独りの魔族が、恥辱と憎悪をないまぜにした顔で荒野を駆けていた。
アドラー。
人間の都市、ヨウゲツを攻めた魔族の大軍勢を指揮した若者だ。
だが、その大軍は瓦解し、根拠地としていた鉱山都市ウプアットも人間に奪還されてしまった。
ウプアットの守将、魔族でも指折りの強者であるゴーズ、青年が敬愛した武人すらも、倒れた。
(――それを、俺だけがおめおめと!)
幾度目かの後悔がアドラーの胸中をざわつかせる。
食いしばった歯がミシミシと音を立て、漏れ出た怒気に、上空のハゲタカが慌てたように彼方へと飛び去った。
◇
ラヴァスロウム。
魔族の都市であり、国でもあるその名を知る人間は、ほぼいない。
上空から見れば歪な同心円を描くようなその都市は、中央に近いほど高位の魔族たちが暮らし、中心に魔王の居城がある。
その居城に、アドラーはようやくたどり着いた。
青年を小馬鹿にしたような門番をやり過ごし、ホールへと進む。
そこには、異形の魔族がいた。
「……ほほほ。半端者の小童、ここはお主がおいそれと入れる場所ではありんせんぞ?」
「は……。ネ=リ様におかれましては、ご機嫌麗しく」
艶めかしい女の上半身に、禍々しくも巨大なクモの下半身を持つ魔族。
タルトゥーラ、その氏族長であるバーディターの名を持つ、魔族の中でも幹部と言ってよい存在。
「ほほ、妾のことを知っておるとはの。誰ぞの小間使いかえ?」
「……ゴーズ閣下に、お仕えしておりました」
青年の返答に、ネ=リの目が鋭くなる。
「ほう……」
値踏みするように、視線がアドラーを舐め回す。
「懐かしい名を聞いたものよ」
くつくつと、彼女は喉を鳴らした。
「さてさて、ドワーフどもの国を落とした後、随分と無沙汰をしなさんし……。ゴーズは如何しやんした?」
「……」
「……お仕えして、か。そうかえ。あれが、のう」
沈黙と歯ぎしりで返すアドラーに、ネ=リは全てを察したようだった。
「戦って、逝きなさったのかえ?」
「は……。それは、間違いなく」
天を仰いだ彼女の問いに、青年は重々しく口を開いた。
王城のあの破壊の様を見れば、激闘だったことは疑いようがない。
その答えに、タルトゥーラの長は微笑んだ。
「ならば……あの益荒男のことよ。笑って逝ったに、違いない」
「何を……!」
「ほほほ。小童、お主にはまだ、わかるまい……。だが、口惜しや。こうなるのであれば、無理にでも、彼の者の種を貰うておくべきでありんしたえ……」
思わず激昂したアドラーをそよと受け流し、ネ=リは胎の部分をさすりながら去っていく。
その背を射抜くように睨み、だが、すぐに青年は首を振った。
ここに来た目的は、老獪な高位の氏族とやり合うためではない。
魔王クナッズへの、敗戦の報告なのだ。
怒りの震えを深呼吸で飲み下し、青年はゆっくりと歩き出した。
◇
「――以上、ご報告申し上げます」
アドラーが敗戦の報を伝える間、玉座に座る魔王、クナッズは静かに瞑目したままだった。
列席する高位魔族にもしわぶき一つすらなく、青年の声以外静まり返った謁見の間は、威圧とはまた違う緊張感に満ちている。
やがて、細く長いため息が、魔王の口から漏れる。
「……そうか」
その声に、ぞわりとアドラーの背筋が泡立つ。
以前、ゴーズは彼にこう語った。歴代の魔王と比すれば、今代のクナッズは飛び抜けたものではない、と。
「ネメシスの制御が外れたことは、私も察していたが……」
そんなアドラーの胸中など気も払わず、魔王は独り言のように呟く。
「よもや、あいつが……な」
そこで立ち上がったクナッズに、近侍の魔族――宰相のアデシュと名乗っていた――が僅かに眉を顰めた。
「陛下……」
「よい。口出し無用だ」
にべもない返事だが、宰相は慣れた様子で首を振るのみ。
魔王は、片膝をついて控えたままのアドラーへと近づく。
「アドラーよ」
「は……!」
「勝敗は兵家の常だ。敗北それ自体を罪に問うつもりはない」
頭を垂れた青年に、しかし、とクナッズは続ける。
「ゴーズが死に、他の氏族連中も消えた以上、責任は君が取るしかない」
「……はい」
「殊勝な返事だ。では、聞こう。その責任、どう取る?」
氷のような声が、アドラーの耳に届いた。
一瞬、言葉に詰まる。
だが、すぐに煮えたぎるような怒りが顔を覗かせる。
「閣下を討った敵を、この手で、必ずや」
「ふ……青二才が、吠えるものだ」
「がっ!?」
唐突に振り抜かれた剣の鞘が、アドラーの顔面を強かに捉えた。
二度三度と床で弾んだ青年は、偶然にもホールで出会った氏族、ネ=リの足元で止まる。
「ぐぅ……っ」
突然の打擲と衝撃とでぼやけた視界が焦点を結ぶと、そこには女傑の嗜虐的な笑み。
その口が、未熟者、と動いたように見えた。
「立て。ゴーズならばこの程度、小揺るぎもしないぞ」
クナッズの冷ややかな声に、痛みを押してアドラーは跳ね起きる。
気を抜いていたわけではない。
それでも、反応さえできなかった。
(無様な……!)
心中で吐き捨てる。
「さぁ、近くへ」
これ見よがしに剣の鞘を構え、クナッズが誘う。
青年は一度だけ深呼吸をすると、魔王の目を睨むように凝視しながら歩み寄る。
間合いに入った。
瞬間、再び剣の鞘が振り抜かれ……アドラーは、今度は辛うじて踏みとどまる。
それに安堵する間もあればこそ、翻った鞘が幾重にも青年を打ち据えていく。
謁見の間を、しばし打撃音だけが満たした。
そして始まりと同様、唐突にそれは終わる。
「……アデシュ」
「はい。敗戦の責を取らせるため、軍団を率いた将に対し、陛下自らが杖刑を下されました」
「それで良い。これで死ぬなら、その程度と思っていたが……」
クナッズは、視線をアドラーへと戻す。
息を荒げ、ボロボロになりながらも、青年は立ち続けていた。
その目は、光を失っていない。
「沙汰はここまでだ。下がって良いぞ。他の皆もだ」
「は……失礼、いたします……」
アドラーは、ふらつきながらもその場を辞していく。
残った魔族たちもそれぞれに引き上げ、謁見の間には魔王と宰相のみが残った。
「若い……が、吠えるだけのことはある、か」
クナッズはそう言って、小さく笑う。
「陛下やゴーズ殿も、若い頃はあのような跳ねっ返りだったとか」
「……忘れたよ、そんな昔の話は」
左様ですか。
そう応える宰相に魔王は多少鬱陶しそうに手を振り、ふと遠くを見つめた。
「まったく、あの、馬鹿め……」