【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第百十一話 夜の来客

12月27日(水)

午後――巌戸台中央区

 

 日本にきてから連日土地の視察を行っていた湊とソフィア。

 二人は直接土地の様子を見ながら、裏ではEP社の力を使って桐条の影響力があるかどうかを念入りに調べ、最終的に以前ホテルで話していた旧工場地帯をまるごと買い上げるという方向で話しが決まった。

 本来ならば既に仕事納めで業者も休みに入っていることから契約は難しいが、そこは世界的なネームバリューを持つ企業であるため、相手の提示していた額に少々上乗せすることですぐに契約を済ませてしまった。

 土地を手に入れれば後は公的機関に届け出を出し、日本に近い場所から機材と資材を運び込んで地盤改良を行うのと同時進行で建物の設計をしてしまえばいい。

 というより、計画が持ち上がった時点で必要な施設の建物のデザインは始めさせていたのだ。

 細かい部分はともかく外観や大雑把なイメージは先に作っておく事が出来る。

 そして、今回のことで正式に土地の広さが決まったので、帰国前にソフィアは電話とメールで社員に各施設の土地の割り当てを伝え、一月に入ってから工事を始められるよう準備を命じた。

 それを受けた会社からも了解したという返事が来たため、今回の計画の指揮を取るソフィアは湊から預かったUSBメモリをシャロンに渡す任務を帯びつつ先に帰国していった。

 一方で、日本に残った湊はホテル暮らしをするのも馬鹿らしいと、昨日、自分の名義で中央区にあるマンションを一部屋買ってそこに残っていた。

 どこが良いという希望はそれほどなかったが、仕事や学校の関係から港区に近い方が都合が良く。さらに、背丈が伸びたことで風呂は足が伸ばせるような大きな物が望ましい。

 そんな条件のもと不動産屋に探させ、2004年に出来た十二階建てマンションの最上フロア、バルコニー付き3LDKの角部屋を紹介された。

 明らかにファミリー向けで一人暮らしには広すぎる気もしたが、そのときはソフィアも共にいたので、相手は二人暮らしから子どもが増える事も想定していたらしい。

 勘違いを受けつつも、他にもいくつか紹介され実際に見に行ってみたのだが、買った部屋の風呂が一番大きく、湊とソフィアが服を着たまま一緒にバスタブに入ってみても余裕があるくらいだった。

 ゆったり風呂に浸かることが好きな湊は即決で六二〇〇万円の部屋の購入を決めたところ、滞在中のホテル代を出してくれていたお返しにとソフィアがポケットマネーで買ってくれたこともあり湊の懐は全く痛んでいない。

 

(……はぁ、少し疲れたな)

 

 そうして、電気にガスや水道といったライフラインも通し、いくつも買って適当にマフラーに入れっぱなしにしていた家具類を最低限部屋に置いた湊は、自室のキングサイズベッドに寝転び考え事をしていた。

 あの日から相変わらずペルソナの気配は感じられず、同じようにファルロスまで反応が消えてしまったため、今の湊は久しぶりに独りだ。

 事務系の仕事は苦手ではないし、人を動かす事もどちらかと言えば得意といえる。それでも、慣れない仕事というのは知らずに疲れを溜まらせるらしい。

 

(とりあえず、好きに使えるEP社の拠点をこの土地に建てるだけの目処は立った。だが、いくら後方支援のための戦力を得ても、俺自身がシャドウらを相手にするには今のままではいられない)

 

 ペルソナ使いとしての力は失っても、影時間に対する適性は残ったままで、さらにアイギスのパラディオンもいるので戦う事は出来る。

 しかし、パラディオンをアイギスに返したときにどうなるのかが分からない。

 仮に他人のであってもペルソナを持っていることで適性を持っているのだとすれば、それを返した時点で湊は影時間の適性すらも失うかもしれない。

 ペルソナがなくてもシャドウと戦える自信はある。徒手格闘だけで他のペルソナ使いよりも十分強いのだ。さらに銃火器も扱えるとなれば鬼神の如き強さを発揮することだろう。

 何より時流操作と魔眼は健在だ。消耗は激しくなるが加速して接近し、死の線を斬ってしまえば敵はその耐久力を無視して消えてしまう。

 だが、能力を失う前と比べてしまえば火力の差は埋めがたく。総合的な戦闘力で判断して、その差は大人と子ども以上に存在した。

 

(力を失ったのは俺が無茶なことをし続けたからだ。あのときは負の感情から蛇神を呼び出せたが、アレはそもそも人が扱えるような力じゃない)

 

 蛇神の正体は茨木童子の時代から積もり積もった名切りの一族の負の感情。

 怒り、悲しみ、憎しみなどが二千年以上に亘って積み重なり、記憶を取り戻したシャドウの王であるファルロスですら明確に勝てないと認めたほどだ。

 通常、血の力に目覚めた名切りは干渉を撥ね退けられず、蛇神から漏れ出した感情と茨木童子の手によって完全なるモノを生み出そうとする使命にかられる。

 過去にそれを拒絶出来たのは鈴鹿御前のみで、湊を守るために動いた母の菖蒲は覚醒度が低かったことで干渉をほぼ受けずに済んだだけだ。

 湊はその干渉を精神力で押さえこんで神降ろしの進行を遅らせたりもしたが、久遠の安寧の本拠地で蛇神を使った湊は、感情のままろくに扱えもしないものをただ呼び出してしまった。

 エリザベスたち曰く、自分の力を超えたペルソナを呼び出そうとすれば、力だけ消費して失敗に終わるか、コントロールしきれず暴走して最悪の場合は殺されることもあるという。

 しかし、あの時の湊は幸か不幸かしっかりと自分の意思で呼び出し、望んでいた結果を残して最後は影にして無事に消す事が出来た。

 暴走していたら巻き込まれて死んでいたところなので、そんなこともなく無事に終わったのは喜ぶべきことだ。

 もっとも、扱えないはずの力を使った代償として、まるで過負荷で回路が焼き切れるかのように、湊はペルソナと自分を繋いでいた何かを失った。

 

(……ペルソナは本当に消えたんだろうか。他のペルソナはともかく、名切りたちは元々血に宿っている存在だ。それを俺がペルソナとして掬いあげて呼び出していたに過ぎない)

 

 自分の心の中で茨木童子たちと邂逅したこともあったが、あれは現実で寝ている間に夢を通じてベルベットルームに行くようなもので、己の精神内にある種のフィールドを作り出して意識体だけで会っていただけだ。

 彼女たちが本来宿っているのは血の方であり、別に湊が先祖の霊に取り憑かれている訳ではない。

 まぁ、結果的には取り憑かれて自我を消されかけたようなこともあったが、ファルロスはもう神降ろしは出来ないはずだと言っていた。

 血に宿る力を持った鬼と龍の混血として生まれ、七年前にはアイギスによってデスを封印され、ベルベットルームの鍛練中に他人のペルソナや適性を奪う力を持ったアベルが目覚め、蠍の心臓で過ごしていたときはナイフに宿る怨霊だったジャック・ザ・リッパーを己が力にしたことにより、湊には他者の力を取り込む下地が出来ていたのだ。

 茨木童子が先走って器慣らしとして神を降ろしたときに耐性を持ち、今度は自ら神を呼びいれた事で、既に湊は神に操られるだけの存在ではなくなっていた。

 そうして、神降ろしという最大の危険が消えた以上、茨木童子らが名切りの業に支配され湊に干渉を試みようと何も怖くはないのだが、名切りの血の力が残っているというのに血に宿る彼女たちだけが消えたのはおかしいと寝返りを打ちつつ湊は考え込む。

 

(何かが引っ掛かる。ペルソナも時流操作も使用するエネルギーは同じ物だ。時流操作が出来る以上、適性力はほぼ完全に残っていると見ていい。ならやはり、俺は能力を失ったのではなく――――)

 

 そのとき、湊の心臓が強く跳ねた。

 痛みを伴うほど強烈な刺激に、湊は顔を顰めながら心臓の辺りを左手で強く掴む。

 けれど、強い鼓動は治まらず、反対に息苦しさと全身の筋肉にも痛みを感じ始めるほどだ。

 

(これ、は……時の針を進めた反動かっ……)

 

 この全身を刺すような痛みと心臓の鼓動の原因を考えたとき、真っ先に頭を過ぎったのは傷口を塞ぐために行った時流操作だった。

 元々、湊は飛騨によって肉体に様々な処置を施しており、処置の中で細胞が変質し傷付いてしまったせいで、常人よりも細胞分裂の限界が早くなっている。

 限界がくれば細胞は分裂を止めて徐々に朽ちてゆくが、あのときの湊は傷が開かない程度に留めたにせよ、約四年近く時を進め十八歳ほどの姿になってしまった。

 さらに、それ以前も無茶な治癒と蘇生を繰り返していた事もあって、成長した湊はファルロスの言っていた通りに飛騨の見立てよりも早く肉体の限界を迎えたのかもしれない。

 痛みと苦しさから額に脂汗を滲ませ、胸を強く押さえながら浅い呼吸を繰り返す湊は意識が遠のいてゆくのを感じる。

 

(ぐ……くそっ…………)

 

 自分はまだ何も成し遂げていない。戦いの準備を始めたばかりで、これからだというところで終わってしまうのが何よりも悔しい。

 日本に帰ってきたあの日、力を失った自分では相手を守り切れず共にいれば危険な事に巻き込まれるかもしれないと思い。遠ざけるためにわざと大切な少女を傷付ける言葉を吐いた。

 だというのに、影ながら守ることも出来ず、ただ少女を傷付けただけになりそうだと、己の愚かさと少女への申し訳なさを感じながら湊は静かに意識を手放した。

 

 

夜――巌戸台港区

 

 二学期が終わり学校も冬休みに入った。湊が行方不明になったとチドリに聞いてから、先輩である桐条美鶴がグループの方に手伝って貰い探してみると言ってくれたものの、年の瀬の今日まで何の情報も美紀たちの元に届いていなかった。

 去年はクリスマスに忘年会も兼ねたパーティーを部活メンバーでしたものだが、今年は顧問である佐久間が湊の行方不明を聞いて以降、暗い表情のままほとんど口を利かない寡黙な性格になってしまったので、クリスマスを祝うような空気にならず開催は見送られた。

 また、それならせめて初詣に共に行くのはどうかと考え、部活メンバーに電話やメールをしてみたのだが、チドリだけクリスマス・イヴから一切連絡が返って来なくなってしまった。

 体調を崩しているのか、それとも旅行か何かで連絡の取れない海外に行っているのかは分からないが、どうにもバラバラになってきていると、お遣いの帰り道を歩いていた美紀は寒さで白くなった溜め息を一つ零した。

 

(はぁ……兄さんやシンジさんは最近になってむしろ元気そうだっていうのに、私たちは少しバラバラになってきている気がします。まぁ、そもそも有里君が中心となって集められたメンバーですから、その本人が行方不明で全員が不安に思っているというのが大きいんでしょうけど)

 

 理由はよく分からないが、最近の真田と荒垣はどこか充実した明るい表情をしている事が多くなっていた。

 別に彼らにも湊の事を心配して欲しいと望んだりはしないが、部活の仲間たちとこうまで対照的な姿を見せられると、自分たちの現状に対して愚痴の一つも溢したくなるというものだ。

 一応、何かいい事でもあったのかと尋ねたりもしたが、返ってきた答えは「より実戦的なトレーニング法を見つけた」という具体性のないもので、兄と違って運動にそれほど興味のない美紀は、説明されてもよく分からないだろうとただ気を付けてとだけ返しておいた。

 真田もボクシング部の主将にしてエースだ。一時期はハードワークでまわりに心配をかけたりもしたが、今では乗り越えたらしく無茶なことはそれほどしないだろうと思っている。

 さらに、その隣には冷静に物事を見る事の出来る真田のストッパーともいうべき男がいる。何か起こる前に彼は真田を止めるはずなので、兄の心配はほどほどに美紀は現状の打開策を考える。

 

(やっぱり、有里君に関する情報が入ってきて、彼の無事が確認できればそれが一番なんでしょうけど。そもそも、どこで消息を絶ったのかも不明なんですよね)

 

 チドリから聞いた話しでは事故に巻き込まれて一緒にいたキャラバン隊の人が死んでしまい。湊もそのときから行方不明になったということだった。

 共にいた者が死んだ事から推測すれば、湊もそのときに死んでしまった可能性が最も高いと言える。

 しかし、海外で何か事故があったときは、日本人の被害者がいたかどうかについて報道されることが多いため、本当にそれらしい報道が何もなかったことを思えば湊が死んだとは考えづらかった。

 

(あのときに聞こえた絶望に染まりきった叫びが彼のものだとすれば、状態はともかくとして生きてはいるのでしょう。チドリさんは言葉を濁していましたが、部活の皆さんも同じように聞こえていたことからただの幻聴とは思えませんし)

 

 聞いただけで背筋が寒くなり恐怖すら抱くような絶望に染まった叫び。

 イリスが死んだあの日、チドリだけでなく部活のメンバー全員が同じものを聞いた。

 最初は幻聴だとも思ったが、聞いてすぐにチドリから変な声を聞かなかったかとメールで尋ねられたことで、空耳ではなくあれが現実のものだと気付けた。

 もっとも、チドリ以外の人間は湊の叫び声など聞いたことはなかったので、湊の声に似ていたかもしれないという程度に思っただけで断定までは出来ない。

 他の者から見た湊は、いつもどこかつまらなそうにしていて、例えすぐ傍にいようと人々の輪から外れたところに立っているような雰囲気を纏った少年だ。

 彼は多くの人間に手を貸し助けたりもしているが、本人は一切人を頼らず全て自分だけでしてしまい。友達らしい人物と一緒にいる場面を見た事もない。

 そんな事を言えば、自分たちは友達ではないのかという疑問を抱かれるかもしれないが、一方が相手を友達だと思っていても、もう一方の者も同じように思っているとは限らない。

 これが部活メンバーの場合だと、美紀と風花とゆかりは湊を友人だと思っているけれど、湊曰く三人は“同級生のクラスメート”や“チドリの友人”というカテゴリーであって、湊本人の友人というカテゴリーではないそうだ。

 確かに、家族の誰かの友達と自分は他人かもしれないが、学校では普通に会話し、課外活動という名の旅行にも一緒に行っているというのに、そんな風に壁を作られているのは少し寂しく感じる。

 家族という関係である湊とチドリの組み合わせを除き、一対一での部活メンバー同士の仲の良さを見れば、実は意外なことに一番仲が良いのは湊とゆかりだ。

 社交的で交友関係の広い美紀に、優しく誰にでも親切に接する風花を押さえ、さばさばとした性格のゆかりが二人よりも特定の個人と仲良くなるのは珍しい。

 しかし、現実に湊とゆかりはお互いにさばさばとした態度のまま、どこか不思議な距離感で上手くやれている。

 まわりが苦笑いするような湊の態度をゆかりは呆れつつバッサリ切り捨てたり、ゆかりのやる事を眺めていた湊がどこか小馬鹿にした様子で間違っていると指摘したり、言葉自体は選んでいるようだが、お互いに対する二人の態度は遠慮のない素のように見受けられた。

 湊は自分から積極的に他人と関わることが少ないだけに、そのように誰かをからかう姿は貴重だとして記憶に残るのも無理はない。

 

(あの叫びを聞いた後に一度だけ手紙で連絡が来たとチドリさんも言っていました。なら、生きているのに連絡を取らないのは理由があると見るべきでしょう。第一候補は携帯電話の故障及び紛失。彼の携帯は海外でも使えますから、携帯ではなく手紙を使ってきた時点で一番可能性が高そうです)

 

 夕食の材料の入った買い物袋を持ったまま、暗い帰り道を歩き続けて美紀は考察を続ける。

 行方不明になるまでにたまにメールでやりとりをしていたので、湊の携帯が海外でも使えるモデルであることは部活メンバーならば誰でも知っていることだ。

 けれど、湊はそれを使わずに手紙というアナログな手段で連絡を送ってきたらしい。

 普通に考えれば携帯を使った方が早いので、使わなかったこと自体に何かしらの意味があるに違いない。

 第一候補は“使わない”のではなく“使えない”状況に相手が置かれていた可能性が挙げられる。

 携帯の充電が切れていた、電波の届かない国や地域にいた、携帯が壊れていた、携帯をなくしてしまった、咄嗟に思い付くのはこの辺りだろうか。

 だが、中東のあまり名前の知られていない国からでもメールが届いていた事を考えると、電波の届かない場所にいたという可能性は低いとみていい。

 さらに、充電が切れていたといっても、手紙が送れる場所ならば電気もあるはずなので、少し待てば使えるくらいにバッテリーも溜まるだろう。

 携帯が壊れたりなくした場合も似たようなもので、パソコンの作業も簡単にこなせる技術を持っている湊なら、海外の携帯でも普通に使えるはずなので、その場しのぎだろうと買って事情を説明して連絡だけは取れるようにするはずだ。

 第一候補と思いつつ相手の技術と性格から考えて考察してみたが、どれも可能性は低そうで、むしろ、相手が怪我をしてあまり連絡を取れる状況になかったと思った方がしっくりくるくらいであった。

 

(有里君の性格から考えると連絡が取れない状況を放置するとは思えないです。そこから逆に考えれば、彼が意図的に連絡を絶っていたか、何者かが彼を連絡を取る事の出来ない状況に追い込んでいた可能性の方が高いです)

 

 前者ならどうして連絡を絶ったのか、後者なら誰がそんな事をしたのかという疑問が新たに浮かぶ。

 しかし、何の情報もない状態ではやはり全て想像の域を出ないと、美紀は頭を振って考えることを諦めた。

 そして、考えている間は自然と歩く速度が遅くなっていた気がしたため、少し急がねばと顔を上げて正面を向いたとき、前方に一人の男性が立っているのが見えた。

 

(あれ? あの人……)

 

 相手は道路の真ん中に立ち、とある一軒家をただ眺めている。

 腰よりも長く伸びた艶やかな暗い青髪、どこか高級感を感じさせる黒いマフラーに、遠くを見つめているような不思議な金色の瞳、これらの特徴は自分の知るとある男子と一致している。

 だが、その男子よりも相手は長身で大人びており、さらに右眼を覆う黒い眼帯を付けていた。着ているフード付きのオリーブドラブ色のコートは、自分が知らないだけで彼も持っていたかも知れないが、知り合いの男子と似ていながらどこか雰囲気が異なっているせいで判断がつかない。

 そんな風に考えながらゆっくり近づいていくと、相手も美紀に気付いたのか振り返るなり口を開いてきた。

 

「あの、すみません。ここらへんに“ナギリ”って家はありませんか?」

「え? ナギリさんですか? えっと、どういった字を書くんでしょう?」

「百の鬼って書いてナギリって読むんですけど」

 

 声を掛けられたとき、美紀は相手が隻腕であることに気付く。長袖で隠れているが、振り返った際に右袖が勢いのまま揺れていたのだ。袖に腕が通されていればああはならない。

 また、見れば見るほど知り合いの男子にそっくりだと感じ。話し方はどこか幼い印象を受けるが、声までそっくりだったことで美紀には相手が湊本人にしか見えなくなっていた。

 けれど、相手が湊であればこの初対面の相手に対するような話し方はおかしい。

 相手は百鬼さんとやらの家を探しているようだが、まったく覚えがなかった美紀は素直に知らないと答える事にした。

 

「すみません、この近くでは見た事がないです。良かったら近くの交番まで案内しますが?」

「あ、そこまではいいです。どうもありがとうございました」

 

 交番までの案内を申し出ると、相手は頭を下げて礼を言うなり、そのまま歩いて行ってしまった。

 湊によく似た相手は去り際に小さな声で、

 

「そうだ。おばさんの家にいってみよ」

 

 と呟いていたが、七年前の事故で両親を失った湊に祖父母や親戚はいないと聞いている。

 ならば、やっぱり今のは非常によく似た別人だったのだろうか、とどこか納得しきれない気持ちを引き摺りつつ美紀は家まで急ぐのだった。

 

 

――高級別荘地・桐条別宅

 

 夜も更けてきた頃、桐条別宅の自室でパソコンを操作していた英恵は、桐条のデータベースに機能停止したアイギスが屋久島の研究所に収容されたという情報を見つけ、アイギスも無事で良かったと安堵の息を吐いた。

 桜を通じて久遠の安寧と湊の戦いの結末を聞いていたが、湊が帰ってくるという話だった三日前に、湊が別れを告げて家を出ていってしまったとだけ連絡が来て、どのような状態だったか詳しく聞けていなかったのだ。

 復讐に走ったはずの湊は相手を自分の傘下に収め、今まで持ちえなかった組織としての強さを手に入れた。

 その矛先はきっと自分たち桐条に向けられるのだろうが、そんな事よりも英恵としては家を出ていったという湊の事が心配だった。

 

(機能停止状態だったアイギスは屋久島に、チドリさんとは自ら別れを告げて離れていった。あの子は一体どこへゆこうとしているのかしら)

 

 何よりも大切に想っていた少女から離れる。単純に別行動を取るという意味ならば、これまでも何度もあったし、その最たるものが修行も兼ねた海外への遠征だった。

 しかし、それは全て二人やそのまわりの世界を守るための行動であり、十分な力を手に入れれば帰ってくると言っていた。

 それがどういう訳か、湊は傍にいなくても大丈夫だと言って家を出ていったという。

 湊にとってチドリたちは枷であると同時に彼を人側に繋ぎ止めておくための楔だった。

 鬼の血に目覚めてしまった少年がそれを自分の意思で捨てたというのなら、やはり彼は絆や繋がりを捨てて孤独の道を行くということなのだろう。

 確かに守るだけなら傍にいる必要はないかもしれない。けれど、そんな守るだけのシステムと化してしまえば、それを行う少年には何の救いもないと思ってしまう。

 

(名切りは守るための一族。究極的には抑止となり、守護するためのシステムと化す存在。でも、他者のために自らを捧げる事の出来る優しい彼らは、一体誰に守って貰えばいいの? 誰があの子たちを救ってくれるというの?)

 

 紀元前より続く由緒正しき血筋と家柄でありながら、人々は彼らを恐れて遠ざけてきた。

 彼らを使役し、自分たちの手を汚さずに甘い汁だけを啜ってきた九頭龍ですら、忌むべき血筋として見下していたのだ。

 平和な時代になって守って貰う事のなくなった現代の龍の一族にすれば、守って貰っていたのは先祖たちであって、何もしてもらっていない自分たちが恩を感じる必要はないと思っているのかもしれない。

 けれど、それは鬼の一族にも言える事だ。人を殺していたのは過去の名切りたちであって、湊の祖父も母親も人を殺した事などなかった。

 元を辿っていけば龍の一族にも人を殺した人間はいただろう。戦国武将の末裔と言われる者たちだって人殺しの子孫だ。

 しかし、同じように先祖に人殺しがいても、龍の一族や戦国武将の末裔たちが人殺しの子孫として迫害を受ける事はない。

 ならば、平和な現代になってからも、名切りだけが鬼の末裔として迫害されるのはおかしいではないか。

 鬼の一族の目指した在り方は、単なる自己犠牲の域を超えている。

 これではまるで、人ではなく神の視点だと考えたとき、控えめなノックの音が英恵の意識を現実へと引き戻した。

 

《夜分遅くに申し訳ありません。新川でございます》

「少し待ってください」

 

 ノックの後に聞こえてきたのは落ち着きのある静かな男性の声だった。

 英恵はパソコンの画面に開いていたアイギスに関するデータファイルを消すと、ストールを羽織って席から立ち、扉を開けた。

 そこに立っていたのは白髪混じりながらも、きっちりと整った身なりをした老紳士だった。

 新川と名乗った彼は英恵が実家にいた頃から仕えてくれている執事で、桐条家に嫁ぐ事になってからも仕えている主の傍にいるといい、今もこの屋敷で色々とお世話をしてくれている英恵が信頼する人物の一人だ。

 その彼が就寝前のこの時間に部屋を訪ねてくる事など珍しい。一体何の用かと不思議に思った英恵は、素直に思ったまま尋ねていた。

 

「新川さん、何かありましたか?」

「はい、実はいま屋敷に訪ねてきた方がいらっしゃいまして」

 

 答える相手の様子がどこかおかしい。困っているような、何か言いにくそうな、とりあえず普通とは言えない様子だ。

 時計を見ると時刻は十時を過ぎようとしている頃。確かにこんな時間に訪ねてくるなど非常識ではあるが、それなら屋敷の主である英恵は既に寝ていると言って、また日を改めて貰えばいい話しである。

 それをせずに呼びに来たという事は、相手が無下に出来ないような人物なのか、他に何か理由があるのかもしれないと考えた。

 

「訪ねてきたというのは一体どなたかしら?」

 

 相手が言いにくいのなら自分が訊いてやればいい。

 英恵がストレートに問えば、新川はどこか抑えた声量で答えた。

 

「はい。その、“八雲”様と名乗られる青年にございます」

「っ!?」

 

 新川の口から予想だにしていなかった名を告げられた途端、英恵は驚愕の表情を浮かべる。

 何故、いまここに公的に死んだことになっている湊が堂々と正面からやってきたのかが分からない。

 彼は家を出てここで暮らすつもりだったのか。それともここにも別れを告げにやってきたのか。

 頭の中に様々な疑問が浮かんでは消えてゆき、英恵は冷静な思考を取り戻す事が出来ない。

 すると、相手は英恵が混乱するのも無理はないと思ったのか、続けて口を開いてきた。

 

「幸いな事に、この屋敷には七年前に起きた八雲様ご一家の事を知る者は私の他にいません。ですので、最初に応対した女中には口外しないよう言いつけ下がる様に言っておきました」

「そ、その子はいまどこに?」

「私の部屋にて待っていただいております。どことなく菖蒲様の面影がありましたので、八雲様を名乗ったこともあり無関係とは思えず、勝手な事をいたしました」

「いえ、どうもありがとう。今から私も会いにいきます」

 

 桐条に自分と湊の繋がりがばれるのはまずい。だが、それも昔から仕えてくれていた新川のファインプレーにより、どうにか無事に済みそうであった。

 どうして湊が正面からやってきたのかは分からないが、いまは会うのが先だと気を取り直し、英恵は新川に案内されるまま彼の私室へと向かった。

 

***

 

 住み込みで働いている使用人たちの部屋は一階奥の方にあり、屋敷の主が頻繁に彷徨いていては使用人らも休まらないだろうと、英恵はあまり近付いたことはなかった。

 通路を挟んで左右に個室の扉がある様子はどこかホテルのようでもある。

 新川の部屋はその中の一番奥にあり、既に寝ている者もいるはずなので、二人は音をたてないよう静かに進み部屋へと入った。

 

「あ、おばさん!」

 

 二人が部屋に入った途端、ソファーに座っていた湊が英恵の姿を見つけ、嬉しそうに立ち上がり駆け寄ってきた。

 その言動と行動に違和感を覚えるが、英恵は数ヶ月ぶりに見た湊の姿に唖然とする。

 身長がかなり伸びて顔付きが大人びたことは成長期だという事で構わない。しかし、右眼に付けられた半月状の黒い眼帯、動いた勢いのまま揺れる中身のない右の袖、それらが湊の過ごしてきたこの数ヶ月間の凄まじさを物語っていて英恵は何も言えなかった。

 大事な人を殺されたことで復讐に走り、湊はその間だけで一万人以上を殺した。その報いが右眼と右腕の喪失というなら、まだ犠牲としてはマシな方かもしれない。

 だが、十四歳の少年に背負わせるにはあまりに重く大きな十字架だった。

 英恵は瞳を揺らしながら何も喋らず湊の頬に手を添え、痛々しい姿となってでも帰って来てくれた息子の存在を確かめる。

 手を通じて感じる相手の体温に、ちゃんとここにいて生きている事を実感できた。傷を負った姿に対して込み上げてくるものはあるが、それでも生きていてくれてよかったと心を喜びが占める。

 そうして、湊に話しかけようとしたとき、英恵が口を開くよりも早く湊の方から話しかけてきた。

 

「あのね、おばさん。お母さんとお父さんがどこいったかしらない?」

「…………え?」

「家にかえったんだけどね。別の家があってぼくの家がなくなってたの。でも、なにかあったらおばさんのところへ行きなさいって言われてたから、ちゃんと電車にのってここまで来たんだ」

 

 不思議そうな顔で両親の居場所を尋ねたかと思えば、今度は親に言われていた通りに一人でここまで来た事を誇らしげに笑っている。

 両親の死後、湊がこんな風に無邪気に笑う姿を英恵は一度も見た事はなかった。

 けれど、英恵は湊が久しぶりに見せた無邪気な笑顔を前に、その言葉が意味するところを理解してしまった。

 

「あ、ああ……っ」

 

 信じたくないあまりに残酷な現実に、英恵は否定するように首を横に振り、目に涙を溜めて肩を震わす。

 何故、どうして、何があったというのか、英恵の頭の中を理解しがたい状況への問いが占める。

 その間も湊は幼い笑顔で無邪気に笑っていて、英恵は堪らず相手を抱きしめていた。

 

「あれ、おばさんどうしたの? どこか痛いの?」

 

 何も分からない湊は、涙を流して自分を抱きしめてくる相手を心配して声をかける。

 こんな状況になっても変わらぬ優しさに、英恵はさらに悲しみが込み上げ、湊を抱きしめる腕に力を籠めた。

 

「八雲君っ……八雲君っ…………」

「おばさん、泣かないで? 何かいやなことがあったならぼくがなんとかするから」

 

 どこかおろおろとしながらも、泣いている英恵を心配して湊は声をかけてくれるが、その行動がさらに涙を溢れさせる。

 自分たちの知る彼のまま日本に帰って来たと聞いていたことで、神降ろしによる人格の消去は回避されたと思っていた。

 傷を負った姿になっても、それでも生きて帰ってきてくれた事が嬉しいと一時は喜びを感じた。

 だが、英恵が再会した湊は心が壊れてしまっていた。

 自分の両親が七年前の事故で死んだ事も、今まで自分が大切な少女たちのために戦っていた事も、全て忘れて事故以前の記憶と人格に戻ってしまっている。

 右腕がないことや、自分の方が背が大きくなっていることには違和感や疑問を抱かず、まるで影時間中に起こったことへ記憶の補整が掛かっているかのように、相手は“事故以前の八雲”そのものの行動ばかり見せていた。

 これが彼の犯してきた罪への本当の罰だとするならば、英恵はそんな罰を与えた神を呪い一生赦さないと激しい憎しみを覚えた。

 英恵はその後、年末年始を宗家で過ごす予定だったのを体調が優れないからと言ってキャンセルし、湊を自分の部屋につれてゆくとしばらく部屋には誰も入らないようにと使用人たちに厳命した。

 彼女のあまりの様子に共にいた新川も思うところがなかった訳ではないが、七年前の湊たち一家の死を悲しみ病んでいた姿と今の姿がどこか重なり、何も言うことが出来なかった。

 

 

 


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