控室の戸を叩く。
「お待たせ、戻ったよ。」
戸を開くと、化粧を調整するスカーレットの後ろ姿が目に入る。
彼女は鏡越しにこちらをチラリと見て口を開く。
「おかえり。どうだった?」
「競技は定刻通り発走予定。
特筆事項はツキヨナガイヨルの仕上がりが良さそうだったこと。前からここで勝ちに来ることは察せていたけど、少し面倒さが増した。」
近くの丸椅子を寄せて腰を下ろす。
「仕上がってるとはいえ、単純な勝負なら君が勝てるレベルではある。」
「問題は、単純な勝負にはならないことね。」
スカーレットの言葉に頷く。
「そう。単純な手はこの前の合宿の時に一通り対策をやったけど、
どんな荒唐無稽な手を打ってきてもおかしくない。落ち着いていこう。」
「ええ。」
スカーレットは頷きながら、こちらへ体ごと振り向く。
準備が出来たらしい。
腕時計に目を落とすと、まだ移動開始まで10分あまりはある。
「...時間はもう少し有るし、いつも通り参加者をさっと振り返ろう。
今回のレースは10人中5人が重賞経験者だ。
中でも有力なのは4枠4番と5枠5番。 」
この二人以外はその重賞で成果をあげてはいない。
「前者のマイナーリサイクルは京王杯ジュニアステークスを2着、前走の朝日フューチュリティステークスを10着だ。
明確に調子を崩しているけど、こちらは前走で彼女の所属するチームのメンバーと戦った以上、なにかしてくる可能性がないとは言えない。
...とはいえ、大手チームの子だからトレーナー方の方針は簡単に読める。大きな仕掛けをするようなチームじゃない。」
スカーレットがタブレットにデータを呼び出す。
「たしか、真っ向勝負をするならこっちの圧勝って言ってたわよね。」
「ああ。だからこの子は警戒対象の中でも下の警戒度でいい。」
重賞経験者で警戒するべきはむしろ次。
「次が後者のベイリーブヘイロ、こっちが重賞経験者五人の中で一番の警戒対象。」
スカーレットの指がタブレットの上を滑り、画面が切り替わる。
「直近はJpnⅢJpnⅡJpnⅠと3連続で
パッと見の仕上がりは良かったけど、連続でキツく仕上げてきた弊害が歩様等にわずかに見えた。思ったよりは伸びて来ないと思うけど、デビューからここまで5戦連続で三着以内に常に食い込む実力は確かだ。
警戒は怠らないように。」
「前々走のデイリー杯と条件がほとんど同じなのが怖いわね。」
一応合宿で京都コースを走ったとはいえ、実戦と模擬戦は同じとは言えない。その差が有意でないことを。
「重賞経験者は他にも3人いるけど、いずれも着外のみ、そして前回のレース映像と比較してそれほど身体に成長が見られないからこちらはあまり気にしなくていい。
2人もそこそこで十分かな。 」
..........問題が、さっきも話した次の奴。
「...そして、僕らにとって一番の警戒対象が...」
コンコンコン
部屋の扉を叩く音に、トレーナーの言葉が中断させられる。
「...続きは対応後に。
どうぞー!」
「失礼いたします。」
トレーナーの合図に、扉の向こうにいた人が入ってくる。
もはや見慣れた栗毛の同級生。
「...これはこれは、ツキヨナガイヨルさん。宣戦布告をした相手の控え室に何の目的でおいでに?」
トレーナーが他人と話すときの口調で応じる。
...対戦相手を煽りにでもきたのだろうか。
「...十和田トレーナー。貴方にお願いしたいことが。」
お願いしたいこと?
まさか負けろと言う訳もないし。
トレーナーにも心当たりがないのか、軽く首をかしげている。
「...お聞きしましょう、叶えるかはさておいて。」
「もし本日のレースで私、ツキヨナガイヨルがダイワスカーレットに勝利した暁には、私と専属契約を締結していただきたいのです。」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
専属契約の締結。
アタシのトレーナーがトレーナーになってからまだ三年活動していない以上、担当ウマ娘は最大一人。
つまりトレーナーにアタシとの専属契約を解消して自分のトレーナーになれと。
「...このレースが終わった後、お医者様にでもかかってみることを推奨いたしますよ。
よろしければ紹介状をお書きしましょうか?」
トレーナーが表情に困惑の色を滲ませる。
当然だ。あまりにも無茶苦茶なお願いすぎる。
現役中のウマ娘を捨てて、同世代の別の現役ウマ娘と契約するなんて余程の理由無しに許されることじゃない。そして、アタシ達にその理由はない。
「気を違えてしまったわけではありませんよ。私は本気です。」
「でしたら何故起こり得ないことをおっしゃっているのだか。
まずもってこのレースで勝利するのはスカーレットです。
万が一その前提が崩れる様な事態が起こると仮定しましても、こちらに契約解消の意向はありません。」
「...では本日のレースをたっぷりとご覧ください。私と彼女、どちらが貴方の夢に相応しいかご覧にいれましょう。」
トレーナーの、夢?
..........契約の時に言っていた内容だとして、なんで目の前の彼女はそれを知っている?
トレーナーが静かにナガイヨルを睨みつける。
「...姉さんの差し金か?」
トレーナーの問いにか、ナガイヨルは目を丸くする。
「...こうすれば思い出していただけるでしょうか。」
彼女はそう言いながらサイドテールをほどき、髪を後頭部で結び直す。
思い出す。トレーナーの知り合い?
トレーナーはしばらく驚いた表情を浮かべ、それから嫌なものをみているような表情で言葉を返す。
「...なるほど。道理であの時も声をかけてきた訳ですか。合点が行きました。」
大きく重いため息が部屋に響く。
同時、トレーナーの纏う雰囲気がガラリと変わる。敵意剥き出しというべきか、チクチクした鋭い気配に。
「思い出しはしましたが、どちらにせよ答えは否です。」
トレーナーはスツールから立って控え室のドアを開く。
「お帰り口はこちらです。
早急に、お引き取りください。」
「...ひどいお人。
レースの後同じことを仰れるのか、楽しみにしておきますわ。
失礼致しま...」
捨て台詞を吐き足を踏み出したところで、アタシと目が合う。
一瞬の間、彼女の笑みがさらに歪む。
「ああ、貴女だけお話しに置いてきぼりでしたね。
...私たちはこういう関係ですので、ご理解の程を。」
そういって彼女は左手袋を外し、薬指─その付け根についたダイヤのついた指輪をアタシに見せつける。
「それでは、失礼いたします。」
ツキヨナガイヨルは一礼して、有無を言わせぬばかりに退室してしまう。
トレーナーは音を立ててドアを閉じると、崩れ落ちる様にスツールに座り込む。
気づけば、纏う雰囲気が戻っている。
「..........精神攻撃まで仕掛けてくるか、いよいよ本気だな。」
ため息混じりにトレーナーが吐き捨てる。
「...アンタ、そういうが趣味なの?」
アタシと同い年の子と結婚だなんて、いくら若いからって大人が子供に手を出すのは犯罪よ犯罪。
「引きながら身を守ろうとするな、そんな趣味はない。」
トレーナーは左手薬指のルビーの指輪を外し、人差し指の先でくるくると回す。
「...家の都合で決まった政略結婚でね。ちょっとしたごたごたで破談になったんだ。」
「その指輪はその時の?」
「まさか。破談になってすぐに潰して捨てたよ。今頃は川の小石か誰かのお小遣いになってるだろうね。
今のこれは自作。」
「ああ、そういえばアンタそういうの好きだったっけ。」
「一応ね。大好きとは言いがたいかな。」
親指に弾かれた指輪が宙を舞って、再び持ち主の手中に収まる。
「...破談になった大本の原因のゴタゴタ以外に、当人二人の意志は介在せず...だったはずなんだけどね。
意味がわからないけど、どうやら向こうはそうじゃないらしい。」
「よかったじゃない。
担当契約のために女子中学生を1週間も追い回すような変態を好いてくれる子がいて。」
痛いところを突いてしまったか、トレーナーが見たこともない程に顔をしかめる。
「事実を元にそこまで豪速球を投げられると流石に傷つく。」
トレーナーが頭を抱え、深いため息をつく。
「...一旦、アレの下らない精神攻撃なんざまるごと忘れてしまおうか。」
「さて、話を大きく戻して、僕らの一番の警戒対象がさっきのアレだ。
本格化の上昇曲線が君より前にずれているのか、中京ジュニアステークス頃から明確かつ急速に力をつけてきている。」
練習のタイムの推移グラフや走行姿勢に顕著にあらわれている程である以上、この点は疑うべくもない。
「その上、今回は明らかに勝負をかけにきている。つまり彼女のトレーナーも本気で策を打ってくるということ。」
ナガイヨルはクラシック路線志望な以上、現実的なところでは今日が最後の勝負。
クラシック戦線を戦う為の切り札を持ち出して来ても何らおかしいことはない。
「これまでみたいに力の平押しでは限界。だからこその合宿だったわけだけど、はっきり言ってどれだけやっても過剰にならないレベルの相手だ。常に警戒は怠らない様に。 」
「わかってるわ。」
スカーレットが頷く。
「...パドックの様子を含めても、全体的には昨日のミーティングの時の予想の通りの展開になると思う。
問題が
深い深呼吸の音。
「...覚えてるわ。行ける。」
腕時計に目を落とす。時間は丁度良い頃合い。
「よし、それじゃそろそろ。」
こちらの声かけに、スカーレットは立ち上がる。
「─We'll be」
「「『ST』.」」
差し出した拳が打ち合う。
「行ってこい。」
「ええ。」
「勝ってくるわ。」