ストップウォッチに目を落とす。
時間としては既に十分な頃合い、そろそろ終わりにしてクールダウンだ。
少し速度を上げ、スカーレットの横に並ぶ。
「...スカーレット、そろそろ終わりにしましょう。
持久力の向上において、既に一回のトレーニングとしては十分な効果が出る頃合いです。」
「ごめん、なさい...もう、少し..続けさせて...ください...」
スカーレットから息も絶え絶えの返事が返ってくる。
気持ちが解らないとは言うまい。
それでも先々を考えれば、割に合わないリスクは取るべきじゃない。
「ダイワスカーレット。」
「...わかり、ました。」
スカーレットがペースを落とすのに合わせて減速し、立ち止まる。
「スカーレット。敗戦が辛く苦しい事はわかります。勝ちたいという思いもわかります。
それでも、オーバーワークは看過できない問題です。」
昔から再三に渡って...もはや再数百数千と言ってきたことだ。
「..まあ、そのくらい貴女ならよくわかっている筈ですし...何か、あるのでしょう?他人に話せないような事が。」
むしろ無ければおかしい。
理性的な時ならリスクまで含めた状況判断ぐらい彼女一人でやってのけるのだ。それが出来ないならそういうことである。
スカーレットは視線を下に向けたまま口を開く。
「...怖いんです。一番になれないのが、アイツの期待を裏切るのが。
今この瞬間手を抜いたとして、それが原因で負けるんじゃないかって、そんなことばかり頭の中をグルグルして...体を動かしてないとそんな不安に押し潰されてしまいそうで..........。」
ああ。なるほど。
気持ちはよくわかるし、ある程度予想通りの返答だが、これはこっちで解決させる事柄じゃない。
「...それは、担当のトレーナーさんにちゃんとお話できていますか?」
「それは、その.......。」
わかりきったことを聞くと、案の定スカーレットが口ごもる。
用意してきて正解だった。
「そんなことだろうとは思いました。
これを持っていってください。」
懐から封筒を取り出し、差し出す。
「これは?」
スカーレットが封筒を手に取り、まじまじと見る。
「中身はウマ娘向け焼肉食べ放題の無料券です。トレーナーさんと親交を深める為に使ってください。」
「...ウマ娘向け食べ放題って......普通なら中々の額になるじゃないですか!
流石に受け取れませんよ。」
少し上ずり気味の声で封筒を突き返してくる。
彼女ならそう言うだろうとは思っていた。
でもこちらとしても引けない。いや、引けなくも無いが、シンプルに手間がいくつも増えるから引きたくない。
「構いませんよ。親戚付き合いの関係で頂いたものですから。」
「でも...。」
...純粋に頼んでダメならもう最終手段だ。
「そうですか。」
わざとらしく顎に片指を当て、考え込むフリをする。
「どうしましょう、盗まれて悪用されてしまっても困りますし、他に貰い手もおりませんね...では、この場で処分してしまいましょうか。」
封筒をスカーレットの手から拐い、チケットの反対側の真ん中からゆっくりと破いていく。
スカーレットは下を向いたまま微動だにしない。
頼む、早く動いてくれ。この切れ込みがチケットに届く前に。
違和感なく別案を動かすにはもう一度調達する必要が出てくるから。近親じゃないからまた知り合いのコネをわらしべ長者する羽目になるんだ。
頼む。
頼むから。
「ま、待ってください!受け取ります!アタシが受け取ります!」
スカーレットの手が封筒を掠め取る。
良かった。本当に。
本当に。
「言いましたね。返品は無しですよ。
...ふふ、色々と手間が省けました。
色々と手を回してトレーナーの側に動いてもらう案も、予備として考えておりましたので。」
スカーレットは封筒を開き、中身の無事を確認すると、少し困った顔でこちらに向き直る。
「...受け取ったは、良いんですけど。
出所は大丈夫ですよね?」
..........酷い事を言われている気がする。
「ええ。ちゃんと法的にも良心的にも何ら問題がない物ですのでご心配無く。
というか、私がかわいい教え子にそういった問題のある品を押し付けるとでも思われてたんですか?」
もしそうならば普通に傷つく話だ。
「すごく受け取らせようとする圧を感じたので、流石に...。」
...たしかに、それは不安にもなるか。
「あと、もう1つ問題点があるんですけど...どうやって誘いましょう.....。」
大事な事を忘れていた。
考えてみればそれはそうだ。
いくら素で接せるような相手とはいえ、普段一緒に出掛けたりしていない相手だ。
確かに急な話で誘いにくさはあるだろう。
「そうですね...例えば、友達と行くつもりだったけど都合が着かなくて勿体ないから、とかはいかがです?
なにか言われたらチケットの有効期限が近いことにして、チケットそのものは見せないようにして。」
「いいですね、それ。
そうしてみます。」
スカーレットの顔から悩みの色が、ほんの少しだけ減る。
とりあえず、目的は果たした。
「それでは私はそろそろ失礼いたします。
...お気をつけて、くれぐれも真っ直ぐ帰寮してください。
もう少しだけ、とかなさらないように。」
「わかってます。さようなら。」
「では、また。」
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トレーナー室のドアを空けると、机に向かっているトレーナーと目が合う。
普段両脇の壁に所狭しと並べられていた本が、何冊も机の上に広げられている。
「失礼するわ。」
「...珍しいね、昼休みに来るなんて。」
本と一緒に幾つかタブレットが机に放られており、画面に真上から見たレースでの各ウマ娘の動きを図に起こした動画がループしている。
見ている感じ、うち1つはつい数日前のチューリップ章の時のものらしい。
そうなると、今やってるのは桜花賞の展開予想。アタシを勝たせる為の用意。
「邪魔したかしら?」
「いや。意外だっただけ。普段なら学食かどこかでお昼ご飯を食べている頃だろうから。
それにこの部屋は君のスペースでもあるから、そういうことは気にしなくていいよ。」
「そう。」
短く返し、作業机の向かいにある
トレーナーの作業の音だけが部屋に響く。
しばらくの間。トレーナーが紙に線を引きながら口を開く。
「それで?何か話したいことがあるんだろう?」
...さて、どう切り出したものかしら。
「...別に。ただの息抜きよ。」
咄嗟にごまかしが口をついて出る。
トレーナーは一瞬固まり、呆れたような苦笑でこちらを向く。
「..........そっか。」
言外に、何かあるの自体はわかってると言わんばかりの目だ。見透かしたような理解者面が少しムカつく。
「...気持ち悪いわね、アンタ。」
「それはどうも。」
「誉めてないわよ。」
「それは残念。」
トレーナーはやれやれと言わんばかりにため息をつき、再び手を動かし出す。
...莫大な資料とそれに基づく計算処理。
今の私の頭じゃ難しい事しかわからないレベルの、17人ものウマ娘の過去レースの高度なデータ処理とその分析。
一応、これでも高校2年位まではもう予習は済ませてるのに。トレーナーという職業は、そんな学力では及びがつかない役職らしい。
...当然と言えばそうなのかもしれない。中央のトレーナー資格はどんな大学の医学部卒業よりも難易度が高いとすら言われているのだ。
合格者0人はたいして珍しいことではないし、大学や養成学校卒でも卒業後受かるまでには数年の努力が要ると聞く。
それを抜けても、チームトレーナーの下について一年間研修を受けて、専属を持てる腕を見込まれなければもう一年。それを越える頃には二十代後半に片足突っ込んでるのが普通、最悪アラフォー手前だとかいう記事がこの前流れてきた。
...その割にトレーナーは普通に若く見える。
二十代後半...には見えない。むしろ前半?
..........そういえば、アタシはトレーナーの事、あんまり知らないな。
実家がどうの養子がどうの政略結婚がどうの目白家がどうのとか、余計な事ばかり知っていて、誕生日とか年齢とかみたいなコイツ自身のことをろくに知らない。
「...ねぇ、トレーナー。」
ふと漏れた声に慌てて口を塞ぐ。
「何?」
トレーナーは作業を続けながら声だけ返す。
目線が紙を向いたままだから、こちらの様子には気づかなかったらしい。
...あまり黙っていても変に思われる。いっそ、今誘ってしまうか。
「アンタ、来週の土日って空いてないかしら?
友達と食べ放題に行く約束だったけれど、予定が入って行けなくなったみたいで期限が近い無料券が残っちゃったのよ。
二枚あるから勿体ないし、一人で、っていうのもあんまりだから。」
「確認する。」
トレーナーはペンを置きスマホを取り出すと、数回画面を叩く。
「あー...来週は日曜日なら空いてる。丸々一日自由だ。
車を出すよ。」
そう返すと同時に電卓を取り出し、何かの計算を始めた。
「...うん。よほどじゃなければ影響も出なさそうかな。
念のため少しプールを増やしておこうか。」
ああ、摂取カロリーがどうのとかそういう計算だ、これ。
...そうわかって見ると、計算式のあの数字とあの数字、月曜日に測らされた体重と体脂肪率とほとんど同じ。
毎週の身長体重血圧等々の測定はこの為か。全く乙女の秘密も何もない。
アスリートな以上仕方ないと言えばそれまでだけれど。
「なら決まりね。」
「この辺りでウマ娘向け食べ放題をやってる焼肉屋となると...完全個室のあそこか。よく無料券なんて手に入ったな。」
「友達からの貰い物よ。
親戚付き合いで貰ったけど行く時間がないって。」
トレセン学園には良いとこのお嬢様は少なくない。アタシ自身、末端とはいえそうではある。こう言っておけば出所を疑われることもそうないはず。
「...その日、焼肉の前に買い物に付き合ってもらっても良いか?
蹄鉄とかシューズとか、色々と調達したり現物見たりしたい。時間がかかるだろうけど、当人が居てくれた方が都合も良いし。
...気分転換までレースの事を考えさせられるのが嫌なら、全然断って良いから。」
日曜日なら予定は入ってない。
「問題ないわ。アタシの方も一日空いてるから、時間さえ指定してくれれば合わせられる。」
「お店のディナータイムが18時からだから...14時頃に栗東寮裏の乗降所集合でいい?」
「11日の14時、栗東寮裏ね。」