あまりにも破格な条件だ。基本的には5:5、力関係によっては6:4か4:6ぐらいが一般的なのに8:2なんて。
「......待ちなさい。それ、学園の最低契約基準下回るじゃない。
監査入ったら懲戒されるんじゃない?」
「だから一旦僕が受け取って、僕が君の補助に...靴だとか蹄鉄だとか消耗品に使う。
契約に盛り込むと懲戒ものだから、口約束かつ現物支給になるけどね。
こうすれば規定上は問題なく、8:2の配分を実現できる。その割合は僕からの契約料だと思ってくれ。
...まあ、稼いでくるのは君自身だけど。」
トレーナーはパソコンで何かを調べながら平然と答える。
出会って一週間の小娘に、随分な入れ込み様だ。
「...後悔しても知らないわよ?」
「お金が欲しくてこの仕事やってる訳じゃないからな。問題ないし文句もない。」
「そ、なら良いわ。
...記入漏れ無しと。はい、これ。」
トレーナーは渡された書類にサインし判子を押すと、さっさと引き出しにしまいこむ。
そして代わりに鞄から一冊のノートを取り出した。
「はい、昨日のトレーニング案。
隙間時間で調整とバリエーションの追加をしておいた。
自主トレーニングに有効活用してくれ。」
「ありがとう。」
受け取って目を通すと、追加されたトレーニング以外にも細々と加筆されている。
流石は中央のトレーナーだ。
軽く目を通し終えて顔を上げると、待ってましたとばかりにトレーナーが口を開く。
「さて、資料によれば君はティアラ路線志望だったね。
...と、なれば最初の目標は確定だね。」
確定も何も、最初の目標は新バ戦でしょう。
よっぽどの特例でもなければ、中央も地方もあれに出ずにレースに出る手段は無い。
「一ヶ月後、模擬レース。」
「...模擬レース?
デビュー戦を目標にするんじゃなくて?」
《「そんなに驚くほど珍しいことでもないよ。
デビューしてから『トレーナーの指導する走り方が実戦だと性に合わない』なんて事態にならないよう、対戦相手にデビュー済の先輩方を募って最初の目標レースにするのはよくある事だよ。」
言われてみれば確かにそういうものなのだろう。理解はできるし探せばいくらでも前例はありそうだ。
「もっとも、僕達に限ってはこのレースの目的はそんなものじゃない。」
トレーナーはモニターをこちらに向け、先程調べていたのであろうものを差し出す。
モニターには、
「君には、まずウオッカに勝ってもらう。」
そこに、『ウオッカ』と『ダイワスカーレット』の文字列。
「...アンタ、本気?アタシは─」
「──本気だよ。むしろ出来なきゃ困る。
...手っ取り早く僕の能力と君の才能を君に証明しようという話。
君としても言葉で百語られるより、実戦で君が勝つって事実が一回あれば納得できるでしょ?」
でも...
「あ、納得いかないって顔してるな。
僕の嫌いな言葉だけど、『天才とは1%の閃きと99%の努力』って言葉があってだ。
1の閃き、要は才能が無ければ努力しても無駄で、才能が無い奴は成功しない、って意味。
勝てばそれは1の閃き─要は君と僕の能力の証明になる。」
トレーナーと目が合う。
底が抜けたような、引き込まれるような狂った目をしている。
そこにあるのは絶対的な確信。
そこまで自分の目を、そしてそれで見ぬいた私の才能とやらを信じている。
なら、私もそれを信じて応えないといけない。
「いけるね?」
「...任せなさい、トレーナー。」