【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第二百四八話 時を越えて

影時間――巌戸台分寮

 

 七歌たちがタルタロスにむかってどれくらいの時間が経っただろう。

 通信機の傍に座ってお茶を飲みながら待っていた栗原と英恵は、共に不安を胸の中に仕舞い込んで表情には出さないようにしていた。

 というのも、やる気を出していた子どもたちには悪いが、大人である二人は彼女たちが行ったところで湊を連れ戻せはしないだろうと考えている。

 そも今回のことは遅かれ速かれ起きていたはずの事態だ。

 彼は自分がチドリやアイギスの傍にいるべきではないと考えている。一緒にいるのはラビリスやアイギスの生活基盤を作るためであり、人間になって日常生活も問題なく行えるのなら既に目的は達したと考えていい。

 そんなときにチドリたちは七歌たちが自分たちの傍に残ることを望んだ。

 深い意味があったかどうかなど関係ない。七歌たちが去らないのであれば自分が去ると言っていた後で、チドリたちは七歌たちが転校するのは嫌だと言った以上、彼がもう自分が傍にいなくても大丈夫だと判断しても何もおかしくはなかったのだ。

 一度決めれば自分がどれだけ傷つくことになろうが青年は進み続ける。

 彼女たちのためになるのならチドリやアイギスの心を傷つける事になったとしても考えを変えないため、力尽くという手段を取れないとなると連れ戻すのはやはり難しいだろう。

 子どもたちよりもそれを客観的に理解している英恵は、ただ黙って紅茶のカップに視線を落としていると、僅かに地面が揺れ急に窓の外が明るくなった。

 

「い、一体どうしたのっ!?」

「なっ、あれを見てください!」

 

 突然の揺れに英恵は持っていたカップを落としそうになる。

 なんとか耐えて無事に割らずに済んだが、ぬるくなっていた中身が少々手に掛かってしまい、濡れた手をハンカチで拭きながら窓際に向かう。

 先に窓の外を見ていた栗原が驚いているので、窓の外には何が見えているのだろうかと見てみれば、寮から離れた場所に聳えていたはずの異形の塔が消えていた。

 そして、その塔があったはずの場所には現在、雲を散らし天まで届く赤と黒の禍々しい光の柱が立っている。

 タルタロスが形態を変えたのか。一瞬、そんな考えが頭を過ぎるが、二人が見ていると光の柱は徐々に消えていってしまう。

 かつてタルタロスについても研究していた栗原ならば何か分かるかと思い。英恵は窓の外を見つめたまま隣にいる女性に話しかけた。

 

「栗原さん、タルタロスが姿を変えると聞いたことは?」

「中の構造ならともかく外観についてはありません。というより、アレは何かのスキルで塔を消し去ったんだと思います」

 

 言われてみれば、確かに先ほどの光の柱は塔を飲み込んで消し去ったようにも見える。

 だが、それが事実だとすれば、子どもたちの向かった場所にそんな事が可能な存在がいると言うことだ。

 もっとも、もしそのようなシャドウがいれば先に湊が出会って対処しているはず。

 だからこそ英恵がその可能性に気付いたとき、自分で言った栗原も塔を消し去った存在に関わっているであろう人物に思い至り、既に子どもたちが接触しているとすれば拙いと考える。

 今からでも子どもたちを呼び戻せないか。そう思って通信機の元に向かおうとしたとき、タルタロスのあった場所から天へと昇っていくものが見えた。

 

「あれは……あれが、八雲君が身に宿す蛇神ですか?」

「私も初めて見るので断言は出来ませんが、あんなものがそう何体もいるとは思えません。きっとそうかと」

 

 遠目からでも分かる巨大さ。銀色の角と瞳を持つ蛇神が遙か上空を目指して昇ってゆく。

 他の者たちの話によればこれまでは骨だけが顕現するくらいで、先月の満月のときにラビリスが見たという姿も半透明な肉体が骨を覆っていた程度のはずだ。

 それがどういう訳か英恵たちの見た蛇神は肉体まで完全に顕現してしまっている。

 湊は力の強すぎる蛇神を呼び出せないからこそ、その力をいくつかに分けてネガティブマインドのペルソナとしていた。

 もし、その制限が解かれて自ら呼び出したのなら厄介ではあるが問題はない。

 けれど、これまでのように湊の感情を呼び水に顕現してしまったなら、蛇神の持つ力の規模を考えるとかなり拙い状況だった。

 

「英恵さん、もしあれが暴走だとすればすぐにでも子どもたちを避難させる必要があります」

「分かっています。でも、蛇神の様子が……」

 

 本当ならば全員を車に乗せる事など出来ないが、今は定員オーバーなど気にせず寿司詰めにしてでも迎えに行くべきかもしれない。

 そう思って栗原が車のキーを手に取れば、窓際でジッと蛇神を見ていた英恵は様子がおかしいと蛇神を指した。

 栗原にすればあんな巨大なモノの普通など分かるかとツッコミたかったが、様子がおかしいというのであれば見ておかなくてはならない。

 怪獣映画のように第二形態として翼でも生えたならば可愛いものだと栗原が見れば、雲より高い位置で蛇神が旋回して街を覆えるほど長大な身体で環を作っていた。

 聞いていた情報とあまりに違う状況を栗原は訝しみ、これはどういう事だと首を傾げる。

 

「何でしょう? 今までの話だとただ街の上空を覆っているはずなんですが」

「質量が存在するとして、あれだけの巨体が旋回すると竜巻が起きたりするんじゃないですか?」

「あれの動く余波で確かに局地的に嵐のようになる可能性はあります。しかし、あれだけ上空となるとあまり地上に影響はないかと」

 

 もし地上から百メートルほどの位置でやっていれば、街は跡形もなく消し飛んでいるかもしれない。

 だが、雲よりも高い場所となると高層ビルも近くにはないので影響はほとんどない。

 つまり、蛇神の行動に意味があるとすれば、破壊とは別の目的であると考えられる。

 このまま蛇神が今の状態を保つのならばチャンスだと考え、栗原は子どもたちのところへ行こうと思った。

 

「英恵さん、私は車で子どもたちを迎えに行ってきます」

「……私も連れて行ってください。なにか、なにか八雲君に拙いことが起こっている気がするんです」

 

 真剣な表情でそう言ってくる英恵に栗原は目を見開く。

 自分も影時間の作戦行動には慣れていないので勝手などはよく分かっていないが、それでも何の力もない英恵を連れて行っても足手纏いである事は分かる。

 何より、彼女を連れて行くことが困難な理由も存在した。

 

「……正気ですか? 桐条が用意した車には子どもを全員乗せられません。定員オーバーしてもギリギリ、今は一人分の席も余裕はないんですよ?」

 

 そう。迎えに行くには桐条グループの用意した車を使うしかないのだ。

 いくら大型車と言えど、器具を使って座席を外すでもしなければ、成人と変わらぬ背丈の子どもたち十人以上を乗せる容量はない。

 だというのに、英恵を乗せれば助手席分のスペースが埋まってしまい、余計にスペースが足りなくなってしまう。

 それが分かっているのかと栗原が尋ねれば、その視線をしっかりと受け止めて英恵は答えた。

 

「向こうに着けば置いていってくださって構いません。お願いします。私をあそこまで連れて行ってください」

 

 そんな事出来る訳がない。しかし、もし連れて行かなければ英恵は歩いてでも向かう可能性があった。

 蛇神が次にどうなるか分からない以上、少しでも早く現場に向かいたい栗原は、深い溜息を吐くとどうなってもしりませんからねと告げて車へと向かった。

 

――モナド・最下層

 

 英恵と栗原が話をする数分前、湊の唐突な言葉を聞いた他の者たちは言葉の意味を理解出来ずにいた。

 しかし、その僅かな思考の停止する時間があれば、湊は極めて自然な動作でアイギスに近付き首に向かって手を伸ばすことが出来た。

 けれど、思考停止していた他の者たちと違い、湊が言葉を発した瞬間、湊とアイギスをジッと見つめていた茨木童子と赫夜比売の行動は速かった。

 二人はほぼ一瞬で湊たちに近付き、赫夜比売がアイギスをやや乱暴になりながらもラビリスに向かって放り投げると、茨木童子はアイギスの首に向かって腕を伸ばしていた青年の顔面に拳を叩き込んで壁まで殴り飛ばす。

 アイギスは無事ラビリスによって受け止められ、反対に殴り飛ばされた湊は衝突した壁が壊れて瓦礫に埋もれている。

 しかし、加減している余裕がないほど切羽詰まった状況だっただけに、少女が殺される事を防げた茨木童子は瓦礫に埋まる青年を見ながら吐き捨てる様に言葉を発する。

 

《ハハッ、相変わらず発想が斜めすぎて笑うしかないな!》

《言っている場合ですか! アイギス、チドリ、ラビリス、あなた達はすぐに上へ。今の八雲の狙いはあなた達です》

 

 動揺する他の者たちと異なり、茨木童子たちは湊の状態を正確に把握している様子だ。

 先ほどの言葉の意味も含めて説明が欲しい。受け止めたアイギスを支えながら立たせていたラビリスが二人に尋ねた。

 

「ちょ、湊君はどないしたん?」

《逆転の発想というやつだ。己の大切な者が死んで来たからこそ、八雲が大切に思い、さらに相手が死ねば真実の証明になるという話だ》

「じゃあ、八雲君は本気でアイギスを殺すつもりだったの? でも、そんな事したら……」

 

 茨木童子の説明を聞いて発言と行動の意味だけは七歌たちも理解出来た。

 けれど、もしもそんな事をすれば今以上に湊は壊れるだろう。

 

《ああ、殺した後に己のした事を自覚して壊れるだろうな。前に自分で自分に幻覚を見せた際には魔法で作り出した写し世を壊しかけたが、実際に手にかければ想像もつかん》

 

 七歌の言葉に茨木童子も頷いて返し、冷静さを取り戻してはいるが思考自体は壊れたままであるだけに質が悪いと険しい表情をする。

 茨木童子の話に出たときの事を覚えているチドリとラビリスも緊張した様子になり、ここは赫夜の言う通りに撤退すべきかと考える。

 すると、瓦礫に埋まっていた青年が身体を起こし、手を当てた頭を振りながら出てきた。

 

「ああ、やっぱり大変だ。信じて貰わないといけないけど、そう簡単には信じて貰えない。だからこそ、ちゃんと殺せたら信じてくれるよね?」

 

 綺麗な顔で笑う青年は真っ直ぐにアイギスを見つめる。

 少女の前には茨木童子と赫夜比売がいるというのに、今の彼の瞳にはその姿が映っていないようだ。

 だが、そんな彼の今の様子よりも気になることがその身体には起こっていた。

 鉄骨が貫通した事で出来た胸部の傷跡や、ラビリスに切られたことで出来た刀傷など、そういったモノが全て消えていっているのだ。

 先ほどシャドウに付けられた傷の回復と同時にそれらが行なわれたことで、今のはファルロスの蘇生ではなくベアトリーチェの力だと茨木童子は当たりを付けた。

 

《即時再生という事はベアトリーチェの力か。まったく、八雲が正気に戻ったなどと言ったのはどこのどいつだ》

《姉様が勝手に思っただけでしょうに。僅かに落ち着いたせいで状況はむしろ悪化しています》

《分かっている。人格にも影響が出ている以上、やはり一度殺さねばならんか》

 

 言い終わるかどうかのタイミングで茨木童子は駆け出した。

 人の目では追えない速度、十数メートルをほぼ一瞬のうちに走破し湊の前に拳を振り上げ現われる。

 そして、再び彼の顔面に向かって拳を繰り出せば、湊は一瞥することもなく手を払いあげて弾き、浮いた相手の身体に向かって肘打ちを放つ。

 攻撃を喰らった茨木童子は驚愕の表情のまま吹き飛び、今度は反対に壁に叩き付けられていた。

 けれど、それを見ていた赫夜比売は予想していたかのように冷静に対処する。

 前方に手をかざして氷の槍を生成、それらを扇形に配置し、湊に向かって一斉に射出。

 千を超える氷の槍が彼に迫れば、彼はその場で足を止めて直撃するモノだけを叩き落とし始めた。

 頬を掠め、手足が切れ、そうして血が流れても彼は気にせずに落とし続ける。

 何故武器を出して迎撃しないのかは分からないが、今の攻撃が効いているのならばと同時に雷を発生させる。

 赫夜比売の雷は氷の槍と槍の間を走り、もはや氷のスパイクがついた雷の網のようだ。

 こんなものに人間が対処出来るはずがない。そう思って彼に視線を向ければ、ここで湊は足下に落ちていた氷の槍の一つを蹴った。

 彼が蹴った氷の槍は赫夜比売のスキルの下を通って飛び、術者本人に向かって迫ってくる。

 しかし、それが見えていた赫夜比売がいくつかの氷で迎撃すれば、湊はその僅かな隙を突いて今度は複数の氷の槍を蹴りながら前進を始めた。

 彼の蹴ったモノは全てが正確に術者を狙っているため、赫夜もそれに対処する必要が出てくる。

 増えた反撃のために迎撃を増やせば、その隙を突いて彼からの反撃も徐々に増えてゆく。

 今現在は氷の槍と雷を受けている湊の方がダメージも大きいが、痛みに耐性があり傷も即時再生するのでは効果は薄い。

 反撃に対処するにつれて前進しながら湊の手数も増えてゆくとなれば、このままではいずれ辿り着かれてしまうと赫夜比売も焦りを浮かべる。

 だがその時、

 

《大莫迦者が!》

 

 部屋に飛び込んできたバアル・ペオルが球体にしたメギドラオンを湊に投げつけた。

 光線よりも圧縮しているため見た目よりも威力が高いそれは、彼の前で解放されると爆発を引き起こして湊を飲み込む。

 明らかに人間に向けて放って良い威力ではないが、続けて壁まで吹き飛ばれていた茨木童子も手をかざして爆発に向けて熱線を放った。

 極光の爆発を突き抜けた熱線がぶつかった壁は赤く染まり、蒸気をあげながら融解させている。

 そんなものの直撃を喰らった人間は骨も残らず溶けるに違いない。これまで黙って見ている事しか出来なかったアイギスは思わず赫夜の肩を掴んで彼女を止める。

 

「やめてください、こんな事をすれば八雲さんが死んでしまいます!」

《大局を見なさい! 既に殺さねばならぬ状況にあるのです!》

 

 アイギスの言いたいことは分かる。しかし、今そんな話をしている余裕はない。

 彼女や七歌が湊の身体の事をどこまで理解しているか分からないが、殺しても止まるかどうかも怪しいのだ。

 一時的に冷静になっているからこそ、赫夜比売たちはここで一気に畳み掛けるしかないと考えている。

 肩を掴んでいたアイギスを振り払い、赫夜も万能属性スキルに切り替えようと手を再びかざす。

 すると、バアル・ペオルの起こした爆発が突然弾け、湊を覆う様に展開された半透明な蛇の頭骨がそこに現われた。

 

「何で邪魔するんだ。僕は信じて貰いたいだけなのに、俺はただ大切に想っているだけなのにっ」

 

 蛇の頭骨は茨木童子の熱線すらも防いでおり、湊の身に迫る攻撃全てから彼を守っている。

 頭骨を展開する前はどうやってやり過ごしたのか分からないが、自分たちの攻撃が一切効かなくなったとすればまずい。

 中にいる湊も頭を押さえて焦った表情をしているため、一度は取り戻した冷静さが再び失われるのも時間の問題だ。

 彼が再び獣のようになれば余計に厄介になる。残り時間がどれだけあるか分からないが、どうにか頭骨を突破して内部の湊にダメージを与えようと、薙刀を取り出したバアル・ペオルと直刀を取り出した茨木童子が駆けて頭骨を切りつける。

 新たに部屋にやってきた出雲阿国も雷を纏わせた刀で続き、アタランテも上空から矢の雨を一点集中して撃ち続けるが、超高硬度でありながら湊の肉体と同じように再生機能を備えた頭骨は簡単には突破出来ない。

 

《どいて……そこから、出て…………八雲……》

 

 前衛たちが突破出来ないと分かると、到着したばかりの座敷童子がアリスと共に巨大な氷の槍を生成し始める。

 熱線やメギドラオンを防いだものを相手に、そんなもので行けるのかと信用しきれないが、二体分の力を集中させたならばもしやと場所を空ける。

 それを確認した座敷童子たちが氷の槍を放てば、空気を切り裂きながら飛んだ槍が頭骨の眉間に突き刺さった。

 これまでで最も効果のあった一撃に他の者は驚き、止めとばかりに待機していたジャック・ザ・リッパーが槍の底を切りつけて頭骨に打ち込む。

 打ち込まれた氷の槍は頭骨を貫通し、内部にいた湊に襲いかかる。

 中にいれば逃げ場がないため頭骨はすぐに解除され本人は避けたが、その瞬間を狙ってバアル・ペオル、茨木童子、出雲阿国が連続で切りかかる。

 反応速度で上回る湊はそれらを刃の側面を叩くことで受け流すも、赫夜比売の氷の槍と違って対処するには細く数の多い矢が上空か迫ったことで湊は大きく後方へと跳躍させられた。

 せっかく僅かずつでも前進出来ていたというのに、一気に振り出しに戻された湊は先ほどよりも焦燥感を顔に出しながら叫ぶ。

 

「なんで、なんで、なんでっ!! 皆死んだんだっ、俺が殺したんだっ、大切な人は殺さなきゃいけないんだっ!!」

 

 今の湊は理性が失われているため、普段閉じ込めている心が出やすくなっている。だからこそ、その叫びを聞いた者は、彼がどれだけ大切な人の死を自分のせいだと思っているのか理解出来た。

 心からの叫びだからこそ痛々しい。湊のせいではない、湊が責任を感じる必要はない。そう言ってあげたいが、言ったところで自分を責めている本人には届かないだろう。

 未だアイギスを殺すことも諦めていない様で、叫んだ湊が再びアイギスを目指して動き出せば、自我持ちのペルソナたちは前衛と後衛に分かれて対処する。

 後衛がスキルで湊の隙を作り、前衛が多段攻撃で体勢を崩して攻撃を当てる。

 切りつけた端から傷が再生するので効果はほとんどないが、今の状態を維持しながら殺すしか止める手段は思いつかない。

 一ヶ月不眠不休で戦っていながら、武器も使わず自分たちと戦えている事に茨木童子は呆れたタフさだと苦笑いを浮かべる。

 

《殺さねば止まらんとは鬼の伝承の体現者と言えよう。しかし、これほどとは本気で八雲の人格が残っているのか疑わしいなっ》

 

 殺すという目的に執着しているのか、それともアイギスに執着しているのかで相手の状態も変わってくる。

 アイギスに執着している方が湊の人格が残っているという事だが、出来れば後者でいてくれと思いながら茨木童子が切りつければ、

 

「――――――あれ?」

 

 僅かに切られながらも避けた湊は、地面を転がる勢いを利用して立ち上がり突然動きを停止した。

 湊の状態に変化が現われるのは大概がよくない状況の前触れだが、停止した湊は頭に手を当てたまま何かを呟いている。

 

「違う、ちがう、チガウ。有里湊は本当の名前じゃない、あの母親から生まれて、すぐに培養器に入れられて、違う、ちがう、チガウ、お母さんは母親じゃなくて、百鬼八雲は僕じゃなくてっ」

 

 今のうちに攻撃するべきか。

 戦っていた自我持ちたちはそう考えるも、今までとは明らかに様子が違っていて下手に手を出すとどうなるか分からない。

 ここでまた蛇神の骨を呼ばれると厄介だが、警戒は最大に引き上げつつも、今の湊がどういった状態なのかを判断することにして自我持ちたちが止まっていれば、今まで小さな声で呟いていた湊が突然頭を抱え大声で叫びだす。

 

「ああ、ああっ、間違えた間違えた間違えたっ。全部嘘だ、嘘だ、嘘だっ!! 僕は違う、俺じゃない、違う、全部はじめから間違えてたっ!!」

 

 これまでも意味の分からない言葉を吐いていたが、今までの比ではない変化に他の者は警戒を強める。

 すると、叫んでいる湊の身体が光に包まれだし、他の者たちの目の前でどういう訳か背丈が縮んでゆく。

 

「一体何がっ」

「有里の姿が変わってゆく……」

 

 アイギスや美鶴が驚いている間に湊の背丈はどんどん小さくなる。

 一八〇センチを越えていた長身は男子たちよりも小さくなり、さらには女子たちよりも小さくなる。一体どこまで縮むんだと思っていれば、天田よりもさらに小さい小学校低学年ほどの背丈で止まった。

 

《これはベアトリーチェによる変貌なのか?》

 

 身体を包んでいた光が消えると、そこには地面に着くほど長い髪を垂らした少年がいた。

 アイギスは見覚えのある姿に懐かしさを覚えるが、背丈だけでなく服装までムーンライトブリッジで事故に遭ったときと同じになっていたことで、普通の変貌とは異なるなと思っていたバアル・ペオルに茨木童子がこれはそんなモノではないと伝える。

 

《違う。これは、ベアトリーチェが八雲の時に干渉しているんだ》

《では、姉様。今の八雲は十年前の?》

《髪の長さ、記憶等の差異はある。だからこそ、完全にそうとは言えんが一つの個体という限定範囲で時空間に干渉して時を跳躍させたと見るべきだ》

 

 湊の姿が十年前のものに変化したとき、自我持ちのペルソナたちは未だこの場に残っていたアイギスたちを守れる位置まで下がっていた。

 出てきたのが十年前の湊であったことは意外だったが、その身が放つ存在感は現在の湊を上回っている。

 二つの異なる時間軸を繋げるなど、未来のアイギスたちの存在を知らなければ信じていなかっただろうが、ニュクスらと同じ高次元の存在ならば可能でもおかしくはない。

 姿が変わった湊が一体何をするつもりなのか見ていれば、少年は哀しそうな黒い瞳を天井に向けて言葉を紡ぐ。

 

「やりなおさなきゃ。ぼくが助けちゃダメだった。ぼくは誰も助けちゃダメだった」

 

 その言葉が耳に届いたとき、アイギスたちは彼が自分たちの言葉で今の姿になってしまったことに気付く。

 どれだけの人間を助けようと、二万人以上の人間を殺めてきた事実は消えない。

 あの日の言葉を受け、そんな者が普通に暮らしている事などやはり間違いだったと考えたに違いない。

 

「違う、八雲! 私は貴方にここにいて欲しいの!」

 

 彼を傷つけたと後悔していた少女が叫ぶも少年の耳には届かない。

 既にその瞳にはアイギスも映っておらず、彼はただ遠い場所を見つめている。

 

「全部やりなおすんだ。ぼくが関わってしまう前に、ぼくが誰かを救う前まで、全部、全部やりなおさなきゃ」

 

 天井を見つめていた少年が天井に手をかざす。すると、その手の中に光が集まり一枚のカードを形作り始めた。

 遠目から見ていた者たちはそれがペルソナの宿るカードである事は分かったが、どのペルソナが宿るカードかまでは分からない。

 徐々に輪郭がハッキリし、そこに描かれた絵柄が見えてきたとき、目を見開いた茨木童子は叫んだ。

 

《っ、やめろ八雲! そいつを呼ぶな!》

 

 それは左上に天使、右上に鷲、左下に牛、右下にライオン、中央には踊り子が描かれている最後のアルカナ。

 

――――XXI“世界”

 

 少年が持つペルソナで世界を司るペルソナなど二体しかいない。

 今の彼では自分の本来のペルソナを呼び出せない以上、彼がこれから呼び出そうとしているものなど蛇神以外にあり得ない。

 距離の関係で召喚を阻むことは不可能、故に、ペルソナたちはスキルを応用した結界を最大出力で展開し。それが終わるか否かのタイミングで少年がカードを握り砕いた。

 

「――――おねがい。きて、无窮(ムキュウ)

 

***

 

 完全体として呼び出された蛇神・无窮は、頭部が現われた瞬間に天井に向けて“DEATH”を放ってタルタロスを消滅させた。

 もし仮に風花がエントランスに残っていれば蒸発して死んでいただろう。

 思わぬところで命拾いした少女たちを放置し、呼び出した少年は頭部に乗って天を目指す。

 アイギスと出会った当時の姿になった彼は、今はただ全てのことをなかった事にして歴史をやり直さなければと考えている。

 子どもになった姿を見て、アイギスたちは自分たちが彼をそこまで追い詰めたと考えたに違いない。

 しかし、実際のトリガーは茨木童子の“八雲の人格が残っているか疑わしい”という発言だ。

 あの時の八雲は判断能力などは正常とは言い難かったが、アイギスのことや死んだ者たちのことを覚えていた様に記憶はあった。

 そのため、茨木童子の言葉を聞いたときに自分がクローンである事、自分が生まれてから一度も母親に抱き上げられることもなく成長促進剤でオリジナルと同じ年齢まで育てられ出荷されたという、生みの親であったエルナ・ボーデヴィッヒの記憶から読み取った事まで思い出してしまった。

 自分が戦う原因となった両親を殺された事への怒りも、滅びを回避するためアイギスと共に戦ったのも、全てはオリジナルの記憶であって自分のした事ではない。

 ならば、それを理由に今まで生きて戦い、時には憎しみをぶつけていたのは、無関係な人間が勝手に勘違いして迷惑を掛けていた事になる。

 

「はやく、はやくっ」

 

 空を目指す少年は高度を上げ続ける蛇神にもっと速く飛んでくれと命じる。

 自分の間違いを正すため、あの日から全てをやり直す。

 オリジナルがどうなっているのかは知らない。それでも、全てをやり直すにはあの日の続きから始めるしかない。

 少年はそれが正しいかどうかも分からぬまま、雲を超えたところで蛇神から飛び降りて何もない空中に着地する。

 少年が離れても蛇神は上昇を続け、成層圏に届いているのではないかという高さで上昇を止めた。

 そして、街を覆えるほどの長大な身体で環を作る様に旋回する。

 

「无窮、門をひらいて!」

 

 何もない空中に立っていた少年が蛇神に向けて手をかざすと、蛇神は咆吼をあげて身体が光に包まれてゆく。

 徐々にその輪郭がぼやけ、反対に環の内側に膜の様なものが張られると、全ての光が治まったときには街の遙か上空に巨大な鏡が出現していた。

 蛇神が巨大な鏡に変化したことに呼応するように、今度は少年の足下にも光の魔法陣が浮かび上がってゆく。奇しくもそこはタルタロスの頂上だった場所で、タルタロスの頂上は儀式場としての役割を果たしていた。

 ならば、少年がそこでやることなど一つしかない。

 未だ完全には力を取り戻せていないデスの代わりに蛇神を使い、母なる者の封印されている領域と現世を繋ぐ門を開き、十年前に行なわれるはずだった儀式をここで再現するのだ。

 

***

 

 蛇神の顕現の余波だけで吹き飛ばされかけたアイギスたちは、茨木童子たちの結界のおかげでどうにか生きていた。

 DEATHによって破壊されたタルタロスは破片もすべて融解したため、七歌たちは上を見上げると空に浮かぶ魔法陣にいる少年と蛇神が変化した鏡を見ることが出来る。

 だからこそ、自分たちの頭上に浮かぶあれは何だとアイギスは誰にでもなく尋ねていた。

 

「あれは、一体なんですか?」

《……あれは門だ。蛇神は本来向こう側の存在、だからこそ現世との境界を揺らがせ繋ぐ門の役目を果たす事も出来る》

 

 そう話しながら茨木童子たちはアイギスたちを掴んで飛び上がる。

 急に掴まれたことに一同は驚くが、ペルソナであるため空を飛べる彼女たちは、アイギスらを穴の底から地上部である正門から校舎までの道に運んでから解放した。

 地上部に運んで貰らえたおかげでモナドの最下層にいたときよりも近くで見ることが出来るが、ただの鏡の様な状態だった蛇神に再び変化が起きていることに気付く。

 鏡状だった部分が渦を巻いて向こう側に何かが視える。影時間の空ではない。それが何かは理解出来ないが、暗い闇が広がり奥に何かが存在することだけは分かる。

 本能であの門の向こう側が危険だと理解していた真田は、一体何が始まろうとしているのだと叫ぶ。

 

「おい、あれは何だ!? 有里は門とやらを作って何をしようとしている!?」

《門は先ほど言った通り現世とあちら側を繋ぐためのものだ。そうして出来ることなど一つしかない。八雲は、十年前の続きをするつもりだ》

 

 湊の目的を理解したことで、一斉に自我持ちのペルソナたちは飛んで空を目指す。

 そんな事はさせられない。まだ門は完全に繋がっておらず今ならば止めることが出来るかもしれない。

 だからこそ、出し惜しみもなくスキルを放ち、湊の妨害と変化した蛇神の破壊を目指す。

 だが、彼女たちは忘れていた。自分たちの頭上にいるのは姿を変えた神であることを。

 

《ぐっ!?》

 

 現世と常世を繋ごうとしていた門から波動が放たれ、上昇していた茨木童子たちを重力波が襲う。

 思わず力負けして一気に地上に叩き付けられるところだったが、空中で体勢を立て直すとどうにか着地する事が出来た。

 湊の許へ向かっていた彼女たちが戻ってきたため、重力波が発生していることも含めて、今自分たちは何をすべきかと七歌が問う。

 

「教えて、私たちは何をすればいいの?」

《蛇神の重力波を突破しない限り、現状出来ることなどない。門の完成度は既に六割、完全に常世と繋がり八雲が境界に触れれば全て終わる》

 

 忌々しげに門となった蛇神を睨み、茨木童子はほぼ詰んでいる状況だと告げた。

 地上に届く重力波は身体が重いと感じる程度だが、空を飛んで近付くとその分受ける重力は増してゆく。

 普通ならば地上ほど重く感じるのだろうが、蛇神の放つ重力波はスキルのようなもので近い距離ほど効果が強くなるのだ。

 だからこそ、それをどうにか出来なければ終わると話していたとき、湊の足下の魔法陣が消えていくのが見えた。

 今度は一体何が起きるのか。そう思って見ていれば、湊の足下から門まで続く光の螺旋階段が現われている。

 門の接続も続けているため、湊が階段を上りきったと同時に十年前の続きが始まるのかもしれない。

 着々と準備が進められているのを見て、既に滅びへのカウントダウンが始まっている事に、珍しく焦った表情になるバアル・ペオルが七歌たちに指示を飛ばす。

 

《全員ペルソナを出して八雲を止めろ! 辿り着ける可能性が他よりも高い七歌の黄龍とアイギスのパラディオンは妾たちで援護する。すぐに呼び出せ!》

 

 龍の血を引く七歌と親和性の高い黄龍、盾を持つパラディオンは他よりも重力波の影響を軽減出来る可能性がある。

 そのため、バアル・ペオルたちが重力波にスキルをぶつける形で突破する作戦だ。

 指示を出した本人もあまりにお粗末な作戦に表情は硬いが、今できることはそれくらいしかないので、指示を聞いたメンバーたちが一斉にペルソナを呼び出すと後に続く。

 上昇する途中で再び重力波が放たれて特別課外活動部のペルソナたちが落下して消えてゆく。しかし、二度目であった自我持ちのペルソナたちは、必死に上昇を続ける黄龍とパラディオンを襲う重力波にスキルを当てて相殺した。

 微弱な重力波は無視できるため、これならばもしや行けるかもしれない。

 影時間の独特の空気を肩で切りながら上昇し、黄龍とパラディオンと共にバアル・ペオルや茨木童子たちが湊に迫れば、後もう少しというところで先ほどまで湊が足場にしていた魔法陣が現われ結界の様に行く手を阻む。

 

《くっ、既に儀式は始まっているとでもいうのか!》

 

 魔法陣を破壊しようと茨木童子が熱線を放ちぶつける。

 けれど、魔法陣はビクともせず、これ以上先へいけない事で苦虫を噛んだ顔をすると、せめて声よ届けと叫んだ。

 

《ファルロス、八雲を止めろ! このままでは本当に世界が滅びるぞ!》

 

 茨木童子たちが上昇している間に門はほぼ完成している。

 子どもの足で登っているので湊が到達するまでは少し猶予があるが、足を止めてはいないので時間の問題だろう。

 それ故、まだ最後の頼みの綱が残っていると茨木童子は叫んだのだ。

 彼女の声が聞こえたのかは分からない。ただ、湊が半分まで階段を登ったところで彼の身体から光の粒が放出され、影時間の空にタナトスが現われた。

 

《オォォォォォォォォォッ!!》

 

 咆吼したタナトスは棺桶を翼のように広げると、真っ直ぐ湊に向かって突進を仕掛ける。

 これ以上は進ませない。そんな意志を感じさせる様子でタナトスが腕を湊に向かって伸ばせば、その手が触れる直前、湊の身体から翡翠の騎士が現われ不意を突く形でタナトスを切りつけた。

 流石のファルロスもネガティブマインドの時期にポジティブマインドのペルソナを呼び出せるとは思っていなかったのか、楔の剣で切りつけられて湊の中へ強制的に戻される。

 これで湊を阻む全ての障害は排除された。

 

 

***

 

 ゆっくりと階段を登っている少年の耳には他の者たちの声が届いていた。

 だが、自分はすぐにでも世界をやり直さなければいけない。

 間違っていたのだから、自分という誤った存在を排除し、正しい世界に作り替えるのだ。

 “待て、八雲”

 “行ってはいけない”

 “戻ってきて”

 下にいる者たちの声が再び届く。

 だが、今の湊は記憶を持っていながら姿と共に精神も退行を果たしているため、自分が為すべき事のために足は止めなかった。

 頭上に浮かぶ鏡の鏡面は完全に黒い孔となって心の世界と繋がっている。

 姿は見えないが湊は向こう側にニュクスの存在を感じ取っている。

 これならば十二体のアルカナシャドウを倒し切っていなくても、個でありながら他を圧倒する心の力を持つ湊が足りない分を補うことでニュクスを呼べるはずだった。

 

 残り十段。

 

 残り九段。

 

 残り八段。

 

 少年が門に近付くにつれて街中にいたはぐれシャドウたちが騒がしくなっている。

 自我など残ってはいないはずなのに、獣ほどの判断力でも母なる存在の訪れが近付いていることは分かるのかもしれない。

 タルタロスにいたシャドウたちは建物ごと消し飛ばされたので、また明日の影時間にタルタロスが再構築されるまで出ては来ないだろう。

 まぁ、その前に世界は滅びるのだが、少年が歩みを進め残り二段となり境界に向かって手を伸ばしたとき、それは突然に現われた。

 

「ダメよ、八雲」

「――――え?」

 

 自分の知る声が聞こえたことで少年は振り返る。

 すると、そこには死んだはずの母が優しい表情で立っていた。

 

「な、んで? お母さんは、しんじゃったのに、どうしているの?」

「記憶の解禁術を仕掛けたとき、あなたにもしもの事があれば一度だけ心の中で会えるよう別の術も掛けておいたの。ただ、こうやって実体を持てたのは八雲の力でしょうね」

 

 いるはずがない人物、ずっと会いたかった人物、それが優しい笑顔を浮かべて立っていることで少年の心の中はグチャグチャになる。

 そんなはずはないこれは幻覚だと思い込もうとするが、目が、耳が、鼻が、そこに母が存在することを教えてくる。

 突然の事に頭を抱えながら動揺した顔をしている我が子を見た菖蒲は、湊に近づき両手を広げて彼を呼んだ。

 

「おいで、八雲」

「ちがう、ちがう、ちがうっ。ぼくは八雲じゃない、本物の子どもじゃない、お母さんの子どもじゃないっ」

 

 すぐにでも母の胸に飛び込みたい気持ちはある。

 しかし、自分がクローンである事実がそれを邪魔する。

 目の前の女性はオリジナルの母親であって自分の母親ではない。

 記憶の上では母親であっても、その記憶はオリジナルのものなのだから自分は息子ではない。

 怯えた顔で湊がそう叫べば、菖蒲はもう一歩近付いて少年の手を握り優しく語りかけた。

 

「いいえ。あなたは私の子どもよ。私はあなたの中でずっと見てきた。だから、大丈夫。怖がらないで?」

「いい、の? ぼくはたくさんのひとを……」

「いいの。私はあなたが無事ならそれでいい。よく頑張ったね。偉いよ、八雲」

「おかあさんっ」

 

 記憶の上では十年。その間、ずっと求めていた存在に受け入れて貰えたことで少年は涙を流しながら抱きついた。

 罪を犯した自分を認めてはもらえない、クローンである自分は否定される、甘えることも赦されなかった状況にあった彼はずっとその事で悩み続けていた。

 目的のために傷ついても進み続け、そのせいで余計に傷つくことになっても歩みを止めずにいた彼にとって、この一時は初めてただの子どもでいることが出来た瞬間だった。

 子どもの力で精一杯に抱きついてくる我が子を菖蒲は愛おしそうに抱き返し、疲れ切っているはずの彼の頭を優しく撫でながら優しくあやす。

 

「疲れたでしょう? 寝るまで傍にいてあげるから。だから、今はゆっくり休んで?」

「……うん」

「おやすみ。愛してるわ。八雲」

 

 母の声を聞いた少年は、安らぎに包まれたまま意識を手放す。

 そして、その瞬間、二つの世界を繋いでいた蛇神も静かに光になって消えていった。

 

***

 

 湊が門に到達するのが見えていた者たちは、間に合わなかったと絶望しかけた。

 だが、十年前の続きが始まろうとしたとき、一人の女性が現われて彼を止めてくれたことが分かった。

 遠く離れていたせいで相手の姿ははっきりとは見えない。ただ、女性が現われて少しすると門が消滅したことで、どうやら危機を回避することが出来たらしいとだけ理解出来た。

 そして、子どもたちを心配してやってきた栗原と英恵と共に待っていれば、少年の姿のまま意識を失っている湊を抱いた女性が空から降りてきた。

 相手を知らぬ者たちは茨木童子たちと同じ自我持ちのペルソナだろうかと考えたが、相手の正体を尋ねる前に英恵が声をあげた。

 

「あ、菖蒲さんっ」

 

 菖蒲の名を呼んだ英恵は湊を抱いている菖蒲に駆け寄った。

 久しぶりに会う親友のそんな様子に菖蒲は笑い、少し落ち着いてと挨拶をする。

 

「フフッ、久しぶりっていう言い方も変かな? でも、久しぶり」

「どうしてあなたが? 英恵さんも八雲君の中にいたの?」

「うん。でも、私は百鬼としての力は弱かったの。だから、一度限りの術式として八雲が大変なときに心で会えるよう組み込んでいたってわけ」

 

 菖蒲が仕込んだ術式は、名切りの事を知った湊の心が耐えきれなくなったときに起動するものだった。

 イリスが死んで廃人になったときは、未だ完全に名切りとしては目覚めていなかったので起動しなかったが、今回は結果的に己の生に後悔を抱きながら死のうとしていた事で起動したのだ。

 本来は心の中で出会うだけのはずが、ベアトリーチェと同調した湊の力が強くなりすぎて実体化までした訳だが、それでも一度限りの術式という点は変わらない。

 そんな術式を起動させてまで湊を救ってくれた菖蒲に、茨木童子たちは血に宿り共にいながら何も出来なかった事を素直に謝罪した。

 

《済まない。今回ばかりは助かった》

「謝らないでください。子どものピンチに駆けつけるなんて親として当然ですから」

 

 名切りとしての力は遠く及ばない。しかし、自分はこの子の母親として当然のことをしたまでだとしっかり抱きしめて彼女は笑った。

 そんな女性に自分たちのした事を話すのはとても辛い。しかし、だからこそ正直に伝える必要があると七歌も彼女の許にやってきた。

 

「おばさま、その、私たち八雲君に……」

「うん。分かってるから言わなくて良いよ。そういう道を選んだのは八雲だもん。悲しいけどしょうがないことだから」

 

 なんと、七歌が伝える前に菖蒲は全て分かっていると少し悲しそうに笑った。

 湊の選んだ道は他者に理解されるものではない。むしろ敵を多く作ってしまうものだ。

 だからこそ、七歌たちの反応もごく自然なものだと菖蒲は気にしなかった。

 ただし、これだけは言っておきますと突然真剣な表情になると、菖蒲はアイギスやチドリたちを見つめて口を開く。

 

「あなた達は全然ダメ。何も分かってない。八雲の事を世界で一番愛してるのは私なんだからね!」

『……え?』

 

 髪が長いこともあって寝ている姿は少女にしか見えない我が子を抱きしめ、菖蒲はあなた達の愛は自分の物に遠く及ばないと宣言した。

 そのノリはどこか佐久間を彷彿とさせたが、そういえば湊は桜や佐久間といった一部の人間を苦手としていたので、母親の性格に似ている部分があったからかと自然に納得する。

 こんなお茶目な母親の許で育っていれば湊はどんな子どもに成長していたのだろうか。そんな事を思わず考えさせられる相手は、ふにゃっと真剣な表情を崩して言葉を続ける。

 

「ま、そういう訳で、私が負けたって思えるくらい好きってアピールしなきゃダメだよ?」

 

 飴と鞭という訳ではないが、菖蒲はしっかりと息子の事を考えてくれる少女ならば認めると遠回しに伝えてきた。

 一部の少女にとってはこれ以上ない激励であり、言葉はしっかり受け取ったと笑顔を見せれば満足したように笑った菖蒲の身体が光に包まれ始めた。

 

「……時間みたい」

 

 術式に宿る菖蒲は他の自我持ちと異なり二度と呼ぶことは出来ない。

 だからこそ、我が子と別れることをとても惜しむように彼女は力一杯抱きしめている。

 そんな親子の姿を見ていた英恵は、親友との再びの別れに涙を流しながら、自分もあなたに伝えなければならないことがと告白する。

 

「菖蒲さんっ、私、あなたたちに謝らなくちゃいけないことがっ」

「さっきも言ったけど大丈夫よ。分かってるから辛いことをわざわざ言わなくて良いの。申し訳ないって思ってるなら、その分、この子を愛してあげて」

 

 罪悪感で子どもに付き合って欲しくない。ここで消える自分には出来ないが、親友になら任せられるからと菖蒲は英恵の手に湊を渡した。

 母親から別の女性の手に移っても安心した表情で寝ている湊を見つめる菖蒲は、身体が消えるその瞬間まで子どもの頭を撫でる。

 

「ゴメンね、八雲。愛してる――――」

 

 そういって最後に光が弾けると、菖蒲の気配は完全に消えていた。

 菖蒲から託された子どもを英恵はしっかりと抱きしめており、離れてみていた栗原はとりあえずは一件落着かと思ったところで一つの問題に気付いた。

 

「あー、湊はいつ戻るんだい?」

《記憶があるのなら意識がもどれば戻るだろう。ま、今日のところは病院で預かる。車で来たなら久遠総合病院に運んでくれ》

「辰巳記念病院じゃなくてかい?」

《たわけ、敵のど真ん中に愛子をおくか》

 

 久遠総合病院ならば湊の主治医であるシャロンもいる。

 何より、桐条グループも入り込めないセキュリティなので湊を守ることも出来た。

 それを言われてしまうと栗原も辛い立場にあるため、召喚者の意識が途絶えても出っぱなしの茨木童子たちを不思議に思いながら、言う通りに湊を病院へと運ぶのだった。

 

 

 


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