コンコンコン
「はい」
扉を叩くと、御姉様の返事が帰ってくる。
「青葉です。少しお聞きしたいことあって、今お時間いいですか?」
「いいですよ。入ってきてください。」
「失礼します。 」
扉を開けば、机に向かっていた御姉様がこちらへ振りむく。
机の上には山のような教科書参考書の数々が並んでいる。
壁際の椅子を近くまで運び、腰を下ろす。
「...御姉様は、どうしてトレーナーを?」
問いかけると、御姉様は少し逡巡するように天井に目線を走らせ...小さく息を吐く。
「...ただの進路相談、というわけではなさそうですね。」
流石は御姉様だ。わざわざ進路調査のプリントまで持ち込んだのに、一瞬でバレてしまうとは。
やはり叶わない。
彼女は深く深呼吸をすると、天井─その先のどこか遠くを見るようにしながら口を開く。
「...私は、御姉様のようになりたかったんです。
ティアラとクラシック、目指すところは違えど。
そう思っていくつも夢をみてきました。
三冠、天皇賞春、天皇賞秋、GⅠ。
全て、花と散ってしまった。
私には叶えられなかった夢達。
私には挑むことすら許されなかった夢達。
競技者人生を終えてなお、私の心はあの舞台に囚われたまま。
この思いはあまりに重く、大きく、苦しすぎる。
後に続く者が同じ思いをしないように背中を押したい。
だから、私は。 」
取って付けたような最後の言葉。
それがわからないほど、自分は子供ではいられなかった。
「...御姉様。
そういったお題目を聞きに来た訳ではないことはご存知でしょう?」
進路相談ではないのだから。
短い沈黙。
「..........夢、とはなんでしょうか。」
沈黙を破って、御姉様が突飛なことを言い出す。
「...私にとって、夢とは呪いでした。
途中で挫折すればそれは夢見た者を一生縛り付ける。
解くには、真に心から諦めるか、あるいは叶えるのみ。
私には諦めることができなかった。
だからこの夢を、呪いを誰かに託すことにした。」
自分には果たせなかった夢を託すこと。
託して、何になる。結局、残るのは夢を叶えられなかった自分だ。
「…夢を、託す。
それに、意味などあるのでしょうか。」
「自分自身の力のみで叶えなければ意味がない、ですか。
夢とは元来究極の自己満足。夢見た本人が満足できればそこで終わる目標にすぎません。
であれば、託した側も託された側も満足できれば、結果はどうあれその日々は意味を持ちます。」
それは、そうなのかもしれないけれど。
「..........それに何より、夢を託し育て上げることは本当に、自分の力で叶えていないと言えるのでしょうか?」
御姉様の深紫の瞳が、強くこちらに視線を向ける。
「トレーナーとウマ娘を宝石職人と原石に例えましょう。
仮に無数の玉石混淆の原石が有ったとして、無知な宝石職人は素晴らしい宝石細工を作り上げられるでしょうか?
答えは否。
それでは美しさを秘めた原石を見抜けない。
仮に特別な原石が一つ有ったとして、無学な宝石職人は素晴らしい宝石細工を作り上げられるでしょうか?
答えは否。
それでは美しさを引き出す手段を知らない。
仮に原石の秘める輝きが素晴らしかったとしても、それは職人の力が無いことの証明にはなりえません。
むしろ、職人と原石両方の力があってこそでなければ、素晴らしい宝石細工を作り上げる事などできはしない。
...形はどうあれ、そこには確かに『自分の力で』が介在しているのです。」
「..........そっか。 」
「…聞きたいことは聞けましたか?」
「うん。ありがとうございます。」
「それで?こういうことを聞いてきたからには、何かあったのでしょう?」
「…実は──
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話を聞き終えた姉が数度頷く。
「なるほど。
それで、あなたはどうしたいのですか?」
あの子のため、自分のためを思えば手伝ってあげたい。でも。
「...私はただの学生です。指導の為の知識も無ければ、もしもの時の責任能力もない。」
「その問題が解決すればやりたいと。」
御姉様は顎に指を当て、一通り逡巡する。
「責任については...夢を壊す責任はともかく、身体的な責任は遺産で穴埋めすれば十二分の対応ができましょう。
その子の適性は? 」
お金で解決というのは好きではないが、かといって他に自分にどうこうできるものは持ちあわせていない。
資金を提供して最上級の医療を受けてもらうのが自分の取れる責任の限界か。
「走り方の癖的に芝が主戦場、ダートも可能性は無くはないけど怪しいです。
中でもベストなのは中距離先行かと。」
「..........たしか、しばらく待ってもらうように言っているのでしたね?
1ヶ月程待っていただくことはできますか?」
「...交渉すれば、可能かと。」
「では、一ヶ月間でその子に教えるための基礎応用を叩き込みます。それで知識の面はクリアできますね。」
机や壁一面の本棚に並んだ分厚い参考書が嫌でも目に入る。
この量を一ヶ月、なんて到底無理だ。
「一ヶ月って...トレーナーはそこまで簡単な仕事じゃないでしょう!?」
「トレーナーが、とりわけ中央のトレーナーが難しいと言われるのは芝ダート距離脚質を問わず指導できる技術が必要とされるため。
それも、不得意なものですら、最低でも地方未満を含めたトレーナーの中でも有数の実力を当然のものとして要求され、かつ数多の関係資格も取得していることが前提なため。
今回はダートと距離脚質の大半の知識をカットして、芝中距離先行の指導に一点集中できるので大分楽にはなります。
そもそもの話、今回は中央の基準を満たす必要はありません。指導する上で必要十分なものに絞りましょう。
それ以上のものは、ひとまずそれが終わり次第順次覚えてもらいます。
..........そこまで削りに削ってなお、詰めに詰め込んで一ヶ月で終わるかどうか。
覚悟は、良いですね?」
姉の顔が満面の笑みに歪む。
嫌いな笑顔だ。誰かを心から信じている時の。
姉さんは凄い人だ。その姉さんができると思うなら、私にはできるのかもしれない。
そう思わされたのは何度目だろう。数えることなど、もう何年も前にやめてしまった。
「...うん。」
姉は席を立つと、本棚の分厚い本の並んだ区画の背表紙をなぞっていく。
「ではまず..........これとこれとこれとこれ、明後日の夕方までに読み込んでおいてください。
確認のテストをして、ダメだった所は再度頭に叩き込んで貰います。」
バスッ ドン ドンドン
本にあるまじき重低音を出して、手の上に重く分厚い本が積まれていく。
A4サイズが1000ページ以上...下手したらその倍はある本が、5冊も。
「..........これを、明後日までに?」
「ええ。暗記しなくても良いのでまず目を通してください。概要を軽く理解できる程度の斜め読みで良いです。」
...気が遠くなる、とはこの事だろう。
「...やってみます。」
「では、頑張ってくださいね。」
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「...終わりました..........。」
本を机の上に置き、御姉様の横に座り込む。
体が重い。
斜め読みですら睡眠時間を削りに削ってギリギリだった。
「ご苦労様。それではこれを解いてみてください。」
眼前に冊子が差し出される。
学校でやる中間期末テスト一年分、それも一教科とかじゃなく全教科分合わせたみたいな分厚さ。
「...いや、あの。」
「始め!」
問答無用か.........。
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「終了です。」
半分も答えられなかった。
当たっていても4分の1にも満たないだろう。
トレーニングメニュー案の筆記問題に至ってはもうちんぷんかんぷんだ。
「では来週までに同じ本を読み直して内容を覚えてきてください。
わからないところがあれば遠慮なく聞きに来てください。
採点結果は追って伝えます。」
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「では来週までに完全に覚えてきてください。
採点結果は追って伝えます。」
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「終了です。」
姉が答案用紙を回収し、目を通し始める。
今回は割と自信がある。9割以上は間違いない。
「..........この分なら次に進んで良いでしょう。」
答案用紙から顔を上げた姉が微笑む。
「次、ですか?」
またこの莫大な知識を詰め込まねばならないのかと戦慄する。
しかも約束まであと一週間と少ししかない。
無理だ。無茶だ。
「...ふふ、そう驚かなくていいですよ。
詰め込むべき知識は既に詰め込みました。
前に言ったでしょう?まず必要十分なものだけに絞ると。
今度は実践形式でその知識を定着させる番です。」
あの本の山から解放されるという事実に舞い上がり...かけて、嫌な予感がよぎる。
「..........それは、どういう。」
「明日から一週間半、一族の初等部の子達の教室の下のクラスのサブトレーナーとして、トレーニングを手伝って貰います。」
「..........本気ですか?」
「私があなたの事で冗談を言ったことがありましたか?」
無いのが、何よりもたちが悪い。
「はい、今日のトレーニングを終わります。
お疲れ様でした。」
「「「「「「「「おつかれさまでしたー!」」」」」」」」「ありがとうございましたー!」
一礼を終え、青葉がこちらへ戻ってくる。
ここ数日の様子を見る限り、もうそろそろ問題はない頃合いか。
「お疲れ様です。
すっかり様になりましたね。
思ったよりもずっと早くて、少しビックリしました。」
「...昔、御姉様方と一緒に御父様のトレーニングを受けていた頃の経験がありますから。」
青葉は物憂げな表情を浮かべる。
「...ぁ」
不味いことを言ってしまった。
「大丈夫です、御姉様。
もう、とうに諦めがついたことです。」
嘘だ。それくらいのこと、私にだってわかる。
同じ人に憧れ、似た夢を抱えて。
挑むことができた私でさえこれなのだ、挑むことすら許されないこの子の抱えているものは私の比では無い。
一度、過ちを犯しかけてしまった程に。
「無理はしないでくださいね。」
「御姉様がそれを言いますか。」
微笑む青葉の顔が、堪らなく痛い。
「…確かに人のことは言えませんね。
...さ、湿っぽい話は終わりにしましょう。
ここ数日の様子を見て、私もトレーナーさんもそろそろ実技訓練は終わりで良いと判断しました。
そろそろ、待たせ人の元へ行く頃合いです。」
「...!
御姉様、色々とありがとうございました。
行ってきます。」
青葉は一礼をすると、ターフの外へと繋がる道へ駆け出す。
その背中を見送り、タブレットに目を落とす。
画面に表示されているのは、一人の少女のプロフィール。
家の力を少しばかり使って調べ上げた、青葉の言っていた少女についてのあらゆる情報。
全く、世間とは狭いものだ。
あの子達の出会いは偶然だったのか、はたまたあの人が仕込んだ必然だったのか。
..........どっちだって良い、あの子が幸せでさえあれば。
それでも、それ以上を望むのであれば。
どうか、あの子の夢が終わりますように。
どうか、あの子が夢の先を歩めますように。
吐いた息は、どこまでも静かな天蓋に吸い込まれていった。