シャナンの港から、一隻の船がするすると離れていく。
美しい帆を幾何学的に張り巡らせたそのマストを、光は甲板から見上げていた。
波は穏やかで、頬を撫でる風も強くはない。
いや、むしろそれは進行方向から吹いているのだから、つまり、この船は凪の中をかき分けて進んでいるのだ。
それでも、帆は順風を受けたようにパンと張り詰めている。
「……魔法で動いてるんだ」
「航行魔法というやつですネ。風使いの花形の一つといわれてマス」
フィオも、額に手をかざしてその様子を眺めていた。
「いやー、見事なものデス。周囲の凪を乱さず、満帆の風を。腕の良い航海魔導士は、最小の魔力で船を動かすと言いますが……」
「へぇ……」
釣られて、光も手をかざす。
朝日を受けて、マストに翻る旗(商船旗というらしい)が誇らしげにはためいた。
早朝から動き出した定期船は、事前の説明によると夕方には次の港、サリファンへ着くという。
いわゆる帆船で、そんなに正確な運行が可能なのかと内心で少年は疑問に思っていたが、この様子を見る限り、大きな問題はないのだろう。
「そうかそうか、ヒカルは船旅は初めてだったか」
「メルヴィル博士」
楽しげに声をかけてきたライトに、光は振り返った。
「この船の航海魔導士は、確かに腕利きよ。その分、引く手数多でな。アーサー坊も苦労しとるらしい」
「え?」
突然出てきたその名前に、少年は混乱する。
アーサーと、何か関係があるのだろうか。
「ほ、知らずに船を取ったのか? この船の運行会社は、チャプレット商会の子会社だぞ」
「ええ……?」
言われてみれば、次期商会長が乗る船となれば、息のかかった船会社を使っても全く不思議はない。
知っていたのか、とちらりとフィオを見ると、多少バツが悪そうに頬をかいている。
「すみません、ご存知だと思って、特にはお伝えしてませんでしたネ」
「まぁ……そりゃ、そうかぁ……」
がっくりと項垂れ、光は苦笑する。
知らないなら知らないで、別に何が問題になるというものでもない。
とはいえ、アーサーに気づかれる前に知ることができたのは、良かったとは言えるかもしれない。
「そういえば、チャプレットさんは?」
「あやつは仕事よ。客室に、書類だのを山ほど積み込んでおったわい」
「……大変なんですね」
後で差し入れでも持っていくべきだろうか、と少年はもう一度苦笑した。
◇
太陽が中天を過ぎた頃、キャビンで過ごすのも少し退屈になった光は、また甲板に出ていた。
「おお……」
朝方と比べると、随分波が高くなっている。
風も強くなっているようだ。
実際、少し前に気分が悪くなりかけ、慌ててラーベルミントの種を飲んだところだった。
「確かに効くなぁ」
呟きながら甲板を眺めると、天気が荒れてきたからだろうか、船員たちが慌ただしく動いていた。
そんな中を散歩するわけにもいかず、端っこの方でぼんやりと海を眺める。
遠くの方で、波間に光るものが見えた。跳ねた魚だろうか。
「そういえば、海にも魔物っているのかな……」
「海魔、と呼ばれるものが存在します」
少年の疑問に、傍らのティスが答えた。
「その名の通り海に棲む魔物ですが、陸上の一般的な魔物とも敵対しているようです」
「……船旅も危険なんだなぁ」
「ご安心を!」
多少沈んだような光に、フィオの快活な声が届く。
いつの間にか、少女が侍女の隣に立っていた。
「何と言っても海運は生命線! 100年前、各国が協力して、このティルトゥ海から海魔を駆逐したんですヨ!」
「おお……!」
「計画から作戦終了まで、数十年かけた人類側の大反攻作戦、と記録されています」
ティスが補足する。
「それも、ティルトゥが内海だったおかげですネ。エーギル海峡の外に追い払ったわけデス」
「へー……外?」
「ラ・トラン海、デス。ティルトゥの数倍以上の大きさがある、と言われてマスが……」
フィオが多少口ごもった。
光が怪訝な顔をすると、静かにティスが引き継ぐ。
「海魔の巣窟です。沿岸で、かつ短時間の航行でも、3隻のうち1隻は戻りません」
ごくり、と少年はつばを飲み込む。
一際強い風が吹き、マストがぎしと音を立てた。
◇
シャナンを出港してから、1週間程が経った。
1日船に揺られ、港で1日荷役を待ち、また1日揺られ……。
その繰り返しにも光が慣れてきた頃だ。
「ヨーカが見えたぞー!」
見張りの船員の大声が響いた。
キャビンでライトと簡単なボードゲームをしていた少年は、ハッと顔を上げた。
「ヨーカ……ってことは」
「うむ。トゥーズ王国の首都だな」
腕を組んだまま、博士が頷く。
「え……っと、博士……」
「……構わんよ。下船の準備をしてきなさい」
「は、はい!」
目を輝かせた光は、盤面をそのままに自室へと戻っていく。
その姿を見送り、ライトはやれやれと肩をすくめた。
「惜しいのう、あと数手だったのだが」
トゥーズ王国の首都、ヨーカ。
シャナン以上の港を中心に発展した、交易国家トゥーズの玄関口にして最大の都市。
陸路でも主要な街道が交差し、物流の一大拠点でもある。
その広さと賑わいは、接岸前からよく見えた。
「ディーチも凄かったけど、ここも凄いな……」
以前に訪れたマーディン王国の首都を思い出しながら、光は感嘆した。
その目の端に、ふと違和感を覚える。
向き直った先、港の片隅にまとまって浮かぶ巨大な船。
木造とは到底見えない、黒鉄の艨艟。
「……何だあれ、船? いや、軍艦か?」
「よくおわかりでしたネ」
フィオがひょっこりと顔を出す。
「あれが海魔を駆逐するための艦船、その名もズバリ、駆逐艦デス!」
「駆逐艦……」
少年は、改めてその威容を見つめる。
通常の船の数倍はあろうかという大きさ、剣の切っ先の如く鋭い舳先。
何よりも、あれらの艨艟には、帆を張るべきマストがない。
代わりに、城壁の尖塔をそのまま載せたような……。
「あれ、どうやって動くんだ……?」
「魔導列車と同様の、魔導機関を動力とします。そのため、一般的な船に倍する速度で航行可能です」
光の疑問にはティスが答えた。
その間に、フィオは駆逐艦に向けて指を振っている。
「ひの、ふの……8隻ですネ。先頭の艦は、旗からしてトゥーズ王国海軍の旗艦。となると、主力の第1艦隊デス」
そこまで言って、少女は少し首を傾げた。
「第1艦隊といえば、最低でも半数の4隻は常にエーギル海峡の封鎖に従事してるはずですが……珍しいこともありますネ」
「何か、緊急事態とかだったり……?」
「いえ、そんな感じはなさそうデス。どうも、艦を飾り付けているような……?」
心配そうな光に、フィオが今度は逆方向に首を傾げる。
飾り付け、という言葉に、少年もぽかんと口を開く。
その後ろで、ティスはちらりとこの船の接岸先へ視線を送り、また静かに目を閉じた。