それは、先だって対峙した異質な人形ともまた、別の存在だった。
背後で遠ざかるカプリコの足音を聴きながら、アドラーは手に炎を宿す。
従者へ視線を向けかけたそれは、その瞬間に青年へと向き直った。
「……」
何事かを呟いているその姿。
人間染みた服装に、整った姿勢。近寄って像を結んだ表情は、美女とすら言えただろう。
だが、人間ではない、とアドラーは直感する。
そう呼ぶには、何かが欠落している。
それが何かを推し量ろうとして、青年は笑った。
「名を聞こう。木偶に名があるならば、だが」
「――アルケーと」
「……アドラー」
話せるのか。
内心を表には出さず、アドラーは応じた。
「警告。E因子の反応を検出。トリアージレベル黃。すぐに治療を受けてください」
「……世迷い言を」
「指示拒否。意識レベル混濁の可能性。レベル赤に修正。搬送開始」
動きの起こりすら見えなかった。
寸毫の間に詰め寄ったアルケーへと、青年は反射的に拳を繰り出す。
ふわりと受け流された腕に人形のそれが絡みつき、極められる。
「抵抗を確認。鎮圧」
「舐めるなッ」
固定された腕を中心として、アドラーは弧を描くように身体を折り曲げ、蹴り上げた。
つま先から伝わる感触は、軽い。
羽のように身を躱したアルケーは、袖口を一度整えると、青年に顔を向ける。
「抵抗の継続は、おすすめしません」
「……」
今、相手にその気があれば、自分は死んでいた。
そうならなかったのは、目の前のアルケーとやらに、自分を殺すつもりがないからだ。
それを理解する一方で、理由はわからなかった。
魔族と魔獣を「処理」するやつらが、何故。
――人間の血か?
アドラーの内で、そう理性が囁く。
怒りの炎が、身体の奥底から燃え上がる。
その熱が思考を沸き立たせ……ガン、と音が鳴った。
青年の額から、血が滴る。
自ら拳を打ち付けたアドラーに、アルケーは数度瞬きをした。
鋭い呼気を吐き出し、青年は構える。
「止めてみろ、木偶」
「……自傷行為を確認。対応レベルを上げます」
◇
『上物であったなら小童では……ほほほ』
ネ=リの笑い声が耳の奥で木霊する。
上物。
このアルケーは、歴戦の氏族がそう呼ぶ存在のうちの1体だろう。
アドラーは、早くも息が上がり始めたことを自覚する。
手加減されて、これか。
現実逃避にも似た自嘲が脳裏をよぎる。
搬送、という言葉の通り、この人形は青年をどこかへ運ぼうとしているようだった。
ジリジリと、彼は壁に開いたままの空間へと押し込まれつつある。
明確な格上相手との戦い。
それは、以前の勇者との戦いを思い出させた。
ただ、あの時と違い、今回は時間切れが存在しない。
(さて、どう勝ちを拾う……?)
刹那の攻防を繰り返し、その度に相手の動きは精度を増していく。
いずれ、捕まるのは自明だった。
戦いの帰趨、それ自体は絶望的と言えるだろう。
「――は」
だというのに、アドラーは笑った。
その様子に、アルケーが瞬きをする。
「人形遊びで限界を知るとは……小童、当然だな」
「再度警告。抵抗はおすすめしません。これ以上は、身の安全を保証できません」
「手加減は終わり、か?」
くっと青年は笑いを噛み殺し、構えを取る。
自棄になった訳ではない。
怒りに感情を乱し、手加減されてなお息が上がり、勝ち筋のか細さに光明が見えない中で……ようやく、アドラーは思考がクリアになってきていた。
――来る。
直感に逆らわず、肘を掲げる。
過たず、アルケーの掌打がいなされた。人形が瞬きする。
仕切り直すように間合いが取られ、直後、アドラーがそれを追った。
音を置き去りに振り抜かれた手刀は、僅かにアルケーを逸れ、その袖口から留めボタンが弾け飛んだ。
「……雑音が、消えてきたな」
青年は宙を仰ぐ。
手応えを確かめるように拳を開閉し、構える。
アルケーは静かに袖口を整えると、姿勢を正した。
「最終警告です。抵抗を止めてください」
「御託はいい。さっさと来い」
「……以降、当方による鎮圧で生じた何らの身体的・精神的損害に対して、一切の申立は却下されます」
人形の目が細まる。
その動きを認識できたわけではない。
ただ、これまでの経験と己の勘に従い、身体を動かした。
膝で受けた重い蹴りが、骨の髄に響く。
続く掌打を、掌打で相殺する。
打ち込まれた肘を腕で払い、返す手刀は叩き落された。
本能。
そう呼べるほどに、戦いそのものが自身に染み付いている。
――多くを削ぎ落とした果てで、己の内に残るもの。
ああ、これが俺の芯か。
「シッ!」
裂帛の気合が、食いしばった歯の合間から漏れる。
アルケーの閃光の如き蹴撃を、アドラーの踵が弾く。
弾かれた勢いのまま、更に円弧を描いた人形の脚が、強かに青年の胴体を捉えた。
その感触に、アルケーが瞬きをする。
蹴りの「重さ」を反動とし、アドラーは壁に開いた空間へと跳んでいた。
◇
建物内が、ざわめいている。
床や壁、天井それ自体がぼんやりと明かりを放つ屋内は遠近感に乏しく、ともすれば方向を失いそうだった。
そんな空間を、一瞬の観察と直感のみで、アドラーは駆けていた。
(距離は取れた、か)
精々が数秒の猶予。
未知の建物内で、速度を落とせば即座に捕まるだろう。
それでも、と青年は笑う。
まだ、生きている。ならば、終わりではない。
背後に、鋭い気配が迫っている。
アルケーと名乗った人形は、当然、自分を逃がすつもりはないらしい。
その意味では、ここに逃げ込んだことは、袋のネズミとも思える。
「……博打だが、勝ちの目が万に一つだろうと」
無よりはマシだ。
アドラーは続く言葉を飲み込む。
根拠は、ないわけではない。
この建物で、ナハテが作られている。それは確かだろう。
もし、その生産物の中にあの「中の下」や「上物」もあるならば、疑問が生じる。
何故、それらを大量に生産しないのか。
――
そう、仮定するならば。
思考の間に、いくつもの通路をアドラーは駆け抜けている。
侵入者を惑わせ、絡め取る施設ではない。
おそらくは、生産という機能だけに特化したもの。故に、ある程度の構造は予想できた。
分かれ道。
迷う暇はない。直感に従い、分岐を進む。
その先で現れた扉から、微かなざわめき。咄嗟に加速し、更に先へ。直後、そこからナハテが吐き出される。
青年を追っていたアルケーが、その波を掻い潜るために僅かに足を鈍らせる。
タイミングがずれれば、ここでアドラーは捕まっていただろう。
後ろを振り返りもせず、青年はただ、駆ける。
荒野には、ここから吐き出される群れの行軍跡以外に、痕跡はなかった。
それは、この建物の周りも同様だ。
「上物」らが、ここでは作られないならば、搬入のための跡があるはずだ。
それがない、ということは。
……一瞬の遅れが、命運を左右する。
その極限状況が、アドラーの直感をかつてないほどに研ぎ澄ます。
仮定に仮定を重ねた、推論とも呼べぬ結論を、それでも信じる。
扉。
「――アレか!」
アルケーの気配を間近に覚えながらも、青年は最後とばかりにグンと踏み込み、そこを蹴破った。
転移陣。
博打の一つには、勝った。
それを喜ぶ間もあればこそ、アドラーは手に魔力を込める。
「動けっ!」
叩きつけるように、転移陣へ魔力を流し込む。
これで起動しなければ詰み。
起動したとしても、飛ばされた先によっては、また詰み。
運否天賦のその果ては――。
◇
「……対象、
アルケーは淡々と呟くと、静かに目を閉じた。