【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第百三十六話 後篇 修学旅行初日-星空の下で-

夜――ホテル前ビーチ

 

 水族館で遭遇した七歌に自分が生きているとばれて苛ついていた湊だったが、ネガティブマインドの期間で表に出て来られないカグヤから伝言を預かってきたとバアル・ペオルが話しかけてきた事で、彼の精神は平静を取り戻していた。

 なんでも、龍の一族は既に力に目覚めている者ならば、新たな龍が目覚めると個人の特定は無理だが、誰かが力に目覚めた時点で階級を含めて目覚めを感知できるのだとか。

 九頭龍家に分家は存在せず、龍の血を引く子どもは七歌と八雲しかいないので、七歌よりも後に目覚めた者がいた時点で生存はばれていたらしい。

 流石に居場所まで分かるほど高性能ではないが、七歌だけでなく一族の生まれである彼女の父と祖父も湊が最上級の特級五爪であることは把握しているため、それならば七歌が勝手に居場所を広めなければ問題はほぼないと思われた。

 そうして、一応、受け取った連絡先を携帯に登録してからビーチにやってくると、隅の方で星空を見上げて立っているゆかりを発見した。

 暗い夜のビーチに一人でいるなどナンパしてくれと言っているようなものだが、生憎とここはホテルのプライベートビーチなのでナンパ目的で彷徨いている連中など居はしない。

 なにより、どこか沈んだ雰囲気の少女に下心を持って近付くなど、男の風上にも置けない下衆である。湊がその現場に出くわせば相手を夜の海に放り投げるところなので、彼が見ている範囲内でゆかりをナンパする者がいなかったのは、ある意味で双方にとって幸運であった。

 ブーツの底をビーチの砂に沈ませながら一歩一歩近づいた湊は、砂を踏む音に気付いて振り返った少女に声をかける。

 

「……ホテルから離れると危ないぞ」

「うん。でも、あんまり近いとビーチに出てきてる他の生徒が声かけてきたりするしさ。静かに景色を眺めたかったから、これくらいなら大丈夫かなって程度に離れたの」

 

 振り返ったゆかりはTシャツの上にグレーのパーカーを羽織り、下はピンクのラインが入った紺色のジャージというラフな格好だった。

 湊も髪は結い直したが既に入浴を済ませているので、マフラーやアクセサリーは付けたままだが、普段着ているコートはマフラーに仕舞って、今は七分丈のシャツにジーンズという格好である。

 点呼を終えて消灯時間になっているので後は寝るだけだが、修学旅行一日目の夜という事もあり、一部の生徒はどこかの部屋に集まって罰ゲームありのトランプに興じたり、または数人でベッドに寝転がりながら好きな人の話をして楽しんだりと過ごし方は色々だ。

 中には湊たちと同じようにビーチに出ている者もいたりするが、二人がいるのはホテルの照明があまり届かない場所なので、ほとんどの者はもう少し明るい丁度反対側へと集まっている。

 人がいない方が静かに話すのには好都合なので、湊はビニールシートを砂の上に広げると、そこに腰を下ろしてゆかりにも隣に来るよう促した。

 

「とりあえず、座って話そう」

「んー、座っちゃうと長話しちゃいそうだけど。まぁ、バスの移動時間で寝れるし、いっか」

 

 少し風は吹いているが温暖な気候なだけあって寒くはない。加えて二人とも丈のある服を着ているので、長話をしても風邪をひく心配はなく、睡眠時間については一考すべきだが、それも移動のバスで寝る時間があるので、そこまで考える必要はないかとゆかりは笑いながら湊の隣に座った。

 離れた場所にいるため他の者の声は聞こえず、ただ寄せては返す波の音だけが二人を包む。

 そうして、しばらく無言のまま月明かりに照らされる夜の海を眺めていれば、ゆかりの方から静かに話しかけてきた。

 

「あのさ。悩み相談じゃなくて、ちょっと他の人から見た感想が聞きたいんだけど、そういうのでもいい?」

「俺の意見が参考になるか分からないが、それでもいいなら聞こう」

 

 残念ながら湊は一般人と感覚がずれているので、ゆかりが望む様な答えを返せるかは分からない。

 けれど、自分なりに真剣に答えようとしているのが伝わったのか、短くありがとうと礼を言ってからゆかりは話し始めた。

 

「前に、私が事故の真相とお父さんの事を調べるためにこっちに来たって話したのは覚えてる?」

「……ああ」

「まぁ、それはまだ進展ないんだけど。月光館学園に来たのには実はもう一つ理由があって、それがお母さんのことなのよ」

 

 やや暗い雰囲気のままそう言ったゆかりは、体育座りで海を眺めながら月光館学園へとやってきたもう一つの理由を話す。

 湊には母親と少しばかり溝があると話しているので、月光館学園に来た理由の一つだと教えた時点でおおよそ察したに違いない。

 それでも、本題はここからなのでゆかりは視線を海に固定したまま、自分と湊にしか聞こえない程度の声量でぽつりぽつりと言葉を続ける。

 

「お母さんね。お父さんが死んでから色んな人と付き合ったりしてるの。二股とかそういうのはないけど、別れたら新しい男作ってって感じで男に依存しっぱなし。自分で立とうとしないで、男に支えてもらってるの」

 

 付き合っている男から経済的な援助を受けている訳ではない。ゆかりの母である梨沙子は桐条の名士会に名を連ねている良家出身なので、岳羽詠一朗の死後はその実家からの援助と死んだ父の保険金で主に生活していた。

 しかし、金銭的な支えが必要ないという事は、梨沙子が男性と付き合っているのは恋愛感情や精神的な依存が理由ということになる。

 今も死んだ父親のことを大切に思っているゆかりとしては、夫のことを忘れて他の男に走るくらいならば、お金のために付き合っている方がまだマシに思えた。

 

「別に付き合うのは悪いと思ってないよ。真剣に考えたなら再婚とかもありだろうしさ。でも、あの人はそういうんじゃないの。ただ自分の弱さから目を背けて、居心地がいいから男に逃げてるだけ」

 

 母親もまだ四十歳になろうというところなので、後の人生の長さを考えれば再婚してもおかしくない。

 娘が小学生になって少しの頃に夫を亡くし、その夫が事故を起こした張本人だと周囲からのバッシングを受けて苦労していた事を思えば、本当に信頼できる人との再婚ならば祝福しようとゆかりも思っていた。

 だが、いまの彼女は相手が好きで付き合っている訳ではない。恋愛に関して詳しい訳ではないが、それでも愛し合っていた両親の姿を知っているだけに、母親と交際相手の関係が依存で成り立っている歪な物に見えて仕方がなかった。

 そして、ゆかりは膝を抱えている腕に力を籠めながら、声に怒気を含ませ険しい目付きで吐き捨てるように続ける。

 

「あんなのお父さんへの裏切りでしかない。親としても、妻としても本当に最低な人。だから、私はあんな風にはならない。自分の足でしっかり立って、一人でだって幸せを掴めるって証明してみせる」

 

 自分の母は父の事を捨てた。苦しい現実と自分の弱さから逃げるために、残された者の記憶の中でしか生きていけない相手を自分の中から消したのだ。

 本当に大切だったならそんなこと出来るはずがない。だからこそ、ゆかりは母親の生き方を軽蔑し、間違っていると否定するために一人で生きて幸せを掴むと心に決めていた。

 こんな事を誰かに話すのは初めてだったが、相手も親を同じ事故で亡くしているので話し易く、他の者と違って変に同情を向けて来ないのも分かっているので気持ちが楽だった。

 もっとも、他所の複雑な家庭事情を聞かされた上に、母親が最低だと思うだろうと同意を求められても、娘の目の前で否定するのも気が引けて普通はすんなりそうだなと頷く事は出来ない。

 

「それで、えっと、有里君は私のお母さんの生き方をどう思う? やっぱり、最低だよね?」

 

 そのことに気付かぬまま、自分が感情的になって長々と話してしまったことを少し恥ずかしそうにしながら、ゆかりは隣に座っている湊の方を向いて感想を尋ねてきた。

 答えを待つ彼女の顔には、母親への不信感と湊も同じように感じているという確信の色が窺える。

 だが、少しの間を置いて開かれた彼の口から出た言葉は、そんなゆかりの予想とは全く異なる物だった。

 

「……話を聞いてる限りだと、お前も十分ガキだと思うけどな」

「……なんでよ?」

 

 母親の事をどう思うか訊いたというのに、返ってきたのは自身を否定する言葉だった。

 その言葉の意味が分からず、さらに納得がいかなかったゆかりが聞き返せば、湊はまるで実際に目にしてきたかのような様子で理由を話してくる。

 

「確かに岳羽のお母さんの生き方は褒められたものじゃない。一番身近で見てきた娘が嫌悪感を抱くくらいだから俺が考えている以上なんだろう」

 

 目にしてきた者とそんな相手から話を聞いて想像することしか出来ない者では、やはり相手に対する考え方にもかなりの差が出来てしまう。

 とはいえ、話を聞いただけの湊も、ゆかりの母親の生き方は後で後悔する事になりそうに思えて、さらに娘を傷付けていることからも正しいとは思っていない。

 だが、今の母親の生き方を否定するゆかりは、どうして自分の母がそこまで男に依存するようになったかを本当に理解していないと湊は返す。

 

「けどな。大切な夫を失って傷付いていたとき、おじさんのことで酷いバッシングも受けたんだろ。外へ出れば陰口どころか誹謗中傷に、下手をすれば危害まで加えられそうになっていたはずだ。だが、彼女はそれに負けて折れる事はできなかった。なぜなら、父を失って傷付いている幼い娘がいたから」

 

 愛しい娘。それは折れそうになっていた彼女を、最後の一歩で踏み止まらせてくれた存在であると同時に、苦しい現実から逃さぬよう縛り付ける鎖でもあった。

 愛しい人との愛の結晶である娘は、何があっても守り抜いて育てなければならない。折れそうになっていた彼女は、ただそれだけを考えて事故後は過ごしていたはずだ。

 

「自分だって泣きたいのに、頼られて守らないといけないから弱音も吐けないってのは地獄だぞ。いっそ全部放り出せたらどんなに楽なことか」

 

 隣で話す青年の言葉を聞いていて、ゆかりは母を擁護する彼に小さな怒りを感じながらも、どうして相手の言葉に実感が籠もっているのか不思議に思った。

 確かに彼は普段から人に頼られてばかりいる。だが、相手がそんな辛そうにしているのなど見た事がないので、もしかすると、両親を失った後に何かあったのだろうかと考えた。

 そんなゆかりの母と似た守るものを背負う苦しみを知っている青年は、改めてゆかりの方へと向き直り視線を合わせると、一方的に母親を悪だと決めつけている彼女に諭す様に告げる。

 

「岳羽は失う辛さは知っているが、背負う辛さを知らないんだ。それが大切なら大切なだけ重くのしかかってくる。押し潰されそうになって誰かに支えて欲しいと思うのは何も不思議じゃないさ」

「じゃあ、有里君はお母さんが正しいっていうの?」

「そうじゃない。だが、相手と同じ状況になってもいないのに弱いと決めつけるのは卑怯だ」

 

 言われてみれば、確かに自分は父親を失っただけで母親という頼ることの出来る人間がいた。だが、母は幼い娘を抱えて今後どうやって生きていこうかと不安に思ったに違いない。

 そこまで考えがいかずに、今の姿だけを見て一方的に弱いと決めつけたのは悪かったかも知れないが、そんなすぐに赦せるほど単純ではいられない。

 何より、母親が今も男に依存している事実は変わらないので、ゆかりは改めて母のことを考えてみようとは思うが、湊がいうように同じ状況になるのは不可能だと返した。

 

「子どもなんていないのに、同じ状況なんてなれるはずないじゃない」

「……相手の今の状況なら再現できるだろ。普段、岳羽は友人に囲まれていても一歩引いて“独り”でいる。だが、そんな自分の味方でいてくれる人がいて、お前はその相手に依存せずにいられるか?」

「それって誰かと付き合えって事? ふざけないで、私のことを何も知らない上辺だけ見て近付いてくる人に味方でなんていて欲しくない。そもそも、そういう“普通”の家庭で育った人に理解出来るとも思わない」

 

 夫を失い一人で娘を育てていく妻の状況ではなく、頼れる者のほとんどいない状態で自分の味方でいてくれる存在がいる状況になってみろと青年は言う。

 敵だらけの状況で信頼出来る味方が現れれば、その相手に頼ってしまうのはある意味当然である。なにせ、人は孤独を恐れる生き物だから。

 しかし、ゆかりは男に頼る弱い女になることだけでなく、何も知らないくせに分かったような顔をしてくる人間も同じくらい大嫌いだった。

 今までも散々そんなやつを見て生きてきたのだ。分かって欲しい訳でも、同情されたい訳でもない。なのに一方的に“可哀想”というレッテルを貼られ、それに憤っても今はまだ気持ちの整理がついていないのだと決めつけれる。自分が何を言っても無駄なのだと諦めるまでに、どれだけ悔しい思いをしてきたか相手には分からないのだ。

 故に、父親が事故で死んだと聞けば同情してくると分かりきった人たちとは、絶対に付き合いたくないとゆかりは怒り気味にきっぱり拒否した。

 しかし、次の瞬間青年から返ってきたのは、ゆかりの予想の遥か斜めをいくぶっとんだ言葉だった。

 

「俺なら似た境遇で生きてきたから、岳羽のことも少しは理解出来る」

「…………は?」

 

 誰かと付き合えという話をしていた状態で、自分ならゆかりのことも理解できると言われると、まるで理解者になれる自分こそがゆかりの恋人に相応しいと言われているようだ。

 そんなはずはない。湊はゆかりに対して恋愛感情を全く持っていない。そもそも、相手は等しく優しいが故に個人に想いを向けることはほとんどないはず。

 頭の中にそんな様々な否定の言葉を並べつつ、相手の言葉を何度も反芻して意味を理解しようとしたゆかりは、結局、最初に考えた意味以外に取れないと判断し、これは自分をからかっているのではないかと心に予防線を張りながら訝しむように言葉を返した。

 

「急になに変な冗談言ってるの?」

「別に冗談で言ってる訳じゃない。今まで誰とも付き合ったことがなかったから、一度くらい経験しておいた方がいいかとは少し考えていたんだ」

 

 普段通りやる気のない表情のまま話す相手の言葉を要約すると、俺と付き合えということになる。

 突然のことにゆかりは思考がストップしかけたが、話を聞いていくとゆかりのためというより、彼自身が恋人がどんなものか興味があって試しに付き合ってみたいと思っているように感じた。

 眼帯の付いていない相手の左眼をジッと見つめ、彼が己に恋愛感情を抱いているのかを改めて感じ取ろうとゆかりはしてみる。

 その結果、相手は恋愛感情以前に自分を異性として見ていないとはっきり理解出来た。

 自分でもいうのもなんだが、非公式の女子ランキングで常にトップクラスであり続け、毎月何度か告白やラブレターを受け取る程度には人気がある。

 そんな女子と旅行の夜に綺麗な星空の見えるビーチで二人っきりだというのに、異性とすら認識してないとは失礼過ぎやしないかと、ゆかりは先ほどまでの怒りも忘れて呆れてしまった。

 彼はゆかりのそんな胸中に気付いていないのか、自分と付き合う上でのメリットを説明してくる。

 

「お互いに知らない仲じゃないし。恋人体験だと割り切ってる分、気持ちとしては楽だろ? まぁ、お前は居心地の良さに負けて依存するようになるかもしれないが、そうなったら母親のことを言えないってだけで別に不利益はない」

「何よそれ。恋人のフリしてる内に本気になると思ってんの? 馬っ鹿みたい。そんなのあり得ないっつーの!」

 

 ゆかりのことを馬鹿にしているのか、それとも自分の魅力に相当な自信を持っているのかは分からないが、湊はゆかりが途中から本気になって依存してくると思っているようだ。

 それを一〇〇パーセントあり得ないと断言し、ムスッとした表情で睨みつけてみれば、青年は不思議な輝きの瞳でまっすぐ見つめながら挑発だと分かる言葉で尋ねてくる。

 

「なら受けるか?」

「……期間とルールは?」

 

 これを確認するという事はもう受けると言っているようなものだ。

 しかし、相手の挑発に乗せられている訳ではない。いや、もしかすると最初から乗せられているのかもしれないが、相手と同じ状況になっていないのに決めつけるのは卑怯だと言われたときに、一理あると思ってしまったのだ。

 故に、ゆかりは母親と同じような状況になっても同じにはならないことで、やはり相手は弱かったのだと改めて言ってやるつもりだった。

 同じ状況になってからならば、普段から他人を見下したような態度を取り続ける青年も文句を言うまい。

 だからこそ、ゆかりはルールをちゃんと聞いて納得が出来れば、ある意味青年との一対一の勝負であるこの申し出を受ける気になっていた。

 

「恋人としての実感がどの程度で湧くのか分からないが、とりあえず半年くらいでいいんじゃないか。それ以降は岳羽が別れを切り出すまでだ。だが、別れを切り出せなければ関係が惜しくなったとみなす」

「確かにあんまり短いと簡単に別れられそうだしね。それじゃあ、少し短くして今年一杯が期限にしようか。別れたくないって言っても聞かないから」

「ああ、契約成立だ」

 

 仮初の恋人契約を結ぶためにゆかりが手を差し出せば、湊は僅かに笑って握手に応じた。

 これで期間限定とはいえ恋人という事になる。浮気などすれば期限内でもその時点で別れるつもりだが、まさか初の彼氏がこの男になるとは人生何が起こるか分からないと苦笑しかけたところで、ゆかりは突然唇に何かが触れるのを感じた。

 

「――――っ!?」

 

 あまりの事態にゆかりは目を閉じてから身体を硬直させる。混乱している状態でも目を閉じたのは、キスするときには目を閉じるのがマナーだと知っていたからだ。

 しかし、そんな事を考えている時点で自分が湊にキスされていると認識している訳で、自分とは別の体温が唇越しに伝わってくるのを感じながら、ゆかりはじっと動かず相手が離れるのを待った。

 実際は十秒にも満たない時間だろうが、少女の体感で一分以上経過したところで湊が離れると、彼の正面には顔だけでなく耳や首まで真っ赤になった少女が恥ずかしそうに俯いていた。

 それを見た湊は急にキスしたことで怒られると思ったが、こういった事には免疫がなかったようで部活メンバーは初心な少女の集まりかと内心で苦笑する。

 俯いている相手の顔を上げさせようと、生身の左手で頬に触れるだけでゆかりはビクッと身体を揺らし、けれど、まだ思考能力が戻っていないのかそれ以上の反応は見せず、湊が顔を近づけていけば緊張した様子で再び目を瞑った。

 

「――――んっ」

 

 大浴場に置かれていたシャンプーの香りだろうか。柑橘系の甘い香りが鼻に届き、湊は口付けを交わしながら相手の髪を指で梳く。

 視覚を封じられると他の五感が鋭くなると言うが、確かに触れあった唇から相手の熱と柔らかさを感じて不思議な感覚だ。

 この状態で相手を抱きしめればどうなるだろう。湊の感覚としては抱きしめられると落ち着くのだが、緊張している少女にやっても逆効果な気がする。

 もっとも、そう思っていても湧いた疑問の解を得るために実行に移すのがこの青年だ。空いていた右手を相手の腰に回して抱き寄せ、髪を梳いていた左手でゆかりの後頭部を押さえて逃がさぬようにする。

 急に抱き寄せられた少女は驚いたのか両手を胸の前に持ってきたが、その状態で抱き寄せられたせいで、湊の胸に両手を触れさせたままお互いの身体に挟まれてしまう。

 密着状態から腕で押そうとするのはそれなりにコツが必要で、まともな思考も働いていない状態のゆかりでは、仮に離れたいと思っても抜け出すことは出来ないだろう。

 青年が少女を抱きしめたことで、お互いの体温を全身で感じられるようになった二人は、少女が苦しくなって身体を離そうとするまでずっとそのままでいた。

 そうして、そろそろ時間も遅くなってきた頃、湊は呆けていた相手に手を貸して立ち上がらせると、泊まっている部屋に戻る様にいって先に帰らせた。

 相手が焦点の合わぬ熱の籠った潤んだ瞳をしていたので、少し心配になり一人で帰れるか尋ねたところ、小さな声でぽつりと「うん……大丈夫」と答えたので問題はないはず。

 遠ざかってホテルへと無事に入っていた背中を見送った湊は、広げていたビニールシートをマフラーに片付けると、もう少し散歩でもしておくかと人のいない方へと歩いて行ったのだった。

 

 

 

 




補足説明

 投稿日が四月一日、つまり、エイプリルフール……なんだ、嘘か。

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