――ヤソガミコウコウ
他の者たちが転送装置を使って校舎に戻ってくれば、玲と彼女を追っていた雪子と善が時計塔の前にいた。
玲は時計塔に手を当て背中を向けており表情が見えない。
だが、あの場から逃げ出したときの事を考えれば、今の彼女の精神状態は冷静とは言えないだろう。
先に少女を追っていた二人が他の者がやって来たことに気付き、皆が集まって足を止めたタイミングで雪子が善に尋ねる。
「ねぇ、さっきの話ってどういう事? 玲ちゃんがもう死んでるって……」
下に残った者たちは湊から玲が死んでいる事は聞いていた。
“死”が視える彼にとって、如何に精巧に出来ていようと生者と死者を見分けるのは容易い。
その魂が本物だろうと、しっかりとした自我や心が残っていようと、死者にはより濃く死の線が視えるのだ。
ただ、それを聞いた他の者からすれば、既に死んでいるのにどうして死の線が視えるのかという疑問が湧くに違いない。
彼が言うには死は万物に存在するものであり、死者も完全な無に還らない限りは消滅させられるらしい。
そのため、魂だけで存在する玲は他の者よりも存在があやふやで、湊の魔眼を通して視れば全身に存在の綻びが視えていた。
青年からその話を聞いていない雪子は、彼女が既に死んでいるのは事実なのだろうと察しながらも、彼女がここに来るに至った理由などを聞くため善の答えを待つ。
すると、善は目を閉じてしばらく黙り込み、話す内容を頭の中で整理したのか口を開いた。
「ここは狭間の地。無意識の海へと繋がる場所だ。玲は死んで身体をなくし。心も消えゆくほんの一時の間、この世界に迷いこんだ……だから私は来たんだ。迷いこんでしまった玲に、時の終わりを告げるために」
通常、死んだ者の魂はそのまま消滅するが、心の一部は無意識の海へと向かう。
宗教や文化によってその呼び名は変わり、ある文化ではそこを死後の世界と定義して天国やあの世、また別の文化では星の記憶や魂のコミューンと呼ぶ事もある。
事実、そこには過去の人間たちの心の一部が記録として残っており、もしも辿り着くことが出来れば過去の人間にだって会えるに違いない。
だが、若くして死んでしまった玲の心は、無意識の海へ向かう途中に偶然発生したこの場所に辿り着いた。
天地の向きだけが定まった何もない空間。世界としての理もなく、本当にただ偶然世界の狭間に浮かんだ孤島のような場所。
そんな場所に偶然にも玲が迷いこんだことで、善は彼女をあるべき流れに乗せるために遣わされたのだ。
「うそ……うそだよ……っ」
善の口から語られる真実は玲にとっては無慈悲な内容ばかり。
けれど、告げられた真実を受け入れない彼女に、善は本当は分かっているのだろうと話す。
「玲、君の記憶は既に戻ったはずだ」
「……こわい」
絞り出すように玲が言う。
それに善が優しい声色で答える。
「怖くない。私が一緒だ」
この世界の玲にはしっかりとした自我がある。
過去の記憶を取り戻したが、皆と一緒にダンジョンを攻略した記憶もあれば、一緒に食事をしたり赤ん坊の世話をした思い出もあった。
だからこそ、自分が死んでいるという実感がない。または死んでいるという実感が薄れているのかもしれない。
そう思ったからこそ、善は自分も一緒に行くから大丈夫だと彼女を安心させようとした。
死ぬと考えるから怖いのだと、自分と共にこの閉じた世界から旅立つと思えば良いと。
しかし、そういって善が彼女に近付いてゆけば、玲は振り返って記憶が戻った事で日本人らしい黒色が変化した瞳で善を真っ直ぐ捉え、その心の内を叫ぶように話す。
「……怖いのは、死ぬことじゃない。何も“無かった”ことが怖いの……生まれてきて、“無かった”まま死ぬことが怖いの! 私はどうして生まれたの? 苦しみばかり、人を羨んでばかりで学校に行くことさえ叶わなかった……!」
玲は善によって封じされていた記憶を取り戻した。
自分が本当はどんな存在で、どういった人生を生きてきたのかも思い出すことが出来る。
ただ、その封じられていた記憶にあったのは、“どうして自分ばかりが”という己の境遇に対する不満と、平凡ながらも彼女からすれば十分に恵まれた他の者たちの境遇に対する羨望ばかり。
自分の足が遅いからと体育を嫌う少年。
――――走れるだけ良いではないか。
雨だから学校に行くのが面倒だという少女。
――――なら自分が行くから替わってくれ。
ようやく授業が終わって自由だと笑いながら帰って行く少年。
――――ああ、自分もそんな風に友達と一緒に通学路を歩きたかった。
玲はこの世界に七歌たちが来てから校門の外に出ようとしてみた事があった。
順平や荒垣が調べてみたところ、学校の敷地外に見えている稲羽市には行くことが出来ない。
学校の門やフェンスを境界として、外に出たつもりが中に戻される。
そう聞いてはいたが、外から人がやってきたなら変化が起きているかもと彼女も試してみたのだ。
しかし、結果は他の者たちと同じで、玲が校門から一歩出てみれば、気付けば校門から校舎に向けて一歩踏み出した状態になっていた。
その時に僅かな寂しさを覚えたような気がしていたが、記憶が戻ったことで玲は寂しさの意味を理解した。
こうやって再現された世界であっても、玲は学校の授業を受けることは出来なかったし、皆と一緒に放課後の街へと出かけることも出来なかった。
善が行なった世界をイメージ通りに作り替える魔法をもってしても玲の小さな願いは叶わなかったのだ。
「そこに、意味があるならいいよ。意味があったなら……耐えられるよ。でも意味が無いなら……認められない……死ぬなんて……終わりだなんて!!」
大きな瞳から涙を溢しながらの玲の叫びは、聞いている者たちの心を強く締め付ける。
自分たちが当たり前に過ごしていた時間が、平凡な日常だと思っていた物が、彼女が何よりも求めたものだったのだ。
自分にも望んでも手に入らなかった物があるから気持ちは分かる。などとは一時の慰めのためだろうと言う事は出来ない。
中でも、自分の人格の基になった少女や、自身が同じ願いを持っていたラビリスにとって、玲の焦がれるほどの気持ちは理解出来るのだが、自分が望んでいた以上の結果で願いを叶えて貰った立場であるため、“未来がない”少女には何も言うことが出来なかった。
「まだ、何もしてない……まだ――――何も見つけてないっ!!」
彼女は別に歴史に名を刻みたい訳じゃない。そんな大きな事なんて考えた事も無い。
望んでばかり、羨んでばかりのまま死んだ玲は、ただ自分が生きていたという証が欲しいだけだ。
何一つ成し遂げることもなく、ただ生まれて死んだのでは自分が生きたことの意味が見いだせない。そんなものはいてもいなくても同じだから。
そう言った玲が小さな肩を震わせて泣いていると、彼女にかける言葉を持たない者たちは黙って俯くことしか出来ない。
彼女を連れて行こうと思っていた善も、玲が胸の内に抱えていた本当の想いを聞いて何も言えずにいる。
無理矢理に彼女をこの世界から連れ出し、他の者たちはベルベットルームにある全ての鍵が外れた扉から元の世界に帰ることも出来る。
だが、それでは七歌や鳴上たちだけが助かり、誰よりも救いを求めている玲だけが何も救われない。死して尚、誰かを妬みながら消えるなどあまりにも辛すぎる。
そうして、それぞれが何か一つくらい掛ける言葉がないか探していれば、集団の隅で冷めた目をしていた青年が小さく嗤いながら呟いた。
「……死んだ後まで悩むとは随分と贅沢だな」
青年の言葉が耳に届いた者たちは、どうして玲を煽るような事を言うんだと驚いた顔で彼を見る。
案の定、彼の言葉を聞いた玲は表情を怒りに変え、その瞳をシャドウの金色の輝かせながら、知った風な事を口にした青年へ言葉を返した。
「何が分かるの!? まだ生きてるあんたに!!」
「何が分かる、か。確かに俺は生きてはいるが、“死”については誰よりも理解してるぞ」
玲がどう言い返してくるかなど分かっていたと、湊はさらに口元をつり上げて嗤う。
そして、右手に玉藻の前が宿る死神のカードを、左手に鈴鹿御前の宿る運命のカードを呼び出して同時に握り砕いた。
カードが握り砕かれると彼を中心に不思議な力が広がってゆく。傍にいた者たちだけでなく、時計塔や校舎まで不思議な力に包まれ、全員が何をしたんだと彼を見た。
「なんだ……これは…………」
湊の方を見たとき、鳴上は自分の視界に映る全てのモノに赤い光の線が入っている事に気付く。
仲間たちの着ている服だけじゃない。仲間の顔や手にも見えるし、地面や校舎などにも同じように光の線が見える。
光の線は規則的に入っている訳ではなく、斜めに入っている事もあれば、他の線と交差しているものもあった。
それが何であるかは理解出来ないが、地面や自分たちにまで線が見えているせいで不安な気持ちになってくる。
一体これが何なのか青年に説明を求めようとしたとき、マフラーからレンガを一つ取り出した湊が、全員に見えるようにそれを掲げながら、レンガに走っていた光の線を指でなぞった。
すると、頑丈そうなレンガが彼の指でなぞられた線に沿ってずれてゆく。
ズズズと小さく音をさせながらずれたレンガは、最終的に上下に分かれて上側だけが地面に落下した。
光の線に触れてみようと思っていた者たちも、指でなぞるだけでレンガが切れたのを見れば、そんな危険な印だったのかと思わず動きを止める。
自分や仲間の身体に走っている線は勿論、地面に見えている線も怖くて踏むことが出来ない。
全員が光の線に対して恐怖を感じて汗を滲ませれば、湊は指を鳴らして全ての線を消し、蒼い魔眼でしっかりと玲を見つめて話しかける。
「……これが俺にとっての世界だ。光の線を指でなぞるだけで物は壊れ、生き物は癒えない傷を負う。こんなものを見ながら十年生きてるもんでな。死についてはお前より詳しいぞ」
「何それ……だって、自分の身体や建物にだって見えてたじゃない……。触れれば壊れるって分かってたら、恐ろしくて一歩も動く事なんて……」
未だ金色のままになっている玲の瞳が戸惑うように揺れる。
先ほど湊が見せたのはミックスレイドで自分の視界を再現しただけのものだ。
他の者が見ているのはただの映像なので、彼らが光の線に触れようとしてもそこにある物体に阻まれるだけだが、湊の魔眼には本物の“死の線”が視えていた。
だからこそ、他の者の安全を確保しながら実演する事が出来たのだが、玲以外の者たちも同じように感じたのか、心配した視線を湊へと向けてくる。
月光館学園に通っている者たちには、今までにも何度か魔眼の説明をしていたはずだが、実際に視覚でそれを捉えて初めて“死が視える”ことの恐ろしさを理解出来たらしい。
それを見た湊は理解の遅い奴らだと心の中で呆れつつ、シャドウと精神が同化している玲に言葉を返す。
「……そうだな。少しずれるだけで床が崩れ、天井が落ちてくるんじゃないかという不安はあったし。自分が触れて相手を傷つけたらどうしようとも思った。死に囲まれているせいで現実にいるという実感が薄れてゆくし、この力は目を閉じても感覚的に分かってしまう」
「なら、あなたはどうやって生きてこられたの?」
「この命の使い方は決めてある。ただそれだけだ」
玲の問いに湊はただそう返す。
生きてきた訳じゃない。彼にとってこれまでの時間は求める結果に向かう過程でしかないのだ。
その過程の中で大切なものと出会い、絶対に忘れることの出来ない思い出も出来た。
ただ、それらを惜しいと思う気持ちがありながら、彼は躊躇うことなく自分の命を使うことが出来る。
自分の求める願いのためならば、彼にとって自分の命も、人生も惜しむ必要がないのだろう。
自分の生きた意味を求める少女は、そんな彼の自分とも他の者とも違う在り方を悲しいと感じながらも、そうまで強く生きられる姿が眩しいと思った。
冷静さを取り戻した玲の瞳の色が黒に戻る。そして、既に生き方を決めてしまっている青年を見て口を開いた。
「だめだよ……。わたしは、そんな風に……強くなれない……………」
湊を見つめる玲の瞳の端から一筋の涙が流れる。
自分も生きている間にそこまで想える存在に出会っていれば違ったかもしれない。
自分の生きた意味を、他者を通じて感じる事が出来ていれば、こんな風に迷いこむこともなかっただろう。
だが、そうではないから自分はここにいる。
湊が自分のためにわざと強く言ってくれたのだと理解しながらも、玲は生まれた意味や生きた証が欲しいと、まだここで消えたくないと強く思ってしまった。
次の瞬間、地面が揺れ出し、何やら校舎の方が騒がしくなる。
「……なんだ?」
突然の地震に善が周囲を警戒する。揺れが強くなるにつれて、校舎の方もザワザワと騒々しさを増している。
同様に他の者たちもこれまでとは違う様子に警戒していれば、校舎の方で窓ガラスが割れる事が響き、校舎の窓ガラスや扉をぶち破って大量のシャドウが溢れてきた。
溢れてきたシャドウは他の者には目もくれず、黒い大波となって時計塔の前にいた玲を飲み込み時計塔の壁を登ってゆく。
「なっ……しまった!?」
玲がシャドウの波に呑まれ焦る善。下手に動けば自分もシャドウの波に呑まれ、そうなっては玲を助けることは出来なくなるだろう。
誰か助けに行くことは出来ないかと見渡せば、他の者たちも下手に動いてシャドウの波に呑まれる事を恐れて動けずにいる。
これでは誰も玲を助けられないと善の焦りが増していけば、シャドウの波に呑まれ、訳も分からず助けを求めるように手を伸ばし藻掻いていた玲の身体が沈んでゆく。
「きゃっ……いやぁっ!?」
「玲ぃぃぃぃぃっ!!」
最初は藻掻いていた玲の姿がシャドウの波の中に消える。彼女の白く細い指が完全に見えなくなると善が助けに行こうとしたため、近くにいた完二が善のマントを掴んで止める。
邪魔をされた善が完二の拘束から逃れようと暴れている間に、時計塔へと集まったシャドウの一部が塔自体に吸収され、塔が徐々に巨大化しながら姿を変えてゆく。
「なんだよ、これ……」
校舎からのシャドウの流出が治まり、時計塔の変化が終わったタイミングで塔を見上げた花村が呟く。
最初は校舎とそれほど変わらない程度の高さだった時計塔は、今や見上げるだけで首が痛くなる巨塔になってしまっていた。
頭を抱えたくなる事に、その塔の天辺には銀色の機械仕掛けの大蜘蛛が見えている。蜘蛛の尻にあたるガラスらしき透明な材質で出来た部位の中に、膝を抱えるようにして眠っている玲が閉じ込められた状態でだ。
玲が攫われ、時計塔が姿を変えてゆくのを見ているしかなかった一同が呆然としていると、変化して現われた大きな時計塔の入口の扉が勝手に開く。
それはまるで助けたければ登ってこいと言っているようだった。