――時計塔・頂上
セイヴァーによって破壊し尽くされた稲羽市は、湊の力によって自然豊かな世界に塗り替えられた。
現実世界からやって来た湊や鳴上たちを除き、この世界には命が存在しない。
学校にいる生徒たちはあくまで人を模したシャドウの亜種だ。
しかし、湊によって塗り替えられた世界には鳥や蝶が飛んでいるのが見えた。
流れる清流には魚がいて、山の中には鹿や猪だっているかもしれない。
どうして命が存在しないはずのこの世界に生き物がいるのか。
不思議に思いながら七歌たちは情報を持っているであろう湊が降りてくるのを待った。
クロノスを完全に消滅させて戻ってきた湊は、瞳の色がまだ銀色のままだ。
クロノスを殺し終えた事で目的は果たされたはずだが、どうして阿眞根から戻っていないのか。
彼が着地すればセイヴァーは再びタナトスとアベルに分かれて湊の中に戻る。
けれど、湊の瞳は変わらず、その放つ気配も薄まりはしているが人のそれではない。
今の彼が阿眞根なのか湊なのか分からないままでは不安なアイギスは、意を決して湊に声を掛けた。
「八雲さん?」
「……なんだ」
「あ、いえ。瞳の色が銀色のままでしたので」
「エネルギーが多過ぎるんだ。しばらくは治らない」
今の湊は生命力は減少しているが、ペルソナを呼び出す際に消耗するエネルギーは膨大に持っている。
本人も非常にアンバランスな状態だとは思っているものの、わざわざスキルを無駄撃ちしてまでエネルギーを減らす必要はないだろう。
半分だけ神になっているだけでそこには湊の意識がしっかりと存在する。
アイギスが確認したことで言葉も通じると分かった。
ならばと茨木童子が変化した景色に視線を向けたまま青年に話しかける。
《八雲、お前はこの景色を見たことがあるのか?》
「……ない。ただ、クロノスが維持していた部分を自分の力で覆った結果がこれだ。よく分からないが俺由来の何かなんだろうな」
湊自身も色々な場所に行って過ごしていたので、秘境とも呼べそうな自然豊かな場所にもいくつか心当たりがある。
けれど、今ここにある景色はそのどれとも違うとハッキリ分かる。
あくまで作られたものだからそう感じるのだと本人は考えたが、違っていて当然だと赫夜比売が微笑みながら答える。
《八雲。この景色はわたしたちが生きていた時代の景色に似ています。神が自然に宿り、世界に根を下ろしていた時代に》
《まぁ、これは八雲の精神世界が浸食しただけだがな》
どこまでも自然が広がる命の息吹に溢れた世界。それが湊の精神世界だと聞いて他の者たちは驚く。
湊の敵への怒りと憎しみは世界を灼くほどのものだ。片鱗に触れただけで他の者では動けなくなるものを、十年も彼は色褪せさせる事なく抱き続けている。
そんな彼の精神世界が今目の前に広がる美しい世界だと聞いて誰が信じられるだろうか。
流石にそんなはずはないだろうと思ったが、あえて口にする者がいなければ、メティスがどこか納得したように頷いている。
「あ、やっぱりそういう感じなんですね。これなら魂の受け皿としては最上級というか。染まらずにいられるのも納得です」
魂の受け皿という不穏なワードは恐らく身に宿した神“ベアトリーチェ”に関するものだろう。
意思を持った他人を自分の精神に入れれば、その分だけ心が染まって人格にも影響を及ぼす。
それを何の変化もなく、これまでずっと心の中に住まわすどころか魂レベルで融合まで果たしている。
これは全て青年の受け入れる力が、他の者の想定を遙かに超えて高いからこその芸当だ。
ただ、どうして綺麗な景色を見ただけでそう思ったのか理由が知りたい。
そう思った鳴上や花村が理由を知るメティスに教えて欲しいと声を掛けた。
「どうしてメティスはこれが有里の心の世界だと納得出来るんだ?」
「皆さんがテレビに落とされたときも世界が作られたでしょう? それと同じですよ」
「いや、俺たちの場合はあの世界で関係する場所に落ちただけだろ?」
「それは稲羽市の人たちの共通意識で作られた世界だからです。皆さんの意識もそこに繋がっていたから、その世界の中で自分の心の姿が反映されたんです」
自分から迷いこんだ形だった鳴上、花村、千枝は若干異なるが、雪子や完二といったテレビに落とされた者たちは、全員が自分の精神にマッチしたような場所にダンジョンを形成していた。
あれはそういう場所にそれぞれが飛ばされたと思っていたのだが、実際には彼らがそこに居たからこそ出来た施設だったのだ。
つまり、湊がクロノスから支配権を奪った事で形成されたのであれば、それは即ち湊の精神に由来するものであるということ。
メティスがそのように説明すれば、しかし、いまいち信じられないのか千枝とりせが疑ったような視線を彼に向ける。
「んじゃあ、マジでこの半端なく綺麗な景色は有里君の心の世界ってこと?」
「プロデューサーってば似合わな過ぎでしょ。汚いダウンタウンとかのがピッタリなイメージなんだけど」
「……どうでもいい。それよりクロノスは排除したんだ。用事を済ます」
この世界の景色が変わった理由が湊にある事は事実で、その景色も確かに彼の精神に由来するものなのだが、元からベルベットルームの住人たちの許で魔法に触れてきた湊ほど他の者の理解は深くない。
そのため、これ以上の説明は無駄だと湊は背を向けて歩き出し、そのまま善の傍にいた玲へと向かってゆく。
彼女は自分が原因で皆が強大なF.O.Eやクロノスと戦う事になったと思っているようで、とても申し訳なさそうにしながら視線を俯かせていた。
少女のそんな様子に構わず近付いた湊に、善は少しだけ警戒した様子を見せる。
「湊、今の玲は……」
「それはお前の仕事だ。俺は俺の用事を済ませる」
彼女が己の死と向き合えないのは、その生に意味を見出せていないから。
ならば、彼女が納得するような形で命の意味を教えてやれば良いだけの事だが、湊は自分がその役目を果たす気はない。
誰よりも彼女の事を考え、人としての心を手に入れた善の言葉だからこそ届くものがある。
そう思っているからこそ、青年は善に自分の役目をしっかりと果たすように伝えた。
それを聞いた善は少しだけハッとした表情をしてから、すぐに強い意志の宿った瞳で見返して頷く。
善は玲を助け、彼女の心を救うためにここまでやってきたのだ。
今更その想いがぶれることはないし、助けた以上は心も救ってみせる。
自分をここまで連れてきてくれた仲間のためにも、己の過ちによって苦しみ続けている少女のためにも。
そうして、短いやり取りで善が納得したように場所を開ければ、湊が目の前に立ったことで玲の肩がびくりと震える。
先ほどまで大気を震わすほどの怒りを放ち、その力によって閉じた世界を支配していた神を殺して見せたのだ。
あれだけの力を持つ者であれば、魂の欠片でしかない玲の存在など腕の一薙ぎで消せるだろう。
自分が彼らに迷惑を掛けたと思っている少女は、その罰を受けさせられるのだと思って俯いたまま瞳を強く閉じる。
そして、衝撃が自分を襲うと思って構えていれば、次の瞬間、玲の顔や手に生暖かい液体が掛かった。
「…………え?」
「湊、君は何をっ!?」
「八雲さんっ!?」
善やアイギスなど、周りの者の驚きの声に反応して目を開ければ、少女の目には強烈なまでに鮮やかな赤色が飛び込んでくる。
少女はその色を知っている。自分の顔や手を濡らした赤い液体の正体が何かも。
だが、何故それが今ここにあるのか。そして、視線を上げた所にあった青年の手にある脈動するモノは何なのか。
理解が追いつかず頭は混乱したままだが、それを失った青年が死んでしまうと思った玲は、かつて別の少女がしたように彼の手で脈動するモノを奪って彼の胸に空いた穴に戻そうとする。
「ダメっ……死んじゃ、ダメっ……!!」
どうして彼は自分の心臓を抜き出したのか。
ここまで来て、あと少しで元の世界に帰ることが出来るというのに。
必死に彼の心臓を胸に戻そうとする玲だったが、その手を青年本人に掴まれて動けなくなる。
心臓がなくなって何故平然と動けているのか分からないが、焦る玲の目を覗き込むように見つめる銀色の瞳が不思議な光り方をしていると認識したところで、彼の心臓が蛍火色の光に包まれる。
「――――龍玉を」
《――――やめろ、八雲。その娘は反魂で蘇生させる事は出来ぬ》
《龍の心臓は肉体のあるものにしか効果がありません》
蛍火色の光は湊の生命力のはず。湊がそれで包んだ心臓を玲に与えようとすれば、自我持ちのペルソナたちが一瞬で彼の周りに現われ、その腕や身体を掴んでそれ以上動けないようにする。
古代中国などでは他の生物の爪や角を龍の爪や麒麟の心臓として重宝していたという。
本物の神の血をひき、神の器として作られた青年の心臓だ。
血だけでも瀕死状態の人間を癒やすだけの力を持っているのだから、茨木童子と赫夜比売が言ったように死者を蘇らせる力があってもおかしくはない。
湊が既に死んでいる玲を生き返らせようとした事に驚きながらも、しっかりと茨木童子たちの言葉も聞いていた七歌は、彼の心臓が“龍玉”や“龍の心臓”と呼ばれていた事である可能性に思い至る。
「……もしかして、特級五爪だけに許された力って」
神の血をひく九頭龍家は現代まで伝わる異能を持ち、それらは強さごとに分かれた等級が存在する。
最も弱いのが異能を持たない四級一爪、体内の気を多少操れる三級二爪、霊視が出来る二級三爪、魔眼が宿る一級四爪、そして始祖以来一人として存在しなかった最上位が特級五爪。
一級四爪までは過去にも数人目覚めており、七歌を含めて全員が瞳に異能を宿していた事で魔眼が真実だと理解されている。
だが、始祖であるユーリ以外に存在しない特級五爪の異能だけは、“使用した者は死ぬ”と、それだけの情報のみが伝わり、その具体的な力がどういったものであるか伝わっていなかった。
かつては、始祖の力を神聖視させるために存在しない等級を作り伝えていたのではとも言われた事もあったが、先ほどの会話に出てきた言葉が事実なら使用者が死ぬという話も頷ける。
「自分の、龍の心臓を与える事で対象を蘇生させる。それが特級五爪の力なんだ。だから、伝承で使用者が死ぬことのみ伝わってた」
普通の人間は心臓を抜き取れば死ぬ。けれど、特級五爪ともなると常人より生命力が高く、恐らくは反魂の術を掛けるまで生きられたのだろう。
始祖が自分の命を捧げてまで誰を蘇生させたのかは分からない。本人に聞けば教えてくれるだろうが、今の彼女は真剣な表情で八雲を止めていて話しかけることが出来ない。
ただ、心臓を破壊されても心臓が再生して生きている彼を、どうしてそこまで真剣に止めるのかという疑問が湧いた。
彼ならば使用者が死ぬという条件を無視出来る。それこそ心臓が再生する度にそれを与えて反魂の術が使えるはずなのだ。
誰よりも自分たちの異能に詳しい彼女たちならば当然気付くはず。それを止める理由として考えられるのは、反魂の術に必要な対価が“龍の心臓”だけではなく、使えば湊であっても死んでしまうからだろうか。
自我持ちのペルソナたちが一切の遊びも見せずに湊を止めていれば、彼も玲の蘇生を諦めたのか心臓を包んでいた蛍火色の光を消し、ペルソナたちの拘束が緩んだところで己の心臓を口に入れて飲み込んだ。
まだ脈打っている自分の心臓を丸呑みした彼を見て、グロテスクなものへの耐性が低いゆかりや千枝は固く目を瞑って震えている。
目の前でそんな事をされた玲は状況が飲み込めないようで目を白黒させているが、湊がフェニックスを呼び出して、自分と玲を炎に包んで汚れを浄化すると少し安心した顔を見せた。
「……よかった。はーちゃん、死んじゃうかと思った」
「別にこの程度で死んだりしない」
《たわけ。龍玉を使えば生命力が枯渇して死ぬわ》
《気をつけなさい、八雲。あなたの命を使うべきは此所ではありません》
やはり七歌の予想通りだったようで、反魂の術は湊であっても自分の命を対価に発動するような代物らしい。
それをよく知らない状態で使おうとするとは何とも湊らしいが、アイギスとチドリが怒った様子で彼の許に向かい。そのまま玲から引き離したところで叱っているので、彼が説教を受けている間に善に玲と話すように他の者が視線で促す。
他の者と視線を交わしてから頷いた善は、一度湊のことでパニックになったからか意識がはっきりした玲の前に立った。
「……玲、君と話がしたかった。」
「なんで? こんなに皆に迷惑かけて、皆を沢山傷つけたんだよ? 死んでも迷惑かけて、私なんか、私なんか生まれない方が良かったんだよ!」
善が話しかけると、玲は己のせいで皆がシャドウと戦う事になり、怪我を負った事に対して罪悪感を感じていた。
クロノスの放った一撃を喰らっても湊が生きていたのは、偶然にもそういった術に耐性をもっていたからだ。
一歩間違えれば他の者たちも巻き込んで死んでいた。自分が死を受け入れてそのまま消えていれば、優しい人たちをそんな目に遭わせる事もなかった。
弱い自分が嫌になる。仲間に申し訳ないと思っているのに、まだ他の者たちを嫉む気持ちが残っている自分の浅ましさに情けなくなる。
「皆は学校に行けて、家族だっていたのに! どうして何もない私は一人で死んだの!? 私は何のために生まれたの? ずっと苦しくて、死ぬまで嫉むことばっかりで! 私、何のために生まれて来たの!?」
こんな事を目の前の者たちに言ったところで何も変わらない。
死に囲まれ、己の死すら視ても生き続けている青年だっているのだ。
そんな恐ろしい状態で世界に放り出された者と比べれば、自分など理不尽な境遇に不平不満を言ってるだけの我が儘な子どもなのだろう
それでも、だがそれでも、何も知らない者たちに少しでも良いから知って貰いたい。不満ばかり言っていた馬鹿がいたという形で良いから覚えていて貰いたい。
玲が心からの叫びをあげれば、少女の正面に立っていた少年が穏やかな表情で諭すように語り始めた。
「玲、私も湊から教えてもらった。“生きた意味”なんていらない。そんなもの、誰だって持ってやしない……。君がいた。君が生きていた。それだけで良かったんだ」
善もずっと勘違いしていた。湊のように、七歌や鳴上のように、何かを為すことが出来る者しか“生きる意味”“生きた意味”を持たないと思っていた。
しかし、それは違うのだ。何故なら、彼らの代わりが他の者には務まらないように、玲という少女の代わりをすることは誰にも出来ないのだから。
「君という存在は唯一のものだ。ヒトという種が生まれてからこれまで、そして、これからも未来永劫、君という存在は今この君しかいない。君は、他の誰でもない。だから君が為すことは全て、君にしかできないことなんだ」
「そんなのっ……」
「君がいたことで、君の周りはほんの少し変わっただろう。君の言葉で、嬉しいとか悲しいとかの気持ちを貰っただろう。そうやって、君はきっと誰かを変えた。反対に君も誰かに変えられてきた。その変化は君がいなければ存在し得なかったんだ」
それは少女の求めた答えではないのかもしれない。
話している本人ですらも、これが正解だとは自信を持って言えないような言葉だ。
ただ、それでも少年は彼女に伝えたかった。今も続く世界に君は確かにいたのだと。
「君がいなくなっても世界は続くだろう。だけどその世界は、君が生きた世界だ。君が生きたことで、ほんの少しでも変わった世界なんだ。その世界の、小さな小さな歯車として君はいたんだよ。何かを為したから、生きたんじゃない。“君は生きた”。それこそが、君が、生きた意味じゃないのか?」
彼女は自分の人生を最後まで懸命に生きた。
それが彼女の生きた意味。何かを為すとか、何かを残す必要などない。
生きただけで、玲は既に自分にしか出来ない事を為し、自分にしか残すことの出来ないものを誰かの中に残している。
善がそう告げれば、目に涙を溜めて玲は震える声で問い返した。
「私は……生きた……。私……生きたの……?」
「ああ。君は立派に生きた」
「……ありがとう。私、きっと……誰かにそう言ってほしかった……」
玲はそういうと大粒の涙を流しながら善に抱きつき、彼の胸の中で静かに泣き続けた。
彼女はただ見えなくなっていただけなのだ。自分の事に一生懸命で、ただ頑張って走り抜けるように生きてしまったから、簡単なことを見落としてしまっていただけ。
ようやく、玲の求める言葉を送ることが出来た善は安堵するが、それと共に彼女をこんな世界に閉じ込め苦しめ続けた事に後悔が押し寄せる。
「こんな、たったこれだけの言葉を求めていたなんて……。君をこんなに長く苦しめて、私は……ごめん」
「ううん。善、私、うれしいよ。私は生きたんだ。精一杯生きたんだって、この世界でそれを知ることが出来たんだから」
少し回り道をしてしまったかもしれない。
けれど、善はこの世界で玲を守り、彼女が旅立つ時をずっと待ち続けていてくれた。
人間よりもどこか人間らしい死神に、玲は心からの感謝を告げる。
「善、ありがとう。待っててくれて……。私、あなたと行く」
「……ああ。一緒に行こう」
自分の生きた意味を知った少女と、少女の心を救う事が出来た少年は、身体を離すとお互いに向き合ったまま微笑み合う。
そして、仲間たちの方へと振り返ると、手を繋いでこの世界を去ることを告げた。