控室の戸をたたく。
「どうぞー。」
返事に控室の扉を開けると、スカーレットが化粧台の前で髪を結び直しているところだった。
「戻った。そのまま聞いてくれて構わない。
現状スケジュールは5分遅延中。
一番警戒したい対象、ツキヨナガイヨルは新馬戦から二週間おきでの三連闘目。パドックでも目に見えて影響は出てた。
新馬戦の時の宣戦布告、そして現在はクラシック路線を表明してることを考えると、クラシック突入前...1月に本命を仕掛けてくると思う。だから今日切り札を切ってくるようなことはしないはず、というかしない。」
疲労による失敗と怪我のリスクとリターンが釣り合わない以上、あのトレーナーはそうさせないと断言できる。
いくらなんでもこの条件ならスカーレットの勝利はほぼ確定事項。
「...まあ、それでも実力は間違いない。念のため気を付けるに越したことはないね。
三連闘上等で君のレースに合わせてきたんだ、君に勝ちたい意思は特に強いだろうし。」
スカーレットはツインテールの左房にリボンを結び終え、軽く頭を振るう。
「そうね。
...1月にアタシが勝とうものならクラシックからティアラに路線変えるんじゃないかしら。」
「...ない、とは言えないのが怖いな。」
スカーレットは冗談めかして言うが、わりと冗談になってない。
新バ戦を合わせてきた事や短期間の連戦でこの舞台に駆け込んできた辺り、多少どころじゃない無茶も押し込んでくるだろう。
「...次いで8番のカースドシキシマ、こっちは先月の京都ジュニアステークスを含めてニ連勝中。君の新馬戦と同じ京都芝2000。タイム差は向こうが約1秒の先着。
新馬戦とOP、経験値の違いがもろに出てる。
お互いにこの条件は初とは言え、向こうは6月デビューの4戦経験者。
実力はともかく、経験は向こうが上。
調子も十分な様だったから要警戒。 」
とはいっても、どちらかと言えばより優先して警戒するべきはナガイヨルの方だ。後のウマ娘たちも、三連闘目という事実を踏まえてもなおツキヨナガイヨルの方が何倍も脅威たりうる。
「...一応、新馬戦白星の子は二人居るけど、どっちもピンとくる感じじゃない。
だから気を付けるならこの二人。 」
ここまではブリーフィングで繰り返してきたことの要点。あとは...追記事項ぐらいか。とはいっても、盤面は極端な状況ではないから特には無し。
「コースについては曇りの良バ場、荒れ方も普通の範囲だから事前のブリーフィングの通りで特に言うこともないかな。
僕からは以上かな。」
「私からは特に無いわ。」
スカーレットは立ち上がり、こちらに振り返る。
「...よし、それじゃそろそろ行こうか。
─We'll be」
「「『ST』.」」
差し出した拳が打ち合う。
「行ってこい。」
準備は万端、移動まであと5分位か。
「..........とりあえず軽く流れの再確認をしよっか。
スタートは出遅れ気味に。
ハナを取らずにダイワスカーレットを徹底マーク。
そして彼女より少し遅れてスパートを開始する。
そしてそのまま二着でゴールする。 」
始めから一着を目指さないのは規定に反するけど、私達がしらばっくれた時その規定違反を指摘できる手段はないし、掲示板圏内ならば疑われることすらまずない。二着であればなおのこと。
勝ち方にこだわって勝てるような生半可な相手ではない。
「あくまでも今回は次のための布石、ですわね。」
「そ。本命は1月。今は雌伏の時だよ。」
ツキヨナガイヨルは大きく息を吐き、目を閉じる。
イメージトレーニングの世界に入った彼女に、必要条件を入力してやる。
「注意事項は二つ。
一つ目は勝とうとはしないこと。
二週間おきでの三連闘をしている以上、君の体には疲れと負担が溜まってる。
この状態でダイワスカーレットを差しきろうとすると、多分怪我しちゃう。
そうなると、当然1月は回避せざるをえなくなるからね。」
そうなればツキヨナガイヨル自身はもちろんのこと、私も名声が落ちるし雇い主から怒られるし誰も得しない。そんな状況はまず避けねば。
「二つ目はスパートのタイミングだけは合わせないこと。
スタートとマークは多少失敗しても良い。
スパートだけは絶対に合わせないように。」
一つ目が1月に走るための条件なら、二つ目は1月に勝つための条件。
どちらかが欠ければ1月は厳しくなってくる。
数秒、ようやく彼女は首を縦に振る。
「...ええ。問題ありません。」
「それじゃ、行ってらっしゃい。」
うなずいた少女の背中を押してやる。
「行って参ります。」
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関係者席によく知る背中を見つける。
「ああ、またいらっしゃったんですね、先生。」
彼女─アグネスタキオンはこちらを一瞥すると、すぐターフに向き直る。
「1月までの辛抱だよ。付き合いたまえ。」
1月、前回と今回の出走者リスト。
「ああ、やっぱりそういうことだったんですね。道理で手助けなんてするわけだ。
...そうなると、どこから貴女の手の上で踊らされていたんですか?あの日の公園の時にはもう?」
彼女は呆れた表情を浮かべる。
「どこにそんな時間があるというのだね。
あの頃の私は君のそれの開発に時間をさかれていただろう。」
彼女は自身の左の二の腕を叩いてみせる。
...なんの事か分かる辺り、当時から観測はしていたのだろうな。時期的には少しずれている以上、信用は出来ないけれど。
「そもそも、私が君たちに干渉したのはあの子達が入学してからの事だ。それまでは...長らく干渉はおろか会ってすらいない。
あの日君達が出会ったのも、学園で出会ったのも、担当契約したことも全部私の掌の外だよ。」
「どうだか。やるかどうかで言えばやる側でしょう、貴女は。」
目的の為の手段は選ぶタイプとはいえ、自分と同じでその選ばない基準は遥か低いところにある。
どれ程荒唐無稽であっても、技術的に可能ならやりかねないといっていい。
...そうだ。それでいえば。
「...ところで先生、新バ戦の時のあの加速、心当たりはありませんか?」
「...
あれが
「聞き方を変えましょうか。
昔、彼女になにかしませんでしたか?」
それができるだけのなにか、を。
「嫌だな、赤子と言うのは成人の何倍も弱い生き物だ。あらゆるものの致死量はほんのわずか。それこそ少しのハチミツ...ボツリヌス菌の毒素で死んでしまう程に。
そして私の基本的なアプローチは投薬だ。
もし君の想像通り私が彼女らになにかしていたなら、彼女らは今あそこに立ってはいないよ。」
「するわけ無い、とは言わないんですね。」
アグネスタキオンは深く大きなため息をつく。
「私ならやりそうだと思ったから問うたんだろう?私も全くもって同感だ。
...だからあの子達はあの子達なんだ。」
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「ファンファーレが鳴り響く中京レース場第8レース。
中京ジュニアステークス、芝1800m。
8人という少ない人数でおこなわれます。
天候は曇り、バ場は良の発表です。
第7レースに引き続き実況は
さて、浜風さん。
どうでしょうか?」
「まず一番注目したいのは一番人気の一番ダイワスカーレットでしょうか。
新馬戦から直行で来た二戦目ですが、新馬戦で見せた実力は確か。
姉がGⅠ4勝ということもあってか期待はおおきいです。
ついで二番人気2番ツキヨナガイヨル。
新馬戦でダイワスカーレットと渡り合った実力、そして未勝利戦で見せた実力は確かです。
これが三連闘目ですがどこまでその実力を発揮できるでしょうか。
そして三番人気8番カースドシキシマ。
4番ヴレイズスホーイと並んで6月から出走している、このレースの中では経験が豊富な走者です。
新馬戦ではヴレイズスホーイに敗北していますが、その後がいまいち延びていないヴレイズスホーイに対して彼女は現在連勝中です。
この三人が見ものでしょうか。」
「なるほど。
8人全員のゲートインが終わって、さぁ発走の準備が整いました。
──スタートしました!」