公園に着くやいなや、走っていた少女が方向を変えこちらに向かってくる。
準備運動はもう済んでいる様子。
「遅かったじゃない!」
「うん、お待たせ。」
少女の笑顔に少し不安が混じる。
「それで、答えは出たの?」
「...君のトレーニングを見ることにした。
この一ヶ月、その為に鍛えてきた。」
少女は目を丸くする。
「独り言じゃなくていいの?
責任がどうとか言ってたじゃない。」
「手段は用意した。」
自分としてはあまり納得のできる手段ではないが。
「そう。
..........あなたはいい人ね。
名前も知らない、親戚どころかついこの間出会ったばかりの相手のためにそこまでするなんて。」
「自分のためだよ。そこまで私は善人じゃない。」
御姉様達とは違って。
「..........そうだ、名乗ってなかったね。
私は青葉だ。よろしく頼むよ。」
右手を差し出す。
「ワタシは紅羽。大和紅羽よ。
よろしく、青葉トレーナー。 」
少女が差し出した手を取る。
青葉トレーナーか。響きは悪くない。
手を離し、カバンからノートを取り出す。
「トレーニングメニュー、考えてきたよ。
ちゃんとしたプロにも目を通して貰ったお墨付きのやつ。」
少女はノートを手に取り、中身に目を通していく。
「どれどれ...
うわぁ、凄い情報量...。」
やがて目を通し終えると、こちらへ顔を上げる。
「...ねぇ、2つ聞きたいんだけど。
1つ目、このトレーニングメニューの右上の数字は何?」
「トレーニングの相対的負荷っていうかな。
3ハロン走の負荷を1としたとき、そのトレーニングが大体どれぐらいの負荷になるかっていう体感的目安。」
御姉様の担当トレーナーさんから教わった負荷調整の技術の一つだ。
「2つ目、並走を前提にしたトレーニングがあるけど、これは相手はどうするの?
呼ぶ相手も居ないし、居ても並走の時だけここまで呼びつけるのも悪いじゃない。」
...この子、想像以上に賢いな。
きっと将来は大成するだろう。
「そこはちゃんと用意してあるよ。
..........きっと、驚くよ。」
「なら、期待してるわ。」
「さ、トレーニングを始めよう。
まずはここの歩道を5周。全力の半分くらいでね。」
「...全力で走りたいんだけれど..........」
「ちゃんとメニューに組み込んであるから、まず先に。ね?」
彼女は頬を膨らませながらもスタートについた。
「...。」
一瞬の間。
少女は駆け出した。
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私と彼女が出会ってから、嵐が過ぎた。
紅葉が舞った。
雪が降った。
桜が舞った。
少女は、瞬く間に成果を上げた。
始めは運動会で半周─1ハロン差の圧勝。
そこから陸上記録会のメンバーに選ばれ、地区大会でも余裕の勝利を見せた。
県大会も予選で強さを見せつけ、本戦でも勝利は間違いなかった。
...もっとも、前日に熱を出してしまい、出走を取り消さねばならなかったのだが。
あの頃の自分は無知すぎた。
トレーナーという仕事の良い側面しか見えていなかった。
また嵐が過ぎた。
紅葉が舞った。
雪が降った。
そして、事は起こった。
なぜそうなったのか、もう思い出すことすらできない。
いや、もしかしたらこれという原因は無かったのかもしれない。
誹謗中傷、怪我、子供の喧嘩、そういうものの積み重ねか。
あるいは、失言してしまったか。
既に記憶は剥がれ落ちた後だ。
叫ぶ彼女の顔ですら、とうに記憶の彼方に行ってしまった。
ただ耳に残るのは、彼女の声。
「アタシの事なんて何も知らないくせに!」
あの声が、あの言葉が、あの日から数年経った今でもなお、頭の中で残響している。
...最後にあの公園を訪れた日、東屋に残した練習ノート達は、果たして彼女に届いただろうか。
あの場に残っているかを確かめるのが怖くて、未だにあの公園へ向かえていない。
何処かでまだ、あの子は走っているのだろうか。
それとも、もうとっくの昔にやめてしまったか。
...きっと、やめることなどできないだろう。
私が諦められないのと同じように。
呪い、か。
いつかの姉の言葉は言い得て妙だったのだろう。
人を先へと導く祝福であり、人をその場へと縛り付ける呪い。
ともすれば、パンドラの開けた箱から飛び出した無数の絶望が一つだったのかもしれない。
..........もう、どうでもいいことか。
今さら何を思おうと、何にもなるまい。