白く変色していた硝子が、元の無色を取り戻す。
ターフには赤黒い轍。
その轍の先で、赤黒い何かが蠢く。
...青葉、トレーナー?
昔から見知った人物のあまりの姿に、言葉が出てこない。
「怖くなってしまいましたか?」
こちらを見るダンシングステージさんと目が合う。
「...正直に言えば。」
「気にしないでくださいね。当然の事ですから。
...走る事。あの子がただそれだけの事のために、あれだけの事ができる人間だなんて、知らなかった─隠されていた訳ですし。」
ああ、そうか。これは警告なんだ。
秘め事に触れた時のショック、その一端を感じさせて覚悟を促しているんだ。
これに耐えられないなら、今すぐ引き返すべきだと。
これの何倍も大きな衝撃に身構えておくべきだと。
「さて、事は済みましたので青葉の元へお返ししましょう。
彼女を一○八番棟まで、外経由でお連れして。」
ダンシングステージさんの声掛けと同時、行きと同じ数人の黒服が姿を現す。
「私は少々人と会う約束があります故、ここで失礼させていただきます。」
ダンシングステージは一礼すると、瞬く間に姿を消した。
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行きと同じ車内。
ただでさえ広い車室が、一人になったことでさらに広さを増している。
..........何が、何があの人を─青葉トレーナーをあそこまで突き動かすのだろう。
ただの勝ちへの執念だとすれば訳がわからない。
あの足なら、全員を疲れさせるまでもなく、普通のレース展開で圧勝できただろう。
少しずつ対戦相手を潰すようなことをしなければ、わざわざ骨折する理由もない。
誰かからの指示、も考えにくい。
あれほどのレース場を作れる立場だし。
...じゃあ、なんのために?
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行きと同じぐらいの時間の末、リムジンが停車し窓ガラスが透明に戻る。
降りると、乗った時と同じビルが眼前にそびえている。
駐車場を見渡したタイミングで、ちょうどトレーナーの車が入ってきた。
目の前で止まったそれの助手席に乗り込む。
「早かったわね。
急がなくても、お姉さんと少しゆっくり過ごしてくれば良かったのに。」
助手席に腰を下ろすと同時、トレーナーの方からふわりとよく知る匂いがする。
「色々都合もあったからね、切り上げてきた。
どうだった?間違いなかったかい?」
「...ええ。直接会って話をしたりはしてないけど、間違いないわ。」
しっぽハグでしっぽクリームの匂いが移った、とかだろうか。
ますます青葉トレーナーがトレーナーの姉のように思えてくる。
そうなるとやはり、青葉トレーナーの本名は青葉ではない?
いや、そもそも─
「ねえ、トレーナー。」
誰に聞いたか、なんて問い返されるまでもない。
今のところ二人の事を知れる唯一の相手がダンシングステージさんだ。
下手なことを聞いてその繋がりを絶たれるのは困る。
「...何?」
少し心配気味にチラチラとこちらに視線を向けてくるトレーナーから目を反らして、窓の外に顔ごと向く。
「...すごかったわ。
この前会った時とはまるで別人みたいだった。間違いなく、本人だったのだけど。
なんというか、そう、ウマ娘って範疇を越えてるような感じ。」
「その様子だと、刺激が強いものはまだ見せないように配慮してくれたみたいだね。」
「ええ。大方予想はついてしまったけど、一応はね。隠してくれたわ。」
「それなら良かった。」
今思い返しても、凄まじい走りだった。
「...ねぇ、トレーナー。」
「......言いにくい事なら、無理して言わなくても良いよ。」
アタシの様子を見てか少し間が空いて、トレーナーの心配そうな声が返ってくる。
「大丈夫。
...たとえば、の話よ。
たとえば何かをこよなく愛する人が居て。その人がその何かを無惨に壊すのが好きだったとして。
それは、どっちがその人の本当なのかしら。」
「...どちらもじゃないかな。人の心っていうのはそう単純じゃない。
大体みんなが、知ってか知らずか何面性も抱えている。誰かにはすごく優しくて、でも誰かには酷く残忍な事が出来るとか。
一見相反するように見える様なことでも、共存することはよくあるよ。」
トレーナーの表情が、真剣なものになる。
「...言える話なら、少し詳しく聞かせてくれる?」
ああ、これは誤解させちゃったかしら。
「そこまで真剣にならなくて良いわ。アタシの事じゃないし。」
そう返すと、トレーナーは安心したかのように一つ息を吐く。
「..........昔、あの人と知り合った頃は、あの人はレースがすっごく大好きだったの。いろんな言葉で誤魔化してたけどね。
...なのに、走り方はレースをしたくてしてるような走り方には見えなかったの。
むしろ、ほの暗い感情を抱えているような。」
命令されて、とかは考えられない。
ダンシングステージさんの話が確かなら、あのレース場は青葉トレーナーの意向で建てられたもの。
プライドが高い青葉トレーナーの事だ。思い入れがあるなら、自発的にはそれを踏みにじるようなことはしないはず。
「...それは、その人が変わったんじゃないかな。時が経てば変わるものもあるよ。」
「そうは思えないの。少なくとも、この前会った時は好きなのは変わってるようには見えなかった。」
「..........。」
トレーナーが急に黙り込む。
振り向くと、意識は運転に向いているのに、どこかに心ここに在らずといった雰囲気。
「どうしたのよ、急に黙っちゃって。」
「...ああ、いや、ちょっと色んな事を思い出しただけ。」
「そういえば、一つ聞いていいかしら。
アンタの左足からシトラスの匂いがするのだけど。全身とかじゃなくて足からだから、多分しっぽクリームね。」
スカーレットが自身の左足の側を指す。
...やってしまった。
消臭が足りなかったか。次はもっと徹底しないと。
「...多分姉さんのせいかな。
気になるなら次行く時は落としてから迎えに来るよ。」
そう返すと、スカーレットは首を横に振る。
「そこまでしなくていいわ。
気になるほど強いわけじゃなくて、珍しいなって思ったから。
匂いそのものより、何処のなんてしっぽクリームなのかの方が気になるわ。」
誤魔化す...として、後々掘り返されたら面倒か。
...色々と、速やかに手を回しておかないとだ。
「あー、忘れなければ今度聞いてみるよ。」
「そうして頂戴。」
とりあえずは、今は大丈夫か。
...こういう抜け目は無くさないと。
スカーレットがこっちから目線を外して、助手席側の窓の向こうへ傾いた日を眺める。
「..........ねえ。アンタはさ、アタシがあの人に勝てるって思う?」
「...可能性は十二分にあると思ってるよ。
はっきり言えば、君ほどの才能を独立...専属トレーナーになって最初の年で見つけられたのは行幸だ。
色々手は尽くしてでも、君には勝ってもらう。」
そう。勝ってもらう。
勝ってもらわないと困る。
そうでないと。
「...そう。」
少し、安心したような声音の返事。
「ただまあそれよりも何よりも、だ。
まずは眼前の問題から片付けよう。
メイクデビューに出走しないと始まらないからね。」
「...ゲート、そろそろちゃんと慣れないと不味いわね。」
ゲートで集中している時になにか触れたりすると露骨に集中力切れるからなぁ...。
特に追い風でツインテールがファサファサ靡いた日には酷い有り様だ。
「問題を自覚できてて何より。
これまでは何とかなっていたけど、じきにそうもいかなくなるしね。」
解決するには慣れるか、あるいは...。
「..........ツインテール、切り落としてみる?」
「嫌よ、冗談じゃないわ。」
そりゃそうか。
「...地道に慣れてもらうしかないか......送風機の貸出あったっけな...。」