【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第百六十八話 高等部での生活

4月14日(月)

朝――校長室

 

 新学年が始まって一週間が経った月曜日、桐条美鶴は校長室に呼ばれて中で待っていた。

 手続きに手間取り時期がずれ込んでしまったが、実は今日から月光館学園高等部にカナダから留学生が来ることになっており、同じ二年生で英語が話せる彼女が代表として彼女を迎える役目を受けたという訳だ。

 

「あー、桐条君、もう少しでタチアナさんが来られるからね。本校は今後留学生の受け入れや生徒の留学に力を入れることになっているので、君に負担をかけることになってしまうけどよろしく頼みますよ」

「ええ、分かっています。相手も同世代の同性の方が話し易いでしょうし、なんとかコミュニケーションを取って本校での生活を楽しんで貰えるよう努力します」

 

 中等部では湊が留学し、高等部では長谷川沙織という生徒が現在も留学中だが、どちらも交換留学や月光館学園が主体となって送り出した訳ではない。

 二人以外にも留学した生徒は何人かいるが、受け入れというのはさらに行われたことが少なく、国際化にも力を入れて行こうとしている学校としては、今回の留学受け入れを留学事業拡大の第一歩として非常に重要視していた。

 経営母体グループの令嬢で仕事も一部任されている美鶴も当然それを理解しており、そうでなくとも初めての場所で心細いであろう留学生の少女には優しくしようと思っている。

 仮に美鶴が家の用事で休んだとしても英語を話せる教師は沢山いて、意思疎通が出来なくなることはないだろう。そう思って構えずに待っていれば、小さなノックの音が聞こえて二年生の学年主任が校長室に入ってきた。

 

「失礼します。タチアナさんが来られました」

「うむ。入って貰いなさい」

「はい。では、タチアナさん。どうぞ」

 

 学年主任が脇に避けて中へどうぞと案内すれば、肩に掛かるかどうかという短めに切り揃えられた金髪にグレーの瞳の少女が入ってきた。

 白人の中でもさらに白い方ではないかと思われる肌に、やはり寒い地方で暮らすと色素が薄くなるのだろうかと美鶴は考える。

 少女が入ってきたことで迎えるために美鶴が立ち上がれば、美鶴が挨拶をするよりも早く少女の方から挨拶をしてきた。

 

「オーチン プリヤートナ! はじめまして、タチヤーナ・イワノワ・メドヴェージェヴァといいマス! よろしく、お願いしマス!」

「え、あ、え? ロシア語?」

 

 相手の自己紹介を聞いた美鶴は思わず校長を見た。カナダからの留学生だと聞いていて、英語を話せる美鶴なら大丈夫だろうと代表に選ばれたというのに、少女の話す言葉がロシア語だとは聞いていない。

 いくら美鶴でもそういくつもの言語を話せる訳ではなく、フランス語ならばともかくロシア語は習得していなかった。

 そも、校長と学年主任はタチアナさんと呼んでいたが正確にはタチヤーナで、ロシア式の愛称として呼ぶならターニャが正しい。

 タチアナとも呼ばなくはないが、この男たちは相手を英語圏の人間だと思って、勝手にタチアナ読みだと思ったに違いない。

 カナダからの留学生なので英語圏の人間だと勘違いするのも無理はないが、相手の学校からちゃんと話を聞いていなかったのかと美鶴は頭が痛くなった。

 

「あー、私は桐条美鶴です。呼びにくいと思うので美鶴と呼んでください。日本語は分かりますか?」

「ダー、ミツルもワタシをターニャと呼んでください。日本語、ちょとダケわかりマス。日本のアニメやクニーガが大好きで、ずっと来たいとおもてマシタ」

 

 クニーガとは本の事で、彼女は娯楽文化を通じて日本に興味を持ったらしい。先に用意していたらしいメモ帳を見ながら頑張って話す姿は微笑ましいが、美鶴はこれで本当にやっていけるのだろうかと不安を覚えずにはいられなかった。

 

***

 

 校長室を出た後、臨時の全校集会が開かれてターニャのことが紹介された。

 綺麗な髪や瞳の色に加えて、可愛らしい容姿と片言で頑張って話す愛くるしい姿が好印象だったようで、多くの生徒らが少女を受け入れているのを見た教師らも安堵していた。

 しかし、相手が実はカナダで暮らすようになって一年しか経っていないロシア人だと後で判明したように、スタートから不安を覚えていた美鶴の嫌な予感は的中し事件は起きた。

 美鶴が彼女の世話担当になったことで自動的に同じクラスに配属された訳だが、昼休みになって パンを持って来ているターニャに対して美鶴は食堂で昼食だった事で、他の生徒らがちゃんと見ているので食べて来ていいと言い、美鶴もその言葉に甘えて教室を出て行った。

 そして、生徒たちが一緒にお昼を食べようと彼女の周りに集まり、質問やこの学校のことなど色々なことを話しかけていると急に相手が泣きだしたのだ。

 周りの人間は何故相手が急に泣きだしたのか分からず、生徒らが戻ってきた美鶴にすぐ助けを求めても、泣きながらロシア語で話されたところで美鶴には相手が何を言っているのか理解出来ず困ってしまう。

 直前にどんな話をしていたのか聞いても泣く要素が見当たらず、留学生が泣いていると聞いて学年主任や英語科の教師らがやってきたが結果は同じだった。

 

「どうしましょう。急ぎで通訳さんに来て貰った方がいいですかね?」

「しかし、そんな呼んですぐに来てくれる通訳がいますか?」

 

 教室の入り口のところで学年主任と英語科の男性教師が話し合う。

 ターニャも落ち着けば少しは日本語が話せるのだが、一向に泣き止まず顔を手で覆ってしまっているので、教師や他の者が困るだけでなく、彼女にとっても留学が辛くなってしまうかもしれない。

 それならば無駄に費用はかかるけれど、通訳を呼んで理由を聞いてもらい。早期に事態の収束を計った方が傷も浅く済むはずだった。

 ただ、そうなるとどこから通訳を呼べばいいのだという話になってくる。英語やフランス語ならば沢山いるだろうが、すぐに来てくれるロシア語の通訳などいないのではと思ってしまう。

 教師らは携帯電話を使って色々と検索しているが、美鶴はいっそグループの方から派遣して貰おうかと思っていれば、集まった野次馬らを避けて真田がやってきた。

 

「美鶴、どうかしたのか?」

「明彦か。いや、留学生が急に泣きだしてな。喋っていたら突然泣き出したようで、何を話していたか生徒に聞いても何が理由で泣いたか分からないんだ」

「それなら本人に聞けばいいだろう」

「泣きながらロシア語で話されても私も含めてロシア語を理解出来る人間がいないんだ。それで先生たちも急ぎで来られる通訳を探そうかと話しているところだ」

 

 聞いて分かればとっくにやっている。ロシア語の会話入門を図書室から取ってこようかという意見も出たが、ああいった物はパターン化した会話例文しか載っていないので、こういった理由があって泣いたなど一歩踏み込んだ会話になると対応できないのだ。

 インターネットの翻訳サイトも同様で、短い文章ならばちゃんと訳せるが、長い上に砕けた表現の入る口語になってしまうと訳した際に支離滅裂な文章になる。

 それではまるで役に立たないので、先生たちもいま必死に呼べそうな通訳がいないか探しているところだと伝えれば、真田は不思議そうに首を傾げながら返した。

 

「何をそんなに悩んでいるのか知らんが、通訳して欲しいなら有里を呼べばいいだろ。美紀が言っていたがあいつ十ヶ国語以上話せるぞ」

 

 瞬間、周りの人間が一斉に振り返った。急に多数の人間が見てきたことで真田もビクリと肩を跳ねさせたが、言われてみれば万能ツールの様な生徒がうちにはいたと教師らも頷いている。

 そして、湊が本当にロシア語も話せるかは不明だが、現状頼れるのは一人しかいないと学年主任が職員室にいる教師に電話し、湊に二年生の廊下まで来てくれるよう校内放送をかけてもらう。

 たまに学校にいない事もあるが、今日は職員用の駐車場にバイクが置かれていたので確実に来ている。

 頼んだ放送が流れ、さらにしばらく待っていると、春だというのにまだマフラーを巻いている長身の青年がやってきた。

 非常に面倒くさそうな顔をしているが今は彼に頼るしかない。学年主任は彼に歩み寄るなり用件を伝えた。

 

「昼休み中に申し訳ない。実は頼みがあってタチヤーナさんから話を聞いて貰いたいんだ。私たちの中でロシア語が分かる人間がいなくてね。君が色々な言葉を話せると聞いたんだがロシア語も大丈夫かな?」

「……筆記はまだ中途半端ですが日常会話くらいなら」

 

 会話が出来るなら十分である。教師らが早速頼めば湊は教室に入ってターニャの元まで進み、顔を覆っていた手をどけた少女と会話を始めた。

 少女の方から早口で巻き舌気味な発音の単語がいくつも出るも、近くで聞いている美鶴らは一つとして理解出来ない。けれど、青年はちゃんと頷いて似たような発音でしっかり返しているので、上手く会話は成立しているようだ。

 会話を続けて行くうちにターニャは落ち着いた様子になり、湊がハンカチを渡すと席を立って教室を出て行った。

 彼女の向かう先にあるのは女子トイレ。中に入って少しすれば前髪が僅かに濡れた状態で出てきたので、顔を洗ってから湊に渡されたハンカチで拭いたようだ。

 戻ってきたターニャは廊下に出てきた湊の隣に並んで教師の傍までやってくると、申し訳なさそうな顔をしてペコリと頭を下げた。

 

「プラスチィーチェ……」

「彼女はなんて?」

「すみません、と泣いて騒がせてしまったことを謝罪したんですよ」

 

 単語ならば聞き取ることは出来たが意味までは分からない。ポケットに手を入れて面倒そうな顔をしながらも、湊がちゃんと通訳してくれて助かったと教師らは安堵の息を吐いた。

 そして、一体何が原因で泣いたのかと尋ねれば、先ほど理由を聞いていた湊が要約して説明してくれた。

 

「急に色々と質問されたり話されたりして混乱したらしいです。ちゃんと返したいけど中々言葉が出なくて、詰まっているうちに次々と来た事でパニックになり泣いてしまったと。一応、訊かれて他の人は悪くないですと伝えたつもりだったようですが、それが伝わってなくて余計に人が集まって、どうしたらいいか分からなかった事でさらに泣いたようですね」

『なるほど』

 

 言われてみれば納得と他の者が頷く。

 慣れない土地で皆から歓迎されるのは嬉しいが、それが過剰になってしまうと話は変わってくる。仲良くなる第一歩として互いを知るためとはいえ、一度に色々と聞かれても日本語が達者でないうちは返事に少々時間がいった。

 真面目な性格なようで全員にちゃんと返事をしたいのに言葉が出ず、まだ完璧には聞きとれない異国の言葉で次々に喋りかけられたターニャの頭は限界を迎え、どうすればいいのか分からず思わず泣いてしまったのだとか。

 それを聞いた教師らは彼女と一緒に昼食を摂っていた生徒らへ、話すときはゆっくり一人ずつ話してあげて欲しいと頼み、自分たちが困らせて泣かせてしまったと理解して彼女に謝った。

 これで事態は一応の解決は見せたが、咄嗟に対応出来る者がいない状況よりも、話せる相手がいた方が良いのだろうかと教師らはターニャを湊のクラスへ編入させるかを話し始める。

 美鶴もターニャ自身のためにそちらの方がいいのではと考えたが、教師らが話していたときまだ残っていた湊が、ターニャの顔をジッと見つめて口を開いた。

 

「ヴィ ズナーイシ ナターリア・イリーニチナ・メドヴェージェヴァ?」

「ヤ ズナーユ! 彼女はワタシのおばさんデス。知り合いでしたか?」

「ああ、一時期彼女のとこにいたんだ。似ているからもしかしてと思ったが本当に親戚だったとはな」

 

 ターニャの容姿はラナフで民間軍事会社を経営しているナタリアに似ていた。名字も同じだったことでもしやと訊いてみれば、ターニャは驚いた顔をした後にすごい偶然だと笑顔になった。

 相手が似ていたのは彼女の父親がナタリアの弟だから。カナダへ引っ越したのは母親の仕事の関係だが、ナタリアには可愛がって貰っていたので、ナタリアという共通の知り合いが結んだ奇妙な縁にターニャも嬉しそうである。

 途中から日本語で会話していたので二人の話は教師らにも聞こえており、湊が携帯で撮ったナタリアと一緒に写った写真を見せて話しているところへ、盛り上がっているところ申し訳ないと声をかけた。

 

「あー、有里君は彼女の御親戚を知っているのかな?」

「ええ、留学中にお世話になった女性が彼女のおばさんらしいです。彼女がここを留学先に決めたのはその人から勧められたのもあったようで、連絡は聞いていませんが遠回しに俺のところへ送ってきたみたいですね」

 

 湊の通っている学校を調べるのは簡単だった。本名は知っていたので、情報屋の五代の経営するカフェのある地域を基準に近くの学校を調べればいいだけである。

 もっといえば、最近は籠球皇子として有名になっていたので、名前で検索すれば画像と一緒にどこの学校に通っているのかも分かる。

 ナタリアはそういった点から学校を見つけ出し、以前から日本に行きたがっていた姪が留学先を探していると聞いて、ロシア語も普通に話せる湊のいる学校を勧めたのだった。

 そういうことなら、先に連絡をくれればいいのにとは思うが、問題がなければ湊に頼らず他の者と会話した方がいいので、ナタリアもギリギリまでターニャが自分でなんとかするように考えていたのだろう。

 あくまで留学したターニャのことを考えてであって、後々に湊に負担が掛かる事を一切考慮していないのが実に彼女らしいところである。

 ナタリアには後でちゃんとメールか電話で連絡を入れることに決め、ターニャと連絡先を交換しておいた湊は自分の教室へと帰ろうとする。

 しかし、学校側としてはここで彼に去られても困る。言葉が分かる上に共通の知り合いを持った仲だというのなら、やはり湊にこそ彼女を任せようと思った。

 

「有里君、ちょっと待ってくれ。実はタチヤーナさんを君のクラスへ編入させるべきかと話していて、言葉も分かるし知り合いを通じた縁があるなら世話係になってくれないだろうか?」

「……留学の意味わかってますか? 確かにそうすれば楽でしょうが、留学生とうちの生徒から異文化交流の機会を奪う事になるんですよ。互いに相手を理解しようと意思疎通の方法から探るのも立派な勉強です。出来る限りは自分たちでやらせるようにしてください」

 

 たまに真面目な事を言うからこの青年は扱いに困る。実際はやる気のないスタンスを取っているだけで、行動や仕事への責任は人一倍なのだが、どうしても見た目と普段の言動でギャップを感じてしまう。

 留学の意味を考えれば彼の言う通りであり、学校側としても今回の様なケースは距離感を掴めていないからこそ起きただけだとは分かっている。

 なので、結局はターニャに今のままでもいいかを尋ね、言葉の通じる湊と一緒の方がいいと答えればクラスを編入させることにするも、ターニャは今のクラスのままが良いと答えた。

 このままクラスが変わっていればしこりが残ったはずなので、彼女を泣かせてしまった生徒もお別れにならずに喜んだ。

 そうして、湊は自分の仕事はここまでだと教室へ帰ろうとする。後ろ姿を見送っていたターニャは来てくれてありがとうと礼を言って手を振った。

 

「バリショーエ スパシーバ ミナト!」

「ああ、困ったら連絡するといい。俺のクラスは四階の1-Eだから訪ねて来ても良いぞ」

「ダー! 了解しましたデス」

 

 可愛らしく敬礼で了解したと答えたターニャだが、湊はその敬礼が旧ソ連陸軍式である事に気付いていた。

 きっとナタリアが教えたのだろうが、まさか射撃や格闘術を仕込んではいないよなと不安を覚えずにはいられなかった。

 

放課後――生徒玄関

 

 留学生の相手をして精神的に少し疲れた湊は、まだ部活の仮入部期間にすらなっていないので、元部活メンバーにラビリスを足した面子で集まって帰ろうとしていた。

 もっとも、湊はバイクで来ているので駅までしか一緒になれないが、他に何台も持っているので本人的には置いて帰っても構わないと思っている。

 雨の日のことを考えて湊もラビリスも定期券を持っているため、電車に乗ったところで余分なお金は掛からない。

 それを知っているからこそ、バイトがないならどこかへ遊びに行こうかと話していたとき、生徒玄関についた湊たちを待ち構えている人物がいた。

 

「有里、放課後だ。そろそろ再戦と行こうじゃないか」

 

 現れたのは真田だった。今日は相手の部活も休みなので暇なのかもしれないが、以前、負ければ卒業まで試合に誘わないと約束して試合をしたはず。

 これでは立派な契約違反だと湊は溜め息混じりに返す。

 

「……卒業するまでもう言わないって約束だったはずですが」

「ああ、中等部を卒業したことで、ようやくリベンジマッチに臨めるという訳だ」

 

 再戦に燃えて獰猛な笑みで話す真田の話を聞いて、ラビリスを除く女子たちはなるほどと感心する。

 確かに湊は月光館学園を卒業するまでとは言っていない。それならば中等部時代に試合をしたので、範囲を中等部卒業と見なす事も出来る。

 まぁ、本人がとても嫌そうな顔をしているので、そんな屁理屈を言ったところで受けて貰えるとは思えないが、相手の実力を知らず中学時代の試合の事も知らないラビリスが、相手が体型的にボクサーだろうと当たりを付けつつ尋ねた。

 

「湊君、この人って強いん?」

「アマチュアにしては、という条件が付くがかなり強い方だな」

「へぇ、ボロ勝ちしてたから貶すと思ってたのに、有里君も真田先輩の実力は認めてたんだね」

「最初から認めてただろ。そうじゃなきゃ、わざわざ公式戦に影響のない日取で試合なんか組まないさ」

 

 湊が他人の実力を評価するのは珍しい。いつもいじって遊んでいたので、てっきり馬鹿にしていると思っていたゆかりは意外だと驚いた顔をした。

 もっとも、それはゆかりや他の者が勝手にそういったイメージを持っていただけで、湊は自分の基準だけでなく客観的な評価で冷静に相手を測る。

 能力を把握していれば仕事の分配など様々な点で役立つので、アナライズまで駆使した湊の能力分析はちょっとしたものだった。

 ただし、そういったものに興味のない真田は、ちゃんと話を聞けと湊に再び話しかけてきた。

 

「有里の中での評価などどうでもいい。お前の知っている以前の俺はとっくの昔に消えたからな。フォームから筋肉のバランスまで徹底的に研究して肉体改造に励んだ。おかげで試合では物足りなくなってしまったほどだぞ」

 

 言われてみれば確かに真田の体型は以前と少し変わっていた。全体的には線が細い印象を受けるが、肩幅が以前よりも広くなっているように見える。

 湊も名切りとして覚醒してから付け過ぎた筋肉の総量を減らして、より効率的に肉体を動かせるバランスに調整し直した。

 おかげで線は細くなったというのに、瞬発力や柔軟性は増したので、真田もそれと似たようなことを敗北後に行って来たらしい。

 アマチュアの高校生でそれらを行い成果を出したのは純粋にすごい。だが、だからと言ってすぐに湊にリベンジしようとするのは無謀である。

 今まで黙っていたチドリは、若干呆れを含みつつとても不思議そうにしながら口を開いて来た。

 

「……前から気になっていたのだけど、貴方って目でも悪いの?」

「いや、視力はどちらもAだぞ。何を持って目が悪いと思ったんだ?」

 

 彼は裸眼でもかなり遠くまで見える。遠近だけでなく動体視力も優れているので、チドリがどうして急に目が悪いか聞いて来た理由が分からないらしい。

 すると、そんな真田の様子で彼女は逆に納得がいったらしく小さく漏らす。

 

「なるほどね。問題は目じゃなくて頭というか知識の方みたいね」

 

 一見失礼な言い方だが、本人は別に真田のことを馬鹿と言っている訳ではない。

 しかし、まわりの人間は彼女が何の話をしているのか分からないので、相手が再び口を開くまで待った。

 少し考える様子を見せていたチドリは、顔をあげて真田を正面から見返すとある言葉について尋ねる。

 

「攻撃の予測軌道って見える?」

「予測軌道? それはこう構えていたらこんな攻撃が来るだろうってやつか?」

「ええ、構えてなくても存在はするんだけど、それも見えないんじゃ試合する意味はないわよ」

 

 言葉自体は知らなくとも意味はおおよそ理解できている。それを確認したチドリは移動しましょうと言って、真田にボクシング部の部室まで案内させた。

 

***

 

 リングやトレーニング器具の置かれた部室に到着すると、チドリは鞄から体操服のハーフパンツを取り出してスカートの下に穿いた。

 動いてスカートがめくれても下着が見えないようにという措置だが、今日は部活が休みで他に誰もおらず、男は湊と真田だけなので主に真田対策といったところだろうか。

 全員に荷物を置いておくように言って、何もないスペースに立ったチドリは先ほどの言葉について動きも含めて説明しはじめる。

 

「蹴りはないパターンでいくけど。例えば、左足を一歩前に踏み出した状態だと、強いパンチを右手で打つ可能性があるでしょ。体重移動に入っているから足は動かない。なら、腰と肩の位置で発射点は決まってくる」

 

 体重移動の最後に多少足がずれることはあるが、ちゃんと攻撃に体重を乗せようとすれば足は踏み込んで固定される。

 足が固定されれば射程は限定され、さらに攻撃の発射点となる腕と補助の役割を果たす腰の位置でより特定し易くなる。

 

「少し腰溜めならほぼ真っ直ぐしかこない。つまり、逸れるような軌道は除外できる。この時点で軌道は縦一列の範囲に絞られるわ。分かっているなら迎撃するでもいいし、躱してもいい。一般の選手はこれを経験則と勘でやってしまうけど、訓練すればもっと正確に予測軌道として見えてくるようになるのよ」

 

 中国拳法でよくみる腰溜めの拳は、殴る腕側の入りと反対側の引きの回転運動で拳を放つ。その際、余計な動きを入れると威力が逃げるので、足が前後に開かれている状態ならばほぼ正面にしか打たれない。

 腰と肩の位置を線で結び、そこから正面に真っ直ぐの軌道へ来ると分かれば、後は避けるのも反対に打ち込むことも可能になる。

 ほとんどの選手は、知識がなくともここに腕があればこんなパンチが来ると経験で知って、試合中はその範囲を警戒しながら戦っている。

 だが、それらは訓練する事により正確に目で捉えられるようになる。勘ならば外す事もあるけれど、目で見えていればほぼ外さない。

 

「そして、見えてくれば今度はこれを攻撃に転用できる。見えていなくて感覚でやってる相手なら、動きの中で予測軌道を出すだけで簡単に引っ掛かるわ。フェイントの動きをしなくてもフェイントになるし牽制にもなるのよ」

 

 勘でやっている者は、経験上の判断で動くので反射的に動いてしまう事が多い。頭で考えるよりも速く動ける利点があるが、反対に引っ掛かり動いてしまった事で相手に絶好のチャンスを与えることにもなり得る。

 勘で出来るのは予兆の感知、見える者がしているのは予測軌道の認識。この二つには大きな違いがあり、予測軌道を攻撃に転用できれば、自分の構えにフェイントという余計な動きを入れずに、相手に勘違いさせて隙を生み出すことが可能だった。

 

「本人の身体能力も関係してくるけど、完璧に予測軌道が見えれば理論上攻撃は受けなくなる。逆にこっちからは見えない拳を出し続けていけるのにね」

 

 フェイントを入れていないのに同じ効果を発揮する。相手にしてみればどれが本物か分からず、かといって反応せず本物だったなら大打撃を受けるので動くしかない。

 それらを説明し終えたチドリは、急に構えを取って真田をしっかりと見据え、一定のリズムで足捌きを見せながら接近する。

 流石にボクシングのチャンプだけあって真田もすぐに反応し構えるが、チドリが拳を用意しながら左足で大きく踏み込もうとした際、咄嗟に自分から見て右側に避ける動きをしてしまう。

 けれど、それは途中の動作でしかなく、チドリは足を踏み込むのと同時に左手の拳を放った。

 チドリの拳は回避に動いていた真田の腕に当たり、パンッ、と弾けるような音をさせて相手を後退させる。

 そこで実演は終了だとチドリは構えを解いて、これで分かっただろうと予測軌道の重要性について真田に伝えた。

 

「貴方が次の段階へ行くには予測軌道が見えるようになるのが最低条件。そうじゃなきゃ、あり得ない軌道にすら反応して、逆に見えづらいけど存在する位置から攻撃されるわよ」

 

 先ほどのチドリの攻撃は少し大きめに歩幅が取られていた。体重を乗せて拳を放つならば、必要以上に歩幅を開くと踏み込みが甘くなり威力が落ちる。その時点で体重を乗せられない右の可能性は排除され、踏み込みと同じ側の拳を突きだすというボクシングにはないタイプの攻撃という結論に至れるはずだった。

 けれど、真田は先ほどの話で左足で踏み込めば右のパンチが来ると言っていたことが頭に残っていたせいで、咄嗟に右が来ると判断してつい動いてしまった。

 攻撃を受けた後だからこそ、自分が存在しない攻撃に反応して、別の可能性を完全に排除してしまったと真田は理解出来た。

 彼は一部で脳筋のように思われているが、学業の成績は優秀でトレーニングにも科学的な理論を取り入れるなど、ただひたすらに鍛錬すれば良いと思っているような単純馬鹿ではない。

 故に、相手が後輩の女子であったとしても、自分の知らない次なるステージを示して来たことに素直に感謝し、まだまだ鍛える余地があることに嬉しそうに笑った。

 

「吉野、感謝するぞ。まずは関節の可動域について調べれば良さそうだな。以前の試合じゃフェイントの間と言えばいいのか、それが有里からまったく読めなかったんだ。理由がそこにあるとすれば学ぶ価値はある」

 

 やる気を漲らせた真田は拳を掌に打ちつけ、早速今から研究だと鏡に向かってゆっくりとシャドーを始める。

 きっと先ずは特定のフォームから繰り出せる攻撃のパターンを頭に叩きこむのだろう。それが終われば他の者に協力して貰いながら、個人ごとに少しずつ違っている攻撃の軌道をみて、徐々に正確さをあげて最終的に予測軌道を視認できるようにするに違いない。

 実際は既に予測軌道の視認を習得している格上の相手に鍛えて貰えば、才能のある者なら一ヶ月ほどで見えるようになってくる。

 少しでも見えれば徐々に分かってくるようになるので、真田の方法ははっきり言って遠回りになるのだが、習得が遅れればその分再戦の申し込みも遅くなる。

 チドリはそこまで考えた上で真田に伝えたのだが、ハーフパンツを脱いで鞄に仕舞った彼女は、他の者らに帰ろうと告げて部室を出て行きながら湊に話しかけた。

 

「これで期間が延長されたわよ」

「……まぁ、一応感謝しておこうか」

「ええ、今度デートで何か奢ってくれたらいいわ」

 

 チドリと一緒に出掛けるときは基本的に湊が支払っている。チドリも小物や本を買うときには自分で払っているが、食事代は全て湊が自分から払うと言って彼女に払わせないので、奢ってくれればいいというのは結局気にするなというのと同義だ。

 ただし、それは二人にとってはの話であり、デートという単語が聞こえたゆかりが目を細めて湊の背中に拳を一発入れ、他の者はその様子に思わず苦笑して帰っていった。

 

 

 

 


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