【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第三十六話 チドリの放課後

4月28日(金)

放課後――辰巳ポートアイランド

 

 学校の終わった放課後、本日の部活がないチドリは校門を出て一人で駅へと向かっていた。

 湊は仮面舞踏会としての仕事で遠出しているため欠席、美紀は委員会、ゆかりは弓道部、風花は掃除当番と全員がばらばらの用事を抱えているため、眞宵堂のバイトに向かうチドリは待たずに学校を出たという訳だ。

 

(前に湊が行ったときに掃除したって言ってたから、今日は店番が主な仕事。……絵でも描いておこ)

 

 そう考えて鞄の中にあるスケッチブックと画材道具に視線を送ると、すぐに前を向いて歩きだす。

 チドリは部活の活動が始まる以前から、学校の鞄に画材道具を入れて持ち歩いていた。

 三週間前に申請書を提出し、約一週間後の十四日の木曜日に正式な許可が下り。盛本の一件で謝罪訪問した際に桜に脅された校長らが、部員である湊とチドリに気を遣ったことで、部室は他の文化部よりも広く日当たりの良い部屋が宛がわれた。

 場所は教室棟ではなく、職員室などが入っている管理棟の二階で、すぐ真上に吹奏楽部の部室である音楽室があるため、部屋の壁と扉には防音処理がなされ、窓を閉めても良い様にエアコンが備え付けられている。

 部室を出て右に行くと、すぐに外に繋がる非常階段への扉が存在するので、真下の保健室にもすぐ戻れるという事で、保険医の櫛名田も頻繁に遊びに来ていた。

 

(そういえば、湊が部室に何か要るって言ってたような……)

 

 現在の活動は、自分に何が向いているかを探すため、一週おきに別の課題で作品を作っている。

 ただし、一週目は部室の環境を整えるために、掃除や備品の運び入れをしたので、作品を作ったのは先週と今週だけだ。

 先週は石膏像のデッサン、今週は水彩絵の具での塗り絵を行っており、来週は紙粘土をやると湊は紙粘土を買ってきていた。

 昔から絵を描いているチドリが一番上手くデッサン出来ていたが、塗り絵に関しては風花の方が上手かった。来週の紙粘土は、立体造形が得意な湊が最も上手に作る事だろうと思いながら、常に二番手ほどの実力を持った美紀はともかく、ゆかりの才能の無さはどうなのだろうかと少し考え込む。

 

(なんか変だった。不慣れな素人っぽさはあったけど、それより……歪っていうの? 色がときどき変に暗かったりして、あれって多分精神的な不安や悩みがあるってことよね)

 

 創作物は製作者の心を映す。湊もデッサンは上手かったが、塗り絵はゆかりと同じように部分的に変な色で塗っていた。

 同じ場所に二人もそのような塗り方をした者がいたために、他の二人と佐久間は違和感に気付いていなかったが、保険医である櫛名田だけは二人の塗った絵を見た際に、何やら考え込むような姿を見せていた。

 よって、チドリの推測通り、他人と違う芸術的感性で選んだのではなく、心に抱え込んだものが絵として現れていると見るべきだろう。

 バイトで店に行ったときに、栗原から湊の創作物をよく注意して見ておけと散々言われていたので、今回の二人のこともすぐに違和感として気付けた。

 もっとも、湊だけでなく自分たちとは違う“普通の人間”のゆかりにまで、そんな物があるのは驚いたが、ゆかりに関しては湊が何やら気にしているようなので、チドリも同じように目を配っておく事だけはしておこうと思った。

 

「ん? よう、瀬多妹」

「……は?」

 

 一人で考えながら歩いていると、前からジャージ姿の真田明彦が声をかけてきた。どうやら部活でロードワークをしていたらしい。

 爽やかに声をかけられても、チドリにとってはただのシスコンというイメージしか無い。よって、話すに値しないとして、相手の呼び名だけ訂正して横を通り過ぎる。

 

「……私、湊の妹じゃないから」

「ああ、そう言えばそうだったな。すまんすまん」

 

 真田がチドリを湊の妹と思っている理由は、単純に一緒の車で登校してくるのを美紀と目撃したからで、そこに一緒に住んでいるという情報も加わり勘違いに発展したという経緯がある。

 しかし、二人が兄妹ではないことは、美紀から湊の本名が有里湊あることと共に訂正されていたので、既に勘違いは正されたとばかり思っていたのだが、深く考えずに発言するタイプらしく軽い調子で謝罪を述べた。

 本当に謝る気があるのかと思いつつ、駅に向かって歩き続けていると、通り過ぎたはずの真田がジョギングでついてきた。

 一体何の用だとうんざりしているところに、真田らしい台詞が耳に届く。

 

「今日は美紀は一緒じゃないのか?」

「……部活は休みだけど、委員会があって六限目に出てる」

「そうなのか。瀬多は委員会には出てないよな?」

 

 尋ねた真田の視線が僅かに鋭くなる。現在、真田が妹に近付くことを許可している男子は二人いて、一人は幼馴染の荒垣、もう一人は腕相撲で勝利した湊だ。

 しかし、後者に関しては勝負に負けて認めざるを得ないだけで、本心で言えばもっとも近付けたくない相手である。

 これで仲良く参加しているなどと答えたらどうなるだろうか、とチドリは少しばかり考えてみて、直ぐに面倒だからやめておこうと真実のみを淡々と告げた。

 

「男子の学級代表は友近っていうジャンケンに負けたモブ顔よ。っていうか、私、用事があって急いでるから、それじゃあ」

「あ、ああ、またな!」

 

 チドリが別れの挨拶を切り出すと、真田は快活に笑って走り去って行った。

 初めから雑談よりも美紀の事を答えればすぐに去って行くのなら、チドリは淀みなく躊躇いなく答えただろう。真田のような熱血キャラは相性が悪いのか、相手をするのも面倒だから。

 もっとも、真田は美紀のことだけでなく、妹の友人としてコミュニケーションを取ることも目的に入っていた。そのため、美紀の情報を得たとしても少しばかり雑談をするつもりだった。

 それを今回はチドリが急いでいるように見えたため素直に別れただけであり、本当はチドリが思っているよりも、真田は不器用なりに相手の事情を聞いて気を利かせることの出来る人間だった。

 そんな事には気付かず、チドリは駅の改札に到着すると定期を取り出し通過して、そのままバイト先である眞宵堂へと向かったのだった。

 

夕方――ポロニアンモール

 

 女子の学級代表になっている美紀は、委員会が終わると真っ直ぐ家に帰り、一度着替えてから出かけていた。

 やってきた場所はポロニアンモール。今日は予約していたCDを買いに来たついでに、湊とチドリのバイト先である『古美術・眞宵堂』まで足を伸ばすのが目的だった。

 

「えっと、ポロニアンモールの骨董品屋さんは……あっ、ありました」

 

 立地は中央の噴水広場のすぐ近くと中々の好条件にあるが、道を挟んで反対側にある交番並みに人が入ってゆく様子が見られない。

 平日の晩御飯の買い物時という時間帯のせいでもあるのだろうが、そのような閑古鳥も鳴くような客足の寂しさで、バイトに高い給金を払っていて大丈夫なのかと心配になってくる。

 しかし、他の店よりも商品単価が高いのであれば、売れればそれだけでかなりの儲けになり、売り上げ的には問題もないのだろう。

 ただの冷やかしでは悪いだろうからと、何か小物くらいは買えるようにお金は多めに持って来ている。

 そうして、準備を済まし覚悟を決めると、美紀は眞宵堂の戸を潜った。

 

***

 

「……いらっしゃい」

 

 中に入って最初に聞こえてきたのは、緋色髪の少女のやる気のない挨拶だった。

 目があった事で軽く礼をすると、壺や置物以外にもカントリー風の家具や大きなぬいぐるみの置かれている店内を進み、美紀はレジカウンターで座って絵を描いているチドリの元へ向かう。

 

「こんばんは。今日はバイトですか?」

「今日は店番でここに座ってるだけよ。掃除は前に湊がしちゃったから」

 

 言われて店内を見渡すと、確かに棚には埃も積もっておらず、非常に清潔であると思えた。

 店の中はお茶の葉の御香が焚かれ、外国製と思われる照明器具の柔らかい光で照らされている。

 他の店よりも暗く思うかもしれないが、見えづらいという事はないので、環境やエコを考えれば十分だと言えた。

 初めて入る骨董品屋だったが、御香の効果もあってかリラックスしている自分が居る。そう感じながら、笑みを浮かべて美紀は素直な感想を述べた。

 

「落ち着いた雰囲気の良いお店ですね」

「……そう? 栗原の趣味で並べてるだけだから、私は良く分からないけど」

「系統ごとに集めて置いていますから、物は多くてもごちゃごちゃして見えないように工夫されていますし。御香も匂いがきつくないので素敵だと思います」

「ふーん、客がそう言ってたって栗原に伝えておく」

 

 自分はただのバイトだから店を褒められても別になんとも思わない。そんな内心を表すような反応に美紀も思わず苦笑し、置かれた商品を見てまわりだす。

 絵を描いていたチドリは、美紀が動いたことで視線だけチラリと送ってきたが、すぐに興味を失ったようにスケッチブックへ視線を戻した。

 会話は絵を描く邪魔になってしまうだろうか、と普段から相手を気遣う美紀は考えつつ、コミュニケーションも時には必要だろうと思うことにして、棚に置かれた華美な柄のティーセットを眺めながら話しかけることにした。

 

「吉野さんは普段から絵を描いていますが、一体どのような物を描いているんですか?」

「色々。ただ目についた物をスケッチしたり、抽象画っぽいものを描いたり」

「有里君も上手でしたけど、彼も絵を描いたりするんですか?」

「あんまり描かない。けど、前に描いた絵ならそこにある」

 

 言われて振り返ってみると、チドリは美紀のことを見ながら、カウンター側にある売り物ではない物が置かれた棚を指さしていた。

 見てみても良いかと手ぶりで尋ねたところ、チドリは頷いて返して絵の続きを描いているので、美紀はまわりの物に触れないよう気を付けながら棚の前に向かった。

 

「えっと、どれですか?」

「緑の表紙のスケッチブック。左開きで最後の方の人物画」

 

 美紀は言われた通りに、アルファベットでスケッチブックスと書かれた緑の表紙の物を手に取る。

 それを開こうとした際に、座って見ろとばかりにチドリが近くの椅子を勧めてきたので、お言葉に甘えて座ってから表紙を開き中の絵を見てゆく。

 表紙を開いたばかりのページでは、植物や景色のスケッチであったり、赤と黒の線でページが塗り潰されたようになっていたりで、描いた相手は自分の知らない芸術に触れているのだと感動を覚えながらページを捲り続ける。

 このスケッチブックはチドリの持ち物だったらしく、殆どは同じような癖を持ったタッチで描かれている。

 だが、終わりの方のページを開いたときに現れた絵は、他の絵と雰囲気も癖も違っていた。

 

「……これ」

 

 今見ているものが言っていた湊の絵であることは間違いない。次のページでは他の絵と同じ人物の描いた物に戻り、スケッチブックの終わりの方では人物画はこの一枚しかないのだから。

 他の絵も自分の描く物などより遥かに上手いと思ったが、この一枚は描いた人物の想いのようなものすら感じられ、技巧などを抜きにして綺麗な絵だと思える。

 しかし、それを見ていた美紀の中で、一体この絵の人物は誰なのだろうかという疑問が湧いた。

 描かれているのは微笑みを浮かべる金髪碧眼の女性。その頭にはどこのメーカー製か分からぬ特徴的なヘッドフォンが付けられている。

 普段は周囲を拒むような空気を放っている湊が、こんなにも優しい絵を描けること自体が、正直に言えば意外だった。

 それだけに、彼にここまで心を許されている者の正体を知りたい。そう思った美紀は、絵を描いていたチドリに何度も失礼だと思いながらも尋ねていた。

 

「あの、この絵の女性は?」

「……知らない、私も見た事ない」

「え? これはデッサンじゃないんですか?」

「違う。バイトが暇だったときに、寝てた湊に何か描いてって言ったらそれを描いた。目を完全に覚ました後、その絵を見たら驚いてたから、本人も無意識に描いたんだと思う」

 

 その言葉を聞いても俄かには信じられなかった。

 絵の女性は優しく微笑んでいる。これを記憶だけを頼りに無意識に描いたというのだろうか?

 美紀は自分の家族が笑っている場面を思い出すことはできるが、思い出そうとすればするほど詳細がぼやけてしまう。

 笑っている兄は歯が見えていただろうか、義父は髭が伸びていただろうか、義母は何色の石のピアスをつけていただろうか、そんな風に細かいところの記憶は曖昧で、記憶を頼りになど全く描ける気がしなかった。

 

「……有里君がこういった絵を描いたのは初めてですか?」

「ええ、他にも描いたのは残ってるけど、その女の絵は一枚だけ。それに絵のタッチも微妙に違う」

 

 今度の言葉にはなるほどと納得できた。描いた本人が驚いていたことも踏まえて考えると、やはりこの絵は湊の深層心理に深く関わっている。

 想像上の人間でないのであれば、この絵の女性は実在し、チドリが知らないような大切な思い出として湊の中で今も残っていることになる。

 チドリが「その女」と言った際には、普段はアンニュイな表情をしているというのに、言葉にわずかに棘が感じられたので、チドリも相手の正体や湊との関係性についてやきもきしているのだろう。

 絵の女性と湊の関係はともかく、いまいち掴めていなかったチドリと湊の関係が今の反応で見えてきた。そんな新たな友人の密かな想いを知り、美紀は持っていたスケッチブックを棚に片付けると笑みを浮かべて口を開いた。

 

「あの、今度から名前で呼んでもいいですか?」

「……別にいいけど。どうしてにやけてるの?」

「え、あ、ゴメンなさい。ちょっと、可愛いなって思ったので」

 

 普通の笑みを浮かべていたつもりが、頬と口元が緩んでいたことを怪訝そうにしているチドリに指摘され、慌てて頬をマッサージして表情を元に戻す。

 だが、相手がどこを可愛いと思ったのか分からないチドリは、眉を寄せて美紀を見つめながら問い続けた。

 

「可愛いって何が?」

「えっと、チドリさんが絵の女性に嫉妬しているようだったので……なんて」

「……頭大丈夫? 別に嫉妬なんてしてないんだけど。ていうか、私と湊は家族とか幼馴染ってだけで、異性とかそういうのじゃないし。あの女がどこの誰かっていう多少の疑問はあるけど、そこまで湊に聞こうと思った事もなければ、知らない人間に嫉妬とかあり得ないから」

 

 チドリは本気で呆れたような目で見ながら、目の前に立っているクラスメイトに説明した。

 エルゴ研にいたときから一緒で、一緒に寝た事もあれば、一緒にお風呂に入った事もある。兄妹という育ち方ではなかったが、自分たちの関係を表すのなら家族や幼馴染という言葉が適切だろう。

 そう思い、しっかりと分からせるように伝えたのだが、話しを聞き終わった美紀は目元まで緩ませてチドリを見ていた。

 相手のそんな反応が気に入らず、鉛筆とスケッチブックをカウンターの上に置くと、チドリは視線を鋭くして相手を睨んだまま立ち上がった。

 

「なに笑ってんのよ。本当に違うって言ってるでしょ。シスコンの妹のくせに調子のんな!」

「なっ!? 兄さんはいま関係ないじゃないですか! 悪口に兄妹の存在を含めないでください!」

 

 兄がシスコンである。そのことは小学生の時点で薄々ながら気付いており、まわりから直接指摘を受けるような事はなかったが、美紀自身も気にしていた。

 そして、人生で初めて面と向かって言われたのがまさに今なのだが、流石に自身を罵倒するために兄がシスコンだと言われるとは思っていなかった。

 やっぱりという気持ちと同時に、直接に自分を罵倒されるよりも心にくる。自分に非がないだけに直しようがなく、自分の兄が特殊な存在だと言われて恥ずかしい気持ちも湧きあがってくる。

 先にからかうような態度を見せたのは自分だが、思わぬ反撃に顔と頭が熱くなるのを感じながら、なるべく相手が傷付かなそうな言葉を選んで美紀も言い返した。

 

「あ、有里君だって佐久間先生によく抱き付かれてますし、櫛名田先生のベッドでお菓子食べながらごろごろしたりとか、色んな女性と一緒にいるじゃないですか! そういうのって女ったらしっていうんですよ!」

「湊が自分から行ってるわけじゃないもの。クマモンと櫛名田が勝手に色目使ってるだけで、むしろ被害者よ。前はシスコンに因縁つけられてたし」

「だから、兄さんがシスコンなのは分かりましたから、それで私を罵倒しないでください! 私にまったく関係ないじゃないですか!」

「ふん、今日も帰りに妹はどこにいるかって聞いてきたわ。委員会だけど湊と一緒じゃないって分かって機嫌よくしてたし。シスコンに加えて器小さすぎ」

「もぉー!!」

 

 その後も、チドリは真田のことをネタに美紀をいじり続け。配送する商品を出しに行っていた栗原が帰って来たときには、自分の兄が真人間になるまで口を聞かないと宣言する美紀の姿が見られた。

 相手を言い負かす事の出来たチドリは、見た目は変わらないがご機嫌だったようで、地元の最寄り駅まで迎えにきた桜が不思議そうにそれを見ていた。

 

深夜――廃ビル

 

 影時間の明けた深夜、巌戸台から離れた地方都市の廃ビルの中に湊はいた。

 右手の指から血を垂らし、その近くには首のない男の死体が転がっている。さらに、死体の傍らには上から下までブランド物一色でコーディネートされた衣装を着た女が、咽び泣きながら男にすがり付いていた。

 

「なんでっ、どうしてっ」

 

 涙で目のまわりの化粧が崩れたまま、女は湊を憎悪の籠った瞳で睨み叫ぶ。泣いている女は、湊に殺された男の妻だった。

 二人でホテルのディナーショーを楽しんだ帰り、バイクに乗った湊から銃を突きつけられ車を降りろと脅された。

 逃げようにも前輪をパンクさせられ、サイドミラーとフロントガラスを破壊されたため、二人は恐怖に怯えながら言う事を聞いた。

 そして、そのままビルへと連れて来られ現在のフロアまで昇ってくると、妻の目の前で手を一閃させただけで男の首を刎ねたのである。

 刎ね飛ばされ空中で白目を剥く夫の頭部、硬直したように倒れながら血の吹き出している胴体、女は一体何が起こったのか分からず、まるで理解が追い付かなかった。

 

「アンタもこのまま夫の後を追うんだが、一応、殺される理由くらいは教えてやっておこうか」

 

 女が湊を睨んでいると、荒れたビルの奥から硬い靴の音をさせながらイリスがやってくる。

 手には数枚の紙の束、そこにはこの夫婦を殺すよう依頼した人物の動機が書かれている。

 外からの月明かりで手元を照らすと、イリスはよく通る声でゆっくりと読み上げた。

 

「今から約二年前、アンタらは雨の日に制限速度を超えて車を走らせていた。ま、そんなやつらは世の中たくさんいるが、アンタらは住宅街のすぐ近くの国道で、徐行せずに曲がって子どもを一人撥ねてるね。その子どもは頭を強く打った事が原因で意識不明となり、三日後に死んだ。間違いないだろ?」

「それは、示談が成立してっ」

「したんじゃなくてさせたんだろ? 裏で相手側の弁護士に高い金を払って色々と言わせてさ」

 

 二人の殺害を依頼したのは、轢かれた少年の父親だった。

 裁判で争ったのはお金のためではなく、子どもに一切の非が無かったことを認めさせ、自分たちの罪を償うよう求めたためだった。

 だが、加害者夫婦は、被害者側の弁護士に密かにお金を払い、示談に持ち込むように説得することを依頼。金を受け取った弁護士は嬉々としてそれを受け入れ、子どもが死んで精神的にまいっていた遺族に、子どものためだと早期に問題を解決させることを提案、そして示談へと持ち込んだのである。

 子どもの母親は精神病を患い現在も通院中、示談で支払われたのはたったの五百万円。子どもを失い、妻も病んでしまった男は復讐を決意した。

 そうして、そのとき運転していた女へより強い絶望を与え、最後は夫婦そろって殺してくれと仮面舞踏会の小狼に依頼が来たのである。

 

「……アンタらさ。子どもの命奪っといて、五百万なんてしけた金で解決しようなんてふざけてんのか?」

 

 紙の束を丸めて上着の内ポケットに仕舞うと、イリスは腰の銃のセーフティーを外して、スライドを引き、初弾を薬室へ送り込む。

 月明かりに照らされた鈍い光を放つ凶器を見た女は、銃口が自分に向けられると顔を恐怖に歪め、転がるように窓際へと逃げ出した。

 しかし、窓際へ向かったところで、ここはビルの四階。下は固いアスファルトばかりで、飛びおりて助かる見込みなどまるでなかった。

 

「ああっ、い、いやぁ!」

 

 ガラスの割れた窓から外を見て、やっと自分のいる場所がどんなところか理解したのだろう。女は慌てたように窓から離れ、下へと続く階段へ向かおうとした。

 けれど、階段側には湊が居る。武器も使わず夫の首を刎ねた殺人鬼、そんな得体の知れない相手に近付く事など出来るはずがなかった。

 逃げ場がないこと理解した女は、壁際で頭を抱え震えながら蹲る。

 追い付いたイリスが女に銃を向けて言った。

 

「……恨みはないがムカついた。それが依頼を受けた理由だよ」

 

 直後、乾いた一発の銃声が古い廃ビルの壁や床に反響してよく響いた。

 そして、ドサリと音を立てて女が頭から血と脳漿を流し倒れる。手足を痙攣させ、口から泡を吹いて動かなくなったところで、イリスは銃をしまって奥に置いていた死体の収容袋を取りに向かった。

 血が抜けきった方が軽くなる分運ぶのは楽だが、筋肉が硬直する前の方が袋には入れやすいので、どのタイミングで入れるかは状況ごとに判断する。

 イリスが袋を取りに行っている間、湊はこのビルの管理状況などの書かれた書類に目を通し、地元の不良や肝試しに訪れるような者が来る可能性はあるだろうが、管理者や行政に関わる者が来る事は当分ないだろうと判断した。

 よって、血をここで抜いても風化してばれないと、倒れている男の腹を踏みつけ血を押しだす。

 その光景を遠目から見ていたイリスは、持ってきた袋を床に置きながら、服が汚れないようにその上に座り、呆れたように声をかけた。

 

「オマエ、自分が殺したにしても、死体になったら少しは丁寧に扱えよ。そのうち祟られるぞ」

「……魂になってまで来た奴は今のところいない。いたとしても殺せるから問題ない」

 

 イリスに返事をしながらある程度の血を抜くと、近くに落ちている廃材を使って頭が低くなるように置き。続いて、イリスの殺した女の首を刎ねて窓枠に足をかけてぶら下がるように血を抜かせる。

 外から見ている人間がいれば、窓から女の足だけが出ているように見えるため、即座に通報されるだろう。

 しかし、その点に関しては湊がカグヤで周囲の探知をして、気を付けているので問題はない。血が抜けるまで待つため、湊もイリスの元にやってくると隣に腰を下ろした。

 

「そういや、オマエと桜は視えるんだっけ。んじゃ、アタシの守護霊はどんなやつか視えるか?」

「……誰か自分を守ってて欲しいやつでもいたのか?」

「いんや、怨霊がついてなきゃそれでいい」

 

 軽い調子で笑って言いながら隣に座った湊の肩を掴むと、イリスは自分の方へと引っ張り、左足の太ももに相手の頭を乗せて寝かせる。

 昔のように抱き上げるのは難しくなってしまったが、身体が大きくなっても膝枕くらいはしてやれる。

 急に寝かされ不思議そうに蒼い瞳のまま見ている湊の目の上に左手を被せると、血抜きが終わるのを待つ間、明日も学校の湊を少し休ませるため反対の手で髪を梳きながら優しく頭を撫でた。

 だが、完全に寝に入られても困るので、静かな声で湊に話しかける。

 

「……その眼さ。もう治らないのか?」

「どっちの目か分からないけど、他人の目を移植しない限り治る事はない」

「ハッ、それは治るとは言わないよ」

 

 鼻で笑いながらも、イリスは湊の目を手で覆いながらわずかに悲しそうな顔を見せる。

 彼女が言った眼というのは、シャドウの瞳ではなく直死の魔眼の事だ。

 直死の魔眼は文字通り“直に死を視る”魔眼であり、感情の昂ぶりや相手を殺す際に自然と発動するようになっている。

 湊が意識すれば、冷静な状態ならば発動せずに戦う事も可能だというが、世界に溢れている死を強制的に見せられるというのはどんな気持ちなのだろうかと考えてしまう。

 それはまるでひび割れた氷の上を歩くようなもので、床が崩れ自分が落ちること、天井が崩壊して降ってくる事を嫌でも想像する筈なのだ。

 自身は仕事を続けているうちに人の死に慣れていったが、床や天井にまで視える状態を考えるとあまりの恐ろしさに動けなくなると断言できる。

 湊が裏稼業をする理由は来たるべき2009年の戦いのため。ならば、それが始まれば続ける必要はなく、戦いが終わればただの子どもに戻るはず。そんな世界に殺すための力は不要だと思えた。

 

「アンタはその歳で人の死を見過ぎた。だから、全部が終わったら、もう見なくて良いようにって力が無くなると良いね」

「……よく、分からない」

「難しく考える必要はないよ。戦いのために捧げた分の人生を、後から取り返すだけだ。人を殺してきた罪悪感に苛まれたら、贖罪の旅に出たって良い。自由に子どもらしく遊びたいなら出かけたって構わない。誰の為じゃなく、自分のために心のまま生きればいいさ」

 

 そういって最後に二度優しく頭を叩くと、イリスは湊に十五分ほど仮眠を取らせてから起こし、二人で死体を袋に詰めた。

 湊も男の方を担当して袋に詰めると、その死体を依頼人に確認させるため、依頼人を待たせている死体処理屋に運び込み。仕事を終えた二人は深夜という事もあってイリスのホテルに一泊すると、湊だけ早朝に桔梗組に帰ってチドリと共に学校へと向かったのだった。

 

 


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