【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第二百四十九話 幼子

影時間――都内・某所

 

 蛇神の降臨、タルタロスの消滅、宣告者の完成を待たずに行なわれたニュクス召喚の儀。

 それらは全てが途轍もない規模のエネルギーを発していたため、探知型のペルソナを有していない者でも感じ取れ、遠く離れた場所からでもある程度は肉眼で見ることが出来た。

 異変を感じた事でビルの屋上へやってきた男は、ムーンライトブリッジの向こう側に見慣れたタルタロスがないことに不思議な感覚を覚えながら、代わりに蛇神が変じた神鏡によって開いた門を見て感動の声を漏らす。

 

「まさか……あれは大いなる存在、シャドウの母たるニュクスを呼ぼうとしているのか?」

 

 男は過去の研究からシャドウたちには大本となる存在がいることに気付いていた。

 その存在の名はニュクス、夜を統べる女神にして力を持った神々の母である。

 しかし、ニュクスの存在はあくまで仮説に過ぎず、話としては存在する可能性が高いというレベルに留まっていた。

 だが、遙か上空に現われた門の向こう側には明らかに現世とは異なる世界が広がっており、あちら側に何かがいるということを本能で理解出来た。

 男に遅れてやってきた者も初めて見る光景に興味深そうにしながら、成程と一つ頷いて口を開いた。

 

「人々の暮らす時間を現世、影時間をあちら側の世界と考えていましたが、どうやらあの世というのはさらに別の次元に存在していたようですね」

「ああ。だが、やはりニュクスは存在した。誰がやったかは分からないが世界を繋げただけでこれだ。こんなものが降臨すれば現代文明は間違いなく滅びるだろう」

 

 男はあれをしっかり目に焼き付けたいと掛けていた眼鏡を外し、布でレンズを磨いてから再びかけ直す。

 蛇神から神鏡へ、神鏡から神門へ、一人の人間がこれだけの儀式を行なったとすれば脅威でしかない。

 何せ、ニュクスの降臨には相応の手順があったはずだからだ。

 

「せやけど、ニュクスが現われるんはアルカナシャドウを倒した後やなかったんかい?」

 

 その事を思い出していた者は眼鏡の男へと尋ねる。

 すると、男の後ろに立っていた少女が薄い笑みを浮かべながら頷き、妙に耳に残る不思議な声で答えた。

 

「ええ、十二体に分かれた力の欠片が一つになり、シャドウの王、宣告者であるデスが復活してニュクスは降臨するのよ」

「けど、あの巨大な蛇を呼び出したやつは力業で空間に孔を空けた。ここまで力の余波が届くんだ。蛇が旋回していた時点でその中心には空間の歪みが生じていたはずだ」

 

 少女に続いて隣に立っていた少年も会話に参加し、蛇神の召喚者は途轍もなく規格外だと呆れた様な顔で吐き捨てる。

 宣告者であるデスは人類の総意によって生まれる。十年前の研究で人工的に誕生を速めることが可能だとは分かっていたが、蛇神の持ち主はそれらをすっ飛ばして個人の意志のみでニュクスを呼んでしまった。

 これでは自分たちの研究どころか、十年前に命を落とした者たちも無駄死にでしかない。

 何せ、滅びを求めるのなら蛇神の持ち主にさえ頼めば良かったのだから。

 ある意味ではニュクスが実在すると分かったので良かったが、もしこのまま世界に滅びがもたらされるのであれば、世界が滅びた後の準備が出来ていない男はどうしたものかと顎に手を当てる。

 けれど、その事に僅かな不安を覚えながらも神門に熱い視線を送っていた男は、神門が突然弾ける様にして消えてしまったことで名残惜しそうに溜息を溢した。

 

「……消えたか。儀式が失敗したのかどうかは分からないが、先ほどのあれは十年前に御当主が行なおうとしていたものと同一だろう。我々以外にも滅びの日を求め、単独でそれを為そうとした者がいたことは朗報だ」

「それは同志という意味でですか? それとも、先のことにより滅びの訪れが現実味を増したからですか?」

 

 終わったのならすぐにこの場を去ろうと男は屋上の入り口に向かって歩き出す。

 その僅か後方に続いて半裸の男が尋ねれば、眼鏡の男は振り返ることなく愉しそうに答えた。

 

「勿論、後者さ。あの巨大なペルソナは先日桐条君たちが出会った少女のものだろう。しかし、我々は相手について何も知らない。一人で世界に滅びを齎そうとする精神の在り方も含め、正直に言ってコントロール出来るとは思えない」

「では、その少女とやらは諦めると?」

「ああ。儀式を行なえば確実にニュクスは呼び出せる。なら、そんな危険なものを抱え込んでリスクをあげる必要はない。仲間は同じ目的のため手を組んだ君たちだけで十分さ」

 

 その少女を味方に出来れば間違いなくジョーカーとなる。

 だが、現状は同盟を結んだ相手がいれば戦力は足りているのだ。

 だからこそ、ここでそんな危険な存在を招き入れるリスクは冒せない。手順を踏めば自分たちでも安全にニュクスを呼べるのだから、お互いに協力して行こうと言って幾月は笑った。

 

 

8月13日(木)

朝――久遠総合病院

 

 車で湊を久遠総合病院に送った後、どういう訳か実体を維持できている自我持ちのペルソナたちがシャロンに事情を説明し、湊はそのまま病院内のVIP区画で入院することとなった。

 他の者たちは一度帰って朝の面会可能時間になってから来いという事で、桜や美紀にも湊が保護された事を伝えつつ、夜が明けて九時頃には既に病院の前にやって来ていた。

 特別課外活動部のメンバーたちの行動に怒っていた美紀とは久しぶりに会った訳だが、今の彼女は湊が十年前の姿になっているとも聞いた事で心配そうな顔をしている。

 

《お前ら朝から随分と熱心だな》

 

 男連中が心配そうにしている美紀に話しかけることが出来ないでいると、病院から現代風の私服姿になった茨木童子が出てきて呆れた顔で一同を見渡す。

 彼女は珍しく現代の服を着ているが、一応、自我持ち全員がそういったTPOを弁えて人前で活動する事が出来るので、メンバーらが不思議そうにしていようと本人たちにすれば今更というやつだ。

 そうして、茨木童子が他の者に背を向けてガラスの自動ドアから入ってゆくと、他の者たちは病院特有の匂いを感じながら清潔な館内を歩く。

 入院着で彷徨く患者や忙しそうに物を運んでいる看護師とすれ違い。夏休みだけあってお見舞いの人間も多くいるなと思いながら、さらに上のフロアに上がって奥へと向かえば、明らかに他とは異なるガラスの扉で区切られたエリアがあった。

 ガラスの向こう側が特別な入院患者が泊まるVIP区画という訳だが、ガラス扉の向こう側は奥が見えないよう壁が立っており、玄関のように三和土(たたき)もあることから靴を脱ぐ必要があった。

 まぁ、施設内を清潔に保つには土足で移動しない事が一番なので、中に入れば三和土で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えてから壁を迂回して奥へ向かう。

 壁を避けた先には廊下が続いており、途中にいくつかの扉があったが最奥まで進んで廊下を抜けると、リビングダイニングのようになった奥の部屋で自我持ちのペルソナたちが寛いでいた。

 その広い空間の他にもキッチンやトイレにバスルームも存在し、本当にここで暮らすことが出来そうな間取りに一同は少し驚く。

 だが、そんなところを見て回る必要はないので、もう一度廊下の方へ戻ると茨木童子に案内されるまま部屋の一つに通された。

 そこは他の個人用の病室と変わらない簡素な内装だった。違いがあるとすれば置かれているテレビやベッドのグレードが高いくらいで、ナースコールのボタンもある事からVIP区画の中でもここだけは病院であることを意識できる。

 しかし、他の者が何よりも驚いたのは、簡素な内装ではなくベッドで寝ている子どもの姿だった。

 

「な、なぜ八雲さんはさらに小さくなっているんですか?」

《知らん。朝になったらそうなっていた》

 

 寝ている子どもを見たアイギスは目を見開きながらベッドに近付いてゆく。

 そこには髪の長い少女にしか見えない子どもがすやすやと寝息を立てているのだが、昨夜の時点では相手は十年前の小学一年生くらいの姿をしていたはずなのだ。

 だが、いまアイギスたちの目の前にはもっと小さな子どもがいる。

 身体の大きさを考えると二歳にもなっておらず、赤ん坊ではないが大して変わらない幼さだ。

 本当にこの子が湊なのだろうかとアイギスが手を伸ばせば、横から英恵がその手を掴んで止めた。

 

「アイギスさん、起きてしまうから抱き上げてはダメよ?」

「ですが、本当にこの子どもが八雲さんかどうか……」

「それは私が断言します。流石にこんなに髪は長くなかったけど、八雲君は元々菖蒲さん似で女の子にしか見えない子だったから」

 

 せっかく穏やかな表情で寝ているのに抱き上げれば起きてしまう。

 それは流石に可哀想だからと英恵がアイギスを止めると、一度部屋から出て話そうとその場所から移動する。

 まぁ、移動すると言っても自我持ちたちのいるリビングの方へだが、ソファーやテーブルにバラバラに座ると茨木童子が他の者たちが帰ってからの事を説明した。

 

《昨日、お前たちが帰ってから我らも交代で八雲を見ていた。一夜明ければ元に戻ると思っていたんだが、明け方の五時頃か、出雲阿国が見ているときに突然縮みだしたのだ》

《何の前触れもなかったんだよ。本当にしゅしゅしゅしゅしゅーって》

 

 身体が僅かに白い光に包まれた後、驚いている出雲阿国の目の前で八雲の身体は縮んで今の姿になっていた。

 本人たちは今の姿は本当に小さくて可愛いと思っているが、だからといって大きくなるどころか逆に小さくなって良いはずがない。

 自我持ちたちが顕現状態を維持されていることで湊の心が残っている事は分かるが、その記憶がどのようになっているかも分からないとなると下手に動けない。

 そうして全員が黙っていると俯いていた美紀が顔を上げて口を開いた。

 

「……もし記憶がなかったらどうなるんですか?」

《どうもならん。そも、今の八雲ではここにいる全員を知らぬのだ。英恵のことは欠片くらいは覚えているかもしれんが、あくまで当時まで退行していたらの話でしかない》

 

 もし湊がただの幼児になっていたとすれば、彼は誰も知らない状態で大勢の大人に囲まれることになる。

 自分の心から生じたペルソナたちの事は気配で理解して貰いたいが、背丈からするとまだ二歳児にもならないと思われるので、その幼さにそこまでを期待することは難しいだろう。

 それを聞いた美紀は視線を落としたが、まずは湊が目を覚まして彼の状態を把握しない事には今後の対応を話し合うことも出来ない。

 よって、もうしばらくは彼の目覚め待ちだという話で纏まれば、そういえばと茨木童子が口を開いた。

 

《ああ、シャロンが保護者がやってきたら来るように言っていたぞ。今の幼い八雲のとりあえずの健康状態などを伝えたいらしい。目が覚めてから育てる可能性もあるからな》

 

 確かに今の湊の健康状態はかなり心配だ。アイギスたちが来るまで一ヶ月も不眠不休で戦っていた事を考えれば、なぜ点滴もしていないのだと疑問も湧く。

 きっとその点に関しては医者の判断もあったのだろうが、ならば話を聞いてくると英恵と桜が席を立てば、アイギスが自分も聞きたいと一緒について行った。

 三人がVIP区画から出て行くと残った者たちはどうするかという顔になる。

 とりあえず、キッチンにはお茶などもあるので、赫夜比売が自由に使っていいと伝えると美鶴とラビリスがお茶の準備をしにキッチンへ向かい、男子らはリビングに残ったが、他の女子たちは寝ている湊の様子を見に部屋へ向かった。

 

「……八雲君、ちっちゃいね」

「うん。可愛いよね」

 

 ベッドで寝ている子どもは本当に少女にしか見えない。

 ベタベタと触ると起きてしまうので出来ないが、可愛らしい相手の姿に思わず頬を緩ませながら風花が指を伸ばせば、相手の小さな手に触れた途端にきゅっと掴まれた。

 それは子ども特有の反射行動なのだが、簡単に折れてしまいそうなほど細く小さな指に掴まれたことで、風花は何やら感動して思わず叫びそうになっている。

 ここで叫べば起きてしまうので、絶対に声を出すなよとゆかりが後ろから口を押さえれば、今度は美紀が指をそっと伸ばして小さな唇に触れた。

 途端、湊は何かを探すように顔を少し動かすと寝たまま相手の指を咥えた。

 

「あ、歯があります」

「まぁ、二歳くらいらしいしね。それくらいなら歯も揃う頃でしょ」

 

 寝ている湊は風花の指を掴んだまま美紀の指を吸っている。

 おかげで硬い歯に触れることが出来た美紀は、七歌の説明を聞きつつこんな小さな子どもでも歯があるのだなと感動を覚え、うっとりした目を寝ている子どもに向けていた。

 

「……連れ帰ろうとしたら通報するわよ」

 

 そんな寝ている子どもにちょっかいをかけている二人に、チドリは冷めた視線を向けると本気で通報するからと脅しをかけておく。

 もし育てることになれば家族である自分が連れ帰るのが当然だと思っているのだろう。

 彼女も十分に幼い湊にやられていると言えるが、幼い子どもを可愛いと思ってしまうのは母性からくる本能なので、相手のことを大切に思っている事も合わさればこの反応も当然といえた。

 その後、女子たちはお茶を飲みに少し離れたりもしたが、基本的に寝ている湊を見て過ごした。

 話が長引いているのか、それともシャロンの用事が立て込んでいてすぐに話せていないのかは分からないが、アイギスたちはまだ帰ってきていない。

 まぁ、帰ってくれば大勢で部屋にいてはダメだと注意されているだろうが、寝顔を眺めているだけで女子たちが癒やされていたとき、寝ていた湊の睫毛が少し動いた。

 

「あ……これ、起きるのかな?」

「しっ、寝ぼけてるだけかもしれないから静かに」

 

 目を閉じたままさらに目を瞑るような動作をしていることで、このまま目覚めるのかなと風花がワクワク顔で彼の目覚めを待つ。

 しかし、ただ寝ぼけているだけの可能性もあるので、ゆかりが静かにするように言って部屋にいる全員が彼を見ていれば、閉じていた瞳がゆっくりと開いた。

 瞳の色は輝く様な金色、つまりは一度黒眼に戻っていた十年前の姿とはまた異なる状態という事だろう。

 まだ眠そうに小さな手で目をこすり、可愛らしい口を大きく開けて欠伸をしている。

 その仕草だけで風花や美紀はプルプルと身体を震わせているが、まだ相手からのアクションがないことで他の者たちは待ちに徹する。

 すると、ようやく意識が覚醒してきたのか、相手は両足を前に投げ出した状態で身体を起こし、目をぱちくりとさせながら周囲を見渡し始めた。

 ここはどこだろうか、とそんな事を考えているに違いない。

 十数年前の記憶の状態でも、現在の湊の記憶を持っている状態でも、彼は意識を失ってから運ばれているので自分がどこにいるのか分かっていない。

 だからこそ、本当に重要なのは次の行動だと思って見ていれば、相手は驚いた顔をして周りを見渡し始めた。

 そして次に、自分が大勢に囲まれていることに気付くと、相手は身体を横に倒して転がる様にベッドから飛び降りてゆく。

 

「あ。危ないって!」

 

 相手の突然の行動にゆかりが手を伸ばして受け止めようとするも、湊はベッドから落ちる瞬間に残していた足でベッドを強く蹴って跳躍した。

 おかげで受け入れ体勢になっていたゆかりは体当たりを喰らい、後ろ向きに床の上に倒れながら頭を打ってしまう。

 対して、ゆかりをクッション代わりにした相手はそのまま相手の上から降りて逃走。

 歩ける様になったばかりの転けそうな走り方だが、小さいことも相まって異様に速く感じる。

 部屋を飛び出すとすぐ左には知らない人が大勢いたので方向転換。

 部屋を出て右方向、つまりはVIP区画の入り口へと向かって駆けてゆく。

 

「有里が脱走した! 多分、記憶はない!」

 

 逃げた相手を追うために女子たちは部屋を出て行く、美鶴は打った頭を痛そうに押さえているゆかりを助け起こして他の者に事情を説明するが、それを聞いた自我持ちたちは真剣な表情で立ち上がって子どもの後を追った。

 

***

 

 病院内の冷たい廊下を入院着姿の幼女が走る。ペタペタと裸足で走る音をさせながら廊下を疾走するが、その速度は小学校低学年の子どもよりも速いくらいだ。

 自分たちの腰にも届かない背丈の子どもがそんな速度で走っていれば大人は当然驚く。

 一体どうしたんだと走ってくる子どもを看護師が腰を落として止めようとすれば、子どもは相手の腕を真横に飛んでかい潜り、受け身で床を転がる勢いを利用しながら立ち上がり再び走った。

 今にも転けそうな走り方でどうしてそんな速度が出るのか。

 見ている者は不思議に思うが、走っている子どもの顔がやけに真剣なので、ただ事ではないことは理解する。

 彼女の後ろからは数名の女子たちが走って追いかけてきているが、病院内で全力疾走できないことや人がいることもあって、全力で走れている子どもの方が速度は上だ。

 徐々に距離が開いてくると、もう少しでエスカレーターの方へ出てしまうということもあって追いかけている女子たちは焦りを覚えている。

 そんな大人側のことなど知らずに子どもが走っていると、前方から白衣を着た女性と金髪の少女が歩いてくる。

 

「アイギス、八雲君を捕まえて!」

 

 そのタイミングで追って来ていた女子が叫び、走ってくる子どもに気付いた少女が驚いた後に真剣な顔で立ちふさがった。

 だが、子どもはまだ抜けられると思っていた。難しいことは考えられなくても、空いている相手の脇を通って逃げればいい。

 そう考えて相手の目の前で横に飛べば、予想外の跳躍に目を見開いた相手は短く呟いた。

 

「――――オペレーションE.X.O」

 

 瞬間、相手の身体から青白い光が放たれ人間の限界を超える。

 それはたった一瞬だけの事だったが、少女はその一瞬で相手の動きに完全に追いついた。

 抜けたと思った子どもは後ろから抱きしめられ、その事に驚きながらも暴れて脱出を図る。

 だが、絶対に離さないと少女が両腕を使って身体と首辺りで抱え込めば、首辺りを押さえていた方の腕に激痛が走った。

 

「痛っ」

 

 一体何だと見てみれば、子どもが必死な顔で噛み付いていた。

 小さくとも健康的な白い歯が少女の柔らかい肉に食い込んでおり、そこからは赤い血が出ている。

 けれど、それでも離すことは出来ないと、少女は拘束する腕にさらに力を籠めながら逃げようとする子どもに話しかける。

 

「お願いです八雲さん、怖がらないでください! わたしたちはあなたに危害を加えません。絶対に誰にもさせませんから!」

 

 アイギスは完全とは言わないが対象のイメージを読み取る力を持っている。

 それによってコロマルなど動物の言葉を理解している訳だが、いまアイギスはその力で自分の腕の中にいる子どもが怖がっている事に気付いた。

 話を聞かなくても分かる。この子どもに有里湊の記憶はない。

 そんな状態で、目が覚めたときには知らない大人に囲まれていて驚いたはずだ。

 今も必死に逃げようとしているのは恐いから。知らない場所で、知らない人間に囲まれたことで怯えている。

 だからこそ、アイギスは噛まれている腕が痛もうと、相手をしっかりと抱きしめて落ち着いて欲しいと声をかけ続けた。

 すると、アイギスの言葉から湊の状態を察したらしいシャロンが、子どもと目線を合わせ相手の顔に手を当てた。

 一体何をするのか。拘束しながらアイギスが見ていれば、シャロンはちょっとゴメンねと言って湊の顔の向きを少し変えて自分の方を向かせる。

 

「ここは病院。分かる? ここは病院。私はお医者さん。病院の先生よ」

 

 しっかりと目を見て話しかけられた事で僅かにだが湊の噛む力が緩んだ。

 それを確認したシャロンは相手の頭を撫でながら続ける。

 

「ゴメンね、ビックリしたね。でも、このお姉ちゃんたちはあなたを助けてくれたの。大丈夫だからゆっくりお口離してね」

 

 知らない場所で目覚め、両親も傍にいない状況で大人たちに囲まれるなど、幼い子どもにとってどれだけ不安だったことだろう。

 怖がらせてゴメンねと謝りながら頭を撫で続けてやれば、少しは落ち着いたのか湊はアイギスの腕から口を離した。

 健康的な歯には赤い血が付いており、彼の口の周りもアイギスの腕も血だらけだ。

 流れた血は湊の着ている入院着と床も汚しており、相手に怪我をさせてしまったことを後悔しているのか、アイギスの腕の中で振り返った湊はとても心配そうに彼女を見上げる。

 その瞳に宿る不安をすぐに感じ取ったアイギスは、腕の痛みを我慢しながら出来るだけ彼を安心させてやろうと微笑んだ。

 

「心配しないでください。これくらいのケガ、へっちゃらですから」

 

 相手は十年前の八雲よりさらに幼い。だからこそ、アイギスは子どもにも分かり易い砕けた言葉遣いを選んだ。

 しかし、それでも相手は自分を助けてくれたらしい人物に怪我を負わせた事に責任を感じているのか、僅かに目を伏せるとアイギスの怪我した部分に触れた。

 かなり深い傷に子どもの高い体温は染みて痛い。それを分かっているシャロンがそれとなく相手の手を離させようとしたとき、湊の身体が淡く光り触れている部分から緑色の光が溢れた。

 一体これはなんだ? どうして力について何も知らない今の状態で異能が使える?

 そんな疑問が頭に次々と浮かんでくるも、光が治まって湊が手を離せば傷は綺麗になくなっていた。

 

「あなた、自分の生命力を放出できるの?」

 

 湊の治療行為を見ていたシャロンが突然そんな事を言った。

 言われた本人は不思議そうに首を傾げているので意味を理解していないようだが、知らずにやっているとするとまずいのか、シャロンはあんまり力を使ってはいけないと優しく伝えてから立ち上がる。

 見ていたアイギスもシャロンに続き湊を抱っこしたまま立ち上がるが、腕の中にいる相手は既に逃走の意思はない様で、アイギスの服をきゅっと掴んだまま大人しくしていた。

 追いついた者たちはそれを見て安堵の息を吐いているが、今度は口の周りと服が血だらけになっていることに気付き、心配した様子で一気に近付いて来た。

 

「口から血が出ているじゃないですか!? すぐにお医者様に看て貰わないと!」

「大丈夫? 痛くないかな?」

「あー、それアイギスちゃんの血だから大丈夫よぉ。というか、この子まだ落ち着いたばっかりだから驚かせないであげてね」

 

 急に美紀と風花が距離を詰めてきたことで、湊は僅かに表情を強張らせながらアイギスに抱きつく手の力を強めている。

 これはアイギスに対しては警戒を解いているが、他の者にはまだ警戒心を残しているという事なので、心配なのは分かるが相手のことを考えてやってとシャロンが二人に距離を取らせた。

 子どもが怯えては可哀想だからとすぐに理解してくれた美紀たちに感謝しつつ、シャロンは携帯で掃除のスタッフを呼ぶと、スタッフが来るまでの間に少し湊の状態を把握しておこうと簡単な質問をした。

 

「あなた、自分のお名前いえる?」

 

 まずは自己紹介から。自分の名前はシャロンだから、先生でもシャロンさんでも好きに呼んでと言って笑いかける。

 そして、次はあなたの名前を教えて欲しいと頼めば、湊は先ほどのようにアイギスに強く抱きつきながら首を横に振った。

 言葉は理解しているというのに、どうして名前を教えてくれないのか。その事に疑問を感じていると、彼を抱き上げているアイギスが名前を教えてあげてと声をかける。

 

「八雲さん、ちゃんとお話ししないとシャロンさんも困ってしまいますよ?」

 

 自分を抱いてくれている者に言われると、湊は今度は不安そうな顔でアイギスを見つめて首を横に振った。

 名前を呼ばれて反応しているという事は、確かに彼は自分の名前を八雲だと理解している。

 しかし、今現在この場で最も信頼している様子のアイギスに言われても、首を横に振るだけで湊は一言も話さない。

 そうやって相手の様子から分かることを考えていたシャロンは、そういえば先ほどもアイギスに噛み付くだけで全く声を出していなかったことに気付いた。

 

「……この子、話さないんじゃないわね。多分、話せないんだわ」

「それは失語症という事ですか?」

「よく勘違いされるけど、失語症と失声症は別の病気よ。失語症は言ってしまえば脳の麻痺などが原因の機能障害で、その範囲は筆記や言語理解にも及ぶの。対して、失声症は心因性のものだから発声以外ならコミュニケーションも可能なのよ」

 

 声を出せない子どもに話せというのは難しい注文だった。

 相手の状態を分かっていなかったからこその言葉だったが、無理なことを言ってゴメンねと謝り頭を撫でてやれば、湊はアイギスに抱きつく力を弱めてホッとした顔をしていた。

 そんな成長した彼からは想像も出来ない素直な反応に笑いそうになる。

 けれど、相手が記憶のない“百鬼八雲”であるならば、服を買いに出掛けた保護者二人も交えてもう少し細かく今後の事を話し合わなければならない。

 幸いなことにこの女の子にしか見えない少年は、アイギスに抱っこされている間は大人しくしている。

 彼を抱っこしたい風花たちがおいでと言っても離れようとしないので、しばらくはアイギスにベッタリしていると思われるが、その状態ならば話し合いの場に彼を連れてくる事も出来る。

 掃除用具を持ったスタッフが到着したこともあり、シャロンはとりあえずVIP区画に戻ることを提案すると、携帯で別のスタッフに幼児用の入院着を持ってくるよう伝えてその場を後にした。

 

 

 


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