――巌戸台・某所
誰もが寝静まる深夜、巌戸台の外れに密かに作られた地下研究所で男は一人作業をしていた。
机に座る男の前に置かれたディスプレイには港区の地図と、その面積とほぼ同じ大きさをした龍のモデルが表示されている。
これは先日の満月に現われた巨大なペルソナの全長を計算してみた仮のデータだが、あまりに馬鹿げた答えが出たため男は自嘲気味に笑った。
「ははっ、蜷局を巻いてこれか」
眼鏡にディスプレイの光を反射させた幾月は、こんなものとどう戦えばいいのかと考える事を放棄したくなった。
相手は身体を何重にも重ねた状態で街を覆っていた。だとすれば完全に身体を伸ばせば二十三区をいくつも跨げるほどの体長をしているということだ。
影時間中でも撮影可能なカメラが何故か起動しなかったので実際の映像はないが、巌戸台分寮の屋上から直接それを見た幾月は、自分の研究している複合シャドウの失敗作でもあれほどの大きさは作れないぞと頭を悩ませる。
大きな複合シャドウを作る事は可能なのだ。パワーとタフさに特化したものを一時期は作ろうと研究していたことで、ただシャドウ同士を喰わせて行けばそういった無駄にデカいものが出来ると分かっている。
しかし、それだと高い能力を持った究極のシャドウであるデス・アバターを作る事は出来ない。
よって、幾月はどう組み合わせればそれぞれの特性を引き継げるかという研究を進め、先日は吸収と乗っ取りに特化した個体を試し、それなりに使えることは分かったのだが、巨大なペルソナという全く別の問題が生まれた事で彼は現在悩んでいる。
何度も計算し直し、その度に計算が間違っていないという結果が返ってきたことで幾月が溜息を吐けば、彼のいた部屋の扉が開いてコーヒーと軽食を手に持った少年と少女が部屋に入ってきた。
「幾月さん、そのペルソナを呼び出した少女の似顔絵とかはないんですか?」
「ああ、桐条君と九頭龍君が出会っただけでね。透き通るような金髪に雪のように白い肌をしていたらしいが、生憎と彼女たちの証言から似顔絵を描くスキルはなくてね」
やってきたのは留学前の湊にそっくりな少年・結城理、そして幾月の実の娘である幾月玖美奈だ。
理からコーヒーとサンドウィッチを受け取り、休憩のためにそれを食べながら答えた幾月は、相手の顔が分かればその人物を探せるんだがと苦笑する。
湊の存在もあって外を出歩けない理は別だが、幾月と玖美奈は外で活動して仕事や学校にも普通に通っているため、顔さえ分かっていれば探す時間を作るくらいは出来るのだ。
けれど、顔が分からなければそれも不可能なので、相手を見つけることを諦めつつ規格外の少女がいたものだと玖美奈も話す。
「でも、贋物の他にもこれだけ強力なペルソナ使いがいたなんてね」
「もしかするとエヴィデンスのバックにいる他のペルソナ使い集団のメンバーかもしれないがね。幼少期のアレにペルソナの知識を与えていた者が存在することは確認されているんだ」
幾月が話しているのはベルベットルームの住人たちのことだ。
桐条グループの施設に軟禁状態だった湊に、どういう手段を使ってかペルソナの知識と戦い方を教えていた存在。
そんな風に認識している幾月にとって、桐条グループと同時期には既に存在し、エルゴ研よりもペルソナやシャドウに精通していた者たちならあり得ない話ではないと思えた。
もっとも、それはあくまで可能性の話なので、組織に所属していようが単独だろうが、相手の桁外れな戦力への対処法がないなら危険であることに変わりはないと理が忠言する。
「何にせよ放置するには危険です。街を覆い尽くすようなものと戦うなんて不可能だ」
「出来れば仲間に、無理ならその子を殺すしかないわね」
「そうだね。今後に向けてあちらのメンバーを増やしつつ、私の方でも少し情報を集めてみよう」
湊たちがどのような反応を見せるか調べるつもりが、予想外の戦力の台頭を見ることになり、流石の幾月も特別課外活動部の戦力強化は急務だと考えた。
現在離れている荒垣、屋久島の研究所で眠っているアイギス、そしてもう一人覚醒する可能性が高いとみられる初等部の少年。
その三名は最低でも引き入れなければ、今後、複合シャドウの実験データを取るときに死人が出る恐れがあった。
故に、アイギスの回収を目的とした屋久島行きに荒垣を同行させ、さらに夏休みが始まる頃には初等部の少年を引き入れて、嫌でも荒垣が復帰せざるを得ない状況を作り出す。
次の満月まではまだ時間があるが、超大型ペルソナを使役する謎の少女の捜索をする間、特別課外活動部の安全を心配しなくて済むよう幾月も裏で手を回してゆくのだった。
7月12日(日)
午前――巌戸台分寮・作戦室
満月の戦いを乗り越えた週末の日曜日。実際のところ日曜日は週始めだという者もいるが、作戦室に集まってお茶を飲みながら屋久島の旅行ガイドを広げて談笑する女子たちには、週末だろうが週始めだろうがどうでもいいことだった。
現在作戦室には寮で暮らす女子四人が揃っており、旅行の話をするなら混ぜて欲しいなと順平も一度やってきたが、七歌とゆかりによって女子会に男が入ってくるなと追い返され現在は一階で落ち込みながら真田と話している。
そんな感じで女子四人だけで姦しく旅行でどこを見たいかなどを話しているのだが、話題はときどき脱線して旅行中のファッションや水着の話になったりもする。
「見て見て、これすっごい攻めてるデザインじゃない?」
「うわっ、キワド過ぎでしょ。これ激しく動いたら見えちゃうよ?」
今年の流行水着と書かれたファッション誌の特集ページを開いてみせた七歌に、ゆかりはいくら何でもそんなものを着る勇気はないと苦笑で返す。
同じく開かれたページの写真をみた風花と美鶴など、少しでもずれればトップが露出してしまうほどの布面積の少なさに動揺を見せたほどだ。
けれど、そうかなぁと他の者の反応に七歌は首を傾げ、実際に着ているモデルの写真をジッと見てから風花に視線を移して再び口を開いた。
「風花とか似合いそうじゃない? 身長があると伸びて危ないけど、小柄でスタイル良い人なら攻め攻めでビーチの視線独り占め出来そうだもん」
「わ、私はもっと普通のでいいです! ていうかむしろ注目もされたくないし……」
寮には男女別に分かれた大浴場があるため、七歌たちはたまに同じ時間にお風呂に入ってお互いの裸を見る機会があった。
そのとき七歌たちは風花がかなり着痩せするタイプだと知ったのだが、普段は隠されているスタイルの良さをアピールするチャンスだといえば、本人は恥ずかしいのでもっと普通の水着がいいと答えた。
それを聞いたゆかりは、七歌の選んだ際どい水着はともかくとして、折角の機会なのに勿体ないよと残念がる。
「でも、勿体なくない? 風花ってとくに運動もしてないのに胸は出ててお腹周りはシュッとしてるよね」
「あ、それ思った。私らは運動部と実戦で動いてるから分かるけど、風花って密かに筋トレで体型維持でもしてるの?」
「え? ううん。別になにもしてないよ? 背は伸びてないけど身体が大人になってきてるだけじゃないかな?」
実戦と運動で絞れている前線組と違って風花は後方支援なので作戦中も動いたりはしない。
そして、部活も文化部で通学は徒歩と電車であることから、どうして彼女の身体が中々に絞れているのか他の者たちは不思議がった。
昔、中等部時代に一緒に旅行に行ったときは今ほど女性的な体つきではなかったことをゆかりは覚えており、確かに成長もしているのだろうが体型維持に努めている者からすると不公平に思えてならない。
そんな風に年頃の乙女として相手を羨んでいれば、ムムムと考え込んでいた七歌が分かったと瞳を輝かせて顔をあげた。
「むむむ……あ、わかった! 彼氏とラブラブしてるからだ! ほら、聞くところによると激しい運動だからカロリー消費するらしいじゃん? だから風花も多分それだよね」
「え、ちが……うかどうかは分からないけど、別にそういう事をばっかりしてる訳じゃないよ!」
考えてみると本人もその可能性が高いのではと思ったのか否定しきれない。
ただ、自分が普段からそういう事をばかりとしていると思われると困るため、風花は顔を真っ赤にしながらそれだけが理由ではないと反論する。
もっとも七歌はそんな少女の反論を笑って聞き流しているので、紅茶を飲んでいた美鶴が無遠慮過ぎるぞと年上として後輩を窘めた。
「七歌、あまり人のそういった事情にくちばしを突っ込むものじゃないぞ」
「下世話な話は淑女の嗜みでしてよ美鶴さん」
「君はまったく……」
年頃の少女として美鶴も全く関心がない訳ではない。ただ、親しき仲にもというやつで突っ込んで聞くのもどうかと思っているのだ。
けれど、七歌たちは風花と同級生ということもあり美鶴よりは多少無遠慮にも聞けるのか、ゆかりも興味津々で風花に話を聞きたがる。
「ってか、気になりません? 前から聞きたかったんだけど風花っていつの間に彼氏作ったの?」
「いや、あの、別に彼氏はいないっていうか……」
「ああ、別れちゃったのか。ゴメン、そういう事なら話しづらいよね」
「違うよ。別に別れてもないというか」
聞かれた風花はとても言いづらそうにしながら視線を泳がせる。彼女が男性とそういった行為をしたことがあるのは確実で、現在もそういった相手がいるのは反応から分かる。
ただ、付き合っても別れてもいないと聞けば、思わずどういうことだと首を傾げて危ないことじゃないのかと心配しても無理はなかった。
「……山岸、まさか事件性はないだろうな?」
「えぇっ!? ち、違います! ちゃんと知り合いですから!」
慌てた様子で答える風花に一同はとりあえず安堵の息を吐く。
押しに弱い非力な少女だ。男に強く言い寄られてそのままという可能性も否定出来ない。
よって、見知らぬ柄の悪い男にそんな関係を強要されているのではないと分かったのは良かったが、だとすると可能性は一つしかないよなと七歌が少し言いづらそうに切り出した。
「風花、もしかして……セフレ?」
「えっとぉ、そのぉ…………やっぱり、一般的にはそういう言い方になっちゃうよね…………」
付き合っていないのに身体を重ねる関係といえばそうなる。不倫や浮気よりはマシかもしれないが、どちらにせよ褒められた関係とは言い難く、どうして真面目な風花がそんな事をと美鶴も真剣に尋ねた。
「山岸、君はまだ高校生だぞ? 個人の恋愛観を否定するつもりはないが、親の扶養で学校にも通わせて貰っているんだ。いくら何でもその歳からそういった爛れた関係は」
「はい、分かってます。でも、その、色々と付き合えない事情とかもあって」
風花のような子がそんな関係を続けると言うことは、考えた末にそういった状態でもしょうがないと納得したのだろう。
少し哀しそうに目を伏せる姿からもそれが窺え、他の者は事情を知らない自分がこれ以上言うことは出来ないと口を閉じる。
しかし、それでも相手くらいは教えて欲しい。何か協力や相談に乗るくらいは出来るからとゆかりは相手の名を尋ねた。
「それで、その相手ってどこの誰? 私たちの知ってる人?」
「……言わなきゃダメですか?」
『うん』
揃って他の者たちが頷き風花は思わず肩を落とす。相手との関係も隠していたかっただろうに、さらに名前まで知られるのはとても辛いのだろう。
だが、逆にそこまで彼女が隠そうとするとなると、相手がどこの誰なのか興味が湧いてくる。
今度はゆかりだけでなく美鶴もジッと風花を見つめて答えを待てば、「あー……うー……」と頭を抱えて悩んでいた風花が口を開くよりも先に、消去法で答えに辿り着いた七歌が相手の名前をいってしまった。
「……てか、思ったんだけど風花の傍で付き合えない事情ありそうなのって、実際のところ八雲君しかいなくない?」
『……あ』
聞いた途端に全員の胸にその言葉がストンと降りてくる。彼しかいない、彼以外にあり得ないと。
バレた風花も耳まで真っ赤にして俯き。確かに彼が相手なら簡単には付き合えないなと美鶴も同情的な視線を向ける。
「……なるほど、有里か」
「待って、有里君っていまラビリスと付き合ってるんじゃないの? 私なにも聞いてないよ?」
以前、ターニャの見送りで湊とラビリスがそういった行為をしていると知って以降、ゆかりは二人が付き合っているという認識を持っていた。
別に本人たちに聞いた訳ではなく、恋人同士だとも思っていなかったが、同棲している二人がそういう事をしていると聞いてセットで考えていたのだ。
どうしてそんな歪な認識を持っていたのかは、相手がフリーであると思いたかった乙女心による都合の良い解釈だとしか言えないが、風花と彼がそういった爛れた関係であると聞けば、浮気ではないのかと二人をようやく恋人だと認識した上で物事を考えられた。
だが、そんなゆかりの言葉に対して、クラスメイトの少女からは身も蓋もない残酷な言葉が飛んでくる。
「そりゃ元カノは他人だもん。別に話す義務も義理もないでしょ。んで、いつからそういう関係? てか、どういう流れでそうなったの?」
「えっと、ゆかりちゃんは聞いてたと思うけど、今年のバレンタインの次の日に美術館に行った話は覚えてる?」
湊と風花が一緒に美術館に行った件はゆかりしか知らない。そして、覚えているかと聞かれたゆかりが頷いたのを確認しながら、その時のことを思い出して風花は言葉を続ける。
「私、好きな画家の作品が見られるのがすごく楽しみで前日にあんまり眠れなかったの。それで遅刻しかけて急いで向かったんだけど、美術館に向かう途中に貧血で倒れて。目が覚めたらラブホテルに運ばれちゃってて服もバスローブになってたの」
いまでも当時の驚きと恥ずかしさははっきりと覚えている。彼の傷跡の残る身体にも驚きはしたが、少女として受けたショックは人生の中で一番だったと断言出来た。
かなり特殊なシチュエーションだと思われるが、思い出してしみじみしながら風花が続きを話そうとすれば、何故だか他の者たちの表情が険しくなり場の空気が張り詰めていくのを感じた。
「岳羽、今すぐに有里を呼び出せ。来なければマンションに向かうと伝えろ」
「了解です。……サイッテー、本当に許せない」
風花が最後まで話す前に他の者たちは行動に移っていた。本気で怒った様子のゆかりが電話越しにぶち切れながら湊を呼び出してしまい。誤解だと風花が宥めようとしても誰も言葉を聞かず、むしろ辛かったなと優しく慰められてしまう始末。
だが、この後に起こるであろう惨劇を想像し、どうにかしなきゃと慌てる少女の言葉が届くことはなかった。
***
寮で一体何が起きているのか分かっていない青年は、寮生以外の部活メンバーと一緒にコロマルの散歩をしている最中に呼び出され、相手が本気で怒っていたこともあり理由を聞くため巌戸台分寮に向かっていた。
「コロマルさんの散歩コースの近くで良かったなぁ」
「というか、そんなゆかりさんが怒るようなことって何かしたんですか?」
「……記憶にないな。別に普段からよく怒ってるし気まぐれだろ」
「貴方、知らないうちに他人を怒らせる天才じゃない」
確かにゆかりはよく怒っているが、それを抜きにしても湊は簡単に他の者を怒らせる天才である。
美紀に聞かれて自分は何もしていないとシレッと答える青年に他の者は苦笑しつつ、街中を進んで行けばホテルを改装した趣のある外観の建物が見えてきた。
「あ、ここやな」
「ペット同伴OKなんでしょうか?」
「別に入り口くらいなら大丈夫でしょ」
今日はコロマルが一緒にいるのでペット禁止となれば外で待って貰うしかない。しかし、別にそんな話は聞いていないので、全員で中に入ると美紀が代表して挨拶をした。
「ごめんくださーい」
「なんだお前たち、こんなところに揃ってやってきて」
「あ、兄さん。実は散歩に付き合っていたら有里君がゆかりさんに呼ばれたから来たんです」
「あぁ、ゆかりっちたちなら上で女子会中だぜ。呼んでこようか?」
ゾロゾロと中に入っていけば、ソファーのところでグローブを磨いていた真田とカップ麺を食べていた順平が迎えてくれた。
しかし、二人は嫌な顔もせず、むしろ湊を呼んだというゆかりを呼んできてやろうかとまで言ってくれた。
本人にすれば別に電話で到着を報せてもいいし、直接相手のいる部屋まで行ってもいい。だが、呼んでくれるのならお言葉に甘えようと考えたとき、それは疾風の如き速さで階段を飛び降りてやってきた。
アップで纏めた茶色い髪を揺らし、怒りで瞳孔の開いた真紅の魔眼を持つ少女は、人の限界を超えた速度でやって来ると急接近してきた者の方へ身体を向けた青年の許に向かう。
「――――死ね」
そして、彼の三メートル前で跳躍すると握り締めた拳で顔を殴りつけ、着地すると即座に股間を蹴り上げた。
まさに一瞬の出来事でチドリたちは唖然としていたが、真田と順平は青年の蹴られたシーンを見て痛みを想像し内股になって顔面を青くする。
男ならば例え筋骨隆々なプロレスラーだろうとそこを蹴られれば悶絶し地に伏す。それを七歌は勢いをつけた本気の蹴りで行なったのだ。同じ男として潰れていないか本気で心配になり、潰れていなくても痛みのショックで気を失っていないかと攻撃された青年を見た。
すると、顔面と股間に連続でかなりのダメージを受けたはずの青年は、上着のポケットに手を入れたまま一切動じた様子もなく冷たい視線を目の前に少女に向けていた。
彼は明らかに半端な威力ではない攻撃を受けていた。吹き飛ばなくても数歩下がったりはしてもおかしくない。
だというのに、まるで何事もなかったかのように立っている青年に、戦闘態勢を崩していない少女が警戒を強めれば、ジッと少女を見ていた青年が静かに口を開いた。
「……お前が死んどけ」
その言葉を聞いた瞬間、七歌は全身に鳥肌が立った。ここは危険だ下がらなければと脳が警告を発する。
数瞬先の未来を視る魔眼によって、相手が右拳で殴りかかってくる映像が見え。それに従って七歌は斜め左後方へと飛ぶように退いてゆく。
相手が完全に動き出すより先に逃げている以上、いくらリーチがあろうとどうやっても湊の攻撃は届かない。
むしろ、攻撃をした直後の相手にカウンターを仕掛けようかと考えていたとき、七歌は下から衝撃を受けて頭が真っ白になった。
一体何が起きた。飛びそうになる意識を意思の力で繋ぎ止めて七歌は状況を把握しようとする。
すると、直前に自分がいた空間にポケットに手を入れたまま足を振り上げた湊が立っていた。
そこから推測するにどうやら青年は後ろへ逃げる七歌まで一瞬で間合いを詰め、そこから顎を蹴り上げてきたらしい。
先ほど魔眼で視た未来にそんな映像はなかった。攻撃手段も相手の移動速度も全てが想定外。何故だという疑問が頭を占めていると、続けてこめかみに衝撃を受けて横に吹き飛ぶ。
蹴り上げられ空中にいた七歌へ、さらに追撃として回し蹴りをしてきたようだ。
吹き飛んだ七歌はそのままテーブルを越えて真田のいた壁際のソファーにぶつかり、衝撃を吸収しきれず床に転がり落ちる。
「お、お前!? 相手は女子だぞ!?」
「七歌っちから攻撃したにしても手加減しなさ過ぎっしょ!?」
顎と頭に攻撃を喰らった七歌は、ギリギリで意識はあるようだが焦点が合わず動ける状態ではない。それを見た真田と順平は流石にやり過ぎだろうと声をあげる。
しかし、言われた青年はただただ面倒そうにしているだけで気にしていない様子だ。
これには一緒に来ていた女性陣も引いているが、そんな混沌とした場所に新たな人物がやってくる。
「七歌!?」
七歌から遅れて到着したゆかりは倒れている友人を見て心配そうに駆け寄った。
心配するゆかりに七歌は呂律の回らない口で「大丈夫」と返すが、明らかに無理をしている姿は余計に痛々しく映り、友人をこんな目に遭わせた者への怒りが膨れあがる。
「こんな風に女子に暴力振るって自分の思い通りにして、ホントにサイッテー!」
立ち上がったゆかりはソファーを足場にジャンプすると、立っていた青年の顔面に拳を叩き込んだ。
素人がそんな事をすれば拳を痛めかねないが、今回は成功したようで着地したゆかりは湊を睨んでいる。
一方、七歌に続いてゆかりにも殴られた湊は、一瞬だけ左眼が蒼くなると深く溜息を吐いた。
「…………はぁ」
まわりにいる者はそれが攻撃の予兆だと本能で感じ取った。七歌のときは反応出来なかったが、今回は前の事があったからと動くことの出来たチドリとラビリスが湊の腕を掴んで止める。
さらにコロマルがゆかりに体当たりをかけて逃げるように促せば、邪魔をされた湊から蛇のように全身に絡みつく殺意が放たれ
「ち、違うのゆかりちゃん! 全部誤解だから!」
ようとして突然現われた第三者の声が響いたことで霧散した。
自分も七歌の二の舞になりかけたと気付いていないゆかりは、焦った顔で階段を駆け下りてくる風花と気まずそうな表情をした美鶴の方を見て、自分が何をされたか分かっているのかと友人を想って怒りの声をあげる。
「風花、こんなやつ庇う必要ないって」
「だから、私は有里君に襲われてなんかいません!!」
普段は穏やかで優しい少女の珍しい大声がフロアに響く。
ゆかりはそれに驚いて先ほどまで感じていた怒りが吹き飛び、少しは相手の言葉を聞く冷静さが戻ってきたのかキョトンとしながら言葉を返した。
「……へ? どういうこと?」
「岳羽、その……山岸の話には続きがあったんだ……」
やってきた湊をとっちめる係の七歌とゆかりに対し、美鶴は湊を庇おうとする風花を慰め直接会わなくて済むようにする足止め係になっていた。
だが、そのおかげで先に事の真相を聞けたようで、理解した今では先走った少女たちに訳も分からぬまま襲われた青年への申し訳なさを感じているらしい。
倒れていた七歌もようやく身体を起こすことは出来るようになったが万全とは言えず、殴られた分をやり返そうとして二人がかりで止められている青年など、場は既に遅かったという状況だが、それでも全員が話を聞いてくれる今言わなければならないと風花は泣きそうな顔のまま話した。
「本当に襲われたりしてないの。もう、話の途中で誤解したまま説明も聞いてくれないし。心配してくれたのは嬉しいけど暴力はダメだよ」
「えっとぉ……やらかした系?」
風花の言葉を聞いたゆかりは表情を引き攣らせてダラダラと冷や汗をかきながら尋ねる。
聞かずとも答えは分かっているのだろうがもしもの可能性に賭けたのだろう。だが、現実は残酷だ。彼女の問いに美鶴が頷いて返せば、ゆかりは高速で身体を反転させると腰を九十度に曲げ、未だに両脇からチドリとラビリスに腕を掴まれ拘束されている青年に謝罪した。
「……申し訳ありませんでした」
感情的になりやすい分、ゆかりはこういった部分は潔い。
今回は、相手のことを好きで、風花とそういった行為に及ぶ関係だと聞いて嫉妬した部分もあった。
だが、それはそれ、これはこれというやつで怒った一番の理由は友達を傷つけられたからである。
風花とゆかりのやり取りで青年は既に大体の事情を察しているだろうが、かなりの勢いで殴った上に罵倒もしてしまったので、しっかりと頭を下げて謝罪すれば、次の瞬間ゆかりは頭に衝撃を受けて床に倒れ込んだ。
薄れゆく意識の中で彼女が最後に見たのは、自由な足で踵落としをしたであろう青年のつまらなそうな顔だった。