本日もカイセイなり   作:モカの木

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短編2 出会い

 天都光(あまとひかる)は、自分が落ちている、と認識するのにしばらくかかった。

「……え!? なにこれなになになに!?」

 ごうごうと耳元で空気が逆巻き、己の叫びすら判然としない。

 慌てて手足をばたつかせようとし、風圧が簡単に姿勢を崩してくる。

 ジェットコースターで急降下するときの、腹の奥がくすぐったいような気持ち悪いような感覚に力が抜ける。

 制御を失った身体は、意に反してぐるぐると回り、天と地と(辛うじて下は水のようだとわかった)が次々に入れ替わる。

 それに酔う暇も、危険だと理解する間もなく目の前に水面が広がり――少年は意識を手放した。

 

 ◇

 

 目覚めた時、光はまだ自分が夢を見ているのかと思った。

「あ……あ?」

 寝かされている。

 顔を左右に動かす。ベッドだろうか。見覚えはない。

 痛みがないことを確認しながら、少年はゆるゆると体を起こす。

「ぅお」

 思わず、声が出た。

 視線の先、ドアと思しきものの側に、誰かが音もなく立っている。

 漫画やアニメに出てくる、瀟洒な侍女服、というべきだろうか。

 それを着こなす、美女、と形容するしかない誰か。水晶のような髪がゆったりと編まれ、肩口から胸元へ流れている。

 光の視線を受けて、その女性は折り目正しく一礼した。

「え、ええと……」

 その所作も、佇まいも、自分とは一線を画す上品さがあり、少年は気恥ずかしげに頬をかいた。

 ぅおって何だよ、と先ほどの驚きを内心で恥じる。

「あの、すいません、ここ、どこですか? あ、俺は、あ、いえ、僕は天都光といいます。えっと、天気の天に、都会の都で天都、光は普通に光で……日本語、わかります?」

「あまと、ひかる様」

 女性は、ゆっくりと名前を復唱した。

 表情こそ変わらないが、その紅玉の瞳が僅かに揺れた気がして、光は小首を傾げる。

「――以降、マスターとお呼びいたします」

「……あ、はい」

 意識の外から飛んできた言葉に、思わず少年は返事をした。

 と、澄んだグラスを鳴らすような、透き通った音が響く。

「……?」

 どこから聞こえたのか、と光は視線を巡らすが、それらしき発生源は見当たらない。

 やっぱり、夢かもしれない。

 少年は眉間に拳を当て、ため息をつく。

 侍女服の女性は静かに目を伏せると、お茶をご用意いたします、と茶器の準備を始める。

 そんな声を聞きながら、光は何となく自分の体にも目を向けた。

 衣服は、記憶のままだった。

 

 ◇

 

 ジャスミンのような香りのお茶を飲む間に、光は辺りを見回していた。

 どう考えても、自分の家の近所ではなさそうだ。

 案内されたベッド脇のテーブルや周囲の家具も馴染みがないし、窓から覗く木々も何となく見覚えがない。

 そして何より、音がしないのだ。車、あるいは自転車や道行く人の話し声……人々の音が。

「あの、それで……」

 ティーカップを手の中で弄びながら、少年は口を開いた。

「ここは、どこですか? えっと……」

「ティ・シフォンと申します、マスター」

 そう名乗った女性は、そこで恭しく礼をした。

 その立ち居振る舞いにやや気圧されながら、光は聞き覚えのない名前の響きに、外国の人だろうか、と当たりを付ける。

 ただ、日本語は通じている。

「っと、シフォン、さん? それで……」

「はい。ここはイラーフ共和国のトゴル地方、レガ湖の東岸です」

「イラー、フ? 日本じゃない、んです、か?」

 嫌な予感が、ふつふつと湧いてきていた。

「はい。ニホン、という国は、ここオージェ大陸にはございません」

「……すいません、地理は弱くって。あの、オージェ大陸って……アメリカ大陸とかですか?」

「いいえ。アメリカ大陸、というものはございません」

 滑らかに突拍子もないことを言われた気がして、光はぽかんと口を開ける。

 ドッキリだろうか。

 だとすれば、相当手が込んでいる。

 ――ただの高校生にそんなことをして、何になる?

 頭の中で、やけに冷静な自分が嘲った。

「ええと……そうだ、あの、僕はどうやってここに?」

「この部屋に、という意味であれば、私がお運びいたしました。本来であれば、マスターが落水なさる前に受け止めるべきでした。申し訳ございません」

 そこで謝罪したティ・シフォンに、光はますます混乱する。

 落水?

 では、あれは現実だったのか?

 だとすれば、自分にはそもそも、何が起こった?

「……す、スマホってどうなってます? あの、四角くて、手のひらサイズの乗る板みたいな」

 考えがまとまらないまま、少年はとりあえず思いついたことを口にする。

「お手荷物は可能な限り回収し、そちらのキャビネットに納めております」

 白い指先が、窓際の家具を指し示した。

 若干震えながら、光はその引き出しを開ける。

 見慣れたカバンや財布、そしてスマートフォン。カバン類は少しだが、確実に湿っていた。

 それを努めて無視しながら、少年はおそるおそるスマホの画面をタップする。

 反応はない。

 電源ボタンを押す。

 無反応。

 長押し。

 暗いままの画面に、情けなく表情を歪めた光の顔が映っている。

「なん……なんで……」

「……マスターが、なぜレガ湖上空に出現なさったのかは、現時点では不明です」

 聞き覚えのない地名。

 見覚えのない景色。

 美しい侍女服の女性。

 情けない自分の顔。

 不意に、数日前まで読んでいたWEBコミックを思い出す。

「異世界……?」

「……」

 その呟きには、ティ・シフォンは応じなかった。

 そしてそれこそが、光には何よりも雄弁な答えだと思えた。

「……全然、ワクワクなんてしないじゃん……」

 漫画の主人公のように笑おうとして、少年はくしゃりと表情を歪める。

 その様子を、美貌の侍女が見つめる。

 窓の外で、風が木々を揺らしていた。

 

 ◇

 

 いつの間にか眠っていたらしい。

 耳が痛くなるほどの静寂に包まれ、自分の鼓動の音さえもうるさいような心地になりながら、光はゆっくりと目を開ける。

「お目覚めですか、マスター」

「……っ」

 目の前に、紅玉の瞳があった。

 思わず叫ぶ一歩手前のところで、それがティ・シフォンという女性のものであると気づき、少年はこくこくと頷く。

 眠気は一瞬で霧散してしまった。

「せっかくお目覚めのところですが、日の出までは今しばらくかかります。どうぞ、お休みください」

 衣擦れの音ひとつ立てず、彼女はベッドから離れていた。

 その言葉のとおり、窓の外は未だに夜の帷が降りているようだ。

 ぼんやりと部屋を照らす明かりは、間接照明だろうか。壁や天井の一部が、ふわりと光っている。

 ――夢じゃないのか。

 光は薄明るい天井を見上げながら、口の中で呟いた。

 あの後、それなりの……いや、結構な醜態を晒した自覚はあった。

 それに黙って付き添い、身支度を整える手伝いをしてくれたあの女性は、きっと悪い人ではないのだろう。

「……あの、シフォン、さん?」

「どうぞお呼び捨てください、マスター」

「え、いや、それは……。その、マスターって、なんですか?」

「私がお仕えするべき方、という意味です」

 ティ・シフォンの声は穏やかで、何ら押し付けがましい色はない。

 だからこそ、その響きはやけに重く感じられた。

「……あの、人違い……とか」

「いいえ」

 柔らかく、だが、ぴしゃりと彼女は断言した。

 少年は戸惑ったように女性へ顔を向ける。

「……違うと、思いますけど……」

 弱々しく抗弁する光と、紅玉の瞳とがしばし交錯した。

 ふと美貌の侍女の目が伏せられ、一歩だけ前に進み出る。

「私の使命はマスターを、天都光様、貴方をお守りすることなのです」

 そこで、深々と彼女は頭を下げる。

 光にはその姿が、何故かとても寂しげに見えた。

 少しだけ、親近感を覚える。

「えっと……よくわからないんですけど……あの、顔、上げてください」

 自分を守ることが使命なのだ、と、この女性は言う。

 ますます漫画だな、と酷く他人事な感想を少年は抱いた。

 光の言葉に姿勢を戻した彼女の、水晶のような髪が微かに弾む。

 明るさも相まって、幻想的とすらいえるその様子は、現実感に乏しい。

 そう、よくわからないことばかりだった。

 いっそのこと、本当に漫画やゲームの世界なのだと思えれば、どれだけ楽になれるだろうか。

「あー……えっと……て、ティ・シフォン?」

「はい」

 意を決して、名前を呼び捨てにする。

 全く気にした素振りもなく、彼女は応じた。

 何となく、光は居心地が悪くなる。

「……ティ? いや、シフォン? うーん……あの、なんて呼べばいい……ですか?」

「如何様にも」

 タメ口を続けられず、右肩下がりのトーンで話す少年。

 ティ・シフォンの回答は、光にとっては答えになっていなかった。

 せめて指定してくれれば、と内心で肩を落とす。

(やっぱり、シフォン、が丸い? いやでも、苗字のまま呼び捨て……? 名前だとティ……ティー? いや、うーん……)

 ぐるぐると考えながら、苦し紛れに光は提案した。

「てぃしふぉん、てぃし……ティス、とか?」

「……はい、マスター。どうぞ、ティス、とお呼びください」

 呼び名を受け入れてもらえたことに、少年は深々と息をついて目を閉じた。

 ようやく、目の前の彼女、ティスと話ができたような、そんな達成感がある。

 しばらく、沈黙が続いた。

 といっても、不思議と息苦しさはない。

 ……まぶたが重くなる。

 霧散した眠気が、また集まり始めたようだった。

 小さな欠伸がこぼれる。

「どうぞお休みください、マスター」

 涼やかな声が耳朶を打つ。

「そう……させてもらいます」

 ゆっくりと枕に頭を乗せ直し、光は睡魔に身を委ねた。

 目を閉じると、肩口まで毛布がかけられる感触。

 まるで、小学生に戻ったような世話の焼かれ方に、少年は微かに笑った。

(……ああ、起きたら、宿題しなきゃ)

 取り留めのない思考が、まどろみとともに沈んでいく。

 そんな光を、ティスが密やかに見守っている。

 やがて、小さな寝息だけが部屋に溶けていった。

 

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