あの後、遂に「神」と名乗った男はへそを曲げてしまった。
またいずれ、お越しください。
マルアハはそう言ったが、男の機嫌がいつ直るかは定かではないだろう。
戻った宿のロビーで、やれやれ、と光は何度目かのため息をついた。
労力に見合った情報が果たして得られたのかも、自分にはわからない。
「何やら苦労しているようだな、ヒカル」
「メルヴィル博士……。すいません、何か慌ただしくて」
声をかけてきたライトに、少年は振り返った。
その申し訳なさそうな表情を見て、博士はからからと笑う。
「構わん構わん。ここで文献やらも漁れたしな」
「あ、何かありましたか?」
「うむ。ヒトガタの大きさについて、初めて見る話もあった」
実に興味深いと頷いてから、ライトは少しだけ残念そうに首を振った。
「大いに説明したいところだが……そろそろワシも、アーサー坊を安心させてやらねばな」
覚えてたんですね、と思わず声に出しかけて、光は口に手を当てる。
わざとらしい咳払いが鳴った。
「はっはっは。長く迷惑をかけるコツはな、きちんと線を引くことよ」
「あはは……」
見透かされていたかと、少年は苦笑する。
特に気を悪くするでもなく、ライトは続けた。
「自分が線を引くのではないぞ。相手が、ここまでなら許容できる、という線を見極めるということだ」
「相手が許容できる線、ですか?」
「うむ。その上で、決して粗略にはならぬように、と。ま、言うは易しの類だがな」
呵々と、ライトは楽しげに顎へと手を当てる。
「その機微を知るためにも、若い内は遠慮せず人を頼ると良い。何、皆、案外と面倒見が良いものだ」
「そう、でしょうか」
「そうとも」
ぽんぽんと光の肩を叩き、博士は自室へと戻っていく。
その背を見送りながら、少年はなんとなく懐からマナ磁針を取り出した。
取り出した拍子にくるりと回った針が、程なく一点を指し示す。
――まだ決めてなかったの? じゃあお姉さんがやっといてあげるね。
ヨーカ滞在を延長したその日の夜、さらっと近衛騎士団の隊舎を設定したイネスを思い出す。
「……相談、してみようかな」
ゆらゆらと動く針先を眺めながら、光は呟いた。
◇
アケオスの森から、川を上流へ進んだ先。
アドラーはホブゴブリンの氏族、ビョードルの根城へとたどり着いていた。
そこは建物ではなく、洞窟を流用したような造りの、言ってしまえば巣穴だった。
入口に陣取るゴブリンからの嘲笑を気にも留めず、青年は中へと入っていく。
清潔とは言い難い、淀んだ空気。
(気取ったところで、か)
氏族といえど、ピンキリではある。
ここの主をそのどちらと見るか、まではアドラーは考えなかった。
大して階層もない巣穴は、奥まで辿り着くのに5分とかからない。
そこに、ビョードルはいた。
「騒がしいと思ったら、珍しい客だぁな」
「突然の来訪、容赦されよ、ビョードル殿」
穴蔵の主は、青年の言葉に下卑た笑いを浮かべる。
「半魔がいっちょ前の口聞くじゃねえか。……お前ぇさん、アドラーだろう? 噂は聞いてるよ」
「……」
瞑目し、黙ったままのアドラーにビョードルは鼻を鳴らした。
「気取りやぁがって。で、用件は」
「諸事情で、この縄張りを通ることになった。が、そこでそちらの部下に絡まれた故、無礼討ちにした」
「ほぉ?」
ホブゴブリンは頬杖をつく。
「俺んとこの下っ端を、ねぇ。その程度でよくまぁ顔出したもんだ。半魔は律儀だなぁおい」
「実力差もわからぬ雑兵如きで、逆恨みされても困るのでな」
「はっ。言ってくれるじゃねぇか」
ビョードルは僅かに苛ついた様子を見せたが、まぁいい、と膝に手を置いた。
「お前ぇさんと、その程度で事を荒立てるつもりはねぇさ。とはいえ、俺も部下どもへの示しってぇもんがある」
わざとらしい言い回しに、アドラーは内心で嘆息する。
「さて、どう落とし前をつけてもらったもんかねぇ?」
ゴブリンは愚かだが悪知恵は回る、とは誰の言葉だったか。
ここで下手に反応すれば、そこに漬け込まれるだけだろう。
案の定、黙ったままの青年に、ビョードルはつまらなさそうに舌打ちした。
「けっ、スカした面しやがるぜ。あのクソ騎士みてぇだ。……おぉ、そうだそうだ」
ぶつぶつと言い募る途中で、穴蔵の主は何かを思いついたようだった。
今度は、心中でアドラーが舌打ちをする。
「丁度いいぜ。腕自慢のアドラーさんよ、ちょいと頼まれごとをしてくれや」
「……頼みとは」
「へっへっへ。最近、人間どもがよぉ、俺の縄張りにも手ぇ出してきてんのさ」
「人間が、わざわざ?」
そこで、青年は怪訝そうに眉を顰めた。
いや、それが先程聞こえた「クソ騎士」に繋がるのか。
「どうも腕利きが加わったみてぇでよ、調子に乗ってやがんのさ。なぁに、ちょいと可愛がってくれりゃいいんだ。伸びた鼻っ柱を、こう、ポキっとよ」
ニヤニヤとビョードルが笑っている。
腐っても、この地域を魔王クナッズから一任された氏族ではある。
それが多少なりと苦戦する騎士となれば、決して油断できるものではないが……。
「……承知した」
アドラーは頷くと、踵を返した。
◇
トゥーズ王国首都、ヨーカ。
光たちは、再びここを訪れていた。
港の騎士団派出所で名乗り、近衛騎士団への取次を頼むと、二つ返事で承諾される。
あっさりと話が通ったことに、少年は拍子抜けした。
「転がる石にも苔は生える、といったところだな」
そんな光の後ろで、ライトが楽しげに頷き、続ける。
「では、ワシはこのまま、魔導列車でサーズの工房に向かうのでな」
「あ、はい。……色々、ありがとうございます。その、船とかで」
「なぁに。若人の相談に乗れるのは、年を取る利点よな」
気にするな、と博士は笑った。
少年は照れたように頭に手を当てると、礼をする。
「チャプレットさんにも、改めてよろしくお伝えください」
アーサーは、船を降りてすぐに駅へ向かっていた。
列車の切符を確保しておくということだったが、あるいは、他に用向きもあったのかもしれない。
「おうとも。達者でな、ヒカル。また会おう」
「……はい。また」
ひらひらと手を振るライトを、光はその姿が見えなくなるまで見送る。
やがて、少年の名を受付係が呼んだ。
折り入ってお願いが、と意を決して申し出た光は、何故か嬉しそうに反応する近衛騎士団の面々に困惑していた。
あれよあれよという間に、女王であるロンドとの私的な時間まで用意されることとなる。
「あの、良いんですか……?」
先んじて通されたロンドの私室で、少年は困ったように頬をかいた。
「良いの良いの。まーったく、半月足らずで帰ってきたと思ったら、良い顔するようになっちゃってぇ」
イネスが笑い、光の頭をぐりぐりと撫でる。
入口では、何故かアレクがウンウンと頷いていた。
「アレク団長、ヒカルに何か甘いですよね……?」
「はは、良いじゃないか。団長も人の子ってことだよ」
こそこそと話すニナに、ジェイクがしたり顔で答えた。
おほん、と咳払いが響く。
顔を背けた2人に、イネスがけらけらと笑う。
「おや、楽しそうだね」
そこへ、ジルを伴ってロンドが現れた。
一瞬で、室内の騎士達は整列して姿勢を正す。
慌てて光も立ち上がると、女王は微笑んでそれを制した。
「ヒカル、楽にしてくれ。皆も姿勢を崩していいよ。私的な場としよう」
風格というべきだろうか。
一月にも満たない間で、ロンドは、女王に相応しいそれを身に着けているように思えた。
(いや、元々そうだったのかも……)
ゆっくりと椅子に腰掛けながら、少年はかつての旅を思い出す。
鉄仮面と鎧から、王冠と礼服に変わってはいるが、ロンドその人は何も変わっていないのかもしれない。
「それで、頼み事があるということだったかな?」
「あ、はい。えっと……まずは、お時間頂戴して、ありがとうございます」
光は頭を下げた。
どういたしまして、と応じたロンドに、少年は言葉を続ける。
「その……どうしても、行きたい場所があるんです。事情は、話すと長くなるんですが……」
「うん」
「聞いて、もらえますか?」
「もちろん。ただ、その前に、お茶を用意しようか。ニナ、侍従長に準備を。アレク、ストーイ首相に、後は明日以降にと」
柔らかく指示する女王に、光はもう一度頭を下げる。
程なく、人数分の茶が供された。
その香りに包まれながら、少年は深呼吸すると、語り始めた。
◇
光が一通りを話し終える頃、窓の外は夕闇に包まれ始めていた。
「ラ・トラン海上にある、6000キロ先の島……か」
ロンドはそう呟くと、ふっと笑みを零した。
「また、危ない橋を渡っているようだね」
「えっと、はい。……あの」
その反応に、少年は僅かに首を傾げる。
「驚かない、んですか?」
「うん? ……ああ、ヒカルが遠いところから来た、かい?」
少しだけ考えてから、ロンドは得心したように頷いた。
「曲がりなりにも、私は傭兵団長だったからね。訳ありな境遇なんて、慣れっこなのさ」
だろう?
そう言って、近衛騎士団の面々を女王は見やる。
何人かが、芝居がかった様子で目を逸らした。
「とまぁ、うちの問題児たちに比べたらね」
くすくすと口元に手を当て、何でもないことなのだ、と彼女は示す。
魔力がないことについても、そうだった。
「……でも、その……俺、いや、僕は、ずっと黙って……」
「ふふ、今話してくれたじゃないか。それとも、まだ言えないことがある……かな?」
ハッと光は顔を上げた。
「図星のようだね」
視線の先で、ロンドが苦笑していた。
「素直なのは君の美点だが、腹芸もそろそろ覚えていこうか」
「……」
どう反応すれば良いのかわからず、少年は俯く。
「ふむ……。これは、私の口よりは――ニナ」
「は、はいっ!」
唐突に呼ばれたニナがしゃちほこばる。
「後輩の面倒を見てやってくれるかい?」
そう言われた少女は目をパチクリとさせると、光を見た。
おずおずと、少年が見返す。
その表情に、ニナは呆れたように腰へと手を当てた。
「もー、そんなしょぼくれた顔しちゃって……。誰であっても、人には言えないことくらいあるでしょ」
「……だって……僕は、その……お願いする立場なのに……」
「でもでもだって! 男らしくないわよヒカル!」
お説教モードに入ったニナへ、ジェイクが何事か口を挟もうとして、その口元をイネスが押さえた。
何事かを耳打ちする彼女に、不承不承といった感じで青年は頷く。
「私だって隠し事はあるのよ!」
背後のことは露と知らず、少女が胸を張った。
アレクが頭を抱え、ジルが愉快そうに肩を震わせる。
「大事なのは、何を隠してるか、じゃないでしょ? それとも、ヒカルは私たちを騙して笑ってるわけ?」
「そ、そんなわけ……!」
「なら、それで良いじゃない」
あっけらかんとニナは言い切った。
そのまま光に近寄ると、その頬の両側をつまむ。
「い、
「ふふん、私たちに隠し事してる罰よ! 次からは、バレないようにすることね!」
ぐにぐにと少年の頬を弄び、よし、と少女は満足気に手を離す。
「はい終わり。いい? 私たちは、ヒカルの隠し事なんか全然気にしないんだから! しっかり感謝しなさいね!」
「……はい」
じんじんと痛む頬をさすりながら、光は小さく返事をする。
と、得意げなニナの背後に、イネスが忍び寄っているのに気づいた。
あ、と声をあげるより、少女の肩へ先輩騎士が腕を回すほうが早かった。
「ニナも隠し事、してるんだぁ~?」
「……え? あの、イネス先輩? あれはその、なんというか」
「私たちに隠し事してる罰は、ほっぺたを抓るので良かった?」
「違うんです」
ニナの情けない悲鳴が響いた。
何とも言えない表情で、少年がそれを眺めている。
「締まらないな、どうも」
ジェイクが頭をかきながら、光の傍らに立った。
「ま、でも後輩の言う通りではある。皆に言えないことなんざ、俺も片手の指じゃ収まらん」
「ジェイクさん、もですか?」
「もちろん。それこそ、陛下にだってあるだろう。いや、陛下だからこそ、かな」
ちら、と青年はロンドへ視線を送る。釣られて、少年も。
計ったように手を振った女王に、彼らは顔を見合わせた。
「我が主上ながら、どこまで見通してるやらだな」
「あはは……」
「言えること、言えないこと、色々あるもんさ。それでも気になるなら、そうだな、そのうち聞かせてくれよ」
ぽんと光の肩を叩き、ジェイクは元の位置へと戻っていく。
何となく少年は、辺りを見渡した。
アレクとジルが頷いている。
イネスが、ニナをかいぐりながらウインクしている。
そして、ティスが静かに見つめている。
光はゆっくりと瞬きをし、微笑むロンドへと向き直った。
◇
「さて」
ロンドが仕切り直すように手を叩いた。
「ラ・トラン海。エーギル海峡を抜けた先は知ってのとおり、海魔の巣窟だ」
そこで女王の表情は曇る。
思った以上に厳しい環境なのだ、と光も察した。
「海魔には、駆逐艦であれば対抗できる。とはいえ、そもそもの数が内と外で違いすぎるからね」
「その、ぼ、俺は海魔を良く知らないんですが……大きな魔物なんですか?」
駆逐艦のサイズを考えれば、ある程度の大きさはあるのだろうとは想像できた。
その推察を肯定するように、ロンドは頷く。
「うん。小さくても2メートル、大きいものは数十メートルに達する。魚の化け物、といった感じかな」
ごくり、と少年はつばを飲み込む。
海峡部分で、そうなのだ。
ラ・トラン海の奥では、果たしてどの程度になるのか、見当もつかない。
「……やはり、我が国の駆逐艦を総動員しても片道、いや、たどり着けるかどうか、だろう」
小さなため息とともに、ロンドは軽く天井を仰いだ。
到底、現実的とはいえなかった。
海峡の封鎖は、もちろんトゥーズだけの責務ではない。
先日の戴冠式のように、一時的な穴埋め程度なら他国に任せることもできるが、長期間ごっそりと、となれば話は全く変わる。
そして、その上で目的を達せるかも不明なのだ。
やや重い沈黙が部屋を満たし、耐えきれないというようにニナが口を開いた。
「団ちょ……んん! へ、陛下! 何とかなりませんか?」
途端に、空気が緩んだ。
アレクが渋面を作り、ジェイクとジルは吹き出し、イネスは手でバッテンを作った。
ロンドもまた、くすくすと笑う。
「うん、ヒカルの頼みだ。もちろん、何とかしてあげたいが……」
そこで彼女はカップを取り、ゆらゆらと揺らす。
ニナを軽く叱っていたジルが、そこでボヤくように呟いた。
「転移陣でひとっ飛び、ってわけには行かないもんですかねぇ」
「流石に無理だろう」
アレクの否定に、だよねぇ、と彼女は頭をかく。
「それだ、ジル」
ロンドがカップを置き、顔を上げた。
「可能性があるかもしれない」
「いやぁ、お言葉ですが陛下、転移陣ってのは確か、目的地に陣が無いとどうしようも……」
「そこだよ。彼女は、その点を改良しようとしていたはずだ」
風向きが変わってきていた。
光も、身を乗り出す。
「もしかして、転移陣の研究者の方ですか?」
「ああ。アステル・パトールという人でね、我が国の転移陣も彼女の作で、極めて優秀なんだが……」
女王は、そこで少しだけ言葉に詰まった。
「その、クセの強い人なんだ。国を転々として、ひとところに定まった例がない。私も、何年か前に会ったきりだ」
ロンドがここまで言い淀む人物、というのも珍しい。
恐る恐る、少年は問う。
「その、パトールさんの居場所は……?」
「噂によると、になるが……今は、アウターにいるらしい」
「何でまたそんなところに……」
ジェイクが呆れたような声を出すと、彼女は苦笑した。
「アステル女史の護衛騎士が、また腕利きでね。まとめて引き抜こうと躍起になった国があって……揉めに揉めて、という話だよ」
ともあれ、とロンドは光へと向き直る。
「その島を目指すなら、ぜひ協力を仰いでみるべきだろう」
「……ありがとうございます」
自分だけでは、まず知り得なかった人物だった。
感謝と、申し訳なさ。
それをゆっくりと飲み込み、少年は窓の外を見た。
「アウター、か」
夜が訪れた空に、星が瞬き始めていた。