あれからまた幾日かが経ち、光達は、勝利に沸くヨウゲツへと戻っていた。
都市を守りきり、更にウプアットまで奪還する。
そんな大戦果によるお祭り騒ぎは、少年一行が帰還してからもまだ続くほどだった。
それもようやく一段落した頃、光はレラと司令部の一室で面会していた。
何でも、彼女は勇者の2人とマーディンの王都、ディーチへと向かうのだという。
そこでも凱旋パレードがあるのだ、と。
「ヒカル、貴方はどうする?」
「あー……俺はいいよ」
レラからのパレード参加の誘いを、光は苦笑して断った。
彼女もわかっていたようで、そうよね、と頷く。
「肩書は内緒、だったものね」
頬をかいた少年にレラは微笑むと、そこで姿勢を正した。
「……ありがとう、ヒカル」
「礼なんて……あ、いや」
光は思わず、いらない、と言いかけてから、今のなし、と手を振る。
「……こちらこそ、ありがとう」
「ふふ」
くす、と笑うレラの表情は、年相応の少女のようだ。
それが何か気恥ずかしく、少年は誤魔化すように話題を探す。
「にしても、何だ、レラは『ありがとう』ってしっかり言うタイプなんだな?」
我ながらこの話題はどうなんだ。
光は内心で頭を抱えた。
知ってか知らずか、彼女は笑みを浮かべたまま応じる。
「そうね。私、感謝している人には、思い立った時に言うことにしているの」
「へえ。いい心がけ、じゃないか?」
何様だ、と内心の自分が更に頭を抱えるのがわかった。
「何度か、後悔したの。あの時、言っておけば……ってね」
「それは……」
レラの立場を考えれば、それはあり得ることだった。
少女は、だからね、と続ける。
「これは、心の健康法なの」
「……そっか」
そこで、お互いに何となく言葉が途切れた。
少しして、レラが口を開く。
「そういえば、王女殿下の件、王都から返答が来ていたわ」
「ナインの?」
「ええ。ウプアット、いえ、もうソリッドステートね。正式にはまだだけど、殿下の直轄地になると」
王家の、ではなく、ナインの直轄地。
返書にあったその表現に、レラは若干の引っ掛かりを覚えていたが、そこは口に出さなかった。
「それで、合わせて殿下にも王都への凱旋が求められていてね、お尋ねしてきたのだけど……」
「断られた?」
「そうなの。『面倒事はお互いに嫌でしょう』、って」
お互いに。
その意味するところを察して、光は小さく唸った。
ナインにとって、家族とはそういうものなのだろう。
だが、家族から見てのナインは、本当にそうなのだろうか?
「……いずれにせよ、私は一度ディーチに向かうわ。その後は、きっとソリッドステートでしょう」
「それは……出世、なのか?」
今ひとつ断言できず、光は首を傾げる。
レラは少しだけ困ったように視線をそらし、言葉を選んだ。
「……実力を認めてもらったのは確かだ、と思いたいわね」
その逡巡に、彼女の立場が表れているようだった。
少ない兵力で最前線を守りきり、あまつさえ要地奪還の契機を作った若き俊英。
歓迎する勢力ばかりではないだろう。
「――明日の未明には出発するの。シュージとイイコも一緒よ。伝えることはある?」
切り替えるように、レラの声音が明るくなる。
光も特に追求はせず、そうだな、と相槌を打つ。
「祝勝会でもそれなりに話したし……また会おう、くらいで」
「ええ、伝えておくわ」
勇者の2人は、カイセイの各地をそれこそ飛び回っている。
嫌でも顔を合わせる機会はあるはずだった。
「そういえば、ヒカル、貴方はこの後どうするの?」
ふと、レラが問うた。
「うん、イオタに行こうかなと」
イオタ皇国。
カイセイにおいて最古の歴史を持つ、とされる国だ。
ヨウゲツからだと、シャナンという港町に出て、船で向かうことになる。
「そう……。少し、遠くなるわね」
レラは窓の外へ目を向けた。
思えば、この数ヶ月で光と彼女の関係も、随分と変わっていた。
見知らぬ他人から、善意の協力者、相談相手……。
そして今、もしかしたら、これを戦友というのか、と少年は思った。
「……そろそろ、お暇するよ。準備もあるだろうし」
意識して、光は話を切り上げようとし、立ち上がる。
それは未練なのかもしれない。
その背に、レラは呼びかけた。
「ヒカル」
振り向いた少年に、少女は微笑んだ。
「……ありがとう。またね」
「……ああ、また」
◇
夕方。
光は、ナインの離宮へと呼び出されていた。
ゴーレムに通された応接室には、珍しく先客の姿。
ロンドだ。
「バルクマンさん?」
「やあ、少年。君も呼び出された口かな?」
そうです、と返答しつつ、光は首を傾げる。
ナインがロンドを呼び出した理由を、推測できなかった。
「私の用事は終わったところだが……すまないけど、この後こちらに寄ってくれるかな?」
「ええ、わかりました」
「ありがとう。君にも、関わる話になってしまったのでね」
また後で。
そう言って辞した騎士と、入れ替わるようにナインが入ってきた。
「いらっしゃい、ヒカル」
「ああ、用事ってのは?」
「そうね、お茶を飲みながら話しましょう」
王女が指を鳴らすと、数体のゴーレムが茶器や菓子を運んでくる。
断る理由もなく、光は促されるままに席についた。
「……さて、どう話したものかしら」
湯気の立つティーカップを眺めながら、ナインは軽く息をついた。
「ヒカル、貴方はイオタに向かうのだったわね」
「そのつもりだけど」
「出発、早めたほうが良いかもしれないわ」
王女の言葉は、僅かに性急さがあった。
「えっと……それはどういう……」
「そうね……ソリッドステートの解放、知ってのとおり、これは私の功績になった。そこはいいわね?」
少年は頷く。
「そこに、協力者がいた……と嗅ぎつけられたの。しかも、有力な。それを踏まえて、ここ数ヶ月のヨウゲツの様子を調べれば、簡単に貴方の存在が浮かび上がる」
「そう、かもな?」
今ひとつ、光には要領が掴めない。
滞在を隠しているわけでもないし、それはそうだろう、くらいの感覚だ。
「ロンドの騎士団は問題ないの。腕の立つ傭兵を雇った、としかならない。でもね、貴方は違う。在野の、言ってしまえばただの旅人に過ぎない」
「まぁ事実だし……その何が問題なんだ?」
「つまり、貴方を囲い込んでしまおうとする人が出てくる、ということよ。多少強引でもね」
「俺を……?」
ナインはローブの下で、くすくすと笑った。
「ええ、貴方を」
王女はカップを手に取ると、香りを楽しむように口元で揺らした。
「あの手この手で、お招きが来るでしょう。遠からず、断れないような何かを添えて……。その先の『お話』を、上手く躱せる自信が貴方にあるなら、いらぬ世話でしょうけど」
光も、そこで茶に口をつけた。
独特の香気が鼻孔を抜け、少しだけ思考をクリアにする。
「……面倒なんだな、政治って」
「ふふ、そうなのよ。だから、そんな話が表に出てくる前に、ここを離れたほうがいいの」
ナインはカップを戻すと、姿勢を崩す。
「まぁ、この程度で騒ぎ出す連中の興味なんて……七十五日もてば上々でしょうけれどね」
気だるげに頬杖をつきながら、王女は悪戯っぽく続けた。
「仮に、貴方の名前を売るにしても……売り方ってものがあるでしょう?」
少年は降参するように両手を挙げる。
鈴のような笑い声が響いた。
「……それで、もう一つはね。フィオに関することよ」
「フィオ?」
不意に出た名前に、光は思わず眉根を寄せた。
「伝言で良いわ。貴女が望むなら、いつでもソリッドステートにいらっしゃい、と」
「仕官の誘い……ってやつか」
「そうね。彼女の事情を深く知っているわけではないけれど、選択肢は与えられるべきでしょう」
少年は腕を組む。
実際、フィオが光の仲間となる紆余曲折の中で、その事情を聞かされたことはあった。
簡単に言えば、お家再興。
そのためには、自分に同行するより、ナインという権力者の下にいるべきかもしれない。
そう思える。
「ヒカル」
その思考をせき止めるように、ナインの声が耳に入った。
「判断するのは、フィオよ。あの子の人生なのだから」
「……わかった、わかったよ」
どうも、今日のナインに勝てる気がせず、光はもう一度手を挙げた。
(いや、勝てた例もないか……)
この王女とも、短い、とはいえない付き合いになった。
当初は面倒事という認識しかなかったが、果たして、今でもそうだろうか。
「……この街に来た頃は、ローブ越しでも、人と話すことなんてできなかった」
ふと、ナインが呟く。
その目は、窓の外へと向けられている。
私室と異なり、応接室の窓からは夕日に染まる空が見えた。
「部屋の扉越しに話す、なら良いほうでね。殆どは、ゴーレム経由での筆談だったの」
「……」
改めて考えれば、年端のいかぬ少女にとって、それはどれだけの孤独だっただろうか。
その経験がナインの危うさの源泉であり……それでもなお、失われなかったものを、光は眩しいと思った。
「今はね、ローブさえあれば多少の会話はできるの。やっと、身体が魔力に追いついてきてるのね。うふふ、才能も罪だわ」
「……じゃあ、そのうち、皆とも普通に話せるようになるな」
少年の相槌に、王女は穏やかに笑う。
「ええ。でも、きっとそうなっても、私はローブを脱がないわ」
「何でまた……いやまぁ、好きにすればいいけどさ」
いつもの冗談かと、光は呆れたように笑った。
おもむろに、ナインがフード部分を外す。
白金の髪が夕日を纏い、燃える黄金のように煌めく。
「私の素顔を知る人は、ヒカル、貴方だけでいいの」
「……あ、えっと……あ、ありがとう?」
予想外の変化球、いや、豪速球を受けた少年は、カチコチとしたまま残りの茶を飲み干す。
再び顔を隠した王女の笑い声が、ころころと響いた。
◇
街灯が灯り始めた通りを、涼風が吹き抜けていく。
その冷たさが、今の光にはありがたかった。
ハモニカの詰所である宿屋へ着く前に、頬の赤みに取れてほしかったからだ。
からかわれているのだ、と思い込もうとして、少年は首を振る。
そんな様子を、ティスが静かに見守っていた。
「せっかく来てもらったのに、慌ただしくてすまないね」
詰所につくと、ハモニカのメンバーが忙しなく動いていた。
ロンドの部屋も、荷物の整理中のような様相だ。
「どうかしたんですか?」
「うん。君との依頼期間はまだあるんだが、申し訳ない。ちょっと事情があってね、すぐに国へ戻る必要が出てきてしまった」
「……え」
一瞬、飲み込むことができず、光は固まった。
「こちらの都合で依頼を切り上げるわけだから、当然契約金もお返しする。例の商会経由になるだろうけど……」
「あ、すいません、あの……」
混乱して、少年はロンドの言葉を遮る。
ハモニカとの契約には、期限があった。
当然、いずれ別れることはわかっていたが、それがまさか今、急に訪れるとは考えもしていなかった。
「……いや、重ねてすまないね。私も、少し焦っていたようだ」
そこで、騎士はようやく落ち着いた口調に戻った。
手近な椅子を引くと、光に勧める。
促されるまま座った少年と向かい合うように、ロンドも座った。
「君が来る前に、王女様と話をしていただろう。そこで、私の故郷……トゥーズ王国にも関わる情報をもらった」
「ご出身、トゥーズ王国だったんですね」
そうなんだ、と騎士は応じ、続ける。
「実は、今のトゥーズは、国王が不在なんだ。代替わりの途中で、大公が国務を代行している」
代替わり。
その単語に、光の脳裏にかつての若きドワーフ王、アフリッドの逸話がよぎった。
「その大公に問題がある、というわけじゃない。出来た人だよ。ただ……ネメシスの件があっただろう? 少しでも早く、国を安定させたいんだ」
少年は察する。
ロンドは、ナインから聞いたのだ。O兵装がまだある、ということを。
そしておそらく、ロンドはトゥーズの貴族なのだろう。
ナインが王族としての責務を見据えているように、目の前の騎士もまた、背負うべきものがあるのだ。
「……わかりました。そういうご事情なら」
「……ありがとう。本当なら、イオタにも同行したかった。うちの団員も、楽しみにしてたからね」
そのセリフが少しだけ寂しそうに聞こえ、光は、思わず込み上げるものがあった。
それを何とか飲み込み、切り出す。
「契約金も、別にお返しいただかなくても……」
「ああ、少年、それはいけないよ」
鉄仮面の奥で、騎士は苦笑したようだった。
「気持ちはありがたい。でも、これはケジメなんだ。当初の契約を、こちらの勝手な都合で変えてしまうのだからね」
「勝手な都合だなんて……」
言い募ろうとする光を、ロンドは手で制する。
「私はね、君とは対等でいたいんだ。そのためには、負い目を作りたくない。……わかってくれるかい?」
そこまで言われてしまっては、少年も受け入れるしかなかった。
納得できたわけではなかったが、これ以上困らせるのも本意ではない。
「……はい」
光の返事に、ロンドは安心したように頷いた。
若干重くなった雰囲気を変えようと、少年は口を開く。
「えっと、確か、イオタの途中の寄港地がトゥーズでしたよね? そこまでならご一緒できるんじゃ?」
「それなんだが、明日、シャナンからちょうど直行便が出港するんだ。大きな荷物はまとめて、後から追わせる手筈で……私達は、今夜出発して強行軍さ」
「……間に合うんですか?」
「間に合わせる、って感じかな」
おどけた様子のロンドに、光は苦笑する。
この方針を聞かされたとき、きっと、ニナ辺りが悲鳴を上げたに違いない。
心中で彼女に合掌しつつ、少年はふと気づく。
「あ、じゃあ、逆に俺達がトゥーズに寄ったときは、会えますか?」
「もちろん、盛大に歓迎させてもらうよ。皆と一緒にね」
その時は、とロンドは鉄仮面に手を当てた。
「これを外して話そう」
「……そういえば、ずっと着けてましたっけ」
初めて会ったときからそうだった故か、光にとってはこの仮面の姿こそがロンドだった。
ある意味で、それは呑気な話ではあったが……。
くつくつと、仮面の下で騎士が笑う。
「ふふふ。警戒心がなさすぎる、と叱るべきかな?」
「あはは……」
恥ずかしげに、光は頬をかいた。
「でも、それも信頼の表れだと思えば、悪くないものだ。……少年、いや、ヒカル」
ロンドは立ち上がると、少年の傍らへと近づき、膝をつく。
「君の未来に幸あらんことを、私も、ハモニカの皆も願っている。忘れないでくれ」
「……はい。ありがとうございます」
ロンドの部屋を辞したところで、光はジェイクとニナ、そしてイネスに捕まった。
3人がそれぞれに、何か渡したいのだという。
「ヒカル! シャナンへの街道は凸凹してて、馬車はお尻が痛くなるわ。だからこれ! 私のお手製!」
ニナからは、小さいながらしっかりとしたクッションが。
「私からはこれ。ヒカルは船での長旅は初めてでしょ? じゃーん、ラーベルミントの種。酔ってからでも覿面に効くよ」
イネスが手渡してきたのは、白っぽい種が入った袋だった。
それを見たニナが、うんうんとしたり顔で頭を縦に振る。
「効果は私も保証するわ。何度もお世話になったし、今でも常備してるの」
「そうだよ。だから、ニナはそろそろ卒業しましょうね~」
「え? ……あれ!? まさかそれ私の……! ヒカル、かえ……」
ニヤニヤ笑っている先輩の姿に、後輩の少女はぐっと言葉を飲み込んだ。
「さなくていいわ! ありがたく使いなさいよね!」
「だってさ。ニナからの贈り物、大事にしてね、ヒカル」
「……はい。どっちも、大事に使います」
偉いぞ、とニナをかいぐり始めたイネスの様子に、光は苦笑して礼を言う。
この光景も見納めだろうか。
「俺からはこれだ」
ジェイクからは、金属製の蓋がついた方位磁針のようなもの。
手のひらに収まるサイズのそれは、見た目よりもずっしりとしている。
「マナ磁針ってやつで、設定した場所に針が向き続ける。意外と使えるぞ」
「わあ……これ、蓋の紋章は」
「そう、ハモニカのエンブレムだ。後輩に渡すつもりで用意してたんだが、ニナはイネスに取られちまったからな」
そう言って青年は笑う。
「実は、副団長や姉御、酒飲みコンビにユーフィまで、あれこれ渡そうとしてたんだ。ただ、流石にそれだとかさばるから、俺等3人が代表でね。皆、よろしくってさ」
「他の皆さんも……」
胸の奥がくすぐったくなるような感覚に、光は手にしたマナ磁針を心臓の辺りに押し当てる。
その背後から、ニナを構い終えたイネスが、少年の頭に手を伸ばした。
「こんじょーの別れでもなし、どうせトゥーズで会えるってのにねぇ。みぃーんな大げさなんだから」
ことさら間延びした口調で光の髪をもてあそび、この髪型のほうがイケてるよ、とのたまうイネスに、少年の表情が味わい深いものに変わる。
感動に水を差されたような、平常運転に安心したような……。
いや、やはり、また会えるのだと何の衒いもなく言ってくれたことが、光には嬉しかったのだ。
◇
光が自分の宿へ戻った頃には、すっかり夜だった。
部屋に入ると、今後の旅程を調べに出かけていたフィオが戻ってきていた。
シャナンから船で出港し、いくつかの寄港地を経てイオタまで。
流石に、前情報もなくふらっと行ける距離ではない。
「ヨウゲツからシャナンまでは、陸路で2~3日デス。そこからイオタまでの定期便で、次の出港は1週間後ですネ。天候次第で前後するようですが、まず間に合うかと」
「えっと、イオタまでは寄港地をいくつか経由する、んだよな?」
光の確認に、フィオが首肯した。
「はい。マーディンの主要港を巡りつつ、サーズ王国、トゥーズ王国、そしてイオタ皇国ですネ」
「各国で、2~3の港へ寄港します。荷役がありますから、それぞれで1日停泊。正味で10日程度でしょう」
ティスが補足する。
「とすると」
少年はトゥーズまでの日数を軽く数えた。
「トゥーズまでは2週間くらいか」
「何かご用事が?」
フィオの問いに、ああ、と光はハモニカとのやり取りについて話した。
「そうでしたか……。気持ちの良い方々でしたから、寂しくなりますネ」
「うん。でも、今生の別れってわけじゃないからな」
イネスの受け売りだと気づいて、少年は笑った。
突然ではあったが、その別れは良い思い出となりつつある、ということだろう。
それを察してフィオは笑い、ティスも静かに瞑目する。
「そうだ、これも忘れないうちに伝えておくよ」
ついで、とするにはやや重い話題だったが、光はここがタイミングだと思った。
ナインからフィオへの、仕官の誘い。
「ナイン様が、そんなことを……」
内容を聞き、少女が呟くように応える。
「多分、いや、間違いなく、悪いようにはならないと思う。……どうする?」
光の言葉に、フィオは僅かに逡巡した。
「とても、ありがたいお話です。ナイン様に、そこまで評価していただいたことも含めて。ですが……」
それでも、はっきりと言葉にする。
「その件は、お断りします」
「……そっか、わかった。ナインには伝えておくよ」
「いえ、明日、私が直接伺ってお話しします。礼儀、というよりは、私なりの筋目ですね」
常の快活な表情ではなく、大人びた風格を感じさせる顔だった。
ナインやロンドにも通じる、高貴さとでもいうべきだろうか。
――フィオもまた、多くを背負っているのだ。
今ごろになって、光はそれを実感する。
そんな彼女に「主」と呼ばれる価値が、自分にあるのかと、悩まないわけではない。
それでも、少なくとも今の自分には、これまでフィオがそう呼んでくれていたことに対して、応える義務があるのではないか。
「フィオ」
「はい?」
小首を傾げた少女に、光は改めて頭を下げた。
「これからも、よろしく」
「……はい!」
夜も更け、街も寝静まったようだった。
ハモニカの面々は、無事に出立できただろうか。
そんなことを思いながら、光はふと手を止めた。
久々に、日誌を書いている。
「イオタ、か」
最古の国というそこならば、あるいは、魔法より魔法じみたO兵装の、失われた超技術への手がかりがあるのではないか。
……地球への帰還を実現できるかもしれない、手がかりが。
それは、少年にとって久方ぶりに得られた「希望」だった。
カイセイ。
ここで出会った人々との繋がりは、光にとっても、かけがえのないものになりつつある。
それでも、この願いこそが、少年がこの異世界を歩き続ける原動力だった。
「ティス」
傍らに控える侍女の名を呼ぶ。
すっと進み出たティスへ、光は視線を向ける。
少年に絶対の忠誠を誓う彼女は、O兵装を知っていた。
であるならば。
「O兵装を調べれば……」
思わず出たその問いかけは、途中で止まった。
問えば、答えが返ってくる。
返ってきてしまう。
その確信が光に口を閉ざさせ、俯かせた。
ティスは、そんな少年の様子を訝しむでもなく、静かに見つめている。
「……いや、やっぱり、なんでもない」
この問いに、彼女が是と答えてくれたなら、これ以上に心強いことはないだろう。
だが、もしも答えが否であったならば?
ティスを信じればこそ、光は問えなかった。
絶対であるが故の、不安。
矛盾しているようだが、それが少年の本心でもあった。
「マスター」
ティスが呼びかける。
驚いたように、光は顔を上げる。
彼女が自発的に少年を呼ぶのは、もしかしたら、初めてかもしれなかった。
「お助けいたします。私が、必ず」
それは、すべてが整った彼女にしては、ぎこちない宣言だった。
光の不安に寄り添うようでもあり、ティス自身の決意を愚直に伝えるようでもあり……。
ただ、それを聞いた少年は、ふっと表情を和らげた。
「……そっか。ありがとう」
不安が消えたわけではない。
直接問う勇気が生じたわけでもない。
しかし、そんな自分でも支えてくれる人々がいるのだ、ということが、光を励ましてくれた。
少年は改めて、ページに向き合う。
紙の上をペンが滑る音だけがしばらく響き――。
「――本日もカイセイなり、と」
定型句を書き込まれた日誌が、ぱたんと閉じられた。