【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第百七十九話 面倒な来客

8月5日(火)

午後――埼玉県・テニス場

 

 インターハイ、それは部活動に励む全国の高校生たちが憧れる夢の舞台。

 今年のテニスは埼玉県で開催され、そう遠くないからと英恵も団体戦が終わり個人戦の始まる五日目からやってきていた。

 

「こういう場所の空気を感じるのは久しぶりだわ。菖蒲さんの応援で来ていただけだけど、皆楽しそうでやっぱりいいわね」

 

 日傘を差しながら歩く英恵は、斜め後方を歩くお傍御用の和邇(かじ)に話しかけながら楽しそうに会場を眺める。

 楽しいだけではなく、中には泣いて仲間に背中を摩られている者もいるが、全員が一生懸命でその姿が輝いて見えた。

 やはり、こういった人々の頑張る姿は美しい。そう感じた英恵は来てよかったと思いながら目的の青年の姿を探す。

 彼の試合が行われるコートは調べ済みで、既に屋敷の使用人たちがビデオカメラをセッティングしていつでも撮影できるようにしているはずだが、試合の前に彷徨いている青年に会えれば是非話したい。

 もしいるとすれば、きっとマスコミやファンなど人に囲まれていると思われるが、大会の運営や青年のファンクラブの者たちが周囲を警戒して、不用意に参加選手に近付かせないようにしているかもしれない。

 そのときは手を振って彼を呼べば来てくれると思われるため、英恵はどこにいるのかなと半分宝探しの様な気分で会場を進んでいた。

 

「あ、おばさまー!」

 

 すると、突然遠くから自分を呼ぶ声が聞こえて来て英恵は声の方を向く。

 一体誰だろうと声のした方を見てみれば、髪を結った茶髪の少女がスプリンター並みの速度で走ってきていた。

 走ってきた少女は息一つ乱さずに英恵の前に立つなり、挨拶をしながら喋り出す。

 

「おばさま、こんにちは。ここインターハイの会場ですけど八雲君を見に来たんですか?」

「こんにちは、七歌さん。八雲君というか有里君の試合を観に来たのよ。七歌さんは部活の応援かしら?」

 

 英恵の元にやってきた少女の名は九頭龍七歌。湊の父が彼女の父親の弟で彼女自身湊とは従姉弟であり、特級五爪の力に目覚めた湊が不在の間は九頭龍家の当主でもある。

 そんな彼女も部活でテニスをしているのだが、インターハイに出るとは聞いていなかったので、自分と同じように湊を見に来たのでもなければ試合の応援だろうと英恵は踏んだ。

 彼女の予想は見事に当たっていたようで、快活に笑ってサムズアップして見せながら問われた七歌は自分がここにいる理由を告げてくる。

 

「はい。三年生の先輩が一人出場してるんで応援に来たんですよ。八雲君も出場するってニュースでやってたんで丁度良かったです」

 

 七歌は湊が八雲だと再会した時点で気付いていたため、ニュースや雑誌などで有里湊の記事があれば八雲の近況が分かるとして目を通していた。

 最初はバスケットボールで活躍してすごいなと思っていたのに、今年になると彼の母と同じテニスで全国の舞台に立っているので、彼の身体能力とセンスには驚かされてばかりだ。

 しかし、彼の血筋を考えるとある意味当然だとも思ってしまう。彼はオリンピックのどの競技でもメダルを獲得出来るだけの恵まれた肉体を持っているのだから。

 ただし、理論上はそれだけのスペックを備えていようと、湊だって練習せずに何でも出来る訳ではない。

 他の者よりも習得が速い等違いはあれど、最終的には出来るように練習と努力が必要だった。

 遺伝子が違う、持って生まれた才能、そういって湊の活躍の理由を一言で片付けるのは簡単だ。けれど、それは湊の努力を一方的に否定する行為であり、己の努力が足りていないことを誤魔化しているに過ぎない。

 七歌自身はそのような愚かな考え方はしておらず、そもそも今年の大会には最初から出場していないので、先輩の応援がてら湊の試合が見られるので今回の応援のための遠征にはノリノリで参加していた。

 九頭龍の直系の中で唯一鬼を恐れず、反対に彼らの事を敬っている少女の眩しい笑顔に、英恵も自分と同じように湊の活躍を心から祈っていることを感じて嬉しく思う。

 並んで歩き会場を進みながら、英恵は先に会場にいた彼女なら湊を見ているのではないかと試しに尋ねてみた。

 

「ねえ、七歌さん。有里君がどこにいたか見ていないかしら?」

「八雲君ならさっき女の子らと一緒にいましたよ。赤い髪の子とか外人さんとか綺麗な子ばっかりでした。皆と付き合ってるんですかね?」

 

 いくらなんでもそんな馬鹿な話はない。世間的にはアウトだったり、恋人に自分が同居人とどんな風に暮らしているかは話していないが、湊だって一度に交際する相手は一人だけという常識くらいはある。

 周りからすれば綺麗どころに囲まれているので、もしかしてと邪推してしまう気持ちは分かるが、英恵は自分の息子が複数の女性とそのような爛れた関係を築いている事は絶対にないとどこか迫力のある微笑で断言した。

 

「七歌さん、八雲君はそんな事しない。いいわね?」

「い、イエス、マム」

 

 普段静かな人の方が怒ると怖い。英恵のように深窓の令嬢といった雰囲気の女性なら尚更で、七歌もこれ以上この話題を続けるのは危険だと察知しすぐに頷いて返した。

 少女の素直な反応に満足した英恵もすぐいつも通りの雰囲気に戻り、湊がチドリたちと一緒なら目立つので見つけるのも簡単だろうと使用人のネットワークを頼る事に決める。

 彼女自身も使用人たちの携帯番号を知っているが、会場内であれば桐条グループの警備部が使っている物と同じ特別製の無線機が使える。

 英恵がそんな物を勝手に持ち出して使用人に持たせている事など、娘の美鶴どころか夫でグループ総帥の桐条すら知らず、もし二人がその事を知れば英恵の八雲に掛ける情熱に頭を抱える事だろう。

 だが、桐条も桐条で娘の生まれた年に作られた超高級ワインを専用の鍵付きワインセラーに集めているので、子どもの事になると馬鹿になるのは夫婦揃ってであった。

 

「八尋さん、皆さんに連絡を取ってもらえるかしら」

「坊ちゃまがどこに居られるか、ですね。かしこまりました」

 

 使用人たちに連絡を取れと言われただけで、傍に控えていた和邇は意図を汲んで無線で他の者たちと情報のやり取りを始める。

 今回は以前の大会のとき以上に使用人が来ているため、湊たちのような目立つ容姿の者が固まっている集団はすぐに見つかるだろう。

 一を伝えるだけで十の事を理解し、迅速な対応を取ってくれる優れた従者には英恵もご満悦で、彼女からの報告を期待に胸を膨らませながら待っていれば、無線で話す和邇を見た七歌が興味を持ったようで、英恵に彼女についてたずねた。

 

「おばさまの専属SPさんですか? 綺麗な人ですね」

「彼女はSPではなくお傍御用を任せている使用人よ。勿論、そういった心得もあるけど」

 

 お傍御用というのは文字通り主の傍で様々な用件を解決する使用人の事で、屋敷の中全体で働く普通の使用人よりも、主の身の回りの世話をメインに担当する者の事をそう呼ぶ。

 契約上は普通の使用人でも専属従者のような立場であるため、お傍御用に任命される事を最高の名誉だと誇る者もいる。

 ただし、主の様々な命令を聞くために傍に控えている事もあり、もしものときは自分の身を盾にしてでも守らなければならない。そういった関係で和邇が格闘技等を修得していると聞けば、七歌も流石桐条家の使用人だと感心した様子で小さく拍手をして見せた。

 無線で連絡を取っている本人は何故自分が拍手されているか分からないだろうが、無線機を腰のケースに仕舞って戻ってきた事で、ついに居場所が分かったのかと英恵は報告を聞く。

 

「あの子は見つかった?」

「はい。第三コートの傍にある壁打ちの辺りにおられるそうです」

「そう。なら、向かいましょうか」

 

 居場所が分かったのなら移動してしまう前に合流しようと歩き出す。和邇は英恵の斜め後方に控え、七歌はついでだからと湊に会うために英恵と並んでゆく。

 このとき、湊の下を目指す英恵は七歌も一緒で大丈夫だろうかと僅かに不安を覚えていた。

 美鶴に自分が八雲である事がばれたり、美鶴が気付いたのならもういいだろうと英恵が会いに来たりと色々あるが、湊はまだ七歌を自分の従姉だと認めて他の者に話してはいない。

 そも、七歌は湊が自分は八雲ではなく有里湊だと紹介しても、最後まで八雲と呼んで去って行った女である。

 彼の現在の名前が全国規模で有名になっていても、会えば昔の調子で“八雲君”とまた呼んでしまうのではないか。

 その事を考えると不安しか湧かず、湊の素性がマスコミや周囲の者にばれる危険性を思えば、このまま少女を連れていくのはマズイかもしれない。

 青年のいる場所に到着するまでに、少女だけ別の場所に行ってもらう良い方法はないか。頭をフル回転させ考えながら英恵が歩いていると、英恵たちの耳に近くにいた男子のとある会話が届いた。

 

「なぁ、マジであの皇子が来てたぜ。バスケだけやってりゃいいのに、運動神経を自慢したいのか知らないけど、真面目にテニス一本でやってる方にしたらたまったもんじゃないよな」

「それな。ファンの応援で相手ビビらせて勝ってるって話も聞くし。試合で当たったらガチでいくわ」

 

 迷惑そうな表情の少年と悪戯っぽい笑みを浮かべた少年が、ベンチのところで靴紐を結び直しながら楽しそうに話している。

 聞こえてきた会話の内容から察するに二人も出場選手で、まだ試合ではないのか試合があっても勝利して今後の試合を残しているのだろう。

 テニス一本でやってきてここにいる者にすれば、バスケットボールで有名になった青年が高校からテニスに転向して出場し、確かに色々と複雑なものはあるはずだ。

 しかし、部活動に励む少年少女が目指す夢の舞台は、ただ運動神経がいいだけで出れるほど甘くはない。

 元々テニスをしていた青年が再びテニスをして悪いということもなし、彼自身の努力を最初から否定して卑怯な手段で勝ってきたと口にした者に怒りの双眸を向けた七歌は、英恵が引き止めるより先に少年らの方へと向かっていた。

 

「ねえ、有里君がファンを使って勝ってきたって誰に聞いたの?」

「え? いや、誰って別に。ただ同じ学校のやつが話してただけだけど……」

「つか、急になに? ファンか何かで皇子のこと悪く言ったから怒ってんの? そういう事ならゴメンね。こっちとしてはバスケやってたのが急に大会でてきて意味不明だからさ。ちょっと愚痴りたくなっただけなんだよ」

 

 急に七歌に話しかけられた少年たちは、驚きつつも愚痴が聞こえて気を悪くしたなら済まなかったと謝罪してくる。

 心から湊の事を悪く思っていた訳ではなく、中高生によくあるちょっとした不満について話していたようで、そういう事なら強く怒る必要もないかと七歌も肩の力を抜く。

 だが、同じスポーツをしている者として、これだけは言っておかねばならないと真剣な表情で彼女は口を開いた。

 

「別に彼のファンじゃないけどさ。貴方たちだって選手として出場してるなら、全国って舞台にくるだけでも大変なのは知ってるでしょ。関東ブロックなんて全国一の激戦区だし、ただ運動神経がいいだけじゃ勝てないのも分かるよね? 愚痴りたくなる気持ちは分かるけど、応援に来てる人もいるし。思った事そのまま口に出さない方がいいよ」

 

 少年たちのユニフォームに書かれた学校名をみれば、二人とも九州ブロックからの出場者だった。

 全国を目指す道のりに楽なものなどないが、湊が勝ち上がってきた関東大会は全国でもトップクラスの激戦区なのだ。

 余程他校の選手に興味がないでもなければ、その事を知らないはずがないので、皇子と持て囃される青年が運動神経の良さだけで勝ち上がってきた訳ではない事は理解出来るだろう。

 気まずそうな顔をした二人は七歌の忠告に素直に頷き、二人が分かってくれたならこれ以上は言うまいと、七歌も急に話しかけた事を謝罪してから英恵たちの元へと戻る。

 七歌が上級生らしき他校の男子に突っかかりに行ったのを恐々見ていた英恵は、七歌が無事に戻ってきた事に胸を撫で下ろし、それから直情的に行動する彼女のことを諌めた。

 

「七歌さん、あまり驚かせないで頂戴。出場する選手と問題を起こしたら貴女も困るでしょう?」

「八雲君のことを悪く言われてムカっときちゃって。ゴメンなさい」

 

 安堵の息を吐いてから七歌を注意した英恵に、七歌は青年のことを何も知らない相手が侮辱していたのが許せなかったと話し謝罪する。

 英恵としても彼らの言葉に思うものがなかった訳ではないが、だからと言って感情ですぐ行動に移るほど浅慮ではいられない。

 相手だってこの後に試合が控えているのだろうし、そういった者と問題を起こすと負けた理由に使われたりなど面倒が増えるのだ。

 今回は何もなかったから良かったものの、英恵はしっかりと反省しなさいと再度注意してから、傍に控えていた和邇に向き直って次に七歌が行動を起こそうとしたときのために一つお願いしておく事にした。

 

「八尋さん、私はあまり速く動けないから、次からは貴女が止めて頂戴。今も貴女なら止められたでしょう?」

「ええ、確かに。分かりました。今後は七歌様の行動に注意しておきます」

 

 その場の空気に溶け込みながらも、一度口を開けば明らかに一般人とは異なる雰囲気を発する彼女ならば、身体能力が高く武術と護身術を習っている少女を無力化する事も可能なはず。

 仕える主の命に頷いて返した彼女は、切れ長の目で七歌を見つめて視線だけで「勝手な事は控えてください」と早速釘を刺した。

 武術である程度の実力を持っていれば、相手の実力も分かる様になるというが、釘を刺された七歌は和邇の実力が測れなかった事で完全に格上だと認識する。

 こういった手合いは命令に忠実であるが故に容赦がないため、自分の身の安全を守るため七歌は迂闊な行動には出ないようにしようと心に決めた。

 そうして、その場を離れて英恵たちが再び歩いてしばらくすると、屋根の付いたベンチのところに赤毛の少女や外国人の少女など目立つ者の中に一人の青年を発見し、ようやく見つけたと英恵の歩も僅かに速くなる。

 ベンチまであと二十メートル、大勢の野次馬が湊を見に集まっている事に気付くが、試合を控える選手に接触する事はご遠慮くださいと大会運営や配備された警備がガードしているので、そのベンチのある一角だけは他に誰もいない安全圏となっていた。

 青年たちのいる場所へ近付きながら、これでは自分も会えないのではないかと英恵が心配していたとき、隣に立っていた少女が急に手を大きく振りながら駆け出し

 

「おーい、やっくもきゅ――――」

 

 たところで、音もなく近付いた女性が首筋に手刀を落として少女の意識を刈り取った。

 先ほどはちゃんと“有里君”と呼び変えていたのに、大勢の前で急に本名を口走ろうとした少女が悪い。

 そう思いながらも、自分が命じたことで従者が躊躇いなく意識を刈り取りに行った事に罪悪感を覚えた英恵は、自分とほとんど変わらぬ背丈の少女を軽々脇に抱えている女性に話しかけた。

 

「えっとぉ……もう少し穏便にお願いね」

「一刻を争うかと思いこのような手段となりました。申し訳ありません」

 

 首筋に強い衝撃を与えて意識を刈り取るのは、後々の事を考えるといいとは言えない。ただ、和邇ならば湊と同じように後遺症も残さずに実行に移す事が可能なはずなので、英恵もそれ以上は何も言わずに再び青年の下を目指す。

 残り十五メートルほどの距離にきた時点で気付いていた湊が視線を合わせてきたため、これならガードマンに止められる事もないだろうと英恵は安心した。

 他の者は後からついてくる和邇が意識を失った少女を抱えている事に驚いているようだが、事情を察したらしい湊とチドリは何も言わず、遠路はるばる応援にやってきた英恵をただ迎えた。

 

――古美術“眞宵堂”

 

 年中人の多いポロニアンモールの中でも、クラブやカラオケなど人気の施設が固まった一角に店を構える眞宵堂。

 夏休み期間中でモール自体の利用者数は普段よりも多いが、若者がわざわざ骨董品屋に足を運んだりする訳もなく、極稀に訪れる客の相手をしながら栗原は仕入れのために骨董市の開催情報などを見ていた。

 骨董市ははずれを引く事もあるが、顔なじみになった者が安く良い物を売ってくれることもあるので、そういった意味では通常の商談よりも信頼や友好度がものをいう世界だ。

 以前なら、審美眼とアナライズで世界最高の鑑定士となった湊の協力で選定も楽だったが、一躍有名になってしまった彼を連れていくと騒ぎになるので、最近では店をチドリや湊に任せて自分で仕入れに向かったりしている。

 こういった商売をしている事もあり、色々なものが見られる骨董市は眺めるだけで楽しいのだが、元々研究職についていた彼女はどちらかといえば出不精な性分であった。

 そんな彼女にはやはり自分の城でのんびりと過ごしている方が気楽なのだが、ほとんど人の訪れない店に突然の来客があった。

 

「いらっしゃ――――あんたか」

 

 突然の来客は薄茶色のスーツに黒のタートルネックを着た男、栗原からしてみればエルゴ研時代の元同僚である幾月修司であった。

 相手がこの店を尋ねてくるのは初めてではないが、それこそ開店したばかりの頃に開店祝いでやってきたくらいで、骨董品に特別興味がある訳でもない男の来訪は不自然だった。

 小さな笑みを浮かべながら入ってきた幾月は、店内に置かれた品を興味深そうに眺めながら栗原の元にやってくると、手土産と思われるお菓子の箱を渡しながら挨拶をしてくる。

 

「やあ、随分と久しぶりだね」

「ああ、確かに久しぶりだが今日は何の用だい?」

「ちょっとね。とりあえず、つまらない物だが手土産を持ってきたから後で食べてくれ」

 

 幾月の渡してくるものなど怪しくて受け取りたくないが、ここで突っぱねるのも不自然なため、受け取った箱を机の端に置いて栗原は言葉を返す。

 

「ご丁寧にどうも。で、話があるならそこの椅子に勝手に座りな。用がないなら壺の一つでも買って帰りな」

「じゃあ、椅子に座らせて貰おうかな。少し話があって来たからね」

 

 栗原が指でさした場所に置かれていたのは、どことなくエスニックな雰囲気の椅子。

 チドリのバイト中に美紀が店を訪れた際によく使っており、元々はレジ側に置かれていたが今では机を挟んで店側に置く様になっていた。

 客が買った商品の配送手続きのときに座って待ってもらう事もあるので、元は自分が店にいるときに子どもたちを座らせるのに置いていたが、湊がほとんどバイトに入らなくなった今では現在の位置の方が何かと都合がよかった。

 そんな椅子に座った幾月は、飲み物でも買ってくれば良かったかなと冗談を言うと、すぐに少し真面目な表情になって話し始める。

 

「エルゴ研が解体され新しくラボが発足されたと前に話したのは覚えているかい?」

「ガス管の破裂事故のときだったか。随分と昔の事だが、まぁ、覚えてるよ」

 

 それについて話したのは約八年前、湊とチドリがエルゴ研を脱走してすぐの事だ。

 湊が壊滅させ解体が決まったエルゴ研跡地で、死んだ元同僚たちに花を手向けに行ったところで幾月と再会し、今後の影時間の研究がどうなるかを話した程度だったが、湊を匿っていると勘付いた様子だった幾月のことも含めてよく覚えている。

 今にして思えばずっと匿っておく事など無理だったので、ばれて湊たちが桔梗組で暮らす様になってむしろ良かったとすら思える。

 母親であり姉の様な存在でもある桜が身寄りのない二人を可愛がり、鵜飼も会ったばかりの訳ありの子どもを守ってくれていたからこそ、二人は完全とはいかないまでも日常に戻ってくる事が出来た。

 湊が主体となってシャドウを狩る事で人々を守っているため、桔梗組の者たちは間接的に人々の平和を守ったことになる。

 勿論、そんな事を言っても本人たちは実際に守っているのは湊だというだろうが、彼が何も心配せずに戦っていられるのは、桔梗組がチドリの事をしっかりと守ってくれているからだ。

 飛騨から子どもたちを頼むと言われておきながら、ほとんど何も出来ずに彼らを見送るしかなかった栗原としては、被害者である子どもたちの今の姿を見ると時折当時のことが頭を過り、苦い記憶と共に結びついたラボの話はしっかりと覚えていた。

 随分と昔に話した事を栗原が覚えていると、幾月もどことなく嬉しそうな顔を見せ、ラボの現状についてを語る。

 

「ラボでは現在もシャドウや影時間についての研究を進めている。終わらせる方法はきっとあるはずだからね」

「その割には成果が出てるようには見えないね。無気力症も増えてるってテレビでやっていたし」

「ああ、年々増えている事は確認している。シャドウの活動が活発になっているのか、それとも影時間に迷い込む者が増えているのかは分からないが、数年前よりシャドウに襲われる人は増え事態が悪い方に進んでいるのは確かだ」

 

 湊たちは無気力症が起こる原因を知っている。心の暗部を見つめる力が弱まり、安易に死を求めたとき心からシャドウが抜け出て人は無気力症になる。

 しかし、桐条グループではまだそれを知らない。無気力症がシャドウと関係している事は分かっているが、シャドウに心を食われてそうなると思っているのだ。

 もっとも、どちらの考えに至ったとしても、シャドウが人々の敵である認識は変わらない。影時間に迷い込んでしまった者を襲わないという保証がない以上、迷い込んだ者の安全のためにシャドウは狩らねばならず、湊たちはさらに無気力症となった者を助けるためにもシャドウを狩るに過ぎない。

 栗原は湊たちから無気力症の事を聞いているが、無気力症に陥る者の数が急激に増加している事を把握しているため、桐条側に何か秘策でもあるのだろうかと話に耳を傾ける。

 すると、明確に現状を打破する方法は見つかっていない様子だった幾月は、顔を上げて真っ直ぐ栗原を見ると、熱意の籠った言葉でここに今日来た理由を告げた。

 

「単刀直入に言おう。君にグループに戻って来て欲しいんだ。現在ラボにいる面子での研究アプローチに限界が来ていて、僕たちは別の視点を持った人材を欲している。専門的な知識を持ちながらグループの研究についても既に理解している君のような人は貴重でね。グループだけでなく僕個人としても君の力を貸して欲しいんだ」

 

 彼が今日ここを訪れたのは、影時間の研究に置いてラボの人材不足が課題として上がったためであった。

 新たなアプローチの模索だけでなく、無の武器や宝玉など影時間に見つかったアイテムの解析もしなければならない。

 だが、人にはそれぞれ専門分野があり、現在のラボにいるメンバーではそういったアイテムの解析も十分には進んでいなかった。

 その点、栗原は元々考古学的見地からシャドウや影時間について研究していたため、一見ただの錆びた金属の塊にしか見えない物も、彼女ならばそれがどういった物として作られたか形状やサイズからでも予測が出来る。

 現在のグループに必要なのはそういった別方面のアプローチが可能な研究者であり、美鶴が研究員から栗原のことを聞いた後、元同僚だからと幾月がスカウト役を買って出たのだった。

 だが、いくら桐条グループが彼女の知識と能力を認めていようと、本人に協力する意思がなければ意味がない。

 相手がスカウトしに来た理由は理解したが、だからと言って一度は思想についていけず離れた身として、そう簡単に協力する気にはなれないと彼女は首を振った。

 

「私は既にグループを離れた身だ。今さら研究所に戻ろうとは思わないね」

「ああ、君がそういうとは思っていたよ。だが、君が知っている頃とは研究所も変わったんだ。試しに一度でいいから見学に来てもらえないだろうか。研究がどの程度進んでいるか興味はあるだろう?」

 

 研究所の場所も、そこで働く者たちも、栗原がいた当時とは全く違う。

 ポートアイランドインパクトから九年、その間ただ無駄に時間を過ごして来た訳ではなく、歩みは遅くとも少しずつ前に進んできたのだろう。

 相手の性格と影時間を消すために必死になっているグループの現状を考えれば、ここで断っても再び勧誘しに店まで押し掛けてくるに違いない。

 ならば、相手をある程度満足させつつ、自分の知らない彼らの九年間とラボとやらを見てこようと思った。

 

「はぁ、見学だけだよ。時間と場所を後で連絡してきな」

「ありがとう! 時間が決まり次第すぐに連絡するよ。ああ、迎えはちゃんと寄越すからね。()()()()えに集合しておいてくれたまえ」

「……冷房は十分だよ」

 

 真面目なのかふざけているのか、どちらにせよ湊とは違った意味で面倒な男なのは確かだ。

 くだらないダジャレに嘆息した栗原は、用事を終えて出て行こうとする幾月を呼び止め。帰る前に何か買って行けとよく分からない八千円の花瓶を一つ買っていかせたのだった。

 

――テニス場

 

 一回戦を勝ち進み二回戦に出た湊を大勢の人が応援する。チドリたちと合流した英恵も、日傘を差しながら湊の試合を見守っていた。

 対戦相手は湊と試合で当たればガチで行くと言っていた少年で、既に湊が第一セットを取り、現在は第二セットの四ゲーム目、三ゲーム目をブレイクし2-1でリードする湊のサービスゲームだった。

 外に逃げるスピンを打った湊が前に出ると、相手はネットプレーを避けるためにロブ気味のボールで深い位置を狙う。

 しかし、前に出ると見せかけて途中で止まっていた湊はそのままコートを横切る様に走り、中途半端な高さのボールを跳躍してからのバックボレーで簡単に決めた。

 高校生の中でも長身に入る湊は、その驚異的な跳躍力で生半可なロブは全て届いてしまう。それを躱そうと高くすれば、コートに落ちるまでの時間が出来てしまい。追い付いた湊に十分にボールを引き付けて打たれるので、相手選手はどうしても厳しいところに直球を打ち込むしかなかった。

 元々そういったシンプルなプレーが得意な選手ならばいいが、様々な球種で相手を振るような選手は相性最悪とばかりに追い詰められ、半分は狙い過ぎてアウトになる自滅で点を失っていた。

 見ている方としては湊の活躍は大いに結構だが、全国大会に出ても頭一つ抜けた実力を発揮する青年のプレーには舌を巻くしかない。

 

「今日の有里君の動きすごいキレッキレだね。調子いいのかな?」

「ああ、きっと右腕のせいやね。素の方が思い通りに動いて調子もええらしいわ」

 

 直前の遅いサーブが頭に残っている相手に今度はフラットの高速サーブを放ち、サービスエースでブレイク状態をキープする。

 そんな湊のいつにも増してキレのいい動きに、ゆかりが調子が良いのだろうかと疑問を持てば、先日完成した生体義手のおかげだろうとラビリスがつい口を滑らす。

 直接的な単語は口にしなかったが、ラビリスの言葉を聞けばほとんどの者は彼が怪我をしていたと認識するだろう。

 

「え、有里君って何か怪我してたの? 大丈夫かなぁ」

 

 案の定、風花が心配そうな顔をしてしまい。口を滑らせたラビリスは自分の失態にばつが悪そうにする。

 こういった状況で機転が聞かないのはやはり人生経験の差か。彼女と同じく湊が右腕を試作品ながら実用可能なレベルの生体義手に替えたと聞いていたチドリが呆れ気味にフォローを入れた。

 

「……留学中に大怪我したって言ったでしょ。その後遺症みたいなもんよ。最近になって治療できるようになったから治療して、今はもう前とほぼ同じように動くから心配しなくていいわ」

 

 先日完成した試作品の生体義手は、覚醒後も実戦で使い続けてきた左腕には劣るが、これまでの戦闘用義手より遥かに優れた耐久性を誇っている。

 実際に湊の細胞を培養して作ったのだから当然ではあるが、怪我をすれば血が出るし脈だって測れる。骨が人工物である事を除けば本物の腕と変わらないのだから、開発に成功し実用試験に移っている湊たちは義肢開発において間違いなく世界トップの技術を持っていた。

 もっとも、ラビリスやアイギスのように全身を作るのと違い。上腕までは元の腕がある湊は神経接続部がそのままとなっており、元の腕と生体義手に継ぎ目がある状態ではある。

 その部分に目を瞑れば擬装用スキンを付ける必要もなく、壊れることを恐れてパワーをセーブする必要もないので、右腕に気を遣う必要がなくなった湊の動きが良くなるのも当然だと頷けた。

 チドリから湊の怪我が既に治療済みだと聞いた他の者も安心し、相手を圧倒するプレーに再び目を向ければ、今まで少女らの会話を聞いていた英恵が青年の今の状態を知っているチドリやラビリスに一つ尋ねた。

 

「あの子、自分がこっちで何をしているか教えてくれないのだけど、ちゃんと自分の腕として使えるようになったって事でいいのかしら?」

「ええ、正真正銘、生身の湊の腕よ。筋肉の量とかは流石に鍛えて合わせないといけないけど、ちゃんと血も通ってるわ」

「そう。それは良かったわ」

 

 青年自身は右腕の喪失を自分の馬鹿で支払った授業料として納得していた。そして、EP社とシャロンが合同で作った三連装アルビオレ改はアイギスとお揃いだと喜んでいた。

 けれど、黒い腕輪のように見える神経接続部はともかく、そこから先の白い装甲が剥き出しになった機械義手は、彼を大切に思っている者からすれば痛々しく映った。

 普段は擬装用スキンや若藻の能力でカモフラージュしていたが、やはり血の通わない腕を持つ事で精神にも何かの影響があるのではと不安になり、いつも彼の事を心配していた。

 それがどういう訳か生身の腕を再び手に入れ、おかげで湊自身も今まで以上に快適そうに動き回っている。

 やはり気にしていないと言っていても、本当の腕ではない事で色々と不便や不都合を感じていたのは間違いなく、それらが解消されて良かったと英恵は胸を撫で下ろした。

 湊の右腕が義手であると知っていたゆかりも、チドリたちの会話で去年のクリスマスに話していた研究途中だった生体パーツの腕が完成したんだと勘付き、それはとてもおめでたいと明るい顔になる。

 青年の活躍を見るために応援に駆け付けていたが、それ以上の朗報を聞いた英恵たちは勝負を決めに行く湊を一生懸命応援し、彼が勝ち進むのを見守った。

 

 

 


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