「……え!? なにこれなになになに!?」
ごうごうと耳元で空気が逆巻き、己の叫びすら判然としない。
慌てて手足をばたつかせようとし、風圧が簡単に姿勢を崩してくる。
ジェットコースターで急降下するときの、腹の奥がくすぐったいような気持ち悪いような感覚に力が抜ける。
制御を失った身体は、意に反してぐるぐると回り、天と地と(辛うじて下は水のようだとわかった)が次々に入れ替わる。
それに酔う暇も、危険だと理解する間もなく目の前に水面が広がり――少年は意識を手放した。
◇
目覚めた時、光はまだ自分が夢を見ているのかと思った。
「あ……あ?」
寝かされている。
顔を左右に動かす。ベッドだろうか。見覚えはない。
痛みがないことを確認しながら、少年はゆるゆると体を起こす。
「ぅお」
思わず、声が出た。
視線の先、ドアと思しきものの側に、誰かが音もなく立っている。
漫画やアニメに出てくる、瀟洒な侍女服、というべきだろうか。
それを着こなす、美女、と形容するしかない誰か。水晶のような髪がゆったりと編まれ、肩口から胸元へ流れている。
光の視線を受けて、その女性は折り目正しく一礼した。
「え、ええと……」
その所作も、佇まいも、自分とは一線を画す上品さがあり、少年は気恥ずかしげに頬をかいた。
ぅおって何だよ、と先ほどの驚きを内心で恥じる。
「あの、すいません、ここ、どこですか? あ、俺は、あ、いえ、僕は天都光といいます。えっと、天気の天に、都会の都で天都、光は普通に光で……日本語、わかります?」
「あまと、ひかる様」
女性は、ゆっくりと名前を復唱した。
表情こそ変わらないが、その紅玉の瞳が僅かに揺れた気がして、光は小首を傾げる。
「――以降、マスターとお呼びいたします」
「……あ、はい」
意識の外から飛んできた言葉に、思わず少年は返事をした。
と、澄んだグラスを鳴らすような、透き通った音が響く。
「……?」
どこから聞こえたのか、と光は視線を巡らすが、それらしき発生源は見当たらない。
やっぱり、夢かもしれない。
少年は眉間に拳を当て、ため息をつく。
侍女服の女性は静かに目を伏せると、お茶をご用意いたします、と茶器の準備を始める。
そんな声を聞きながら、光は何となく自分の体にも目を向けた。
衣服は、記憶のままだった。
◇
ジャスミンのような香りのお茶を飲む間に、光は辺りを見回していた。
どう考えても、自分の家の近所ではなさそうだ。
案内されたベッド脇のテーブルや周囲の家具も馴染みがないし、窓から覗く木々も何となく見覚えがない。
そして何より、音がしないのだ。車、あるいは自転車や道行く人の話し声……人々の音が。
「あの、それで……」
ティーカップを手の中で弄びながら、少年は口を開いた。
「ここは、どこですか? えっと……」
「ティ・シフォンと申します、マスター」
そう名乗った女性は、そこで恭しく礼をした。
その立ち居振る舞いにやや気圧されながら、光は聞き覚えのない名前の響きに、外国の人だろうか、と当たりを付ける。
ただ、日本語は通じている。
「っと、シフォン、さん? それで……」
「はい。ここはイラーフ共和国のトゴル地方、レガ湖の東岸です」
「イラー、フ? 日本じゃない、んです、か?」
嫌な予感が、ふつふつと湧いてきていた。
「はい。ニホン、という国は、ここオージェ大陸にはございません」
「……すいません、地理は弱くって。あの、オージェ大陸って……アメリカ大陸とかですか?」
「いいえ。アメリカ大陸、というものはございません」
滑らかに突拍子もないことを言われた気がして、光はぽかんと口を開ける。
ドッキリだろうか。
だとすれば、相当手が込んでいる。
――ただの高校生にそんなことをして、何になる?
頭の中で、やけに冷静な自分が嘲った。
「ええと……そうだ、あの、僕はどうやってここに?」
「この部屋に、という意味であれば、私がお運びいたしました。本来であれば、マスターが落水なさる前に受け止めるべきでした。申し訳ございません」
そこで謝罪したティ・シフォンに、光はますます混乱する。
落水?
では、あれは現実だったのか?
だとすれば、自分にはそもそも、何が起こった?
「……す、スマホってどうなってます? あの、四角くて、手のひらサイズの乗る板みたいな」
考えがまとまらないまま、少年はとりあえず思いついたことを口にする。
「お手荷物は可能な限り回収し、そちらのキャビネットに納めております」
白い指先が、窓際の家具を指し示した。
若干震えながら、光はその引き出しを開ける。
見慣れたカバンや財布、そしてスマートフォン。カバン類は少しだが、確実に湿っていた。
それを努めて無視しながら、少年はおそるおそるスマホの画面をタップする。
反応はない。
電源ボタンを押す。
無反応。
長押し。
暗いままの画面に、情けなく表情を歪めた光の顔が映っている。
「なん……なんで……」
「……マスターが、なぜレガ湖上空に出現なさったのかは、現時点では不明です」
聞き覚えのない地名。
見覚えのない景色。
美しい侍女服の女性。
情けない自分の顔。
不意に、数日前まで読んでいたWEBコミックを思い出す。
「異世界……?」
「……」
その呟きには、ティ・シフォンは応じなかった。
そしてそれこそが、光には何よりも雄弁な答えだと思えた。
「……全然、ワクワクなんてしないじゃん……」
漫画の主人公のように笑おうとして、少年はくしゃりと表情を歪める。
その様子を、美貌の侍女が見つめる。
窓の外で、風が木々を揺らしていた。
◇
いつの間にか眠っていたらしい。
耳が痛くなるほどの静寂に包まれ、自分の鼓動の音さえもうるさいような心地になりながら、光はゆっくりと目を開ける。
「お目覚めですか、マスター」
「……っ」
目の前に、紅玉の瞳があった。
思わず叫ぶ一歩手前のところで、それがティ・シフォンという女性のものであると気づき、少年はこくこくと頷く。
眠気は一瞬で霧散してしまった。
「せっかくお目覚めのところですが、日の出までは今しばらくかかります。どうぞ、お休みください」
衣擦れの音ひとつ立てず、彼女はベッドから離れていた。
その言葉のとおり、窓の外は未だに夜の帷が降りているようだ。
ぼんやりと部屋を照らす明かりは、間接照明だろうか。壁や天井の一部が、ふわりと光っている。
――夢じゃないのか。
光は薄明るい天井を見上げながら、口の中で呟いた。
あの後、それなりの……いや、結構な醜態を晒した自覚はあった。
それに黙って付き添い、身支度を整える手伝いをしてくれたあの女性は、きっと悪い人ではないのだろう。
「……あの、シフォン、さん?」
「どうぞお呼び捨てください、マスター」
「え、いや、それは……。その、マスターって、なんですか?」
「私がお仕えするべき方、という意味です」
ティ・シフォンの声は穏やかで、何ら押し付けがましい色はない。
だからこそ、その響きはやけに重く感じられた。
「……あの、人違い……とか」
「いいえ」
柔らかく、だが、ぴしゃりと彼女は断言した。
少年は戸惑ったように女性へ顔を向ける。
「……違うと、思いますけど……」
弱々しく抗弁する光と、紅玉の瞳とがしばし交錯した。
ふと美貌の侍女の目が伏せられ、一歩だけ前に進み出る。
「私の使命はマスターを、天都光様、貴方をお守りすることなのです」
そこで、深々と彼女は頭を下げる。
光にはその姿が、何故かとても寂しげに見えた。
少しだけ、親近感を覚える。
「えっと……よくわからないんですけど……あの、顔、上げてください」
自分を守ることが使命なのだ、と、この女性は言う。
ますます漫画だな、と酷く他人事な感想を少年は抱いた。
光の言葉に姿勢を戻した彼女の、水晶のような髪が微かに弾む。
明るさも相まって、幻想的とすらいえるその様子は、現実感に乏しい。
そう、よくわからないことばかりだった。
いっそのこと、本当に漫画やゲームの世界なのだと思えれば、どれだけ楽になれるだろうか。
「あー……えっと……て、ティ・シフォン?」
「はい」
意を決して、名前を呼び捨てにする。
全く気にした素振りもなく、彼女は応じた。
何となく、光は居心地が悪くなる。
「……ティ? いや、シフォン? うーん……あの、なんて呼べばいい……ですか?」
「如何様にも」
タメ口を続けられず、右肩下がりのトーンで話す少年。
ティ・シフォンの回答は、光にとっては答えになっていなかった。
せめて指定してくれれば、と内心で肩を落とす。
(やっぱり、シフォン、が丸い? いやでも、苗字のまま呼び捨て……? 名前だとティ……ティー? いや、うーん……)
ぐるぐると考えながら、苦し紛れに光は提案した。
「てぃしふぉん、てぃし……ティス、とか?」
「……はい、マスター。どうぞ、ティス、とお呼びください」
呼び名を受け入れてもらえたことに、少年は深々と息をついて目を閉じた。
ようやく、目の前の彼女、ティスと話ができたような、そんな達成感がある。
しばらく、沈黙が続いた。
といっても、不思議と息苦しさはない。
……まぶたが重くなる。
霧散した眠気が、また集まり始めたようだった。
小さな欠伸がこぼれる。
「どうぞお休みください、マスター」
涼やかな声が耳朶を打つ。
「そう……させてもらいます」
ゆっくりと枕に頭を乗せ直し、光は睡魔に身を委ねた。
目を閉じると、肩口まで毛布がかけられる感触。
まるで、小学生に戻ったような世話の焼かれ方に、少年は微かに笑った。
(……ああ、起きたら、宿題しなきゃ)
取り留めのない思考が、まどろみとともに沈んでいく。
そんな光を、ティスが密やかに見守っている。
やがて、小さな寝息だけが部屋に溶けていった。