【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第百八十四話 全日本選手権

11月11日(火)

午前――大会会場

 

 全日本テニス選手権。それは国内だけでなく海外でも活躍する日本のテニスプレイヤーたちが、己の全てを出し合い日本一を目指す栄誉ある大会である。

 インターハイ優勝のワイルドカードで参加が決まっていた湊は、大会二日目から始まった男子シングルスに出場し、国内ランキング四十位のプロを下して無事に二回戦へと駒を進めていた。

 話題の皇子が出場すると聞いてマスコミも大勢集まっているが、今日集まった観客とマスコミの数は昨日の比ではない。

 その理由は湊の二回戦の相手が、大会四連覇をかけた国内ランキング一位であり世界ランキング十三位という、まさに本大会優勝の大本命である第一シードの春日井譲治というプロだったからだ。

 あるテレビ局が会場に来ていた客にアンケートを取ると、七割の人間が春日井の勝ちと予想した。

 その中には湊のファンも当然混じっているが、流星のように現れ破竹の勢いでここまで来た湊に対し、相手はずっと日本のトップとして世界で戦ってきた猛者。経験値と安定性に置いて他の追随を許さぬ男に、いくらインターハイの決勝とはいえ弱点を突かれ一時劣勢になっていた子どもが勝てるほどテニスは甘くない。

 本日は平日だが事前に応援に行くと学校に許可を取っていた事で、会場には部活メンバーだけでなく美鶴や真田も来ている。

 そして、その傍には桜と英恵も来ており、これまでとは格の違う相手との試合の前に応援に来ている英恵たちの方が緊張していた。

 

「も、もうすぐ始まりますね。本当にすごい人でこんなところで試合だなんて、わたしなら緊張で倒れちゃいます」

「私もこんなに大勢の人が来ているのを見るのは二度目です。あの子の母親も二回戦で国内ランキング一位の方とあたってしまったんですが、最終セットまでもつれ込んで負けてしまったんです」

 

 国際戦の経験もない高校生プレイヤーが、日本のトップを相手に最終セットまでもつれ込むとは大したものである。

 ただ、その息子が同じように二回戦で日本のトップと当たってしまったので、英恵たちはどうしても嫌な予感がして落ち着かなかった。

 英恵たちがそんな風に話す傍ら、知り合いが試合に出るからと妹に連れられて来た真田は、種目は違えど大会の空気はやはり独特の物があるなと少しワクワクしながら試合の開始を待っていた。

 

「美鶴はテニスに詳しいのか?」

「別荘でやった事もあるからルールくらいは分かる。ただ、解説は期待してくれるな。インターハイの試合ですら有里が攻撃的なプレーで押し勝ったくらいしか説明できなかったんだ」

 

 インターハイも決してレベルが低い訳ではない。過去には高校生で全日本選手権を制した者もいるのだから、豊作の年ならばプロと遜色ない内容のときもある。

 だが、やはり平均で見ればプロや社会人の出る全日本選手権には到底及ばないのは、昨日の一回戦を見ただけで美鶴にも理解出来た。

 今日はさらに日本のトップが出てくるのだから、身体能力ではけっして劣っていない湊との対決という事もあって、美鶴は最初から解説役にはなれないと断言した。

 

「あ、有里君と相手の選手が来ました!」

「相手の選手も結構大きいね」

「一七九センチだってさ。有里君の方が少し大きいけど有利ってほどの差じゃないよね」

 

 ヘアバンドを巻いたスポーツ刈りの選手と一緒に湊がやってきた。相手は既に臨戦態勢という雰囲気で目がギラギラしており、そんな男の後ろをアンニュイな表情で歩いている湊とのギャップが激しい。

 周囲の観客はコート入りする二人の名前呼んで応援しているが、試合前の二人は答えずにベンチに荷物を置いている。

 緊張とは無縁の相手だけに不調の心配はしていないが、一応朝の時点ではどんな様子だったか気になったチドリはラビリスに尋ねた。

 

「朝、湊は試合について何か言ってた?」

「んー、長引いたら面倒とはいうてはったけど、他は二回戦で国内ランクトップと対戦とかお母さんと同じやって苦笑してたくらいかなぁ」

 

 勝ち進めば国内ランク一位とあたることもあるだろうが、母親と同じように二回戦であたるのはちょっとした運命の悪戯を感じてしまう。

 青年はそういった出来過ぎた冗談のような展開も嫌いではないので、彼をよく知るチドリも話を聞けばどんな顔をして言ったのかは想像がついた。

 準備を終えたコートの二人は春日井がサーブを選択し湊がコートを選んでいる。練習の打ち合いを見る限りではどちらもいい音をさせているが、素人では余程の悪球を打たない限りラリーの様子から相手のコンディションまで察する事は出来ない。

 故に、試合が始まってみなければ判断はつかないが、一同が見守る中、練習を終えて試合開始の第一球が放たれた。

 春日井の初球は鋭角気味の直球。どちらかといえば守備を意識した粘りのテニスをする男だが、ここぞというチャンスを決めに行くパワーにも自信のある選手だけに、自分が試合をコントロールし易いサービスゲームでは強気で行くようだ。

 本大会はコートの端に速度計が置かれており、そこに表示されていたのは“209km/h”という数字。湊が安定して打つサーブとほとんど大差ない中々の速度だが、反応できるよう下がり気味で構えていた湊は、余裕のある動きで前に出ると右手のフォアハンドでしっかりと打ち返した。

 だが、

 

『……え?』

 

 試合を見ていた者たちは湊の打球を見て呆気にとられる。それはコートにいる審判や春日井も同様で、完璧に捉えたと思われた湊のレシーブはコートを大きくオーバーし観客席に飛んでいた。

 力んでしまったのか、それとも手が滑ったのか。理由は本人しか分からないが湊にしては珍しいミスなのは確かだ。

 

「いきなりのミスは立ち上がりが心配になるね」

「うん。でも、今度はちゃんと返せたね」

 

 湊でもやはり大きな大会だといつもの調子を発揮出来ないのだろうか。見ていたゆかりがそう心配すれば、今度のレシーブはちゃんと良いコースに返ったと風花が安心した顔をする。

 お互いに相手を左右に振る深めのラリーが続き、連続で同じサイドに来ると相手の打球を読んだ湊が先に動いてショートクロスのドライブボレーで点を奪い取る。

 読み合いになったときの動き出しは完全に湊が勝っていたため、これで相手も迂闊に単調なラリーに持ち込む事は出来なくなった。打ちあうのなら相手の打点や体勢を崩す様にスピンやスライスも混ぜていかなければならない。

 ただ、それは同時に自分もやり返されて崩れるリスクがあるので、ここからは深い位置のラリーよりもショート狙いやネットプレーが混じって行くはずだった。

 

「……あ、またミスした」

 

 もっと高度な駆け引きの試合展開が始まると観客が期待した目の前で、またしても湊があらぬ方向にレシーブを飛ばしてしまった。

 一回なら偶然だが二回ならば必然だ。何があったのかチドリは目を凝らして湊をよく見る。

 

「……本人もなんか分かってないみたいね」

 

 調子を確かめるように素振りし直している湊を見ていれば、本人も少し不思議そうに首を傾げており、どうやらミスした理由を理解していないらしい。

 ラケットは前から使っている物で、シューズとユニフォームも一般の大会でも身に付けていた馴染みの物だ。いつも使っている道具なので問題はないと思われるが、ならば相手のサーブが特殊な変化球なのかというとそうでもない。

 どちらも違うとなると湊自身の問題になってくるが、彼を知る者にすればそれが一番あり得ないだろうと思えた。

 そして、本人と観客、どちらも不調の理由がよく分からないまま試合は続いていった。

 

***

 

 今回の試合は過去の試合と同じく二セット先取の三セットゲーム。

 湊の謎の不調という心配要素を抱えたまま進んだ試合は、当初誰も予想していなかった湊の自滅による大差がついていた。

 第一セットは6-4で春日井が取り、現在は第二セットで4-1と春日井がまたもリードしている。選手二人は九〇秒の休憩時間でベンチに座っているが、湊は誰が見ても憔悴していると分かるほど大量の汗を掻いて肩で息をしながらタオルを頭から被っていた。

 日本トップを守り続けているだけあって春日井は強い。安定したストロークとここぞというときにリスクを恐れないショットで決めてくる。

 そんな相手に湊も苦戦を強いられるとは思っていたが、いくらなんでも今日の湊はミスショットが多過ぎた。それでもサービスゲームをキープしたり、必死に食らいついて点を取ったりもしているが、不調の状態でそんな事をすれば余計に体力を消耗する。

 誰が見ても分かる湊の消耗はその結果であり、ここまで湊が弱っている姿を見た事のないゆかりたちは激しく困惑していた。

 

「ねえ、今日の有里君どうしたの? なんか全然集中できていないっていうか、いつ倒れてもおかしくなさそうなんだけど」

 

 休憩時間が終わって湊がボールを持ってコートに戻っている。遠くからでも目が虚ろなのが分かるくらい疲労の色が濃く出ており、ドクターストップをかけるべきではとゆかりが思うのも無理はない。

 上げたトスが流れてサーブの体勢が崩れたが、苦しそうな顔で湊はなんとかそれを打って相手コートに入れる。崩れた体勢で打った事で予想外の回転が掛かったボールを相手は打ち損じラッキーに救われ最初のポイントを取る事が出来た。

 だが、次に同じようなサーブが来ても相手はラケットを振り抜いて強打で返してくるだろう。先ほどのサーブは一七〇キロしか出ていない。湊の本日の最速サーブが二一五キロであり、インターハイ決勝で二三七キロを出した事を思えば遅すぎるのだ。

 続けて打ったサーブはコート端から打って角度を何とか付けた一八六キロの直球。これまでに比べればマシだが、相手は落ち着いて正面のダウンザラインに打ち込み、辛そうな表情で追い付いた湊がそれを必死に返している。

 目はまだ完全には死んでおらず、点も一応取れているので周囲も判断が難しいだろうが、チドリや桜も裏の仕事や戦闘以外で湊のこんな様子は初めて見るので、他の者同様その顔には困惑の色が浮かぶ。

 

「……疲労とか関係なく身体が思うように動かないみたいだけど、どうしてそうなってるのか分からないわね」

「あんなに出たがってた大会なのに、このままじゃみーくんも納得できない結果に終わっちゃう」

 

 残っている体力を絞り出す様に瞬間的に優れた動きを見せ、湊は自分のサービスゲームはなんとかキープする事が出来た。

 しかし、相手のサーブに移るとまたしても上手く返せないでいる。ミスした次のポイントでは動きがマシになり取り返したりもしているが、基本的には相手がリードして連続でポイントを取る事もあった。

 そして、相手がゲームを取った事でカウントは5-2に変わる。泣いても笑ってもこのゲームを取られれば湊の敗北だ。

 試合が始まって一時間以上経過しており、既に九〇秒休んだ程度で回復できない状態にある。これまでは何とか打球に喰らいついて点を取っていたが、青年に限界が来ている事は誰の目から見ても明らかだった。

 

「もしかして、あの子……」

 

 そして、同じように試合を見ていた英恵も湊の限界を感じ取るが、ずっと考えていた彼女は湊の不調の理由についてある一つの予想を立てた。

 もしこの予想が当たっていれば、どこまで不器用な子なのかと思ってしまう。ただ、それと同時に本人には何よりも大切な事なのだろうと納得できる気もした。

 

***

 

 試合が始まってからずっと不調を感じていた湊は、自分の思い通りにまるで動いてくれない手足を必死に動かしながら戦っていた。

 全身を針金で縛りつけられているような違和感。視界もほとんどぼやけ、はっきりと見えているのはボールくらいだ。

 

「……はぁ、はぁ」

 

 こんな無様な試合を見せられて相手も観客も呆れているに違いない。

 応援に来てくれた者たちのために勝たなければと思う反面、負けて自分と同じだと母が喜んでくれるのではと考えてしまう。

 もう会えない故人を喜ばせるべきか、今傍にいる者たちの期待に応えるべきか。どっちが正しいか分からない湊の勢いのないサーブを返され連続でポイントを奪われる。

 残り二ポイントで試合は終了。負けるのは悔しい気もするが、自分が本当に何をしに来たか分からなくなった湊は、次のサーブのために移動した場所で意識が遠のき静かに目を閉じかけた。

 

「――――勝ちなさい!!」

 

 瞬間、観客席から聞こえてきた声で湊はハッとして目を開く。

 一体何だと声の方へと視線を向ければ、身体が弱くいつも優しい英恵が厳しい顔をして立っていた。

 珍しい事もある物だ。そんな事を呑気に考えていられる余裕などないが、疲労困憊で虚ろになった湊の瞳が自分を捉えていると気付いた英恵は、厳しい表情から一転してフッと優しく微笑み言葉を伝えてきた。

 

「――――大丈夫、勝った方が絶対に喜ぶから」

 

 誰が、とは彼女は言わない。ただ湊の欲しかった答えがそこには詰まっていた。

 審判がプレーが始まる直前は静かにお願いしますとアナウンスをすれば、英恵は謝罪の一礼をして席に座る。普段は大人しい彼女の意外な一面に周りの者も驚いている。

 それが見えた湊は先ほどよりも視界が拡がり手足が動く様になっている事に気付く。考えれば簡単な事だった。色々と悩み過ぎて心と体がばらばらに動いてしまっていたのだろう。

 完全に復調したとは言えないが手足が動いてコートが見える。英恵の言葉を信じるなら、自分はなんとしてでも勝たなければならないと、湊は苦しそうな表情のままボールを高くトスした。

 

「っ!!」

 

 自分を縛りつけていた物を力任せに引き千切る様に、湊はラケットを思いきって振り抜く。

 

「ふぉ、フォルト!」

 

 これまでとは比べ物にならない速度と勢いに審判も驚く。惜しくもフォルトだったが速度計には二三六キロと表示されていた。

 死に体だった青年の瞳に力が戻り、思いの籠った打球が飛んできた。それだけで相手は警戒レベルを一つ上げたようだが、今の湊にそんな事を気にしていられる余裕はない。

 ファーストが外れたならセカンドを、これで落とせば本当に後がなくなるというのに、湊はラケットとボール、そして相手のサービスコートだけを見てさらに強くラケットを振るう。

 

「……はぁっ!」

 

 気合一閃、打たれたサーブは一筋の線となりコートに突き刺さる。反応しようと思っていた春日井は一歩も動けず、すぐに速度計を確認した。

 

「ふぃ、15-30!」

 

 審判のカウントが響く中、打った本人以外の視線が速度計に注がれる。崖っぷち一歩手前のセカンドサーブは過去最速の二四二キロ。日本のプロでもこれほどのサーブを入れられる者はなかなかいない。

 サーブというのは筋力があるだけでは駄目なのだ。本当に必要なのは腕をしならすような柔軟性と力を伝える強靭なバネ。これに関しては後天的に鍛えるのにも限界があり、この域の高速サーブを打てるというのは持って生まれた才能と言える。

 だが、これはまだ限界ではないのではという考えが見ている者の頭を過った。

 まだ目の慣れていない速球で来られては返しようがない春日井は後ろに下がり構える。深い位置ならば守る範囲も広くなってしまうが、跳ねて勢いの弱まったボールの方がまだ返せる可能性があるためこれは一般的な対処法だ。

 

「ぐ……ハッ!」

 

 が、そんな相手の事などまるで頭から消えている青年は、未だ苦しそうにしながらも、先ほどより腰を落としてから全身のバネを使ってラケットを振りに行く。

 ただ棒立ちで打つよりも腰を一旦落として力を溜めた方が強い打球が打てる。そんな事は見ている全員が知っていたが、相手コートで跳ねたボールは必死に取りにいった春日井のラケットのフレームを掠って壁際まで飛んだ。その速度、二四九キロ。

 

「30-30!」

 

 まだ速くなるサーブに観客たちも沸き出す。野球の硬球に比べれば全然マシだが、テニスボールだってあの速度で当たれば骨折もあり得る。だというのに、対峙している春日井もどこか楽しそうで、絶対に返してやるぞと挑戦する少年のような笑みを口元に浮かべている。

 湊が打ったサーブは全て直球。そも、その速度でスピンやスライス等の変化球が打てる訳もないのだが、直球しかないと分かっていれば純粋に反応できるかどうかの問題だ。ボレーのようにラケットの面を置いておくだけでいい。あれだけの勢いならばそれで十分に返る。

 国内トップの男がそんな風に湊を待っていれば、自分を縛りつけていた枷が外れ解き放たれた青年は、今までよりも高くトスをあげてサーブを放った。

 

「レット!」

 

 最速更新、二五五キロ。しかし、惜しくもネットに触れてコートに入ったためファーストサーブからやり直しである。

 入ったように見えた観客からは『あー……』と残念そうな声が聞こえるも、ファーストもセカンドも関係なく速度をあげ続ける青年の事だ。きっと次はもっと速い球で来るだろうと一球多く打つことにも不思議な期待が寄せられていた。

 

「ハッ!」

「40-30!」

 

 二五八キロで正面から飛んでくる打球に春日井も思わず飛び退く。返すとか返さないの問題ではない。死に体だった青年の姿が頭に残る目も慣れていない状態で、こんなものが正面から飛んでくれば返せる訳がない。

 かつてテニスではビッグサーバーが覇権を握っていた時代があった。あるビッグサーバー同士の試合では、お互いにサーブを打ち合うだけで点数が入り、ダブルフォルトで勝敗が決するようなものもあった。

 そこには技術も何もない。道具やサーブの進化に他のプレーの進化が追い付けていなかったことで、そのような大味な試合ばかりが展開し、サーブしか得点力のない者でもプロとしてやっていけたのだ。

 だが、そんな時代も長くは続かなかった。速いだけのサーブなどいずれ慣れる。それをしっかりと返してやれば、サーブしかしてこなかった者は己の武器を失い簡単に負けた。

 いまはパワーと技術のどちらが欠けても世界に通用しない。いくらパワーがあっても単調では技術で封じられ、技術しかなければ披露する前にパワーに翻弄される。

 どちらが得意だろうともう片方を疎かに出来ないのが近代テニスだ。しかし、そんな時代にもしサーブだけで勝てる者がいるとすれば、それはかつての時代とは異なり新しい武器を手にしたと言える。

 

「……ラァッ!!」

 

 放たれたサーブは惜しくも外れフォルトとなる。だが、速度は二五九キロとまだ上がる。

 あとたったの一キロ、一般の選手が一キロ上げるのにどれだけの苦労が必要かなど観客には関係ない。

 

『いっけー!!』

 

 青年を応援するためにきた者たちも彼の復活を感じ取り、越えて見せろと声援を飛ばす。

 しっかりと聞こえていた青年は、完全に自由となった手をしっかりと動かし高いトスを上げ、全身のバネを駆使しながら溜めた力を一気に解放するようにラケットを振り抜いた。

 

「ハァァッ!!」

 

 高く高く上げられたトス、安定した姿勢とラケットの軌道、それらを見た者はラケットとボールが触れる前に直感で理解する。このサーブは完璧だと。

 観客も審判も春日井も、この場にいる全員が一つの意識を共有したとき、彼らの思っていた通りにボールはコートに突き刺さり、後ろへ抜けていく際に反射的に振っていた春日井のラケットを弾き飛ばしていく。

 二六二キロ、それがたったいま打たれたサーブの速度。

 呆然とする男の手から離れたラケットがカランカランと軽い音をさせれば、それが止むのが合図だったように客席が爆発した。

 

「す、すげー! 二六二キロだってよ! 高校生が世界記録だしたぞ!」

「皇子ー! そのままいっちゃえー!」

 

 ゲームで言えば未だに首の皮一枚で繋がっている状態でしかない。だが、二〇〇八年時点で世界最速の二六二キロのサーブを決めた事で、全員が湊の完全復活を確信した。

 不調の原因は何かなど知るまい。それでも、復活したからにはただでは終わらないのが彼だ。ラケットを飛ばされた春日井も今のは笑うしかないと拍手をしており、落としたラケットを拾うとゲームは取られたが試合には負けないぞと闘志の宿った視線を送った。

 

***

 

 青年の完全復活から試合の内容は激変した。以前の動きが戻ってきた湊が、母のテニスと自分のテニスを融合させ、瞬間火力の非常に高い技術のテニスで挑み始めたのだ。

 元々どちらの手でもフォアハンドの打てる湊は守備が得意であった。そこに攻撃向きの自分のテニスを融合させれば、どちらも譲らないストローク戦に激しい技と力の応酬が混じる事になる。

 外に逃げる深いストロークで湊を振った春日井は、返ってきたボールを絶妙なドロップショットでネット際に落とす。

 当然誰も届かない思うところだが、走ってきた湊は届かないと分かるや否や、ヘッドダイブの要領で跳んでラケットの先で拾い上げた。

 コートに倒れながらでも返したボールは力のないロブとして相手のコート中頃まで飛ぶ。けれど、そこには春日井が待っており、しっかりと余裕のある構えで渾身のスマッシュを打った。

 

「っ……らあ!!」

 

 抜ける、そう思ったスマッシュも起き上がった湊は諦めずに取りに行った。バウンドする前に触れれば返せる。逆にバウンドを待てばきっと届かない。

 だから、湊はボールの軌道に割り込むように再度跳んで、ボレーで相手の着地地点を狙って強引にポイントを奪い取った。

 いつもの彼にはない必死さ。コートの上を転がり服や顔を汚している彼など皆初めて見るだろうが、そうしなければ勝てないほどの差が二人にはあった。

 しかし、負けそうな場面でも復活を果たし、まだまだ諦めていない青年を必死だと馬鹿にする者などこの場にはいなかった。

 

「お母様、先ほどの言葉はどういう意味ですか? どうしてあれで有里の調子が戻ったのか分からないのですが」

 

 そして、ようやく彼が調子を戻したことで安心していた美鶴たちは、切っ掛けは間違いなく英恵の言葉だろうと考え、彼女にその言葉の意味を尋ねた。

 勝った方が喜ぶのは当然だ。別に誰かを人質に取られて負ける様に言われている訳でも無し、言葉としては意味を理解出来るが、何故それが湊を復活させるほどの効果があったのか。美鶴たちが気になっているのはその点についてだった。

 

「……自分では薄々気付いてたようだけど、あの子は自分が勝っていいか分からなかったのよ」

「それは高校生が国内ランクトップを負かすという意味ですか?」

「いいえ。あの子が気にしていたのは母親である菖蒲さんの評価。勝てば喜ぶのが普通だけど、負けたら負けたで全日本選手権二回戦でランクトップに負けたっていうお母さんと同じ結果になるのよ」

 

 親ならばどちらにせよ喜んで褒めてくれる。しかし、負けて自分と同じ結果になるよりも、勝って越えてくれる方が喜ばれるのが当然だ。

 常識で考えて悩むまでもないと思った真田は、率直にそんな物は悩む必要もないでしょうと聞いてみた。

 

「いや、いくら同じ結果だろうと勝った方が喜ぶでしょう」

「あの子はその判断が出来なかったの。まぁ、それは自分の真似をさせる形で褒めてテニスを教えていた事も関係しているのだけど」

 

 遊びながらテニスを教えていた菖蒲は、湊が自分と同じ事が出来るたびに上手だねと褒めていた。それもあって、湊は母が自分と同じことを喜ぶという情報が頭に入っており、今回の不調の一因はそこにあると英恵は言った。

 しかし、話を聞いていた者たちは意味が分からないと納得のいかない様子で、英恵も自分もそうだと苦笑しながら皆が分からないのは当然だと説明を付け加えた。

 

「ふふっ、よく分からないでしょ。大丈夫、それが普通よ。ただ、あの子はそういうのを知らないの。こうした方がご両親が喜んでくれるっていう想像より、こうしたときに喜んでくれたっていう記憶に基づく情報の方が上位にくるのよ」

 

 負けていた湊が復活した勢いのままゲームを連取し、そのまま第二セットを勝ち取った。

 勝敗は最終セットにもつれ込むと周囲が騒ぐ中、誰もが当然のように考えられる事も知らない息子に僅かな憐れみを覚え、事故により人生だけでなく彼個人すらも歪めてしまった事を英恵は申し訳なく思う。

 

「あの子にとって重要なのは過去と未来だけ。現在なんてあの子にとっては求める結果の過程でしかないのよ」

 

 この大会に出たのも故人である母を喜ばせるためだろう。同じ物に触れることで彼自身、少しでも母に触れたいという思いもあったのかもしれないが、本格的な戦いが始まる準備期間に無駄だとしか思えないテニスを始めたのは、今彼のまわりにいる人たちを喜ばせるためではなかった。

 そんな湊という過去を引き摺り未来しか見ていない青年の話を聞き、ゆかりは以前そば屋で話した事を思い出して英恵に尋ねる。

 

「有里君がお父さんのお願いを覚えているのもそれが理由ですか?」

「ええ、多分ね。ゆかりさんのことを大切に想っているのもあるでしょうけど、故人となった詠一朗さんにお願いされていた事も理由の一つだと思うわ」

 

 故人は湊にとって過去の存在だ。しかし、過去を引き摺っているということは、それは彼にとって今も続いているという事になる。

 ゆかりは父の真相を確かめるために月光館学園へとやってきた。未だに何も掴めていないし、どうやって調べればいいのかも分からない。

 ただ、ずっと父の事を心の中に残していても、頭の中では“過去の事”として認識していた。

 それがゆかりと湊の違い。何年経っても思いを風化させず、今尚その事で悩み考え続けているからこその強い意志と目的を彼は持っている。

 何故湊が時折思いつめた表情をするのかようやく理解したゆかりは、年頃の青年らしく必死にボールを追いかけている彼の姿を見ても、根柢の想いの違いをはっきりと理解してどこか遠くに感じた。

 

***

 

 そんな少女の気持ちなど知らず、ただの目の前の敵に勝つことだけを考え続けた青年は、二ゲーム差をつけなければ勝利とならない最終セットで、先にゲームをブレイクしていた。

 ゲームカウント13-12、ここで決めなければ序盤にかなり消耗していた湊が先にダウンする。

 世界で戦ってきた男だけあって、湊復活後の三回目のサービスゲームで二五〇キロ越えの高速サーブにも対応してきた。

 直球でしかない高速サーブは下がっている者にコースを読まれれば返されてしまう。いくら速くてもそれだけで決まるほど必殺という訳ではないし、プロとして日々励んでいる者も甘くはないのだ。

 だが、それはここまで必死に喰らいついて一歩リードした湊も同じ。極限まで集中して相手の動きを観察し、試合の中で相手のショットを真似して点を取るという芸当も見せた。

 試合の中で成長する者もいるというが、青年ほどはっきりと強くなっていく事を周囲にまで実感させる者は多くないだろう。

 サーブを返されストローク戦になり、相手のドロップに時間を稼ぐロブで対応し、ベースライン間際から打ってきたストロークをハーフボレーのドロップ返しで決める。

 ドロップをお見舞いしたすぐ後にドロップを決められた相手は悔しそうだが、すぐに頭を切り替えてデュースに持ちこむため集中力を高めているようだ。

 対する青年も限界が近いためここで終わらせると静かに闘気を放ち、ハイになって瞳孔の開いている金色の瞳で相手を睨みつけた。

 

「アッ!」

 

 マッチポイントで湊が選んだのは強烈なスピンの掛かったサーブ。僅かに相手のボディ寄りに変化したサーブを相手は詰まらせる事なくショートクロスに返し、湊もそれは読んでいたとドライブボレーでダウンザラインを狙った。

 あわや決まるかという打球。しかし、相手も日本のトップとして戦ってきた意地と強い相手に勝ちたいという思いから、走っても僅かに届かない一歩を飛び込んで逆クロスに返した。

 正面のハーフコート辺りに相手がいる場面での執念が生んだショット、普通の者なら届かないタイミングだった。全力で走っても届くか微妙な距離、それもバックサイドというフォアよりもリーチが短くなる側なら尚更だ。

 だが、湊には母から教わったスイッチフォアハンドがあった。咄嗟にラケットを左手に持ち替え走る。相手だって届いたのだから自分だって届く、ここで抜かれて延長戦などゴメンだと着地も考えず飛び込んだ。

 

「らぁぁぁっ!!」

 

 後ろへと抜けて行こうとするボールを飛び込んだ湊のラケットの先端辺りが捉える。空中の不安定な姿勢で少しでもグリップが甘くなればラケットごと後ろに逸らされて終わりだ。

 そんなことになって堪るかと湊はグリップが潰れるほど握り込み、ギリギリで返す事に成功する。

 青年が地面に倒れ込みながら打球の行方を目で追えば、ボールはネットテープに当たり上に飛んだ。どちらに落ちても不思議ではない。けれど、青年を応援する者たちは心の中で「入れ!」と強く念じた。

 その思いが届いたのかどうかは分からない。ただ、上に飛んだボールが最後に落ちたのはネットの向こう側だった。

 

「げ、ゲームセットアンドマッチウォンバイ有里、カウント4-6、7-5、14-12」

 

 両者コートに倒れたままの決着。春日井は悔しそうに「ちくしょー!」と言いながらも笑顔で立ちあがり、続けて少し呆けていた湊も立ちあがってネットインを謝罪した。

 

「すみません、最後だったのに」

「いいって、いいって。あー、でも本当に悔しいな。あんなサーブの相手と対戦できる機会なんて滅多にないし、出来れば決勝でやりたかった」

 

 コート中央で握手を交わすと相手は快活に笑って湊の肩を叩いて気にするなという。負けた悔しさ以上に試合の楽しさが勝ったようで、相手は応援してくれていた観客に一緒に手を振って答えながら話しかけてくる。

 

「実はテニスプレイヤーとしての君の事は結構前に雑誌で知ってたんだよ。俺の憧れの人と同じ技使ってるからさ。あ、君は知らないかもしれないけど、俺が小学生のときに女子高生で両手利きの選手がいたんだ。その人は序盤に負けちゃったけど、俺にとっては両手でバンバン拾うのが格好良く見えてさ。憧れてテニス始めて、気付いたらプロになってたよ。まぁ、俺は持ち替えなんて出来なかったし、その人にも結局会えなかったんだけどな」

 

 春日井の言葉を聞いた湊は思わず相手の方を見た。湊と一回りほど違う相手の年齢を考え、それよりも六歳以上年上の女子高生で両手利きの選手などそういない。

 さらに持ち替えという単語から、彼の憧れの人と湊の持つ同じ技とはスイッチフォアハンドの事だと推測できた。

 自分の母の影響でテニスを始めた相手を、その息子が同じ技で倒した。なんとも数奇な運命だが、自分の母の事を覚えてくれている相手がいたことが嬉しく、湊はこの人にはちゃんとお礼を言っておこうと思った。

 

「……そうですか。貴方のようなすごい選手にそう言って貰えて、母もきっと喜んでいると思います」

「え、うそっ!? 君、あの人の息子さん? でも、あれ、子どもにしては大きくない? お母さんっていつ結婚したの?」

「大学卒業してすぐです。まぁ、事故で他界しているので会わせる事は出来ませんが、母が全日本選手権に出ていたって事は秘密にしておいて貰えると助かります。俺、両親が死んでから施設とか回って名字も変わってますから」

 

 本当は名前すら変わっているが、旧家とは言え一般人である両親のことを相手が深く知る訳もないので、もっともらしい理由で秘密にしておいてくれるように頼む。

 相手は義に厚く口も堅いことで有名なため、湊の頼みを聞いて誰にも話さずにいてくれるだろう。

 そんな湊の思った通りにしっかりと頷いて「分かった」と答えた相手は、憧れの人が亡くなっていた事実にショックを受けつつ、けれど、その息子と試合が出来た事を感慨深そうにする。

 

「そっかぁ。でも、バスケしてた君がテニスに出てきたのはそういう事か。お母さんのリベンジが出来たな。絶対に喜んでいるから、そのまま優勝して一番強かったのは春日井さんでしたって言っておいてくれよ!」

「ええ、優勝したら必ず」

「よっし! そんじゃ、応援してくれた人たちのとこに行ってやれ! 君の事を待ってるぞ!」

 

 荷物を纏めて並んでコートを出ると、取材陣に囲まれる前に春日井は湊の背中を押して逃がした。そして、すかさず自分がマスコミの前に出て壁になってくれる。

 相手は負けたばかりといえ、四連覇がかかっていた日本のトッププレイヤーだ。いくら湊に取材をしたくても、目の前にいればそちらの取材を先にするしかない。

 湊が疲れていると分かって気を利かせてくれた相手に頭を下げ、湊は握手やサインを求める観客にゴメンと謝罪しながら待つ人のいる観客席へと進んで行く。

 眼鏡のおじさんも、ラケット柄のシャツを来た子どもも、今はゴメンと避けて湊は先を急ぐ。そんな青年の視線の先で待っていたのは、湊が激闘を制したことで感動の涙を流していた英恵だった。

 見つけた湊はバッグを放り出して相手に抱きつき、普段よりもどこか子どもらしい声で結果を報告する。

 

「勝てた」

「ええ、頑張ったわね」

「おばさんが、母さんが喜ぶって言ってくれたから、勝とうと思えた」

 

 こんなにも彼が感情を表に出してくる事など珍しい。普段の学校での彼を知る者は目を丸くしているが、抱きつかれた英恵は嬉しそうに湊の頭を撫でてエライエライと褒めてやる。

 褒めてもらえた湊は英恵から身体を離すと、今度は桜にも抱きついてしっかりと応援の礼をした。

 

「桜さんの応援もちゃんと聞こえてた。ありがとう」

「うん。みーくん、いっぱい頑張ってたもんね。疲れてるでしょ? 本部に報告に行ったら今日はゆっくり休みましょうね」

 

 大きくなってスキンシップの減った湊がこんな風に自分から来るなど稀だ。それだけ勝てた事が嬉しいのだろうが、桜が優しく今日はしっかりと休みなさいと言えば湊は素直に頷いて返した。

 そして、桜からも離れた湊が今度は誰に抱きつくのか、周りにいた者が若干の期待を持ちつつ構えれば、青年は放り投げたバッグを拾い上げて「報告に行ってくる」とそのままスタスタと去っていく。

 よく考えれば分かる事だが、こんな場所で湊が同年代の女子に抱きつけば、それはたちまちゴシップ的な噂として広まってしまう。

 英恵や桜は大人だから知り合いのおばさんやお姉さんとして扱われるが、お傍御用の和邇は大人組みでセーフだとしても、先輩である美鶴ですらアウトなのだからチドリやゆかりなど以ての外だ。

 けれど、少女たちとしては自分も青年とスキンシップを持って喜びを分かち合いたかった。全員とは無理でも自分とくらいは……と思うのも無理はない。そんな少女たちの恨めしそうな視線を背中に受けながらも、勝てた事で少し嬉しそうな青年は気付かず本部まで去って行った。

 そうして、高校生が第一シードに大逆転勝利が夜のニュースとして伝えられた五日後、決勝ではその高校生が第二シードとぶつかり、またしても最終セットにもつれ込みながらも勝利を収め、十六歳七ヶ月という最年少優勝記録を樹立して号外が出されるほどの話題となったのだった。

 

 

 




補足説明

 湊のサーブが世界新記録だったのは2008年時点の話であり、2016年現在ではそれよりも速いサーブを公式戦で打っている外国人選手が実在する。

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